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歩くことが唯一の趣味ですから。

野間大坊

2021-09-04 | Weblog
暮れも押し詰まった12月29日に風呂場でホッとしたところを信頼する長田忠致に斬り殺されたところへ
来てみたら、思ったよりも田舎だった。誰が斬り殺されたって、861年前に平治の乱で敗走した源義朝。
雪が降る琵琶湖のほとりで息子の頼朝とはぐれて、命からがら逃げ込んだ尾張国知多半島の野間大坊に、
その義朝の墓がある。



配下の長田に風呂を勧められて入浴してるとき騙し打ちに遭った。「我に一握りの木太刀のありせば」
と叫んで死んだ。かわいそうなので墓の石塔をかこみ、木太刀がいっぱい並べてある。願い事を書いて
供えれば叶えられるとか。塔を埋めつくす勢いで、おびただしい願い事が寄せられている。



当時の風呂は文字通り、蒸気を浴びる密室だったから刀を手の届く場所に置けない。五右衛門風呂なら
そばに立てかけて危険を悟れば掴んだ刀で防ぎようもあったかもしれないが、裸に湯帷子一枚はおって
生き返った心地で密室にいたら襲われておっ死んだ。



墓に供える木太刀は絵馬といっしょに500円で売られていた。願いを書いて奉納するのだから木太刀も
絵馬もおなじようなものか。ちなみに、湯に入るタイプの風呂が広まったのは室町時代だというから、
鎌倉時代や平安時代の生活習慣はいまと全然ちがって、日本と呼んでいいのかどうか迷うくらい意識も
感覚も現代人と隔絶してる。



ところで惨殺された義朝の墓がなぜ堂々と残っているか不思議だけど、首は平清盛のいる都に送られて
胴体は野間大坊に葬られたらしい。後年、息子の頼朝が天下となり、供養のために石塔を建てた。脇に
ある池禅尼の塚も頼朝の寄進と伝わる。池禅尼は清盛の継母で、頼朝が捕らえられたとき助命を乞うた
のが後に平家の命取りとなったが、頼朝には感謝された。



何百年も前のことだから痕跡なんか残っているほうが本当はおかしいのに、なぜそれがあるのだろうか。
いちどは風化しかけたものを後世が新しく整えたか、ないものを拵えたのでは? というのも、血の池
を見てしまったから、そう考えずにいられない。



殺された義朝の首を長田が洗った血の池で、国に変事が起こると池の水が赤くなる。菅義偉が急に昨日、
総理総裁やめると言い出したので、そろそろ池の水が赤くなるかもしれない。やめてくれてよかったら、
血の池の水が赤くならない。



本能寺の変で頓死した織田信長の三男織田信孝は、豊臣秀吉に攻められてこの寺に逃げ込み切腹した。
何百年か時代が離れているけれども、気を許した配下に討ち取られた無念は同じという意味を込めて、

  昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

という辞世の歌を詠み、切腹して自分の臓物をつかみ出すや掛け軸に投げつけた。そんなエピソード
も、どれくらい盛ってあるか分からないけど伝えられている。



インドネパールより伝来(どっちなんだろう?)般若心経が刻まれています世界で最初のマニ車……
世界で最初のは盛りすぎ! さすがにそう思った。




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