ぬけるような青空、心地よい春風、まぶしいくらいの新緑・・・
5月に入って、時折汗ばむくらいの、この時季らしい暖かさがやってきた。
このまま10日まで休暇の人もいるのかもしれないけど、とりあえず、今日はGWの最終日。
例年通りのGWなら、観光地・レジャー施設・繁華街は大賑わい。
連休とは薄縁の私でも、世の中の休暇気分のお裾分けをもらうことができて、少しはのんびりした気分が味わえる。
しかし、今年は一味も二味も違う。
今年は、GWならぬ“SHW”(ステイホームウィーク)。
緊急事態宣言も延長され、遊ぶ場所は軒並み休業で、外出自粛はもちろん他都道府県への移動も事実上制限されている。
こういう局面になっても自制できない連中のことはさておき、良識ある?私にはモラルをもった行動が求められる。
そうはいっても、自制心のある大多数の人の中にも、GWの過ごし方に悩み、“ステイホーム”しきれず、屋外の散策等に出かけた人も少なくないのではないだろうか。
“三密回避”の啓蒙がすすんだ反面、“密が三つ揃わなければ大丈夫”“屋外なら大丈夫”といった誤った認識も広がったのではないかと思う。
だから、人々は公園や海に出かけて平気で遊べるわけ。
人が密集していようが、人と密接していようが、「屋外」というだけで安心して。
実際、身近なところでも、マスクもせずハァハァ走っている中年や、数名で集まってワイワイやっている若者をよく見かける。
そして、利己主義者特有の自己中心的な苦々しさを覚えている。
かくいう私も、4月下旬に旅行を計画していた(正確にいうと、実兄が計画したものに乗っかっただけ)。
生まれて初めての四国旅行だったのだが、緊急事態宣言が出された段階で即中止に。
ちなみに、私は半世紀余も生きてきて、一度も四国四県に行ったことがない。
あとは、沖縄も・・・そういえば、福井・和歌山・長崎・佐賀にも行ったことがなく、岐阜は ただ何度も通過したのみ。
そう考えると、どこも行ってみたいところばかりだ。
でも今は無理だから、かわりに、「気分転換に海にでも行こうか・・・」と考えた。
そうはいっても、さすがに伊豆や熱海ってわけにはいかないから、もっと近場で。
鎌倉や江の島、湘南方面もいいところなんだけど、そのときは“不自粛サーファー”の悪い印象があった。
個人的には、館山や銚子、九十九里の方が気楽で行きやすいので、房総方面を検討。
しかし、結局のところ、それでは、“自制できない輩”と同じで、思慮のない無責任行動は世の中のためにならない・・・ひいては、自分のためにならないから いつもの狭い生活圏内にとどまっている。
ただ、絶え間ない自粛・緊縮は人々にストレスを与え、長引けば長引くほどそれは大きくなる。
私に笑顔がないのはコロナ前からの日常的なことだけど、人々から笑顔が消えてしまわないか心配。
そして、今はまだ理性で支配できている秩序が乱れていくことも。
ささいなことで揉める、ちょっとしたことでキレる、暴力や暴言が横行する・・・
医療崩壊だけでなく、このままでは社会秩序まで崩壊してしまうのではないかと懸念される。
遺品処理の依頼が入った。
依頼者は50代の男性。
亡くなったのは男性の父親、80代。
葬儀も終わり、身辺も落ち着いてきたので、故人宅の家財を片づけたいとのこと。
男性は、その死因までは言及しなかったが、話のニュアンスから急逝であったことが伺えた。
現地調査の日、男性は、約束に時刻より早く現地に来ていた。
外見上の年齢は、私より少し上。
ちなみに、私は、自分の外見について“実年齢より若く見える”といった勘違いはしていない。
男女問わず、“自分は若く見える”というのは、多くの人がやらかすイタい過ちである。
それはさておき、男性は仕事の合間をみて現場に来たらしく、私と似たような作業着姿で、同じ肉体労働者として親しみを持ってもらえたのか、私に対してとても礼儀正しく接してくれた。
現場は、閑静な住宅地に建つ老朽アパートの一室。
間取りは、古いタイプの2DK。
和室が二間と狭い台所、トイレ、浴室。
部屋は純和風、トイレも和式、浴室はタイル貼で、給湯設備も 今はもう少なくなってきたバランス窯。
新築当時はモダンだったのだろう、昭和の香りがプンプン漂う建物だった。
故人は、もともと、几帳面な性格で、きれい好きだったよう。
室内の家財は多めだったが、整理整頓清掃は行き届いていた。
老人の一人暮らしのわりには、水廻りもきれいにされていた。
「庭」と呼べるほどのスペースではなかったけど、物干が置かれた裏手には、数個の鉢植があり、季節の花が蕾をふくらませていた。
そして、これから花開こうとするその生気は、そこから故人がいなくなったことを・・・儚いからこそ命は輝くことを説いているようにも見えた。
部屋の隅には、スペースと釣り合わない立派な仏壇が鎮座。
私の背丈よりは低いものの、重量は私よりも重そう。
また、私は安い人間だけど、仏壇の方は結構な値段がしそうなものだった。
中に置かれた仏具は整然と並んでおり、ホコリを被っているようなこともなし。
線香やロウソクも新しいもので、厚い信仰心を持っていたのだろう、故人が“日々のお勤め”を欠かしていなかったことが伺えた。
その仏壇の前の畳には、水をこぼしたような不自然なシミ。
特掃隊長の本能か、私の野次馬根性と鼻は、かすかにそれに引っかかった。
水なら数時間で乾いて消えるはず・・・しかし、油脂なら乾いて消えることはない・・・
つまり・・・それは植物性の油、もしくは動物性の脂ということになる。
肌寒の季節に似合わず窓が全開になっていることを鑑みて、私は“後者”だと推察した。
私は、それとなくそれを男性に訊いてみた。
すると、男性は、少し気マズそう表情を浮かべ、事実を返答。
やはり故人は、そこで亡くなり、そのまま数日が経過していた。
隠しておくつもりもなかったのだが、伝えるタイミングを探していたところ、私が先に尋ねてしまったよう。
ただ、時季が春先で、そんなに気温が高くなかったため、目に見えるほど腐敗はせず、その肉体から少量の体液が漏れ出ただけで事はおさまっていた。
晩年はアパート暮しだった故人には持家があった。
それは、故人が若い頃、男性(息子)が生まれたのを機に新築購入を考え、妻(男性の母親)と相談して建てたもの。
そして、長い間、そこで生活。
その間、男性も成長し、社会人になり、結婚して、子供(孫)も生まれた。
そうして、親子三代、平凡だけど賑やかに暮らした。
転機が訪れたのは、サラリーマンを定年退職した60歳のとき。
それを機に、故人は一人、このアパートへ転居。
その後は、前職のコネでアルバイトをしながら生活。
そして、70歳を過ぎるとアルバイトも辞め、のんびりした年金生活に。
贅沢な暮らしではなかったけど、時々は頼まれ仕事をし、時々は遊びに出かけ、時々は男性宅(実家)に顔をだし、自由気ままにやっていた。
男性をはじめ、嫁や孫との関係も悪くなかったにもかかわらずアパートに転居した故人には、ある想いがあった。
そこは、若かりし頃の故人夫妻が、一緒に暮らし始めたアパート。
当時の建物もボロで、その分、家賃も廉価。
もう50年も前のことだから、大家も代が変わり、建物は建てかえられていたけど、場所は同じところ建っていた。
そして、生前の故人は、「人生最後はあそこへ戻る!」と誰かに誓うように言っていたのだった。
故人が大事にしていた仏壇の中央には、若い女性のモノクロ写真。
穏やかに微笑む女性が写っていた。
背景はどこかの砂浜・・・多分、海辺。
胸元より上しか写っていなかったので想像を越えることはできないけど、服装はノースリーブの、多分、ワンピース。
背景・服装からすると、どうも、一時代前の夏のひとときのようだった。
何よりも、その表情・・・その“笑顔”が印象的だった。
穏やかな微笑であることに間違いはないのだが、ただ、 “目が笑ってない”というか“泣きそうな目をしている”というか・・・
“抑えきれない複雑な想いや葛藤が、笑顔の向こうからにじみ出ている”というか・・・
得体の知れない何かが感じられ、惹きつけられた私の視線は釘づけに。
そして、何かを推しはかろうとする心に従うように、頭は写真の中へタイムスリップしていった。
「それは私の母です・・・若い頃の写真なんですけど・・・」
アカの他人の私が仏壇の写真を注視する様を怪訝に思ったのだろう、訊かずして男性が口を開いた。
「私が小さいときに亡くなったんです・・・もう50年近く前になりますね・・・」
行年は30代前半、男性が小学校に上がる直前のこと。
死因は胃癌で、気づいたときはあちこちに転移し、手術することもできないほど進行していた。
「“もう長く生きられないから想い出をつくろう”ってことで、三人で海に出かけたんです」
とてつもなく切ない場面なのに、男性は、楽しかった想い出を懐かしむようにゆっくりと話を続けた。
「まだ小さかったですから、母親の記憶はあまりないんですけど、このときのことはよく憶えてるんです・・・」
“これが最後の家族旅行になる”ということが幼心にも感じられ、記憶に強く刻まれたよう。
そのときの家族三人の心情を察すると余りあるものがあり、返す言葉を失った私は、ただただ口を真一文字にして聞いているほかなかった。
そのときの女性は、どういう気持ちだったか・・・
末期の癌に侵され、「もう長くない」と宣告され、身体はどんどん衰弱し、病の苦しみが増す中で、どんなに、「息子の成長を見守りたい」と思ったことか、どんなに、「夫をささえていきたい」と思ったことか。
そして、どんなに、「家族と別れたくない!」「死にたくない!」と思ったことか。
もっともっと・・・ヨボヨボに老いるまで家族と一緒に人生を歩いていきたかったはず。
若い夫と幼い息子を残して先に逝かなければならないことの悲しみ・苦しみ、悔しさ、そして、その恐怖の大きさははかり知れないものがあった。
女性が、写真に笑顔を残した由縁は・・・
冷めた見方をすれば“つくり笑顔”。
しかし、父子家庭の主となる故人(夫)を末永く支えるため、幼い男性(息子)に待つ長い人生の糧になるため、必死につくった笑顔。
“笑顔の想い出は人生の宝物”・・・きっと、夫と息子、二人の その後の人生の糧になる“宝物”を残そうと思ったのだろう。
いわば、“決死のつくり笑顔”だったのではないかと思う。
「母は、“子供のためにも、いい人をみつけて再婚するように”って言ってたらしいんですけどね・・・結局、ひとり身のままでしたね・・・」
男性は、母親がいないことで、悔しい思いをしたり不自由な思いをしたりしたこともあっただろう。
両親揃っている友達を羨んだり、寂しくて一人で涙したりしたことも。
しかし、故人は、父子家庭であることをバネにさせるくらい愛情を注ぎ、丁寧に育てたよう。
男性の頭には、楽しかった想い出ばかり過っていたようで、ずっと笑顔を浮かべていた。
「夏になると、父は一人であの海に出かけてたみたいです」
故人と男性は、あれ以降、あの海に一緒に出かけることはなかった。
想い出の海辺に佇み、故人は一人で何を想ったのか・・・
それまでの人生を振り返り、想い出を懐かしみ、深い感慨にふけったのか・・・
知る由もないけど、多分、亡妻と一緒にいるような気持ちで、微笑みながら、あの時と同じ風に心地よく身をゆだねていたのだろうと思う。
やがてくる死別の悲哀を写した海辺の一枚。
カメラを向けた故人は、どんな気持ちでシャッターをきったのだろうか・・・
カメラを向けられた女性は、どんな気持ちでレンズに顔を向けたのだろうか・・・
・・・決して、幸せで楽しい気持ちではなかっただろう・・・
しかし、そんな中でも、二人は必死に幸せを見つけようとしたのではないか・・・
そして、その想いを微笑みに映そうとしたのではないか・・・
・・・そう想うと、死というものの非情さが恨めしく、また、死別というものの条理が一層切なく感じられた。
元来、薄情者の私。
これも一過性の同情、一時的な感傷・・・自分の感性に浸っただけ。
ただ、畳に残ったシミは、笑顔の向こうにあった涙と汗・・・・・先に逝った女性の涙と その後を生きた故人の汗のようにみえて、私は、なおも深いところで生きつづける“いのち”を受けとめさせられ、同時に“この命の使い方”を考えさせられたのだった。
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