2020年、春、新緑の季節。
しかし、今日の東京は大荒れの空模様。
肌寒く、台風がきたかのような暴風雨。
これで、水害や土砂災害が起きなければいいけど・・・
時勢も大荒れ。
気温だけじゃなく、世の中の雰囲気も寒々しい。
オリンピックという大祭もなくなってしまったし、芽吹いて間もない葉桜が、どことなく寂しげに見えるのは私だけだろうか。
前回ブログを更新したのが昨年8月23日だったから、夏が終わり、秋が過ぎ、冬を越え、もう8ヶ月近くが経つ。
しばらくぶりの私、「仕事を辞めた?」「傷病で休んでる?」とか「ひょっとして、死んだ?」等と思われていただろうか。
が、歳だけはとったけど、私は、相変わらず そこそこ元気にやっている。
意識してブログを止めていたわけでもなく、仕事等 時間の都合で、結果的に止まってしまっていた。
ごくたまに「そういえば、しばらくブログが止まっているな・・・」と、気づくときもあった。
そして、「このままやめてしまおうか・・・」と思ったこともあった。
とにかく、睡眠や休息の時間を削ってまで書くほどのことでもないので、放っておいた次第。
しかし、この時勢で仕事が減り、少しずつヒマになってきている。
幸か不幸か、ブログを書く時間がつくれるようになっているわけ。
はたして、今更、これを読んでくれる人がいるのかどうかわからないけど、この“ヒマ人のヒマつぶし”に立ち止まってくれる人がいたら、細やかに嬉しい。
基本的に“相変わらず”やっている私だけど、困ったこともあった。
昨秋、プライベートで大変な目に遭った。
それは、身近な人間の大病。
仕事も休めず、心身の疲労が重なり、情緒不安定な状態に陥ってしまった。
それが一段落ついたかと思った矢先、今冬、仕事で大変な目に遭った。
これもまた、身近な人間の大病。
「少しゆっくりさせてもらおうか・・・」と思っていた矢先の急病で、仕事はテンテコ舞。
休んでいるヒマはなく、夜、寝ている間にも仕事のことを考えているような始末だった。
そして、今、プライベート・仕事、両方で大変な目に遭っている。
そう・・・この新型コロナウイルスの問題だ。
二月の時点では完全に他人事。
自分には関係ない、どこか遠くの出来事のように捉えていた。
三月になると、発生地が身近なところにまで迫ってきて、少しは自分の問題として捉えるようになってきた。
連日、コロナのニュースが踊り、飲食業・観光業・レジャー業などの苦境が多く伝えられるようになってきた。
それでもまだ、“他人事”のような感覚は残っていた。
が、三月下旬になると、身近なところの様相も一変。
業界や取引先に影響が及んできて、仕事が減る兆候が見え始めてきたのだ。
それはそうだ。
私の仕事は、生活を維持するうえで不可欠なものではない。
製造・食品・物流・医療等とは関わりがなく、有事の際の社会貢献度も極めて低い。
更に、遊興快楽的な要素も健康に資する要素もなく、人々に元気をもたらすものでもない。
災難の真っ只中では、まず必要とされない。
近隣から苦情がでるような腐乱死体現場なら緊急性・必要性が高いけど、肌寒いくらいのこの時季はそれもない。
したがって、仕事が減っていくのもうなずける。
ただ、“コロナ消毒”の問い合わせは増えてきている
不動産管理会社やマンション管理組合等が、感染が発生した場合を想定した上での事前準備として。
これだけは、この時勢でニーズがあるわけだ。
が、対象の規模が大き過ぎたり、求められるクオリティが高過ぎたりすることも多く、机上の想定だけで安易に契約するのは危険。
また、施工者(当社)のリスク管理の問題もある。
一人でも感染したら、そこで営業中止になるわけだから、一つの依頼でも売上利益だけ見るのではなく、大局的・長期的・客観的に見て判断することが必要なのである。
かと言って、多くの人達と同様、私も収入がなければ生活を維持できない。
つまり、仕事がなければ・・・働かなければ生きていけない。
事態がこのまま深刻化していけば、仕事を選ぶ余裕はなくなってくるはず。
大袈裟な言い方になるけど、生きていくために命を懸けてコロナ消毒をする日がくるかもしれない(今、最前線で闘っている医療従事者に比べれば、“子供のお遊び”みたいなものかもしれないけど・・・)。
こんな状況になって、今、「失業」という文字が“心構え”として頭に浮かんでいる。
加齢や体力が理由の退職なら想定内のことだけど、この事態はまったく想定外。
説得力のある論拠で、事態の収束時期を具体的に示せる専門家も現れていない。
「なるようにしかならない」「何とかなる」等と、根拠なく楽観視できるほど、事は小さくない。
現場仕事がなくなれば仕方がない。
この状態が長引けば、失業の“心構え”は“覚悟”に変わっていき、いずれ“現実”となってしまう。
似たような境遇にある人はごまんといる。
とてもイヤなことを言うようだけど、この先、感染者や死亡者だけでなく、失業者・破産者も増えていくだろう。
悲しいことながら、自殺者も増えていくかもしれない。
察してもらえる通り、私の仕事は“在宅勤務”ができるものではないし、在宅勤務で給料が得られるものでもない。
在宅勤務を拡大解釈しても、我が家は、特殊清掃が必要なほど汚れてはいないし、ゴミ屋敷でもない。
死人もいないし、死体もない(当り前!)。
ブログ制作くらいは家にいてもできるけど、これは仕事(給料がもらえるもの)ではない。
で、今のところ、現場仕事がない日でもフレックスタイムで出退社している。
まだ、いくらかはやらなければいけない事務作業や雑用があるから。
もちろん、事務所では“三密”にならないよう・・・“一密”もつくらないよう細心の注意をはらい、外出の際もかなり気をつけている。
「三密回避」の警告が出されて久しい。
更に、「緊急事態宣言」が出されていることは、承知のとおり。
同時に“外出自粛要請”も出されている。
自分だけの問題じゃ済まされないから、ある種の社会的責任も発生している。
しかし、普段から私は“外出自粛”をしているようなもの。
友達もなく非社交的、外食をはじめ 外で飲むこともほとんどない。
誰かに遊びに誘われることもなく、趣味や同好会等のグループにも属していない。
結果、“外出自粛要請”の前後で、生活スタイルにほとんど変化はない。
変わったことといえば、マスクや消毒剤を常用するようになったことと、ウォーキングや買い物の際、人との距離を意識するようになったことくらい。
それも、日に日に神経過敏になってきていて、不用意に誰かに近づかれると“イラッ!”とくるようになってしまっている(きれいな女性に近づかれて“イラッ!”とくるかどうかは不明)。
外出自粛で家にいると、特にやることがなく、スマホやPCをいじりながら、暇な一日を過ごしている人も多そう。
SNSが高度に活用されている今日この頃、大衆に重用さて重宝されているよう。
反面、私は、普段、YouTubeを観ることはないし、Twitterとうヤツもやったことがない。
“時代おくれ”は重々承知しているけど、興味がないから積極的に触れることもない。
ただ、多くの著名人がそれらを通じて、励ましや癒しの音楽やメッセージ・パフォーマンスを発信しているのを、TVニュースを通して目にしている。
発信側の芸能人やアーティスト・アスリートにとっては、これも ある種のビジネス、または、先を見越したビジネスの種蒔きなのかもしれないけど、個人的にはシックリこない。
人を励ますことができる人は、まだ、余裕がある人。
新型コロナウイルス被災民は、“まだ余裕がある人”と“もう余裕がない人”に分かれると思う。
つまり、「被災民の中にも階層がうまれ、温度差がうまれている」ということ。
そして、残念ながら、これは、時間が経ては経つほどハッキリとした型を成していくと思われる。
真に追い詰められた人は人を励ます余裕はなく、自分と家族を維持していく力さえ奪われている。
そういった発信者達の善意に目を向けられないほど気力を失い、素直に受け止められないほど疲弊し、絶望し、苦悩しているような気がする。
真に追い詰められている人にとって、角度によっては“他人事”“お遊び”“お祭り騒ぎ”にも見えるそれらの発信は、“癒し”“励まし”にはならず、冷淡に神経を逆なですることにもなりかねない。
もちろん、それらを「偽善」「不要」と言っているわけではない。
善意であるだろうし、そういう発信を欲し、それで、癒され・励まされている人も多いだろう。
私のように、能書きだけ垂れて何の人助けもしない輩よりよっぽどいい。
ただ、被災民の中でも、崖っぷちに立たされている“弱被災民”がいることに心を寄せることも人間同士の礼儀ではないかと思う。
善意の押し売りは、結果的に、悪意に似たものとなる可能性があるのだから。
善意だったかもしれないマスクの高額転売も悪意と見なされ、表面上、今はネットからも消えている。
それが拍車をかけたわけでもないのだろうけど、マスクはもちろん、消毒剤の類も、相変わらず手に入れにくい。
街のあちこちにあるドラッグストアには、朝から長蛇の列ができている。
今のところ、自分達で使うくらいのマスク・消毒剤は確保できているから、私は そこまでの購買行動はしていない。
しかし、このままの状態が続けば、そのうち、朝ドラ(朝のドラッグストア)デビューしなければならない日がくるかもしれない。
ま、早起きは得意だし、開店までボーッとつっ立ってるだけのことだから、難しいことではない。
難しいのは、手間暇かけてもマスクが手に入らなかったときに、自分の感情を理性的にコントロールすること。
“溜まっていく一方の不満・ストレスをどう解消していくか”だろう。
事実、コロナ問題が原因で、家庭不和・DVが増えているらしい。
「コロナ離婚」という言葉まで出現している。
この災難は、健康や経済だけにとどまらず、人間的にも多くのマイナスをもたらしている。
しかし、何かしらのプラスを得られないわけではないと思う。
残念ながら、多くの人間は、失わなくても気づくことができる知恵を持ち合わせていない。
与えられている平和を当り前のことのように、手にしている恩恵を当り前のもののように勘違いして生きている。
失ってみて 多くのことに初めて気づき、初めて気づかされる。
こうした困難に遭ってこそ気づかされる大切な何か、苦難に遭ってこそ学ばされる大切な何か、災難に遭ってこそ養われる・練られる大切な何かがある。
もともと、人は、その“何か”の種をもって生まれてくる。
例えば、日常では影を潜めている家族愛や友情、無視している健康や寿命、衰弱している忍耐力や自制心、目をそむけている正義感や道徳心、遠ざけている使命感や責任感・・・
そういった、人が、ただの獣ではなく、人であるが故に大切にすべきものが、暗い土中から“芽”を出してくるのではないだろうか。
不安は大きい・・・将来に大きな不安を抱えている。
それでも、変わりなく時間は流れている。
この先も、望まない事態、逃げたくなるような出来事は起こるだろう。
ただ、今の苦境を楽境に、逆境を順境に反転させるのは、その“芽”。
その芽は、今生で花を咲かせることはできないかもしれない、実をみのらせることはできないかもしれない。
また、人間がもつ愚弱な性質によって、途中で枯れてしまうかもしれない。
しかし、子や孫に、友や縁もゆかりもない若者に、次の世代・新しい時代に、歴史や教訓としてつないで花を咲かせ実をみのらせることはできる。
先の大戦による死苦痛悩悲哀が、今の平和の礎となっているように。
そのための人生、そのための生き方でも、生きる理由と価値は充分に見いだせるのではないだろうか。
生きていくのが面倒臭く思えるくらい、不満の芽・不安の芽が次々と出てくる昨今。
悪い意味での非日常に、気分も沈みがち。
それでも、希望の種はある。
どうあがいても、私の人生、あと もう少し。
これから、自分の人生がどのように展開していくのか、想像を超えた人生が待っているのではないか、ほんの少しは楽しみに思える瞬間がある。
それは、これまで幾度も「死にたい!」と思ってしまうようなことがあったけど、結局のところ生かされてきたことを思い出し、また今、こうして生かされていることを覚えるとき。
同じように、この先も、この命が尽きるまでは生かしてもらえるだろうと思うと、一寸先の闇に一筋の光が射し、希望の芽を導いてくれるのである。
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