『現代短歌』10月号に、小島ゆかりさんの書評をいただいた。
「白繭の孤独」とタイトル。これはミクシイに参入したてのころ、どこかの短歌コミュでうたったものではないだろうか。わたしの歌としては古いほうだと思う。
そのころ、母親を鎌倉に迎えてふたりで一緒に暮らし始めていた。夜、家事をしまってから、パソコンに向かってネットで歌をうたうのが楽しかった。もちろんひとり。
孤独、というのはネガティブな語感かな、とそのときも考えたけれど、デッサンや小説、また演奏にせよ、たったひとりである程度まとまった時間、集中して自分の内面と向かい合わなければ磨かれてはこない。
蚕が繭の糸を自分のまわりに吐き綴るように、わたしは歌や音楽を、病んだ母を庇う日々、そのときどきのあやうい心の隙間を埋めるように紡いでいた。
チェロ演奏は、わたしにとって歌とは比較にならない厖大な時間とエネルギーが要ったが、歌はふとした時間のすきまに、窓から風を入れるように、瞬間力でまとめることもできた。その試みが面白かった。
今も。
歌うと、心の曇りが晴れてすっきりした。わたしの中から、物思いを材料にして、素のままの歌糸が紡がれていったのだと思っている。
孤独になることを恐れてはいけない、といまさらながら感じている。そして、山口椿さんの相方を離れて、いろいろな経験を応分に重ねた今、この「白繭」時代よりさらに、わたしは打たれ強くなったと思う。
これからも、今までに増して、多事だろうと予想する。
そして孤独かもしれない。その寂しさのなかから、紡ぎだせる力強い何かがあるだろう。
鬼才と呼ばれる椿さんの庇護から離れて、浮世の風に直面し、それはそれでよいことのほうが多かった。正直、これでよかったのだと思う。わたしは今の自分のほうが、十年前、二十年前の自分より好きだ。いっしょにいて楽しい。
わたしは、わたしに退屈しない。(ビンボーだけどね、うふ)
つくづく、人はその人格の器にふさわしく人生を織り上げる。結果の是非は、天の采配と考える。
だから何もおそれない。これからも、謙虚に丁寧に、日々を過ごそうと思う。
わたしを磨いてくれたさまざまな出会い、ハプニングに感謝。
つたない私家集をお読みくださった方たちに、感謝。