雪香の星月夜日記

山口雪香の歌がたり、ささやき、ひとりごと

籠に摘むはこどもの遊び月光は長からざりし誰を隠せど

2014-09-07 22:10:17 | Weblog


  大雨になりそうだったが、今は静か。


  秋の気配深まる。








  秋の夜長には、あかるい月下に妖精でも踊りそうな。





  そんな口ずさみ






植島啓司さんの『処女神ー少女が神になるとき』を読む。

ネパールの処女神「クマリ」を、著者長年の現地フィールドワークに基づき、洋の東西の神話、文学、映画とはばひろくからめて分析。集中掲載のあまたのクマリの画像はほんとうに神秘的で美しい。この世のものならぬ表情をしている。

ふとかぐや姫を連想した。もうじき十五夜だからだろうか。

月世界からの迎えが、かぐや姫の身体に天衣をかけると、彼女は人間の心を失って「天人」の表情になってしまう。

幼い美少女クマリたちの顔に、わたしはかぐや姫を透かしみた。彼女も地上のあらゆる男たちの求婚を拒み、帝の召しだしさえ退けて月に還った。

クマリは初潮を迎えて退任すると、地上へ、現実に戻るのだけれど、クマリに宿った神は、次のあらたな処女の肉体に移ってゆく。退任クマリは、これもまた古典的に言うなら「空蝉」になる、ということか。しかし彼女たちの人間としての人生はそこからまた始まる。著者はそちらへは踏み込んではいないが、一般女性の読者としては「その後のクマリ」のありかたもかなり気になった。やや下世話な感情かもしれない。


著者には、以前数度お会いしたことがある。足取りのかるい、飄々とした気持ちのよい風貌の方だった。今もネットでお姿を眺めるが、まったくお変わりないようだ。

少女好きなわたしには、いろいろ学ぶことがある本。少女は、たぶん少年に勝って「両義的」で、アムヴィバレントな存在と思っていたので。

「性が消失するところにはまた性の極限値がひそんでいるのである」

「無垢であり純粋でありゼロであるからこそ、何者かが彼女の身体のなかに入り込むことができる。理解を超えた強大な力とまったく無力な少女の組み合わせ、そこにこそクマリの秘密が隠されているのである」

このごろ昔書いた小説「海の器」を自分勝手に「イノセンス」とカテゴライズしてネット公開を始めたので、こうしたこどなどが心境にシンクロしてくる。

何者かが「身体」の中にと断言しているところは、やはり男性らしく、仮借ない、と感じる。少女は精神性によって少女なのではなく、文字通り無垢で純潔な月経前のうつそみこそが「本質」なのだろう。「空蝉ーぬけがら」になる前の。


とてもおもしろい。秋の読書に一冊おすすめ。






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