カナリアな日々

百姓になって15年目。補習塾カナリア舎はフェードアウト中。小麦、蕎麦、大豆などを作っています。

1年がかりのキャベツ

2008-09-01 00:05:00 | 自然農畑

「自然農への道」(創森社)より



自然農を始めて、草や虫や作物からさまざまなことを学びました。その中で、最も私が感動した出来事は、自然農2年目の夏に一粒の小さなキャベツの種をまくところから始まりました。



キャベツの栽培は、8月下旬に翌年収穫のための種を育苗用の畑にまき、本葉5~6枚になった頃、定植します。ちょうど夏野菜の終わる頃なので、トマトやナスの間に定植します。


冬を越して、6月頃が収穫となります。大きくなったものから収穫していきます。収穫の終わったところには、随時、次の野菜を植えていきます。



大量生産ではないので、定植のとき同じ大きさにそろった苗ばかりでなく、成長が遅れている小さい苗も、植える畑さえあれば、つい全部植えてしまいます。
一所懸命育っている苗を「小さいから」といって捨てる気にはならないのです。



小さい苗は、収穫時期も遅れますし、結球しても小さいキャベツにしかならない場合もあります。しかし、それはそれで利用の仕方がありますので、いっこうにさしつかえありません。



こうして育ったキャベツの中で、その年、8月が過ぎても結球しないものがありました。しかし次の野菜を植えるのに邪魔にもならないので、そのままようすを見ることにしました。
すると、10月頃ようやく結球し、収穫することができました。



前年の8月に種をまいてから1年以上かかったことになります。



これは自然農の畑だからできる技だと思っています。抜こうと思えば、抜くこともできるのです。たかがキャベツ1本抜くか抜かぬかの違い、たいしたことではないと思うかも知れません。
しかし、そこがとても大切なところで、単なる不耕起(=耕さない)栽培で終わるか、自然農になるかの境目だと思うのです。



作物1本1本の生命を、大切な同じ生命として見ること、小さいからといって差別しないこと・・・・それが、じつは生きることすべてに通ずると思うのです。



慣行農業から有機農業へ、そして自然農へと転換してきてはじめて気づいたこと、それは「作物を育てることは、人間にとって必要とされるもの以外を排除すること」ということでした。



草や虫はもちろん、作物であっても小さいもの、形の悪いものは「出荷できない」という理由で捨てられてしまいます。とくに市場出荷の場合は、出荷できるのは6~7割くらいです。



出荷できない理由は、消費者がそういう野菜を買わないことと、今の流通の中では、出荷しても価格が安いため赤字になってしまうからです。



自家用であれば捨てることなく利用することができますが、出荷用はそういうわけにはいかないのです。そう考えると「農業は、生命を大切に考えている」とは、どうしても思えなくなりました。



こうした畑で行われていることと同じことが、人間社会の中でも日々行われているのではないか、と思うのです。



学校で、職場で、地域で、家庭でさえも、他の人と協調できない人や、個性の強い人、働けない人、障害のある人・・・・・・、いろいろな人々が差別されている社会は、農業の現状と同じなのではないか、と思うのです。



そのことに気づいた時、自然農の奥の深さにあらためて感動し、有機農業を続けていたらけっして気づかなかったことだろうと、自然農との出会いに感謝したのでした。



追伸
テレビでたまたま見た田舎物件が、あまりに良さげで、一瞬乗れない飛行機で中富良野に行ってしまおうかとこいけと思った一日。
(結局広すぎてやめた)

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