団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

切り抜き

2012年03月22日 | Weblog

 アメリカのテレビドラマを観ていると、凶悪犯の部屋に捜査が入ると壁一面、新聞の切り抜きや犯罪に関する地図や写真が貼られている場面がよく出てくる。

 私はそれを見て、快く思わない。私は別に自分が犯した犯罪の記事を集めているのではない。ただ私は、自分にとって勉強になる新聞記事を切り抜きにすることを日課にしている。私の興味などといっても、100を超えることはない。それを大学ノートに整理して貼っていく。妻は「後で読みもしないのに、そんなに集めてどうするの」と言う。私をまるでゴミ屋敷のオッサンにしか見ていない。妻の言うことに一理も二理も三理もあることは分かっている。確かに多くの場合、無駄となる。書き物をしていて、確か新聞でこのことを記事にしていたはずだと閃く。ここからが私の腕の見せ所である。私は資料の中から9割かた探し出す能力を持っている。新聞は切り抜く。本は、容赦なく3色のボールペンで線を引く。最近は線だけでなく、ポストイットをページの上部に貼る。気が向くと、大学ノートに書き写し、ポストイットは剥がしておく。線の引かれた本は、ブック・オフでは買取りをしてくれない。私は、読んだ本を売ろうとは思わない。しかし本は、新聞の切り取りが占める場所なんてものではない。それを考えれば、新聞の切り取りなんて、どうってことはないのである。

 私は時々、もし私が死んだら、私の切り抜き資料を全て棺に入れて、私の遺体をおおってくれないかと夢想する。まだ口に出して妻に明確に伝えてない。妻の言う通りほとんどの切り抜きは、実際何の役にも立っていない。記事は、毎日家にまで届けられる新聞の膨大な情報のごく一部である。私の気を惹いたのである。私はその記事に何かを感じて切り抜くことを決めた。それは間違いなく私の脳が鋭く反応した一瞬であった。私の人生であった。だから火葬場で私のむくろを焼く時、新聞の切り抜きを棺に納めてもらえれば、嬉しい気がする。強力なガスによる火力はあるだろうが、新聞の切り抜きも役に立てるだろう。

 日本は確かに多くの問題を抱えている。私はそれでも尚、日本に住めることを嬉しく思う。勢いある時代が去り、後発国に追いつき追い越されることばかり騒がれる。私は日本人、日本文化の多様性に力づけられる。何が私を喜ばせるといって、出版物の多さほど私を狂喜させることはない。猥褻という分野には規制がかかるが、それ以外なら出版の自由はある。それでも猥褻に関してもひところよりずいぶん甘くなっている。宗教やイデオロギーによる弾圧は、一部を除いてほとんどない。世界中の多くの出版物が、速やかに翻訳され、出版される。地球上、もっとも人の脳の中の思考が、文字化されている国である。ありとあらゆる本の選択肢が溢れている。日本人、日本文化の多様性の根幹の現象に思えてならない。

 日本の新聞も立派な文化である。毎日,たったとっている新聞一紙にさえこれだけの情報が載る。そのためにどれだけ多くの人々の苦労があることか。特に自分の新聞配達の経験からも、きちんと毎朝各読者の手元に届けられることは凄いことである。そうして日々発行された新聞の全てを受け止めることはできない。限られた時間の中で、ただ私という個人の感性の鐘が鳴るのを待ち受ける。記事の5W1H(いつ:When どこでWhere だれがWho 何をWhat なぜWhy どうやってHow)だけでよい。コメントも感想も私が主人公になれる。

 新聞は、本との出会いの橋渡しもしてくれる。
新聞の切り抜きと良い本との出会いは、私に前へ進む活力を与えてくれる。好きなことをしていて、時間を感じられなくなる無重力の空間に浮くような感覚がたまらなく好きだ。だから私は日本の政治が幼稚でも、官僚が悪賢くても、経済が停滞しても、テレビがくだらなくても、自然災害にさらされても、日本がニッポン人が大好きだ。


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