団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

魚影

2010年06月28日 | Weblog
 散歩で川を覗き込むことが多くなった。6月6日から家の前の川のアユ釣りが解禁になった。この川にはアユ、ハヤ、ニジマスがたくさんいる。流れる川の中に魚の姿を見るのには、ちょっとしたコツがある。妻と散歩に出て一緒に同じ場所で同じ川面も覗き込んでも、私の「おーっ、いるいる」に妻は「どこどこ?どこに」と見つけられない。魚は水中を敏速に動き回る。それを空気、水の異質な2つの層を通して見るのは難しいものだ。おそらく魚は見られることを認識して動き回ってはいない。魚を見つけるには、コツがいる。まず場所。流れが穏やかで波のない鏡のような水面を探す。当然水は澄んでいなければいけない。土手や堤防や橋の真下が見やすい。日光の射す角度方角も考慮する。日陰がベスト。川床もできるだけ魚と違う色が良い。私が散歩する川、約2キロのうち魚の鑑賞ポイントは2ヶ所である。この2ヶ所に妻を案内しても妻には魚を見つけられない。要は魚が好きかどうかかもしれない。魚が見えても見えなくても、どっちでも好いでは、見えるものでも見えない。私のように好奇心がありあまっている者は、好奇心がレンズになって、見えないものでも見えてくる。そんなことに悦にいって、シューベルトの歌曲『鱒』の歌詞を妻に話した。歌詞は詩人のシューバルトが4節まで作詞したが、なぜかシューベルトは4節を削除した。

“①元気よく身を翻しながら気まぐれなマスが矢のように泳いでいた。私は岸辺に立って澄みきった川の中でマスたちが活発に泳ぐのをよい気分で見ていた。

(まるで私のようだと私自身を指差しながら話した。)

 ②釣竿を手にした一人の釣り人が岸辺に立って魚の動き回る様子を冷たく見ていた。私は思った川の水が澄みきっている限り、釣り人の釣り針にマスがかかることはないだろう。

 ③ところがその釣り人はとうとうしびれを切らして卑怯にも川をかきまわして濁らせた私が考える暇もなく、竿が引き込まれその先にはマスが暴れていたそして私は腹を立てながら罠に落ちたマスを見つめていた”  

(「削除された④節、ここが一番良いんだ」と首を振りながら続ける。) “

 “④いつまでも続く青春の黄金の泉のもとにいるあなたがたマスのことを考えなさい危険に出会ったら落ち着いてはいられない。あなた方にはたいてい用心深さが欠けている娘たちよ、見なさい。釣り針を持って誘惑する男達を! さもないと後悔するぞ!”    

 これを黙って聴いていた妻は「私もう釣られちゃったから遅いと思うけど」と結局魚を見たとも言わずに先へ歩いていってしまった。

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