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ウナ・セラ・ディ東京

2016-07-11 | 演歌・ポップス
昼のニュースで伊藤ユミさん(ザ・ピーナッツ)の訃報を知り、「ウナ・セラ・ディ東京」を急遽アップしました。

これまで、この関連レコードを収集して来ましたので、フリー百科辞典を引用(紫字)しながら掲載しました。

1963年にザ・ピーナッツが「東京たそがれ」として歌ったのが「ウナ・セラ・ディ東京」の始まりである。
作曲者自身の編曲によるモノラル盤
  


当初はあまりヒットしなかったが、翌1964年に「カンツォーネの女王」として有名なイタリアの歌手ミルバが来日した際、本曲を歌ったことを契機に一気にブームとなった(キングレコードのスタッフがミルバの歌唱力の高さを評価した上で本曲を歌わせることを提案したとも言われる)。
ミルバの正確な日本語での歌唱も評判となった。

  

その後、ザ・ピーナッツの「東京たそがれ」も曲調を一部変更して、タイトルも「ウナ・セラ・ディ東京」に変更した(「ウナ・セラ・ディ東京」とはイタリア語で「東京のある一夜」(Una Sera di Tokio)という意味である)。
本命となった東海林 修の編曲によるステレオ盤で、
オリジナルの「東京たそがれ」と比較してみると、アレンジの良さが際立ちます。
  

この頃から本曲がミルバの歌の影響により、音楽界で再評価されることになり、遂にはザ・ピーナッツのヒット曲の一つとなっていった。
ほぼ同時期、和田弘とマヒナスターズ、坂本スミ子、西田佐知子も本曲を歌うようになり、日本でも4者競作となった。
一番ヒットしたのは1964年当時は和田弘とマヒナスターズのバージョンであった。

  

本曲で岩谷時子が1964年第6回日本レコード大賞の作詞賞を、宮川泰が同賞作曲賞を受賞している。
また和田弘とマヒナスターズ盤は大賞の最有力候補として挙がったが、結果は「愛と死をみつめて」の次点で落選している。

本曲はザ・ピーナッツによってNHK紅白歌合戦で3度(1964年・第15回、1969年・第20回、1973年・第24回)も歌われた曲としても有名である。
現在ではザ・ピーナッツの歌とのイメージが浸透している。
2006年3月21日に宮川泰が逝去したが、その宮川の通夜で流された曲がこの「ウナ・セラ・ディ東京」であった。

『青春歌年鑑』の'64年版にザ・ピーナッツ版が、'65年版に和田弘とマヒナスターズ版が収録されている。

なお、「ウナセラディ東京」とする表記もあるが、JASRAC届出の楽曲題名は「ウナ・セラ・ディ東京」である。
但し、正式に登録されている題名は「東京たそがれ」である。(作品コード:055-0062-1)

また、「ウナ・セラ・ディ東京」には二種類のジャケットが存在する。
一つは紫色を基調にザ・ピーナッツの上半身を左側面から撮影したもの、もう一つは青色を基調にステージで歌唱している姿を撮影したものである。

 

こうしてそれぞれの歌手で並べてみると、この曲にまつわるいろいろな出来事が見えてきて、興味深いです。
「ウナ・セラ・ディ東京」として再録された1964年は、東京オリンピックが開催された年でした。
あれから52年、今度は2020年の東京オリンピックが話題となっています。

ご冥福をお祈りいたします。

コメント (5)
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