言ってみれば、一日遅れ、そりゃ、仕方ないね。
どうやら、124年ぶりの2日の節分だそうで。
明治の30年以来、というんだよね。
わが祖父母、儀一さんとおすえさんの生まれた頃だ。
野良仕事全盛だっただろうな、野山は緑に溢れ、この駿河の地にしても、田んぼには霜柱が立ち。
妻の話では、子どもの頃、氷柱を折って遊んだ、なんてことだから、かの年ではさらに。
わが母親の話では、この巴川が凍りついた、というくらいの寒さでもあったのだから、霜焼けアカギレ当たり前。
だいたい、靴なんか履いてる人、どのくらいいたんだろう。
母さんのアカギレ痛い生味噌をすり込む、なんて歌、あったよね。
生味噌ですよ、生味噌。
今やコンビニエントな暮らしがデフォで、生味噌さえ手に入りにくいのかも、って時代。
それを進化、進歩、幸せへの回廊の結果、なんてことと言えるのかどうなのか、ってわけだ。
というか、いつの時代でも、幸せであり、不幸せであり、ってことだよね。
幸せを手にいれるんじゃない、幸せを感じる心を手に入れるんだ、って、誰かがブルースリーの真似をして書いてたな。
はともかく、上記、靴を履いてる人、で思い出すのが、古今亭志ん生。
戦時中、たぶん、大本営発表かなんかの戦勝記念のパレードが挙行され、落語協会だか組合だかも。
同調圧力か自ら進んでかはともかく、志ん生さんも駆り出され、靴を初めて履いて参加。
なんだけど、足は痛いし、めんどくさいし、ってんで、しょんべん放ってくる、くらいの言葉を残し。
横町の酒屋さんへ駆け込み、いつものような体たらく、なんてこと、語っていたな、「貧乏長屋」だったか。
この間も次男坊と話し込んだんだけど、時の勢力、権力がどんなに強くても「庶民」ってのは、なかなかに。
逞しくて、と。
敗戦のとき、昭和20年の8月15日だね、皇居前で玉音放送を神妙な顔で、涙の一つも流しつつ聞き。
終わった途端、モンペをズボンやスカートにはきかえ、銀座へ繰り出した、なんて話もあるようで。
「庶民」と括られる人、もちろん、当方も入るんだけど、は、なかなかに物事、わかってる、ってわけだ。
インテリの方がわかってない、ってなもんだ。
吉本隆明の、共同幻想と自己幻想は逆立ちする、ってのを、まんま、実践しているんだよね。
って書いても、吉本ばななの親父、隆明を知らない人には、なんだ、それ、ってなもんですが。
吉本隆明は遠くになりにけり、降る雪や明治は遠くなりにけり、を換骨奪胎、だな。
なんて書いてきたら、長くなりそうなので、東風凍を解く、の初日に出かけることにします。