銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

二歳児は、高岡には住んで居ない筈・・能登町で起きた信大林学部学生事件と同じ・・山口みつ子さんや、妹殺しとも同じ

2022-09-07 22:31:29 | 政治

 今、9日の午後零時です。大変、苦しい内容のことを書いています。それで、間に、休憩(家事をする時間)を入れて、書いていきますので、目鼻がつくまでは、夜9時ごろまで、かかるはずです。で、そのころ、もう一回、ここを覗いてやってくださいませ。 

この章は、40時間ぐらい総タイトルをとしておりました。今は、9日の、午前10時半ですが、総タイトルを、一般の人が、『あれ、そうだったの? 本当ですか?』と、思うものに変更します。信州大学が演習林を持っていますが、東大も持っていお手、その規模たるや、信州大学の10倍ぐらいでしょう。その維持管理他、東大は、莫大な、予算が、国家から、投下されている大、大組織なのです。

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 前報が途中です。しかし、そちらで、これから、重要な人物として登場する平木さんは、横浜市神奈川区における生活保護費不正受給問題他で、何度も、ご登場いただくはずなので、そこで、今回の、二歳児行方不明についても、述べられるので、ある程度放っておいて、二歳児行方不明事件そのものに、集中しましょう。

副題1、『異様な事件(つまり、CIAエージェントが企画した謀略事件)が、富山県や石川県で、起きるのは、二件目である。そのことを、まず、考えるわたくしである』

 もうひとつ前の異様な事件というのは、能登町にある祖父が住んでいた空き家で、信州大学の林学部の学生が、能登町の、高校一年女子を連れ込んで、殺し、その後、車ででしょうが? 穴水町まで行って、ほかの人の車に飛び込んで、自殺をしたという事件がありました。(2017年3月19日)

 この信州大学林学部の学生というのは、架空の人物で、実際には、存在しない人間でしょう。どうしてそういうかというと、大きな報道をされた事件でしたが、今、NHKとか、朝日新聞とか、日経新聞の当時の記事が、google 検索で出てこないのです。

 これは、謀略として行われた事件に共通する特徴で、私を脅かすために事件を起こします。脅かすためだから大々的に報道をされます。知床の沈没船事故、京アニ放火、やまゆり園事件等、みんな同じです。しかし、実際には、大量に嘘が含まれている事件なので、だんだんと情報を縮小していき、なかったことにしていくのです。特にわたくしがすぐ真相を書きますね。そうなると、ますます、縮小していきます。そして、なかったことにするまでの、時間を短縮していくのです。この能登町事件の場合、被害者の親は、一度も会見をしていません。

 しかし、ベトナム少女リンちゃんをはじめとして、普通は、被害者の親はテレビに出て訴えます。その日は、弁護士を通じて、コメントを出すぐらいで、済ませても、一周忌とか、三周忌とか、記念する日に、テレビカメラに出て、加害者側の責任を問います。加害者が、死んでいるとしても、その親に対して、責任を問いたい気持ちはあると思います。

 もしかすると、被害者もいないのかもしれませんが、一応通っていた高校の校長先生が、記者会見をしました。ただね。やまゆり園事件で、一人も死んでいないのに、どこかの大病院の医師たちが、記者会見をしました。こちらの信州大学リン学部所属の学生が起こしたという事件は、本当に被害者が、首を中心にナイフで、惨殺をされていたのだったら、周南市で、五人を惨殺した、例の秘密部隊(日本の警察署族だとは思いますが、瀬島機関という名前でアジア系の人間で、構成された、アサッシン達かもしれません。日本人など、虫けらだと、思っている人たちがやれば、こういう惨殺事件が起きます。

 ここまで、はっきりと書くのは、例の行方不明二歳児が、この炎暑の中、17日も水の中に使っていたらしいのに、氷見沖で、幼児の遺体だと、わかる形で、発見をされたというニュースを見たからです。しかも遺体を、海上保安庁と警察が合同で、解剖をしたのですって。こんな嘘を発表することを、警察庁長官も海上保安庁長官もよく許しますね。中村さんが辞めたばっかりだけど、次の警察庁長官は、大丈夫ですか? 

 養老先生に、聞いてごらんなさい。「人間の死以降、肉体が形を保つのは、何日間であろうか、実験結果ではなくて、推察だけでもよいから答えてください」と。

 昔に戻ります。一番すごいのは、保美死刑囚がやったとされる、周南市の山間・金峰で、五人の老人が惨殺された事件ですが、実行犯だとされている、保美死刑囚は、最近のgoogle 検索では、Hとなっています。これを、わたくしが書くと、また、保美に戻るかもしれませんが、Hとなっているのが典型的で、保美は、やっていません。もし、精神がおかしいのだったら、最高裁まで、行って死刑判決が下っているのがおかしいわけで、矛盾たらたらです。

 なぜ、保美の本名が、9年目の今は、消えているかというと、大炎上させたくせに、わたくしが、真実(保見ではなくて、例の、警察の秘密部隊が、CIA  鎌倉エージェントの家来として、私を脅かし、苦しめるために起こした事件で、わたくしが、詳細に真実)は、こうですよと、書き続けているので、困った彼ら、実行犯と企画者は、どんどん、情報を減らしていき、そういう事件が無かったことにしたいのです。そうした方が、私のブログが、力を失うと、彼らは、考えているからです。

 で、信州の事件の方へ、移行します。こちらは、保美死刑囚の事件とは違っていて、さらに情報が少ないです。事件のwikipediaもないし、新聞記事も、民放の記事も、今では、消えているのですが、ただ、一つ、週刊女性プライムというのが残っておりました。そのURLを、下に置きます。

https://www.jprime.jp/articles/-/9308?page=3

 それには、相当に詳しい状況が載っています。しかし、CIA側が、こう書いてほしいと頼んだ通りの記事になっていると、思います。わたくしは、これは、謀略だ、こういう信州大学生は、存在しないはずだと、書いたら、事件発生6日目ぐらいに、信州大学側が、記者会見を開いて、世間に、謝罪をしたのです。

 もし本当にこういう学生がいたのなら、まず、両親とか、育ての叔父とかが出てきて謝罪をしないといけません。そういうこと、だから、この犯人は、実在しないはずだと書いたら、親族ではなくて、信州大学幹部が、謝罪をしたのです。誰に命令されて、ああいう記者会見を開いたのでしょうか? 個人の犯罪でしょう。どうして大学が関係があるのでしょう。おかしいですね。

 しかし、信州大学幹部が謝罪をしたという点に、政治的陰謀である、という真実が隠されているのです。

どういうことかをこれから、語っていきます。

 母が、2010年に亡くなりました。サラリーマンで無かった弟は、週に三回は、老人ホームにお見舞いに行っていたと、思います。で、急に、時間が空いたわけで、わたくしたち夫婦を旅行に誘ってくれました。主人は、日産自動車の、研究所・所員でしたから、北久里浜に住んでいたころは、むろん、車を持っていました。敷地が60坪あって、ちゃんとしたカーポートもあったのです。

 しかし、現在住んでいる雪の下2-3-7は、鶴岡八幡宮の、すぐ、西側の山であり⇒、⇒、⇒

(したがって、我が家は、鶴岡八幡宮様の地境地主で、一応氏子です。ただし、本年の秋の例大祭は、来ないで下さいと、言うお手紙が来ています。口実はコロナ禍なので、ということですが、違うでしょう。本音は、わたくしが書いていることが困るから、それと同じことを、殿中で、隣の人に語られたら大変だからだと思います。しかし、八幡宮様の方が攻撃をなさっているから書くのですよ。伊藤玄二郎からか、鎌倉警察署からなのかは、知りませんが、鶴岡八幡宮様は、ひどいやり方で、いじめてこられたのです。で、それ等の数々の、おん、行動は、防衛のために詳細に書いています・・・・・・苦笑)

 ⇒、⇒、⇒石段を、この部屋までは、163段も登ってこないと、入れません。で、車を持っていません。そこを、誘ってくれたのです。1980年代以来、ほぼ、30年ぶりの車での旅行でした。伊豆には、二回行った記憶があり、信州も二回のような記憶があり、東北が一回です。

 信州へ行った時のことです。主人と弟の二人と別れて、散策していると、なんと、博物館がありました。とても小さいのですが、信州大学林学部運営となっていて、びっくりしました。つまり、江戸時代は、お殿様(もしかしたら、紀州徳川家)の持ち物だった山が、一時期天皇家のものとなり、戦後国有林となり、そして、その一部が、信州大学の演習林となっているわけです。

 それで、車に帰って、「びっくりしたわ。ここら辺の山は、信州大学の演習林なんですって。信州大学って、営林署の所長や、材木会社の重役を占めているのよ。お父さんが第一回卒業生だった秋田鉱専石油科が、石油元売り会社の重役を占めているそうだけど、同じね。或る部門に特化している大学なのだわ」と、言ったのです。それを利用してわたくしを苦しめてやれっとして起こされたのが、信州大学リン学部の学生が、女子高生を殺して、穴水町で、他人の車に飛び込んで、自殺をしたという事件です。

 私を苦しめ、脅かすための事件でした。

 それは、京橋の有名な画廊、ギャラリー山口のオーナー、山口みつ子さんが、ビルから突き落とされた、他殺なのにもかかわらず、自殺と喧伝をされているのと、100%同じ流れであり、

 やまゆり園事件の一周忌、直前に、妹が殺され、妹の連れ合いから、一生で初めて、長電話が来て、14階から飛び降りて、自殺をしましたと、言われた流れとも同じなのです。

 山口みつ子さんの事件が、2010年に起こされ、

 信州大学学生の事件が、2013年に起こされ、

 妹の他殺が、2017年に起こされています。

 妹の、住んでいる清新町(妹は、四階建てで、110mぐらいの広いマンションの三階に住んでいるが、近所)に、14階建ての、東京都が販売した、マンション群が、数棟建っている。今、タワーマンションへと改築中の模様だが?

 11日に電話があって、お葬式が、17日だと聞きました。その日まで、待って、妹の遺体を、見て、ウエストから下がぺしゃんこになっているのを見て、私は、妹は、睡眠薬を飲まされた後で、どこかに運ばれ、重量のある車で、腰から下をつぶされて、出血多量で、睡眠中に死んだと判断をしました。

 そして、18日から何日間も連続して清新町へ出かけていき、14階建ての、マンション群の周辺をつぶさに見て回りました。そのマンション群は、狛江にもある形と似ていて、2017年当時ホールには自由に入れました。

 13回までしか、エレベーターで上がれなかったのかな? それとも、自分の足で、上がったか? ともかく、14階から飛び降りたというのは、建物構造上でも嘘でした。

 ともかく、14階建てのマンションのすべての周辺に、人が飛び降りた跡は、まったくないと、⇒⇒⇒

 今、9日の午後零時です。大変、苦しい内容のことを書いています。それで、間に、休憩(家事をする時間)を入れて、書いていきますので、目鼻がつくまでは、夜9時ごろまで、かかるはずです。で、そのころには、この章内でも、救いが訪れていると書くことができるでしょう。100%の救いではありませんよ。1%ぐらいです。

 しかし、ここにもひとかどの人が登場します。世界第三位の広告会社、JWトンプソンの副社長だった、小池玲子さんと、日経BP社勤務で、現役を終えた、野々村泰彦さんです。二人とも、引退時で、年収二千万円を超えていたでしょう。こういうエリートの退職金は知りませんが?

 この二人が、妹のJWトンプソン再就職に、関係者として、登場し、2005年ごろまではそういう態度を見せなかった野々村君と、小池さんが、おかしな態度を見せる、ことによって、わたくしが・・・・・妹が他殺である・・・・と、言っているのが嘘ではないと証明できるのです。で、もう一回、夜、ここを覗いてやってくださいませ。

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 ⇒⇒⇒いうことを確かめたのちに、違う建物・・・・・例えば、町内会館(団地が大きいので、町内会館も二階建ての白亜のビルでした)に寄ってみました。すると、各棟の代表数名が集まっている大規模な、会合が開かれていて、夏祭りの相談をしていました。なんの懸念もない感じでした。ちょうど終わったときに出くわしたので、会合の内容を聞いたのです。この人とたちは、警察と通々なので、「ここで、飛び降り事件がありましたか?」などとは質問をしませんでした。否定用のたくらみが起きるからです。

 さて、4日も通ったのです。各棟のロビーで、住民とも会話しました。ここは、狛江の団地と同じ形式で、2017年当時は、ロビーには、自由に入れたのです。で、ここでも、飛び降り自殺とは言わないで、「何か、事件とか事故ってありましたか? 今度、中古の、区画を買おうと思っているので、」と質問をすると、「何にもありませんでしたよ」と答えが来ました。

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副題2、「妹の一人娘は、セガサミーの会長、里見さんの甥と結婚をし、東上線常盤台の中堅病院に勤めている看護師である。子供が二人いて、すでに、成人であろう。姪自身が、50を超えたか超えないかの年齢である。結婚相手は、渋谷幕張時代の同級生である。

 妹自身に言わせると夫婦二人とも、千葉大の薬学部を出ているので、姪は、絶対に医者にするし、なれると、考えていた模様だ。姪が小学校の頃は、冬休みには、スイスへ、毎年行っていた。それは、バレーを習わせていて、ヨーロッパに留学させる案も持っていたかららしいが、小学校、四年生ごろ、受験勉強を始めて、渋谷幕張に入学できたとたんに、バレーは、やめて、医者にする案を持ったらしい。

 ところが、妹の思惑に反して、姪は、今の結婚相手の姉のお葬式に参加した夜以来、西葛西の自宅へは帰ってこず、ずっと、常盤台のセガサミーの会長の妹が、お母さんである、東上線・常盤台の同級生の家に、暮らす様になったそうである。中学か、高校という早期にだった。それは、二人がセックスの関係を持っていたからというよりも、妹と、清新町の実の親の家庭と、常盤台の、今の結婚相手の家庭特に、その両親の雰囲気とを比較をすると、そちらの方が優しくて、愛情たっぷりの人だと感じたからだと思う。私は、妹のお葬式で、初めて、そのお母さんと接したが、なるほどと、納得をした。

 当時、妹は、鳥居薬品の学芸部にいた。で、新薬開発のパンフレットを作っていた。カラー印刷で、一部、150万円以上、かけて、数千部または、数万部作るものらしい。妹は編集統括者で、デザイナーなどに命令する役職だった。で、帰宅が遅い。その上、当時妹の連れ合い、柏木隆さんが、鳥居薬品から、出向して、母体より、大きなJT研究所副所長として、大阪に単身赴任をしていた可能性がある。そうなると、帰りの遅い母親と姪は、二人暮らしで、しかも、母親は、帰ったとたんに、勉強しましたか?と、問い合わせる様な感じだと、姪は、いやだなあと、感じたのだと思う。

 この妹の仕事が、妹が他殺にまで追い込まれる、小池玲子さんや、野々村泰彦さんにつながっていくところだけど、ここでは、まだ、そこまではいかないでおく。

 それは、理由があって、7歳上の長女である私は、父にものすごくかわいがられて、いた。学校のお成績が良いので、霞が関での、仕事上上司が、収賄をして、サラリーマンとしての、人生を失敗してしまった父にとって、公的な世界で、成果を上げる私は、自分の名誉復活を遂げてくれる存在だからでもある。

 また、妹より、6歳下の弟は、母には、たいへん大切な子供だったし(それは、女中さんが略奪婚をしようとして、弟をねこっかわいがりしたせいで、わたくしが、父に忠告をして、女中さんを追い出したので、やっと、自分のものとして手にはいた、弟が、単純なエディプスコンプレックス以上にかわいい存在と化していたのだった)、父にとっても、家を継ぐ人間として大切だった。で、両親ともの愛情を一身に受けて育った弟は、人格円満で、穏やかで、上品な紳士として育ちあがった。

 妹は、もっとも、かわいがられなかった、存在で、そのことが、人格形成に、いろいろな影を落としていたと、私は考えるが、それが実は、カリタス小、通学バス襲撃事件につながっていく。カリタス小六年生と、ミャンマー語に堪能な、外交官と、犯人とされた、51歳の男は三人とも、例の、秘密部隊に殺されたと、私は考えている。

 ここに、妹が両親から、ネグレクト気味に育ったことが絡んでくる。

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副題3、『カリタス小通学バス襲撃事件とは、日吉の実家近辺で、私に対して、悪いうわさが流されたことを、わたくしが推察し始めたので、私を脅かすために起こされた。非常に説明が難しいが、諄々と語っていこう』

 弟が、家の中で、夜も過ごしている女中さん(静岡県出身、離婚経験あり、自分の子供もいるという人、元バレーボール・ユニチカの選手だったとのこと)にとられそうになったのは、母が父の仕事を手伝っていたからです。小さな会社だと、優秀な人が雇えません。特に経理の仕事などでは、優秀な人が来ないのです。で、母が経理担当です。で、自宅で仕事をしているのだけれど、ほとんど主婦ではないです。で、お手伝いさんがいつもいる生活でした。

 で、その人をやっと追い出した、二代目からは、日吉の住民で、高齢の未亡人に通いで、来てもらうこととなりました。それと経理の仕事は、一人ではできないので、近所の主婦二人に分担をお願いしていました。「あなたの、ご自宅で、これを、なさっていいのですよ。で成果に応じで、時間給を支払います」という形です。それと母は趣味で、株をやっていました。母の実父は、旧制山口高等商業を出た人で、のちに柳井商業(今はないかな? 甲子園に出た時代もあるが)の校長をした人ですが、母は養子であるその人と、そのお嫁さんも、養女である、いわゆる、とり子とり嫁の子供でした。が、その実父が家を出てしまったのです。養父母と合わなくてね。その後、実母も若くして死んだので、おじ、叔母夫婦に育てられました。そのおばですが、たいへん冷たいひとだったと聞いています。母の兄は、私にそれを言います。しかし、母は、幼いから、叔母の手がないと、自分が生きられないとわかっていたのか、絶対にその人を批判しません。それだけ、母も影響を受けていて、ある種冷たいところがあったのです。

 90歳を超えた、最後の段階では、私を頼ってくれましたよ。結局わたくしが一番愛情が深いということはわかっていたと思います。そして、愛情が一番大切だということも。それを別の言い方ですが、言いましたから。

 でも、1958年、妹が小学校4年生の時点に戻ります。妹は、毎日微熱を出していました。日吉のお医者さんが、原因がわからないと、おっしゃって、愛育病院の、内藤寿七郎先生に、紹介状を書いてくれました。ものすごい人気で、朝の七時台に、番号をとらないといけないので、山手線、大塚駅に行かないといけない私が、東横線を渋谷で降りて、バスか地下鉄で、近所まで行き、後は徒歩で、愛育病院まで行って、番号札をとり、それを母に電話で知らせて、母が、午後、しかるべき時間(17番だった)に妹を連れて行ったのです。二回目からは、予約制だったと思う。結果を私は、むろん聞いていません。母はそのころは、16歳でしかない私を頼る気持ち、なんてなかったからです。

 さて、毎日午後三時にお茶タイムがありました。お手伝いさん、証券会社の人(預かり証の受け渡しという形で、ほぼ、毎日来ていたのです)そして、ご近所の寺沢夫人(彼女は母に言わせると、極めて誠実で、頼りになる人で、例の経理の仕事を分けて、お願いをしていた一人です)。上生菓子と煎茶で雑談をしている最中に、母が内藤寿七郎先生の診断結果をみんなに披露をしました。みんなに、聞いて、聞いてという感じで、「なんと、あの子の微熱って、親の愛情が足りないから出るんですって」と、発言をしたのです。

 母にしてみれば、戦前の結核まん延の時代を知っているわけで、結核ではなかったということを喜んでいたのかもしれないし、結核でもないのに、愛情がないだけで、微熱が出るなんて、「ぜいたく病でしょう」なんていう不満があったのかもしれません。ただね。自分の育て方のミスだったとは、考えていない模様でした。もし、自分のミスだと考えれば、あんなに他人の多い場所で、あんなことを披露するわけもないのです。当時の母には、すでにお金がたっぷりありました。そして、威張った感じはないのに、他人に言う事を聞かせるのが上手で、かつ、他人に奉仕をするのも大好きで、毎年親戚に送るプレゼントも、デパートで出来合いの詰め合わせを送るなどせず、いろいろ、考えて、相手の喜ぶものを詰め合わせていました。だからいわゆるカリスマ性のある人だったのです。だから、なんでも人が言う事を聞いてくれるのだという判断があったのかもしれないし、母にしてみれば、内藤先生の判断が不満だったのかもしれません。

 ただ、私はぞっとしました。私は高一でも、すでに、心理学のことはわかっていました。大人向け、または、子供向けの小説をたくさん読んでいたからでしょう。本当にぞっとしました。この五年後ぐらいに寺沢夫人は、お嬢さん二人をカリタスに通学させることとなります。それが、カリタス小通学バス襲撃事件につながっていくのですが、寺沢夫人は、その40年後、再び、ご登場あそばすことになります。それも、カリタス小バス襲撃事件に、原因となっているでしょう。

 1958年のことが、どうして登戸のあの恐ろしい事件に結びつくの?と、言う方も多いでしょう。しかし、妹の他殺が、ここに絡んできます。これは、推察ですが、水沢勉(現葉山の美術館の館長)が、姉の悦ちゃん、に、きみちゃんって、自殺したらしいよと、言ったと仮定します。悦ちゃんが、沢野寛ちゃん(この二人は、妹と小学校の同期生)に告げたと仮定します。沢野家の母堂が、小田歯科医院の奥様に、それを告げたと仮定します。それで、小田先生の態度が、非常におかしくなったのです。単純におかしくなっただけではなくて、いじめてくる様になったのでした。

 お孫さんの、私立中学受験成功の話を繰り返し語られるのです。二年か、三年の間、鎌倉学園、立教大学付属、慶応大学普通部の参考に合格した話を繰り返し語られるのです。

 ここから、私は、うちの子が私立中堅校を二校受験して不合格だったのは、1978年に、北久里浜の実質的大詐欺事件の真相を知ってしまったために犯人側にいた瀬島龍三(戦後最大のCIAエージェントとなっていた)が復讐をしてきているのだ・・・・・と考えました。彼は死んだが、今では、彼の後継者たる、石塚雅彦、伊藤玄二郎、いまだ生きている井上ひさし、成岡庸司君、酒井忠康氏などの、CIAエージェントが、こちらが頼らざるを得ない歯医者(この場合は名医小田先生)さんを使って、心理的にえぐってくるのだと判断をしました。で、この小田先生の態度ゆえに、私は、息子の不合格は、裏で手を回されたものだった、本当は合格していたのに、と、考える様になります。

老いた単身親を、理解し大切にしてあげよう・・・そうでないと関係がない他人(=私)がsexまで誘われてしまう

2022-01-27 21:48:51 | 政治

歯医者さんが、謎かけをしてくる言葉から、息子の中学受験は、裏側から不合格にされた事を知った

2022-01-28 22:32:12 | 政治

 ここで、増田忠さんという紳士が登場します。それについて、丁寧に書いたのが、上の二つのリンク先です。総タイトルには、忠さんという言葉は出てこないのですが、その章では、増田忠さんについて、詳しく述べています。どうしてそうタイトルに忠さんという名前がないかというと、かわいそうな人でもあるからです。

おぼっちゃま育ちなので、自分を守ることができなくて、ご自分の、長男さん夫妻から、一種の心理的虐待を受けている状態のころ、私は50年ぶりに忠さんに出会ったのでした。その1997年ごろの事ですが、忠さんは、腰を痛めていました。日吉の私の実家は、ときわ台バス停から30mは、上る坂の上に在ります。忠さんの家は、その北隣なので、同じ坂を上がるわけです。立派な舗装がなされていますが鎌倉だと佐助稲荷に向かう坂道と言ったら、読者の皆様にも、その急坂ぶりがお分かりいただけるでしょう。

忠さんというのは、昔中島飛行機に勤務していたエリ-トで、昭和天皇の御料車を設計した人です。慶応を出て、ストラディヴァリウスかグヮルネりかという名器を自己所有としていて、毎晩、演奏する人でした。如何にもご自分を慰めるためにと、判る演奏でしたが、たいへん美しかったです。だから、私にとっては、一種の雲の上の人だったのに、腰を曲げて、如何にもつらそうに坂を上っているから、「どうしたの? 増田さん」と思わず、ため口を聞いたのでした。それが増田さんの琴線に触れて、それ以降、半年ぐらい、昔の関係と異なって、一種のお友達状態になったのでした。

増田さんは、日吉のご自分の家を、売って、お子様と同居したのですが、同じビル(三階建て、たぶんワンフロアは18坪)内にお孫さんも三人住んでいるのに、その一家と全く交流がないのです。増田さんだけ、外階段で自宅(多分、10坪程度)に上がっていくだけなのです。)へ上がっていくだけです。日吉の家はシラカバなどがたくさん植えて在って、植木屋が入らない家だったので、まるで、武蔵野状態で、美しい環境だったのに、横浜の中心街へ引っ越したといっても、植木もないし、日当たりも悪いし、なお、それは、想定外だったと思うのですが、お子様夫妻とお孫さんとは、同じビルに住んでいながら、全く交流がないのです。お嫁さんは、某有名美大の卒業生で、三人のお子様の手が離れたら、有名作家として、生きたいと考えているので、「お義父(おしゅうとさん)の面倒は見られません。それが、確立する同居生活にしてください」と息子さんに宣言をしているのでした。

 それで、寂しくて仕方がないところへ、私が飛んで火にいる夏の虫状態で、現れたので、増田さんは、最高のレベルで、私に甘えてきたのでした。お金の面でも「お昼ごちそうしてね」とか。散らかったベッドの写真を見せて、「千恵子ちゃん、片付けに来て」とか。その時に、私は行くとも嫌だとも言わないで、ただ、「もう今日は、これで」と言って別れました。

 その後、増田さんは不安になったらしいのです。何が?と言えば、・・・・・自分がベッドの写真を出したことが、「セックスしない?」という意味だったのを、あの子はわかっていて、断ったのだろうか? それとも、ただ、単純に忙しかったのだろうか?」と。で、一晩眠られないで、朝の五時から、私に電話をかけてきたのでした。内容は探りを入れて、私が、どう考えているか、セクハラととっているかどうかを知りたがっているのでした。私は、洋服が散らかっているベッドの写真を見せられた時から、すべてはわかっています。だけど、向こうから、それを言わないのに、こちらから、「増田さん、私、むろんわかっていましたよ。昔のお隣で、お嬢さんとも、仲良くさせて頂いたつもりが有る。それなのに、あんなこと、あれは、なしでしょう」とは、言えないです。特に、33坪あっても木造の家です。私の声は、すべての家族に聞こえるでしょう。そういう場合に、セクハラだとかベッドの写真が何とかと言えますか? そして、子供たちは、まだ一緒に住んでいて、出勤する必要がありました。私は朝食を作らないといけないのです。

 私にとっては、増田さんとは、すでに、落ちた偶像になって敬愛もしていないし、好きでもない状態なのに、まだ、「ねえ、チエコちゃん、僕、眠られなくてね。こういうときって、もうどうしようもなくてね」と言われても、sympathy は、感じられないのです。でね、じりじりしている私は、午前六時になったので、「増田さん、もう電話をよこさないで、ください」と言ったのです。相手がぎょっといて、ショックを受けたというのはわかりました。しかし、「あとで、もう一回、こちらから電話をします」とは言わなかったし、もう、増田さんが、どうなっても仕方がないと、思っていましたよ。「どうなっても」というのは、増田さんが、暗喩として、「千恵子ちゃんに、もう一回、仲良しになってもらえないと、僕が、ノイロ-ゼになる」と、言っていることを指します。それもわかりましたが、もう勝手にしてくれ」という感じでした。

  しかし、小田先生の態度を見ているうちに、おかしいなあ。増田忠さんに取って、あのエピソードは、一種の恥でしょう? だから、既に家がない日吉で、誰かに言いますか? 水沢家もその他のエリート様も、特に、東大でのエリート様とはあまり仲良くないのですよね。では、噂話スキの沢野夫人とか、その仲良しの寺沢夫人と、今は、仲良くしているのですか? 未亡人となっている沢野夫人の、独り住まいの居間に訪問をして、昔のお隣さんとして、私の悪口を言いますか?

 二人は生活感覚がまるで違うでしょう。ありえない筈。だけど、今の増田さんは、寂しいから、いかにも肝っ玉母さんみたいな沢野夫人と、親しくしていて、いろいろな愚痴、お子様や、お嫁さんの事も話しているのかもしれない。・・・・・と、思い当たると、植物好きで、仲良くしていると小田先生の奥様から聞いている沢野夫人が、増田忠さんから、私の悪口を聴いている可能性は、大いにあるのでした。うちの母は、沢野夫人は食えない人よ」と言っていました。つまり、ボス的気質があって、もし気に障ることをしたら、後々まで、いじめられるという事を指します。しかし、寺沢夫人については、「この山で、一番、いい人です。誠実で、しかも賢い」と、褒めていました。

 でね、私は寺沢夫人に電話をかけて、単刀直入に「増田忠さんと、トラブルがあった。増田さん。ときわ台で、私の悪口を何か言っています?」と、聞きました。すると、「ええ、有りました」と寺沢夫人は、言いました。そして、「増田さんは、もう亡くなっています」ともつづけました。非常に後味の悪い情報でした。増田さんは、あの頃、もう、腰が90度、曲がっていて、フレイル状態ではありました。でも、私の拒絶が、死期を早めたというか、そういう何かを感じて、私は電話口で、黙りこくりました。すると、寺沢さんが続けて、「大丈夫よ、千恵子ちゃん、あの話を聞いてから、私たちは、これは、坊ちゃんが悪いと考えたの。で、坊ちゃんに電話をかけて、お父さんをもっと大事にしないとだめよ。と言いましたから、増田さんは、最後はお孫さんたちと本当の同居という形に入ったの」と、言いました。

 ・・・・・お父さんが、外で、恥をかくことになるから・・・・・この紫の部分は、本当の事ですが、寺沢夫人は、私には言いませんでした。でも、私は、自分は、本当にトリックスターだなあと、思い入りました。結局のところ、私とのトラブルが、機縁となって三階に在った、壁が取り払われ、増田さんは、寒い冬もふきっさらしの鉄製の階段を上る必要が無くなったのです。

 お嫁さんだって、既に弱っている、実際のお義父さんを目にすれば、手間がかかるなどと言っていられないと思います。そして、一階の自分のアトリエを、お義父さんの寝室にして、三階の旧お義父さんの居住部分を自分のアトリエにすれば、お風呂場で、版画なら酸化腐食作業、染色なら洗浄作業、油絵なら、筆洗などができますね。水彩ならパネルの水張りができます。おお、おお、万々歳です。

 

 

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