分類・文
小説 ひとつの選択
いわきの総合文藝誌風舎7号掲載 箱 崎 昭
「長い間、世話になりっ放しで本当に申し訳なかったね。これから暫らくの間はお母ちゃんと居て、調子を見ながら良くなれば川崎へ戻るので宜しく頼むよ」
繁は母の前でそうは言ったものの、実は2人だけには既に我が家の事情を明かしてあり、繁1人が戻ってきたのは充分に承知している。
「母さん、兄さん来て貰って本当に良かったね。これで元気100倍になったんだから、また杖を突かなくても歩けるようになっから」
義弟の孝男が母の顔へ首を伸ばして言った。
孝男も母のことを母さん、繁のことを兄さんと呼ぶ。これは花枝と結婚した時から妹達がそう呼んでいたので恐らく気脈が通じてそうなったのだろう。繁も実の兄弟がいないので長いことそう呼ばれている内に、妹の亭主というよりも本当の兄妹のように思っている。
繁が立とうとしたら空かさず花枝が「私がやる」と言って台所に入った。
勝手知った冷蔵庫の中から適当な酒の肴を見繕って小皿に盛り、グラスを添えて手際よくテーブルに並べた。
「兄さんが来ても、なるべく食事の支度は母さんに任せた方がいいからね。息子が来たんだもの張り合いが出て、毎日美味しいものを作ってくれるから……。とにかく動ける内は何でもやってもらった方がいいと思うんだ。それが母さんの身体のためにも一番いいだろうと思うし」
花枝は繁が母の傍に居るのが一番良いのだと屈託のない言い方をした。
話題が大阪に嫁いでいる咲江夫婦の近況や世間話に盛り上がってきたあたりで母が川崎のことに触れてきた。
「繁1人がこっちへ来ている間は、残っている紀子さんや孫たちは何かと大変だっぺなあ。私はまだ1人でもなんとかやっていけるからさ」
母は誰に言うでもなく視点の定まらない目をして言った。
「そうは言っても夜中に電話をよこして、寝られないとか腰が痛いから病院へ行きたいとか言うでしょう。母さんは何も心配することはないの。自分のことだけを考えていればいいんだからね」
花枝が穏やかな口調で言うとすぐさま「ねえ」と話の続きを繁にさせようと相槌を求めた。
「ああ、それは大丈夫だ。子供と言っても一端の社会人だし、オレが田舎で母親の許に暫らく居るというのは紀子も承知の上で来ているんだから」
事実と懸け離れている言葉を口に出さなければならない繁は心苦しかった。
花枝に目をやると花枝も繁を見ていた。
「こうして兄さんに来てもらって母さんは本望だろうし、私も凄く嬉しい。どんなことでも協力は惜しまないから遠慮なく言ってね」
いま繁がここに居る本当の理由を知らないのは母だけだったから、花枝も言葉遣いには慎重で母に察知されないよう配慮しているのがよく分かった。
孝男が差し出す缶ビールをグラスに注いでもらうと、真っ白い気泡が忽ちグラスの口いっぱいに広がって、精神的な開放感を表現しているように見えた。 (続)
小説 ひとつの選択
いわきの総合文藝誌風舎7号掲載 箱 崎 昭
「長い間、世話になりっ放しで本当に申し訳なかったね。これから暫らくの間はお母ちゃんと居て、調子を見ながら良くなれば川崎へ戻るので宜しく頼むよ」
繁は母の前でそうは言ったものの、実は2人だけには既に我が家の事情を明かしてあり、繁1人が戻ってきたのは充分に承知している。
「母さん、兄さん来て貰って本当に良かったね。これで元気100倍になったんだから、また杖を突かなくても歩けるようになっから」
義弟の孝男が母の顔へ首を伸ばして言った。
孝男も母のことを母さん、繁のことを兄さんと呼ぶ。これは花枝と結婚した時から妹達がそう呼んでいたので恐らく気脈が通じてそうなったのだろう。繁も実の兄弟がいないので長いことそう呼ばれている内に、妹の亭主というよりも本当の兄妹のように思っている。
繁が立とうとしたら空かさず花枝が「私がやる」と言って台所に入った。
勝手知った冷蔵庫の中から適当な酒の肴を見繕って小皿に盛り、グラスを添えて手際よくテーブルに並べた。
「兄さんが来ても、なるべく食事の支度は母さんに任せた方がいいからね。息子が来たんだもの張り合いが出て、毎日美味しいものを作ってくれるから……。とにかく動ける内は何でもやってもらった方がいいと思うんだ。それが母さんの身体のためにも一番いいだろうと思うし」
花枝は繁が母の傍に居るのが一番良いのだと屈託のない言い方をした。
話題が大阪に嫁いでいる咲江夫婦の近況や世間話に盛り上がってきたあたりで母が川崎のことに触れてきた。
「繁1人がこっちへ来ている間は、残っている紀子さんや孫たちは何かと大変だっぺなあ。私はまだ1人でもなんとかやっていけるからさ」
母は誰に言うでもなく視点の定まらない目をして言った。
「そうは言っても夜中に電話をよこして、寝られないとか腰が痛いから病院へ行きたいとか言うでしょう。母さんは何も心配することはないの。自分のことだけを考えていればいいんだからね」
花枝が穏やかな口調で言うとすぐさま「ねえ」と話の続きを繁にさせようと相槌を求めた。
「ああ、それは大丈夫だ。子供と言っても一端の社会人だし、オレが田舎で母親の許に暫らく居るというのは紀子も承知の上で来ているんだから」
事実と懸け離れている言葉を口に出さなければならない繁は心苦しかった。
花枝に目をやると花枝も繁を見ていた。
「こうして兄さんに来てもらって母さんは本望だろうし、私も凄く嬉しい。どんなことでも協力は惜しまないから遠慮なく言ってね」
いま繁がここに居る本当の理由を知らないのは母だけだったから、花枝も言葉遣いには慎重で母に察知されないよう配慮しているのがよく分かった。
孝男が差し出す缶ビールをグラスに注いでもらうと、真っ白い気泡が忽ちグラスの口いっぱいに広がって、精神的な開放感を表現しているように見えた。 (続)