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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

矢田川の御代ポンプ場

2018-03-31 06:18:16 | Weblog

                           分類:観 
                                            鹿島町を見て歩こう㉛     《御代地区》    いわき市鹿島町御代字柿境             
矢田川土手にある御代ポンプ場
                                                   鹿島の久保・船戸・御代地域は地形の特質上、梅雨時の大雨や台風に弱い所で、昔から一帯が冠水してしまうのはそんなに珍しいことではありませんでした。                            しかし、鹿島街道が整備されて商業地が並び近隣に住宅が密集してくると、たちどころに大きな被害を受ける状況になりました。                                                                      《矢田川の土手沿いにある、いわき市御代ポンプ場》


 平成18年6月16日の豪雨では鹿島街道が通行止めになり、久保3丁目で床上浸水11棟、床下浸水48棟、下蔵持では住宅の裏山が崩れ、他の地域でも多くの被害を受けました。                  このような状況の中で 「御代ポンプ場」 建設の動きが活発化してきて、地元市議を交えた関係者の要望や陳情を行い、市側から 『矢田川が異常水位になった豪雨と主要地方道・鹿島街道(小名浜・平線)が通行止めになった事態を重くみて、前向きに検討する』 旨の回答を得たのでした。           これにより、平成19年度から土木工事が着手し同20年度に念願であった 「御代ポンプ場」 は完成しました。


                           《御代ポンプ場を裏から見る》     《豪雨の影響で水が溜まった鹿島街道》

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鹿島小の二宮金次郎銅像

2018-03-30 07:41:55 | Weblog

                                       分類:観                                    鹿島町を見て歩こう㉚    《鹿島小学校敷地内》 いわき市鹿島町走熊字中島1                           鹿島小学校の二宮金次郎銅像                                          写真(2枚続きの銅像)は鹿島小学校がまだ旧校舎の時に、職員室の玄関前にあったものです。                                           銅像を囲んでいる12本のシュロの木は、昭和9年に村長になった志賀直哉(1889~1956)が、翌10年の 「鹿島村立鹿島小学校」 新築落成に併せて、当時の村内12大字全体の不況脱却と融合を願っての造園を発想しました。                                                  金次郎を中央に配したのは、児童たちが金次郎にあやかるようにとの念願を込めての建立でした。                                                                                                              《職員室の前、朝礼台の真後ろになる位置にあった金次郎銅像=昭和30年代》
 
 
二宮金次郎は江戸後期の実践的農政家、二宮尊徳(1789~1856)の幼名で、孝行・勤勉・学問・自営という4つの徳目を代表する人物として有名ですが、日本が14年戦争に突入したとされる昭和7、8年(1932~1933)頃から、その徳目を皇国意識と国威発揚の目的にされ、全国の小学校に「二宮金次郎像」が建立されていく大きな要因があったとされています。

                          《現在は放課後児童クラブ(同敷地内)の前にある二宮金次郎銅像》

 ▲二宮金次郎の像は全国統一されていたものではなく、顔の表情・着衣・スタイル・前に出ている
       足(右か左か)などが学校によってそれぞれ異なっています。

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地域活性源、鹿島公民館

2018-03-29 06:47:57 | Weblog

                              分類:観                                              鹿島町を見て歩こう㉙     《走熊地区》                                                                                             いわき市鹿島町走熊字鬼越83ー1                                  ☎ 0246-29-2250 

   地域に密着した鹿島公民館                                                 鹿島公民館は鹿島町の中心部にあって、メインの公民館まつり(毎年11月に開催)をはじめ、年間を通して市民講座や地域住民による各種サークル活動など、公民館の利用頻度が多いのは地域活性化のため、いかに貢献しているかが窺えます。                                                                                                      《鹿島公民館の外観》

 公民館独自の主な事業としては〈後期市民講座〉・実用書道講座・四季のタルト・写真教室〈後期事業〉・秋のハイキング・ふれあい鹿島公民館まつり・歴史探訪ウォーキングなどが行われています。
  また、地域住民の主体的な活動は、鹿島ウクレレクラブ・魅せるフラ・うたごえ和みの会・鹿島フォークダンス・鹿島カラオケ愛好会・歌の輪会・鹿島ダンス愛好会・鹿島太極拳サークル・いきいきクラブ・鹿島演歌教室・鹿島オドリーズ・かしまソーラン・鹿島歴史の会・鹿島墨彩会・押し花サークル・手作り木工の会・鹿島公民館俳句愛好会・写心館どんぐり・鹿島着付けサークル、などなど、引く手数多(あまた)。

                        《平成29年に完成した講堂》         《講堂内部》

 利用可能時間:午前9時~午後10時  
        休館日:毎月第3日曜日(年末年始12月29日~1月3日)

 ▲鹿島が2分した当時(昭和29年)は公民館が2館ありました。下の写真はその頃のもので、左が磐
   城市(鹿島小学校敷地内)、右が常磐市(上矢田)が運営管理していました。 

                                              《南公民館》            《北公民館》

     

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一圓融合の精神

2018-03-28 06:57:46 | Weblog

                              分類:観
                                                鹿島町を見て歩こう㉘       《常磐上矢田地区・下蔵持地区》                                        
  一圓融合の精神                                                「一圓融合」の4文字を簡単に説明するのは難しいので、その一部に触れると 『人徳を以って万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に、報徳生活は人道の原則であり一圓融合によって万象が生々発展し……云々』 と記されています。                   《鹿島神社(上矢田)の本堂内に納まっている木板碑》


 志賀直哉村長(昭和9年2月就任)が荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土をつくるという発想から村民に意識を促すために広めた言葉です。=関連 ㉓                                     昭和初期は全国的に大不況に見舞われ、特に農山漁村の影響はひどく鹿島村もその例外ではなく、不況と共に村内の世相も厳しく動いていました。鹿島神社には、当時の鹿島村振興委員会が奉納した「一圓融合」の文字が刻まれた木碑がありますが、使用された木の素材は歴史ある七本松が倒木した内の一本を輪切りにして作られたものです。                                              


                                                                                  《熊野神社(下蔵持)上り口にある一圓融合の石柱》


 写真(上)の「一圓融合」の石柱は、江名⇔湯本(県道48号線)にあります。


 

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御霊(ごれい)神社

2018-03-27 06:39:01 | Weblog

                            分類:観                                                鹿島町を見て歩こう㉗    《久保地区》    
                       いわき市鹿島町久保字木船37
    御霊神社(旧・村社)
                                                  由緒 : 古来木船(きふね)の地に小祀(しょうし)あって村の祭神として、村内安全の神である 「くなどのみこと」 「やちまたひこのみこと」 「やちまたひめのみこと」 を祀っていた。                  
  明治14年に郷社「鹿島神社」の氏子を去るようになり、小祀御霊神社を「久保村一村鎮守」に築造替えすることが決まり、翌年4月に神殿、拝殿が建立されました。                 この時に、従前の三神のほかに藤原冬嗣之霊魂も奉講しました。    
 
                                               
           
 《御霊神社》


                                                               
        《5月5日の祭礼には幟が建つ》      《久保の入口に設けられる飾り物》                                           
左側に見える建物は金光寺です。       毎年5月5日に行われる祭りの故事に則った作法で、神様を迎える道案内役と、地元や近隣の人たちに祭礼を知らせる効果もあります。

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伝説の力石(ちからいし)

2018-03-26 06:26:49 | Weblog

                                        分類:観                                        
   鹿島町を見て歩こう㉖            《下矢田地区・御代地区》                                            伝説の力石(ちからいし)                                       鹿島町には 「力石」 が2つあります。力石とは昔、労働力が人力以外に頼るものがなかった時代に、若者たちが体力づくりや、時には仲間同士の力自慢の道具として使われた石です。                                                           下矢田部落には大きな堰(せき)が2つあり毎年堰止め工事が行われ、青年たちはそういう労力作業に備え毎月の農休日にはお寺に集まり、修行のための寺泊りや体力づくりに相撲や力比べをすることになり、繭形石が力石としてそこへ登場した訳です。


                                       《真浄院(下矢田)にある力石》


                                                        《八坂神社(御代)の上り口にある力石》


 力だけでは中々持ち上がらず、腰の据え方のコツも必要とします。                                          5~6人が持ち上げに成功しましたが、力試しも次第にエスカレートしていき、その石を担いで寺の庫裡の周囲を回る競争になりましたが、その時に残ったのは2人だけでした。                                               最終的には、力石を山門まで転がし、そこから担いで石段を上ることになりました。これに挑戦して見事成功したのは、昭和初期の当時17、8歳だった坂本直政という人でした。石は32、3貫(120kg前後)はあると言われています。


                                                                         《真浄院》           《御代の八坂神社入口》


 ある時、部落を4つ隔てた先の御代部落に真浄院よりも一回り大きな石があるということを聞いた坂本さんは、早速その石の持ち上げにも挑みました。真浄院の繭形石と違って、こちらの石はどちらかというと長方形で、手掛かりがなく揚げにくかったそうですが、その石を前にして深く呼吸を整えると一気にグイと力を入れ胸のあたりまで持ち上げたそうです。                                       これらの2つの石は、今でも真浄院の境内と、八坂神社の鳥居の前に現存します。

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磐城三十三観音17番札所

2018-03-25 06:36:54 | Weblog

                              分類:観                                              鹿島町を見て歩こう ㉕      《走熊地区》                                いわき市鹿島町走熊高照山                                             高照観音(磐城三十三ケ所観音十七番札所)                                                    走熊観音堂再建勧進趣意書によると 「石城三十三番札所の一なる當十七番走熊高照山十一面観世音菩薩は今を距るものにて……云々」 と、こと細かに記されていますが、その中で肝心な建立時期となると、年号は文明年間に遡ることになります。                                                     旧・菊田、磐前、磐城、楢葉の四郡に祀られる霊睠あらたかな磐城三十三ケ所観音霊場の一つに挙げられています。 ちなみに、その内の2ケ所が鹿島町にあります。      ★ 鹿島町に存在する、もう1ケ所の観音霊場 (16番札所) は当ブログの⑯参照。                                                           《昭和45年に耐火構造で建てられた本堂》

 観音堂は、これまで3度【永禄2年(1560),元文2年(1737),昭和4年(1929)】火難に遭い、その度に焼失しましたが現在あるお堂は昭和45年に建立されました。

                                             《像高約30センチの聖観音》

 高照観音像は京都から勧進したといわれた等身大の木像十一面観音でしたが、火難によって焼失してしまい、昭和4年の鹿島(走熊)大火の直後に出来た尊像(写真)を遺跡に岩石を組んで祠(ほこら)を築き、仮のお堂に祀っていました。                       昭和45年8月に念願のお堂が建ち、その際にご本尊を入仏させました。

                                                《高照山の上り口にある石碑                                                        

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鹿島小学校発祥の碑

2018-03-24 06:55:11 | Weblog

                                              分類:観                                     鹿島町を見て歩こう㉔                                                         鹿島小学校発祥の碑    ⒈金光寺(久保)本堂横                                                                                  ⒉鹿島神社(上矢田)階段口

  旧、鹿島村では明治6年(1873)に二つの小学校が同時設置されました。                            場所は現在の、いわき市鹿島町久保の金光寺に啓蒙小学校、いわき市常磐上矢田町の鹿島神社(延喜式内社・旧郷社)の下に成徳小学校ができました。成徳小学校は明治7年6月、官吏村史等協議の上、下矢田の真浄院に移転し矢田小学校と改称されました。                                                  成徳小学校の校名は中国の古典などからとって名付けられたといいます。教師については養成機関ができなかったので、塾や寺子屋の師匠が教員として採用され、創立当時は1校1~2名でした。                   初めは僅かに上矢田・下矢田・松久須根の3ケ村で成立していましたが、走熊・米田・三沢の3ケ村は境界が隣接していて児童の往復に便利であるということから、真浄院に移転と同時に学区連合となりました。                                                                       《金光寺(久保)境内にある鹿島小学校発祥の地の石碑》

  久保の啓蒙小学校(金光寺内)では、久保・飯田・上蔵持・下蔵持の4村の生徒を預かり並行教育が行われました。生徒数 男14名、女2名の総計16名とあります。                                                          その後、幾多の紆余曲折を経て大正13年4月に1村1校が実現し、昭和9年10月に至って現在の鹿島小学校(鹿島町走熊)への移転改築が決議されました。 

                                   《鹿島神社(上矢田町)にある鹿島小学校発祥の地の石碑》

 ▲石碑は黒御影石で、どちらも同じ大きさ・刻字・形状で出来ています。

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銀杏で埋まる白山神社

2018-03-23 06:44:03 | Weblog

                              分類:観                                     鹿島町を見て歩こう㉓  

                                                                          《上蔵持地区》  いわき市鹿島町上蔵持字滝根 9                                                                      白山神社(旧・村社)                                                                                                                              祭神 白山比咩命(ひらやまひめのみこと) ・一名 菊理媛命(くくりひめのみこと) 

 旧・鹿島村全域の神社・寺・薬師堂・観音堂などを含めると30以上を数え、それらの殆んどは急斜面の石段を上った高台にあります。                                                       静寂な社に独り佇むと、古の住人たちが純真な心で神仏を崇高していたことに深く想いを馳せます。                                                                                                 《白山神社の本堂》                   延暦23年(804)の正月、坂上田村麻呂将軍が「蝦夷征討下向の節、村中安全の守護の神として勧請す」と、棟札に記載してあります。 弘仁2年(811)一村の鎮守の神として奉祀され、明治12年(1879)村社に列せられました。                                                                                                                                             《白山神社上り口》     《秋口になると銀杏の絨毯ができる》

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志賀直哉の家

2018-03-22 06:48:44 | Weblog

                                                 分類:観                                     鹿島町を見て歩こう㉒    《下蔵持地区》   いわき市鹿島町下蔵持嘉睦家15                                                          志賀直哉の家                                            志賀直哉は昭和の前半期に於いて鹿島の偉大な指導者でした。                                  昭和4年に村会議員になり、翌5年に助役となる。その後、村長になり2期8年間村政に傾注しました。 『一圓融合を提唱し、その精神はいまに継がれていますが、その志賀家の紹介です。                                                                                                  《農村振興に意を決して村のために貢献した志賀直哉の実家》

 昭和30年には下蔵持の如来山正福院に洋風の寺院と二宮尊徳翁100年祭慰霊塔を建立して、地元の人たちに限らず江名方面へ向かう人の目を見張らせましたが、残念なことに平成23年(2011)3月11日に起きた東日本大震災によって慰霊塔は崩壊してしまいました。➡関連ブログ ⑲

                                         《のどかな田園風景の中にある志賀家の全景=昭和40年代》

  志賀直哉〉 明治20年(1887)6月12日~昭和31年(1956)2月7日 享年71歳 矢田分校を本校へ統合して鹿島村尋常高等小学校を建設した=現在の、いわき市立鹿島小学校の校地。 県から農業経済指定村の指定を受け、農業振興に意を用いる傍ら潅漑用貯水池・堰の改修等に努力した。 更に毎月1日を道路愛護デーと決め、各ごとにこれを実施して道路の整備をした。

 

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如来山正福院蓮光寺

2018-03-21 06:52:18 | Weblog

                                            分類:観                                               鹿島町を見て歩こう㉑    《上蔵持地区》   鹿島町上蔵持                                    如来山正福院蓮光寺

 江名港⇔湯本線 (県道48号線) の道路沿いに 正福院 があります。                            高野山真言宗   本尊 弘法大師(寄木造り)                                         《如来山正福院蓮光寺》

 明治9年4月、住職の佐藤泰庵師が当時の磐前県令(県知事)村上光雄に提出した有住書上によると、創立は天正元年(1573)とあります。                        本尊は阿弥陀如来でしたが、昭和4年2月26日に発生した走熊大火に遭って、全てを灰燼に帰したのでした。翌5年に堂宇を再建し、6年8月に本寺遍照院(小名浜住吉)から薬師如来を本尊として頂き、入仏式を挙げましたが11年8月には裏山の土砂が流出して倒壊。30年9月に本堂を再再建したのが現在の建物です=写真。

                         《境内にある水子六地蔵》          《上蔵持のシンボルでもあった塔

※写真右は、昭和30年に志賀直哉(鹿島村当時の16・17代村長)が、福島県知事はじめ地方有志の協賛を得て建立された「二宮尊徳翁100年祭慰霊塔」ですが、平成23年(2011)3月11日に起きた東日本大震災によって倒壊してしまいました。                                    《正福院の落慶式に集まり、記念写真に収まったの人々=昭和30年》

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3回移転した鹿島郵便局

2018-03-20 06:51:49 | Weblog

                            分類:地                                    鹿島町を見て歩こう⑳   
                 《走熊地区》 いわき市鹿島町走熊小神山63-1 
   3回移転した鹿島郵便局                             鹿島郵便局は、鹿島村当時の昭和4年に村の中心地である大字走熊字坪下2番地に、走熊郵便取扱所を開設したのが始まり。職員は所長以下2名でその後、走熊郵便局(3等郵便局)と改称されました。                                                                                                      《鹿島街道沿いに開設した現在の、いわき鹿島郵便局》


 取扱所の開設当初は、郵便切手や収入印紙の売りさばきと郵便物の引き受け、為替や貯金の受払事務などで、取扱数も少なかったようですが、時代の変遷とともに電話の交換、電話の受付、発信、配達や簡易保険、郵便年金などの取り扱いも行われてきました。                                      それに加えて制度化した各種年金、恩給、郵便振替、国庫金の取り扱いや貸付事務などもあり、業務内容も複雑化してきてコンピューター等の導入を図りました。 


                      《走熊渡折に移設した頃の走熊郵便局》   《局舎前での職員たち=昭和23年》

 

 そういう中で現在では、住宅や各種事業所が益々急増してきている状況から、利用者の利便性と業務の効率性を考慮して局舎を旧道から鹿島街道へ移転したのでした。
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いちばん高い山は高照山

2018-03-19 06:47:17 | Weblog

                                              分類:観                                                  鹿島町を見て歩こう㉑      《走熊地区》    いわき市鹿島町走熊                              いちばん高い山は高照山                  鹿島町は地理的には小山が連なっており、その山間に田地田畑が広がっています。                 平と小名浜を貫く鹿島街道が出来た昭和40年代当初は、田圃のド真ん中を1本の道が突き抜けている状態でしたが、現在では田圃そのものが街道の周囲には見当たらなくなってしまいました。                  変わらないのが高照山(たかでらさん)の風景です。高寺山とも書きますが、海抜126メートルで鹿島では一番高い山、ということになります=写真後方の三角型の山がそうです。                        《鹿島ショッピングセンターエブリア屋上から見た高照山》

 高照山の山頂には、磐城三十三観音霊場の一つで、第17番札所の高照観音(本尊・十一面観世音)があります。                        

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圓福寺の歴代和尚の碑

2018-03-18 06:54:27 | Weblog

                                                                                                 分類:観            鹿島町を見て歩こう⑱    《上矢田地区》        常磐上矢田寺ノ作41                                               圓福寺の歴代和尚の碑                                                                                 平から鹿島街道を小名浜方面へ向かって行くと、若葉台を過ぎたところの左側に「圓福寺」な看板が見えます。                                                             曹同宗の金峯山圓福寺は地元の上矢田をはじめ、平、小名浜、その他近郊に多数の檀家がいます。  同寺は歴史が古く、いまのいわき地方を支配していた岩城氏は文明1~18年(1469~1486)、大舘城を大本家としておよそ48館を置き、その1つに中山館(旧・飯野村)がありましたが、中山領主に嗣子がなかったため大本家の岩城下総の守、常陸の2男を養子として迎え、中山讃岐守隆吉と名乗らせました。                                                                                                                                                                      《同寺の歴代和尚名が刻まれている石碑=墓地内

  隆吉の死後、跡目を継いだ隆朝(右衛門太夫)は、岩城大本家の菩提所である上荒川龍門寺大和尚の勧めで、天文23年甲寅年(1554)に居城を上矢田に移し、菩提所「大中山圓福寺」もまた上矢田の金ケ峯へ移して伽藍を建立し、隆吉の守り本尊であった十一面観世音を安置し、山号を金峯山と改めました。                                                                                                         また、同寺にある山門は寺誌によると、宝暦年代(1751~1764)に存在し、幅が9尺(約2m800)×8尺(約2m500)あり、現在の山門は昭和12年3月茅葺き屋根を瓦葺きにする際、復元されました。

                                                   《金峯山圓福寺の本堂と庫裡》

  金峯山圓福寺開山、大亭芳賢大和尚は永禄12年(1569)96歳でなくなりました。                        第32世(現住職)は、三田仙芳大和尚です。                                                                                                                                                                                                                                       《手前の道路が鹿島街道で、やや小高い場所に見えるのが圓福寺》

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小神山交差点

2018-03-17 07:08:41 | Weblog

                             分類:観                 
  
鹿島町を見て歩こう⑰      《走熊地域》 鹿島町走熊字小神山            
   小神山(こがみやま)交差点                                                                  鹿島街道の小神山交差点は、平⇔小名浜(県道26号)と江名港⇔湯本(県道48号)が交叉する場所で、ここを中心にどの地域へ行くにしてもほぼ同じ距離にあると云えます。                   この地域一帯は、昭和40年代まではまだ田圃でした。                                             小神山交差点から湯本方面の風景


 鹿島街道が開通すると、 沿線に忽ち各事業(商業)が進出してきて急速的な発展を遂げてきました。        車両が増え始めたのに伴い、当時(昭和54年)17時から18時までのⅠ時間にどの位の車両が通過するかを調査したところ、上下線合わせて1,656台であったという記録が残っています。                                       鹿島街道に3つある内の1つ、小神山地下歩道》 


 ちなみに、鹿島街道にある地下道は、若葉台地下道と、国道6号線と交わる十五丁目地下道(平)と、写真の小神山地下道の3つになります。 註 ・ 「鹿島街道」 と呼ばれるのは15丁目の交差点までといわれています。


 「鹿島商店事業所会」 が、平成元年に 「ネーブルシティー鹿島を設立し、地域の交流と社会参加に積極的な活動を行っていますが、このネーミングは 「鹿島はいわきの中心(へそ)となる町ですよ」 というメッセージが込められていて、大局的に見ていわき全体を指していますが、鹿島町そのものも地理的な側面から小神山交差点はネーブル(へそ)になっています。


                                                          


    

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