分類:歴 浜通りに於ける戊辰戦争の経緯 慶応4年(1868)1月に、鳥羽・伏見の戦いで始まり、西軍(新政府軍)は6月16日に茨城県平潟の沖合に軍艦3隻を配備した。西軍に敵対する奥羽越列藩同盟軍の指揮者でもある仙台藩が入港を阻止したが、当時の平潟は西軍に味方した川越藩の領地であったために、西軍は上陸を成功させ綿密な計画を立てた。 これにより、浜通り( 陸前浜街道) 一帯での戦いは一気に加速していった。 6月17日の九面(ここづら)〈勿来〉の戦いから始まり、7月13日夜の平城が落城するまで各地での激戦がが続いた。 《鹿島神社隣の華ノ木公園にある戊辰戦役砲台古跡の碑》
《福正院 (走熊) 墓地内にある戊辰戦没者の供養碑》
《松久須根の民家裏にある戊辰戦没無縁者霊供養塔》
《その経緯を日を追って辿っていくと次のようになる》
6月16日 西軍(新政府軍)の平潟(茨城)上陸。午前10時頃、西軍の軍艦3艘が姿を現 す。
17日 九面の戦い 東軍(奥羽越列藩同盟軍)は、平潟を奪い返そうとして2手に分か れたが、九面(現・勿来漁港)で激しい銃撃戦になった。
28日 泉城落城 泉城の南、剣浜などで激戦を制した西軍は、泉城の表門と裏門から 突入したが、すでに城内には誰もいなかった。
新田坂(しんでん)の戦い 西軍は新田坂から湯長谷城へ進軍しようとした が、東軍の激しい抵抗に遭い苦戦した戦場。しかし泉城より駆け付けた応援部 隊と の挟み撃ちが成功して勝利した。
29日 二ツ橋の戦い 東軍は戦いを有利に進めていたが、山上より西軍の大砲による 連続攻撃が始まると敢え無く退散。
湯長谷城落城 東軍の鉄砲隊が矢板坂で構えていたが、事前にそのことを 知っていた西軍は兵を二手に分け、正面と西側の両方向から攻撃し鉄砲隊を 湯長谷城へ進撃させた。
第1次磐城平城攻撃
7月 1日 第2次磐城平城攻撃
10日 七本松の戦い 東軍は、西軍の進攻を防ぐために、七本松附近の高台に砲台 を築いたが、西軍は地理・地形を巧みに利用し東軍を退却させた。
13日 田町の戦い
六軒門の戦い 六軒門は城を守る要の場所で、第3次磐城平城攻撃により激し い戦いが繰り広げられた場所だが、この門は最後まで破られることはなかった。
第3次磐城平城攻撃 東軍の拠点だった平城は、3回に亘って猛攻撃を受け落 城。
◎「鹿島,七本松と戊辰戦争」のシリーズは、今年で戊辰戦争150年を数える年でもあるの で、それに関する鹿島町の歴史について少し資料を齧(かじ)ってみました。