不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

鹿島の人物 箱崎源五郎

2009-02-28 07:37:15 | Weblog
箱崎源五郎(剣の達人)
  文政9年(1826)? ~明治33年(1900)3月10日 享年74歳

 鹿島町走熊にある天徳山福松院蔵福寺への入り口にある現在の世帯主、箱崎悦雄宅が剣の達人といわれた源五郎の生家である。(走熊字坪下1番地)

 源五郎は小野派兵法一刀流の門に属し、松本誠意軒を師とした。
 厳しい鍛錬を経て、同門12か条の兵法をすべて会得し明治8年1月には免許皆伝を許され、その証しに皆伝を書き記した巻物二巻を与えられて、その証拠の品や絵姿が同家に現存している。

 源五郎がなぜ武術に執心したかは判然としないのだが、死去した時の戒名が「武術院殿佳照箱源誠翁大居士」とあることでも、鹿島では著名な剣の達人であったことを如実に物語っている。


 本日の催し 2/28(土)
 鹿島ブックセンター  14:00~
 おはなし会 絵本の読み聞かせや、パネルシアターを行います。参加費無料
 
 いわき市暮らしの伝承郷 10:00~11:00
 「草餅作り」 ヨモギの入った餅を搗いて、美味しい草餅を食べましょう。
 協力・中央台鹿島のぞみの会の皆さん 旧猪狩家/参加無料(観覧料のみ)
 先着50名で材料がなくなり次第終了します。

 鹿島ショッピングセンター・エブリア2階 ギャラリーエブリア  時代着物・古布展示

 ギャラリー創芸工房(走熊)0246-29-3826
「ちっちゃな幸せー私のお気に入り展ーⅣ」☆入場無料
 市内始め茨城、石川、広島などの作家58人と2団体が合わせて約600点を出品している。
 陶や金属、ガラスなどを素材に制作した、ぐい呑み、豆皿、動物オブジェなどジャンルを超えた作品が並んでいます。

 

 

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島の人物 草野庫太

2009-02-27 07:14:22 | Weblog
 草野庫太(エピソード多彩な名物男)
  明治21年(1888)7月10日~昭和8年(1933)7月10日  享年45歳

 鹿島町船戸字八合23、草野朝次郎の長男として出生。
 庫太が25歳になった大正2年(1913)の時に、字の長老たちに推されて選挙に出馬するため役場へ届出に出頭した。
 ところが満年齢で数えると庫太は、その年齢に僅か2ヶ月足りず受理を拒否されてしまったのである。
 
「面子(めんつ)が丸潰れになった」「もう二度と出ない」などと怒り心頭に達して怒鳴り散らす庫太を、長老たちは大好きな酒攻めでその心を何とかほぐすことができた。
 酒豪でもあり、また新しいものには直ぐに飛び付くことでも村内で名が通っていた。常に他人の先端を行く人で昔的にはハイカラ、現代流ではナウイとでも云うのだろうか。

 大正10年(1921)に丸山公園(現在、鹿島公民館のある場所で当時は古墳形をした小山だった)に忠魂碑を建立することになり、三沢から基礎石材を運搬するために村長は青年団に協力を求めた。                    その時に庫太が音頭、指揮をとり若者たちの威勢を集結させ大役を果たした。

 鹿島街道に乗り合い自動車が走れば初乗りし、自転車が発売されれば直ぐに買い求め、大正の中頃にはドイツ製の高級小型写真機を購入し、乾板カメラで風物を撮影したりもした。

 絶えず自分の気の趣くままに世を過ごした人で、村議を一期勤めたことがある。
 しかし、病の胃潰瘍で若干45歳でこの世を去っている。
 生まれも死去も、同月日の7月10日であることがまた印象に残る。

  写真家の、草野日出雄氏は御子息です。


   本日の催し
 鹿島ショッピングセンター・エブリア2階 ギャラリーエブリア
 時代着物。・古布展示

 ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊) 0246-29-3826
 「ちっちゃな幸せ-私のお気に入り展-Ⅳ」 ☆入場無料

 市内をはじめ茨城、石川、広島などの作家58人と2団体が合わせて約600点 を出品しています。
 陶や金属、ガラスなどを素材に制作した、ぐい呑み、豆皿、動物オブジェなどジ ャンルを超えた作品 が並んでいます。



 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島の人物 荒川華関

2009-02-26 07:46:03 | Weblog


荒川華関(本名は忠治)  明治3年(1870)1月11日~昭和16年(1941)8月31日  享年72歳

 現在の鹿島町御代の荒川家に長男として生まれ、長じて吉田敦和や清水保から漢詩を学び、明治17年には住吉小学校の教師として迎えられ、一年ほど在職したが辞めている。

 岡倉天心らが日本美術学校を開校するといった時代的背景のもとで、忠治は絵を志向し、國井雲嶂や小林寒林に学んだ。
 勿論、美術学校に入校する憧れは強かったのだが、当時の営農家庭では経済的にも、農業継承の意味でも難しい面があった。

 しかし、忠治にとって絵は生き甲斐であり、ついに家郷を後に上京する。大正5年(1916)のことであった。
 松林桂月に師事し、南画展や日本美術協会展に関係する一方で作品を出品したが病にかかり、止む無く帰郷。家郷に身を置いても絵筆を捨てきれず、農閑期ともなれば、茨城県の渡辺小華の高弟、野沢白華を訪ね同家に寄宿して教えを受け、それまで翠山と称していたものを白華の門に入ったのを機に華関を名乗った。
 華関の号は「勿来関の桜花の華」を例えて付けられたとも云われている。

 大正15年(1926)、55歳の時に推されて鹿島村長となり、その村治の功が認められ、自治功労者として県知事表彰を受けている。

 昭和5年、泉村生まれの大平正男(華泉)と、鹿島村上蔵持生まれの橋本成之助(華崖)を内弟子にして画法と漢籍を伝授した。

 華関は、村長辞任後、土と絵筆に親しんでかなりの作品を世に出したが、弟子たちの大成を見ることなく病のため、72歳で生涯を閉じた。
 実に、画境と政治を両立させた人である。


 本日の催し  2/21~3/1まで
ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊)  0246-29-3826

「ちっちゃな幸せー私のお気に入り展ーⅣ」 ☆入場無料

 市内をはじめ茨城、石川、広島などの作家58人と2団体が合わせて約600点を出品しています。
 陶や金属、ガラスなどを素材に制作した、ぐい呑み、豆皿、動物オブジェなどジャンルを超えた作品が並んでいます。


  


 

 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島の人物 吉田正義

2009-02-25 07:36:22 | Weblog
吉田正義(鹿島小学校に46年間奉職) 鹿島村三沢(現・常磐三沢町) 
          文久3年(1863)3月15日~昭和23年(1948)7月7日  享年85歳 

 正義は、鹿島村民を46年間に亘って教育した篤実な教育者として、明治・大正時代に学んだ人々の心に今も深く刻まれている。

 三沢竹ノ花7番地に生まれたのは、文久3年だから江戸時代も末期で、4年後には明治維新が訪れる。
 幼い頃から学問を好み一時、松久須根の僧、雪心の寺子屋に学んだこともあるが殆んどは独学をもって学問を自分のものとした。
 明治5年学校制度発布されたのを機に小学校授業生の資格を取り、明治10年4月1日付で磐前郡矢田小学生長拝命、時の月給25銭であった。

 以後、一貫して教職にあり、しかも蔵持小学校へ転勤はしてみたものの鹿島村を離れず、ひたすら生徒教育に情熱を注ぎ、明治30年には矢田小学校長となった。
 
 大正11年、学制頒布50年記念に際し、福島県内の訓導4人を文部大臣が表彰した。 その中の一人に正義は選ばれた。
 帝国大学(現・東大)講堂で、大正天皇御来臨のもとに行われた表彰式へ参列して正義を、生徒たちは「くうじやま」まで送り迎えして師と共に喜んだ。
 この時の感想を、正義は大正11年10月29日付の時事新報へ次のように寄せている。
「私は文久3年に、鹿島村三沢というところに生まれ、明治10年4月、月俸25銭で雇生(こせい)を命じられ、以来在職45年6ケ月。村内の親、子、孫と三代に亘って教育した者が13組もあり、日曜日でも学校へ行かぬと落ち着きません」
 一徹で謹厳な教師であったのである。
 
 大正13年3月老齢を理由に退職するが、その頃、鹿島の村民感情、上下二分して村長を選任することが出来ず、県は止む無く正義をして官選村長に任じた。
 村にとって決して名誉なことではなく、正義は各をめぐって膝を交えて話し合い、そして後継者に荒川忠治(華関)を選んだ。

 官職を退いてからは、自宅で五どの日(五のつく日の休日)に近郷の青年20数名に論語とそろばんを教え、その傍ら和歌を創作していた。
 昭和22年、10日ほど床に就いて7月7日に不帰の客となった。

 正義七十七歳の時、教え子で且つ時の村長、志賀直哉らは鹿島小学校校庭に「吉田先生頌徳碑」を建立し、一代を鹿島村民の教育に捧げた翁の人徳を讃えた。

                       《鹿島郷土誌》より


 本日の催し    2/21~3/1まで

ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊) 0246-29-3826
「ちっちゃな幸せー私のお気に入り展ーⅣ」  ☆入場無料

市内をはじめ茨城、石川、広島などの作家58人と2団体が、合わせて約600点を出品しています。
 陶や金属、ガラスなどを素材に制作した、ぐい呑み・豆皿・動物オブジェなどジャンルを超えた作品が並んでいます。






 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島の人物 佐田雪心

2009-02-24 07:31:08 | Weblog
佐田雪心(絵を描く漢学者)  ?~大正15年(1926)10月7日 享年92歳 ※没日が10月8日になっている文献もある。

 雪心は生前、数多くの墨竹画を遺すと共に漢学者としても知られている。
  
 明治5年(1872)の学制発布後は神谷小学校の初代校長を皮切りに、大野・四ツ倉・飯野・赤井二小などの校長を歴任している。

 出身地は不明だが、越後出身とも云われており、早い時期には神谷(平)の一山寺の住職を経て、晩年に至って常磐松久須根(旧・鹿島村)の宝林寺二十六世住職になり、僧職に身を置く傍ら四季の墨竹を好んで描き出した。         
 
 その作品を所蔵する家庭は鹿島地区に今尚、多いのは周知の通りです。

 雪心は主に竹の情景や習性を素朴な筆によって描くのを得意としたが、中には動の蟹を描いた珍しい作品もある。

 常磐三沢町(旧・鹿島村)の吉田宅で所蔵する作品は、雪心が九十歳のときに描いたもので濃淡の妙や筆勢の起伏は実に見事なもので、「いわき」の画人として今の世になって改めて見直されている。

 松久須根の黒木宅には、雪心の襖画も残っていて春秋冬の景が描かれている。

 檀家一同は昭和2年旧、4月に宝林寺墓地へ二十六世住職としての単制無縫塔を建立して法要した。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島の人物 八代義定

2009-02-23 07:18:37 | Weblog
 いわき市鹿島町の先人には著名な人達が多数おります。
 郷土の発展に貢献した人は勿論のこと、県内外の専門的分野に於いても知名度が極めて高い人も輩出している。
 ここ暫らくの間は、そういう人物像を簡単明瞭に紹介していきたいと思います。

八代義定(考古学者)  明治22年(1889)5月7日~昭和31年(1956)9月25日 享年67歳
 
 旧、鹿島村御代の八代家に次男として生まれたが、長兄が病弱であったために彼は母を助けて家業の農業に従事した。悲惨な農業生活の中で諸々のことがあり、大正デモクラシーの波を身をもって享受した彼は、やがて平民社に出入りして幸徳秋水に傾倒したりもした。

 こうした動向が警察当局の思想取締りに触れて一時期、義定は当局の監視や尾行を受けるようになった。
 
 そうした揺れ動く思想彷徨の中で、詩人であり宣教師であった山村慕鳥をはじめ、吉野義也、若松せい(後の吉野せい)との出会いとなる。
 しかし、義定は確固たる自然観に立ち考古学の道に進んでいった。

 吉野せいは義定を知り文学観を一転することになる。
 思想的な文学書で埋まっていた義定の家に、せいは日曜日毎に小名浜から御代坂を越えて書斎に通い本を読み漁った。
 吉野せいの小説「道」に登場する「原さん」は、八代義定がモデルである。

 昭和22年、公職選挙法による鹿島村長に当選、同26年再選され、同29年町村合併の先鞭をつけて退職した。

 昭和27年に、福島県古文化財の研究と保存に尽力した多年の功績を讃えられて第一回福島県文化功労賞を受賞している。

 義定の「残丘舎(書斎)」では年一回、三猿会なるものを催し高木誠一(平北神谷)、根本忠孝(川前高部)の三人が集まり、考古学・民族学の研究が行われた。

 
  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クサッポ?の湯治場

2009-02-22 07:00:48 | Weblog
 今でも年輩の方で吹き出物(腫れ物・できもの)のことをクサッポという人がいるが昔は、そのクサッポができる人は多かったようだ。
 生活環境や栄養面、そして衛生上の問題などが関連していたのだろうと思うが、明治の頃に鹿島の松久須根(現・常磐松久須根町)にはクサッポの湯治場が実在していたことが、その地区の人の証言ではっきりしている。
 
 松久須根の滝ノ作入り口を流れる松久須根川に沿った山側に、茅葺き屋根の家が一軒建っていて川の近くに深井戸があり、そこから風呂まで水を汲んで運んでいたようだ。
 硫黄分の多い鉱泉でクサッポ(吹き出物)には良く効くことで人気があり、湯治場として入湯客が絶えなかったといわれている。

 現在ではクサッポで苦しむこと事態が珍しいことだが、当時としてはこの湯が近在近郷の人たちから親しまれていた。
 子供のヒビ、アカギレ、洟ったらし、クサッポは当然のように思われていた時代であった。

 いま行ってみると、跡地の面影は全くなく野菜畑と化していた。



  本日の催し物 2月22日(日)

 第3回企画展「注がれた愛情~お雛様と子どもの着物展」
    伝承郷所蔵の明治~昭和のお雛様約30組と、お宮参りや七五三で用いられた子どもの着物約120点を展示されます。 いわき市暮らしの伝承郷

 「ひな人形作り」 10:00~12:00 いわき市暮らしの伝承郷
    折り紙を使って、優雅で素敵なおひな様を作りましょう。
    指導者・高橋政雄さん  休憩コーナー/材料費100円
                先着30名 ※開始5分前の集合となります。
                   


  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人の命と判決

2009-02-21 07:22:31 | Weblog
 東京都江東区の女性(当時23歳)が殺害された事件で、同じマンションに住むH被告(34歳)に東京地裁は無期懲役の判決を言い渡したのは18日。
 
 私の推測に反して「死刑」は免れました。勿論、私は殺人者全てを死刑にせよとは云う積りはないが今回の判決には何か釈然としないものが心に残ります。

 つまり判決の主だった内容から云うとこうなのです。

①被害者が一人で計画性がなかった。(衝動的な殺害)
②死刑は人間存在の根源である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な極刑であり云々。
③被告は、前科前歴がなく、職に就いて一定の収入を得るなど・・・
④被告は拉致した後も2時間以上にわたり、当初意図していた強姦はもとより、わいせつ行為にすら至らなかった。

 判決要旨を一見しただけでも、このような文字が目に飛び込んできました。

 そこで私の主観的な意見としては、こうなります。

①あくまでも強姦が目的で、周囲が騒がしくなったきたから証拠を無くすために止むを得ず殺害した。ということなのでしょうが命を落とされる人の恐怖感たるや、現実に直面した人でなければ推し量ることは困難だと思います。しかも相手は女性です。

②犯罪者を死刑から護る文言になっていますが、これでは殺される人はいつも「殺され損」になってしまい、なによりも第一に殺されていった人の生命の尊さを優先させるべきだと思います。

③被告の前科前歴は関係ありません。被害者の頸部(けいぶ)を一突きに刺し、細かく切断して遺棄した者を、初犯だからとか、深く反省しているなどでは減刑の根拠にして欲しくないと思います。
 マスコミでは取り上げませんでしたが、現代の猟奇事件にあたります。

④被告は拉致した後も2時間以上何もしていなかったというが、被害者にとっての2時間は気が遠くなるような時間であった筈です。


 5月から裁判員制度が始まる中で、市民が「死刑か、無期懲役か」を迫られてきた場合の判断は誰もが迷うところではないでしょうか。



  本日の催し 2月21日(土)

 あそびのあしあと作品展   場所:鹿島ショッピングセンター・エブリア2階
   カワイ絵画造形教室福島事務所が、いわき地区の生徒の作品を展示します。 入場無料。


 ひな人形作り  10:00~12:00 いわき市暮らしの伝承郷
   折り紙を使って、優雅で素敵なおひな様を作りましょう。
   指導者・高橋政雄さん 休憩コーナー 材料費100円
              先着30名 ※開始5分前に集合してください   





 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島村の歴代村長名

2009-02-20 07:21:42 | Weblog
代位    姓名    住所   就任  退職    摘 要

初 代 佐原久次郎   御代  M22. 7.30 M23. 5.16
二 代 山口  入   上蔵持 M23. 5.15 M31. 5.16   三・五・七代
三 代 高萩 祐七    米田  M31. 5. 1 M35. 5.16
四 代 志賀 林弥   下蔵持 M35. 5. 1 M37. 4.22
五 代 山口  入    上蔵持 M37. 4.23 M42. 7.15
六 代 荒川 吉松   御代  M42. 7.16 M44. 8.21
七 代 四家 重吉   三沢  M44. 8.22 T 4. 9. 3
八 代 志賀久左エ門  下蔵持 T 4. 9. 4 T8.11.23
九 代 鈴木 大蔵    久保  T 8.11.24 T10.11.28
十 代 鈴木總次郎   上矢田 T10.11.29 T13.12.
十一代 鈴木 大蔵    久保  S 5. 2.18 S 9. 2.17
十二代 鈴木總次郎   上矢田 
十三代 吉田 正義   三沢 T14. 1.15 T15. 1. 7 県知事発令の官選村長
十四代 荒川 忠治   御代 T15. 1. 8 S 5. 2.17 画家荒川華関名で有名 
十五代 鈴木 大蔵   久保 S 5. 2.18 S 9. 2.17
十六代 志賀 直哉  下蔵持 S 9. 2.18 S17. 3. 2 尊徳精神の一円融合を村
十七代 志賀 直哉  下蔵持             是とする
十八代 鈴木 一男  上矢田 S17. 3. 3 S22. 4.30 農地改革で自ら徳を示す
十九代 鈴木 一男  上矢田
二十代 八代 義定  御代 S22. 5. 1 S28.10. 9 初の公選尊重。考古学者
二十一代 八代義定  御代

  ※昭和28年10月10日、小名浜町と合併となり村長職はなくなった。
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島の、いろは

2009-02-19 07:34:58 | Weblog
   【鹿島村の誕生】
 明治22年4月1日付で町村制が実施され、それまでの戸長制を廃止して町村長を置くことになった。
 このとき相隣り合う12の村落が一団し「鹿島村」が誕生した。

 磐城・磐前・菊田の三郡が合併して石城郡(いわきぐん)としたのは明治29年4月1日である。
 磐城郡にしなかった理由として、合併郡の中に「磐城郡」が存在していたので他のニ郡が、吸収合併される印象を与えるからだとも云われているが、これは昭和41年10月1日に14市町村(5市4町5村)が合併した時も、「いわき市」の市名を決める過程において「磐城市」としなかったのは、5市の中に磐城市名があったからだというところからみると、名前の付け方については類似している。

   【住居表示の変遷】
 磐前県磐前郡○○村字○○ 番地
 福島県磐城国磐前郡○○村字○○ 番地
 福島県石城郡鹿島村大字○○字○○ 番地   *明治22年 4月 1日~
 福島県磐城市小名浜町大字○○字○○ 番地  *昭和29年 3月31日~
 福島県いわき市鹿島町○○字○○ 番地    *昭和41年10月 1日~

   【鹿島の位置】
 旧、鹿島村役場が置かれていた現在の、鹿島町走熊字坪下1番地を標準とした経緯線上に於ける位置は次のようになる。

   東経 140度54分44秒2
   北緯  36度59分38秒7

   【地勢・地質】
 鹿島には山が多いが高い山はなく、最も高い高寺山(走熊)でも海抜128・1メートル。
 耕地や宅地として利用しているところの高さも、海抜10メートルから30メートルぐらいの比較的低地帯である。
 川で最も長流なのは矢田川で、これは上矢田のオソ沢を源として鹿島地区を貫流し、南富岡に至って藤原川と合流する。
 鹿島地区には矢田川に合わさる比較的距離の長い川が二つある。
 一つは松久須根川。もう一つは上蔵持の鈴ノ沢より発する蔵持川である。

 田園の地質は、有機質の腐植物が混じった粘土質(ヘドロ)で大方、米作に適し山地は水成岩が多い。
 地層を大まかに見ると、船戸川以北は本谷層(泥岩)だが以南は三沢層(砂岩)に属している。



   本日の催し
  いわき市暮らしの伝承郷

 葛(くず)づるで素敵な、かごを編みます。
 指導者:水野澄江さん(遠野町) 旧猪狩家/材料費500円(観覧料は別途)
     10:00~15:00 予約受付は終了しています。

 暮らしの木曜講座 13:30~15:00  10回目
  ★古文書に書かれた庶民の暮らしを読み解きます。
     講師:小野佳秀さん(いわき暮らしの伝承郷館長)
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

折角、購入した本なのに

2009-02-18 06:32:50 | Weblog
 昨年までは、整形外科と内科を合せて月に5,6回あった母の通院も今年からは内科だけの月1回で済むようになった。
 
 昨日は、その通院日。
 受付から母の名前を呼ばれてカルテを貰いにカウンターに行くと、後ろから私の肩を叩く人がいるので振り向くと姪っ子のAちゃんではないか。
 「受付でお婆ちゃんの名前が呼ばれているからびっくりした」と寄ってきた。
 病院では毎回といって良いくらい知人、縁故、近くに住む人に出会う。

 86歳になる母は、そういう人を見つけると非常に喜ぶ。検診までの時間の話し相手として格好の対象になるからだ。
 また、相手の人も急に満面の笑みを浮かべて母の元にやってくる。
 それだけ皆が待ち時間の長さに辟易している訳だ。
 
 当の患者自身が時間を持て余すのだから、付き添いの私など退屈この上、極まりない。
 母を車椅子に乗せて病院での受付から薬局で薬を貰うまでの時間を含めると、殆んど一日を費やしてしまう。
 待合室は相変わらずの盛況?で検診の順番が回ってくるまではほど遠い。    
 私はいつも、なんらかの本を片手に持って行き退屈しないようにしている。
 昨日は、山口瞳の「還暦極楽蜻蛉」を持参して行ったのだが、帰りに車椅子の後ろにある物入れの中に入れたまま忘れてきてしまった。
 慌てて戻ってはみたものの既に本はなかった。

 実は、この本は1991年に発行されたもので、私のブログのタイトルと同名だし還暦はとうに過ぎてしまったが何となく興味を惹かれたので、わざわざ香川県の古書店から取り寄せたものだった。
 読了したものなら諦めもつくが途中だったので残念でならない。

 心の中に風穴が空いたような虚しい一日になってしまった。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴れた日の雨傘

2009-02-17 07:34:22 | Weblog
 日本マクドナルドは、昭和46年に営業を始めて、12年間で年間売り上げ1千億円を達成した急成長会社ですが、こんなに日本でハンバーガーが売れるようになると考えている人は当時、周囲に一人もいませんでした。

 売り上げがまだ60億円だった頃、社長の藤田田さんは融資を受けていた銀行の常務に呼びつけられ叱られました。
「きみ、どんどん店舗を増やしているようだが、いい加減にしたらどうか、ハンバーガーなんて良く売れてここら止まりだよ」
 藤田さんは反論した。
「いえ、私は1千億円売り上げる日は遠くないと思っています。西暦2000年には5千億円にしてみせます」
「馬鹿なことを云うな、これ以上拡張する積りなら危なくてウチは融資できないからね」
「そうですか、それでは貸していただかなくて結構です」
 売り言葉に買い言葉、本当に藤田さんはその銀行との取引ををやめてしまいました。
 
 2,3年して売り上げは5百億円を超えました。
 すると、その常務のほうで飛んできました。
「藤田さん、ぜひウチから借りて下さい。いくらでもご融資申し上げます」
「いや、間に合っています。貸してくれるところはいくつもありますので」
「まあ、そうおっしゃらずに・・・」
 常務は食い下がる。藤田さんは突っぱねる。

「だって、あなたはハンバーガーなんて危なくてだめだ、と言ったじゃありませんか」
 
 常務は、しょんぼりした様子になりましたが、やがて言いました。
「そんなことを云うくらいだから、私は銀行に勤めているのです」
「・・・」
「銀行屋というのは、その程度なのです。あの時に藤田さんの仕事の将来が正しく見通せるようだったら、銀行なんかに勤めずに、もっと気の利いたことをやっていますよ」

 面白いことをいう人だ。と藤田さんは思い、つい、その銀行と取引を再開する気になったということです。

 藤田さん自身が書いた本に出てくる話です。

年2回発行の、鹿島小中学校昭和29,32年度卒業生による『同級新聞』から、昨日と本日は再掲しました。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親切が仇になる?

2009-02-16 07:31:56 | Weblog
 日本は高齢化社会に突入したと云われて久しいが、これに纏わるエピソードを身近に起こったことを話そうとするだけでも枚挙に暇がありません。
 
 川崎に居た頃の話です。
 比較的、混んでいたバスの中で座席に腰掛けている女子高生の前に、これは私の推測ですが70歳前後のお婆さん(そう思うこと事態がまずい?)が吊革に手を伸ばして立ったのです。
 女子高生は、すかさず座席から立って「どうぞ」と声を掛けました。
 側にいた私は何んと微笑ましい光景なのかと思って感心しましたが、この後が非常に気まずい雰囲気が漂う状況に陥りました。
「私は未だ他人に席を譲って貰うほど歳はとっていません」と言って、いかにも不愉快そうな表情をして断ったのです。
 
 断った女性(誰が見てもお婆ちゃんに見えますが)も傷ついたでしょうが、席を譲ろうとした女子高生は、もっともっと心を痛めたと思います。
 「小さな親切、大きなお世話」などと冗句では言いますが現実に、このようなことが私の目の前で起こり得たのです。

 川崎市では70歳になると市バス(私バスを含む)の全路線無料パスが支給されます。
 もし、あのお婆ちゃんが無料パスを貰っていて老人として甘んじている一方、世間では「私は年寄りではありません」と主張してみせる行動だとしたら実に矛盾した話ではありませんか。
 勿論、プライドもあるでしょうが人は誰でも今日、只今から年寄りになりましたという自覚はありませんから例え70,80歳になっても本人にしてみれば少なくとも人前では、まだ年寄り扱いにされてたまるかという気持ちが心の奥底に常にあるのかも知れません。
 
 私は晩婚でしたから40歳をとうに越してから子供に恵まれました。
 その息子が3歳の頃でした。
 川崎大師公園に散歩に連れて行ったときに、ベンチに腰掛けていた老人が楽しそうに遊んでいる息子に「いいねえ、お爺ちゃんと一緒で・・・」と声を掛けているではありませんか。
 そして私に向かって「それにしても、よく似てますねえ、そっくりじゃないですか」と言いました。
 その人は決して悪気があって言っているのではありません。父親の私を勝手にお爺ちゃんと思い込んで喜ばせてあげようと思ってのセリフなのです。

 私は否定も言い訳もせずに、笑みを浮かべながら会釈をしました。
 無邪気に遊んでいる我が子に、いつ「お父さーん」と呼ばれるのかと心臓が止まりそうな思いをしながら・・・。

 言葉使いの難しさを、つくづく考えさせられる経験をしました。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島の担い手、鹿地振協

2009-02-15 07:23:21 | Weblog
 タイトルに鹿地振協と書きましたが実際には「地区振」の愛称で呼ばれている「鹿島地区地域振興協議会」のことを指しています。

 平成6年の誕生ですから設立以来、優に20年を経過したことになります。
 平成6年というと、ダイエー(現・ヨークベニマル)、エブリアいわき店が鹿島町米田に進出してくる前年でした。

 当時、国内での社会情勢を見てみますと
  ●関西国際空港開港
  ●松本サリン事件
  ●製造物責任(PL)法が成立
  ●大江健三郎氏にノーベル文学賞
  ●村山連立内閣成立
 などがあった年でもありました。

 それ以前の平成元年に、商店事業主の鹿島地区を考える有志によって「ネーブルシティーかしま」が設立されていましたから、地域住民との交流と各種イベントに対しての相互協力などで合致し、鹿島街道周辺は一気に目覚しい発展を遂げてきました。

 鹿島地区地域振興協議会の設立目的は、鹿島地区を愛する人々が「互敬と強調」の精神のもとに集い、地域の調和ある発展に寄与するとともに、地域住民の誇れる郷土づくりに貢献することを目的とする。とあります。

 従って、活動内容も、実践活動等(イベント実施など)、他団体との交流、先進事例視察(国内)、会報の発行が主体で、活動事例を挙げると
 
 1 環境委員会 河川の草刈清掃と鹿島千本桜運動(土手への桜の植樹)
           地下歩道の清掃
 
 2 公共施設委員会 通学路や道路標識の改善検討
              公民館隣地広場の利活用計画の検討
 
 3 史跡委員会 史跡七本松の保存整備
           「いわき鹿島史跡探訪」の開催

 4 福祉委員会 「鹿島ふれあい福祉まつり」への参加
           「鹿島ふれあい訪問」への参加

 5 広報委員会 「振興かしま」の年2回発行

                          初代会長 小野久太郎氏
                          二代会長 八代吉時氏


 本日の催し
 《いわき市暮らしの伝承郷》2月15日(日)
  第13回キッズ民話語りの会  13:30~15:00


 

 
    

 

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唄で覚えた地名

2009-02-14 07:36:22 | Weblog
 大津絵(追分絵ともいう)は元禄(1688~1704)頃に大津の追分辺りで売り出されたのが始まりで江戸末期には、それが流行して全国各地でその地の名所名物を読み込んで替え歌が作られ大津絵節とともに広がっていった。
 特に江戸時代には大津絵だけでなく庶民の間では、会話の中で洒落や冗句を取り入れて地名を覚えていったようです。
 「恐れ入谷の鬼子母神」とか「その手は桑名のハマグリ」などが、その一例。
 旧鹿島村においても地名や名所旧跡を織り込んだもので明治の頃に大津絵節の旋律に合わせた唄が作られています。
           作者は当地の漢学者・吉田正義といわれる。

軍次(くうじ)山から 熊が出て
矢田らに走る 走熊
名所七本松 後にして
久保みて通れば 金光寺
船も着かぬに 船戸という
それより御代の 大仏様拝みつつ
御代坂越えれば 岡小名で
向こうに見ゆる 遍照院
大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院

夕暮れに 小名浜を立ち退いて
水押し上(うわ)って 後にして
東の法華寺 拝みつつ
西の山田湯場 横に見て
御代坂登って 大仏様遥拝し
それより船戸 岩薬師拝みつつ
久保の里屋橋 通りぬけ
名所七本松 後にして
走熊へと さしかかる
次は 下矢田 上矢田で
郷社鹿島神社に参拝し
それより進めば 軍次山
越せば 上荒川と谷川瀬で
平町 日光町に着きますよ

三沢の里へも 一度はおいで
名所古跡もありますよ
磐城七門一の向かいに
三沢の館あとあり
その上に 八幡公の陣どりし跡に
八幡神社の祭りあり
それより西の作に 宗任貞任の石碑あり
この作を 霊墓(おきはか)作という
その上に 母の小屋掛けせし山を
小屋の山という
その下に 母の祈願所 薬師堂
それより奥を 花見平という
昔 平の城主 安藤信正の
花見せし所とか
越して小名浜海上眼下に見え
眺望すこぶる絶景なり
それより西に下れば
小野谷村に 程近し
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする