いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき市鹿島町を歩こう77

2015-09-30 06:57:58 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  77
   杉社神社を囲む大樹林   所在地 : いわき市鹿島町下矢田字大作138

 鹿島街道から「タックルベリーいわき店(釣具屋さん)」の脇道を通り、矢田川の橋を渡って200mくらい行った所にこの大樹林があります。

             二俣になった道を覆い被さるような大樹林
 これらの大樹は、平成18年12月15日に、いわき市の保存樹林等指定(指定番号 樹林23)になっています。

  -保存樹林等指定標識-
 暖温帯照葉樹林の北限地域にあるいわき市では、地域的に温暖な場所の社寺林は信仰上人手が入るのを避けると極限としての暖葉樹の自然林になります。
 真浄院境内は矢田川沿いの南に開く地形から海風がほどよく入り、スダジイ・カシ類、北限のヒイラギ・ヤツデがよく生育します。花季には植生遷移前段階の陽樹ヤマザクラが見事に開花します。
 市街地に近く、緩衝緑地域、景観緑地として都市環境維持の役割を担っています。


           大樹林に囲まれている杉社神社の赤鳥居

 杉社神社の祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこのかみ)で、神殿に保存されている棟札からすると東山天皇の御代の元禄8年(1695)当時、別当の杉社山長寿院真浄寺(院)の僧堅海が宮司を兼ねたいました。
   
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いわき市鹿島町を歩こう76

2015-09-29 09:45:36 | Weblog
                                          分類 : 歴
    いわき市鹿島町を歩こう    76
 無名戦士の墓 (戊辰戦争)          所在地 : 福正院
                                       いわき市鹿島町走熊字坪下28

 慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、西軍(新政府)の勢い止まるところを知らず、次第に江戸から東北地方へ向けて進行してくるようになります。

               《名もなく戦死者数だけが刻まれている仙台藩士の墓石》

 その後の平城陥落までを簡単に日付を追ってみることにします。

 6月17日(水) 関田(勿来)近辺で戦闘。
   18日(木) 新田山(渡辺町)で戦闘。
   29日(月) 湯長谷藩が陥落。
    〃      小名浜・二ツ橋で戦闘。
 7月10日(金) 7本松(走熊)で戦闘。
   13日(月) 平城がついに落城。 △11~13日まで戦闘状態が続いた。


                  《訪れた人に手向けられた野花が痛々しい》

 七本松地点にも砲台を設けて熾烈な戦いが行われたが、西軍は矢田川の中を密かに進んで台場の直前に出るという奇襲作戦を取り、有利な戦績を残すことになります。
 不意打ちを食らった平・仙台藩の兵は戦況不利の憂き目に遭い、仙台兵は江名港へ敗走、船で逃亡したということになります。しかし、この戦いにより絶命した兵士が五名おり、粗末な墓碑には名を刻まれることもなく福正院の一角に、身を潜めるように存在しています。
 旧鹿島村役場跡入口の左側細道を上り切った高台に、明治15年に建立された 「仙台藩士五名戦死」 の碑がそうです。


                         《福正院の正面》
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いわき市鹿島町を歩こう75

2015-09-28 08:16:42 | Weblog
                                           分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    75
    御霊(ごれい)神社 旧村社        鎮座地 : いわき市鹿島町久保字木船37

    祭神 久那斗命(くなどのみこと)
        八?比古命(やちまたひこのかみ)=男神
        八?比賣命(やちまたひめのみこと)=女神 
        藤原冬嗣命=女神
    祭礼 5月5日


                            《御霊神社》

 本来、久保村の祭神として村内安全の神様(村社)でしたが、現在ではいわき市鹿島町となっているので久保地域の神様ということでしょうか。
 古来、木船の地に小祠があって、村の祭神として村内安全の神である「くなどのみこと」「やちまたひこのみこと」「やちまたひめのみこと」が祀られていました。明治14年に郷社「鹿島神社」の氏子を去るようになり、小祠御霊神社を「久保村一村鎮守」に築造替えすることが決まり、翌年4月に神殿、拝殿が建立されました。
 この時、従前の三神のほかに藤原冬嗣之霊魂も奉請しました。


                 《5月5日の祭礼には神社入口に幟が立つ》

 左側に見える建物は、金光寺です。

                  《久保の二俣入口に設けられた飾り物》 

 毎年、5月5日に行われる祭りの故事に則った作法で、神様を迎える道案内役と、地元や近隣の人たちに祭礼を知らせる効果もある。
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いわき市鹿島町を歩こう74

2015-09-27 07:06:44 | Weblog
                                           分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    74
     無くなった江名口トンネル         場所 : いわき市鹿島町上蔵持字江名口

 鹿島ショッピングセンター(エブリア、ヨークベニマル)前の県道48号(江名⇔湯本線)を海側に向かっていくと、暫くして右側に新常磐交通(株)の中央営業所や小名浜カントリーが見えてきます。
 その少し先が、昭和40年代まで江名口トンネルがあった所です=写真。


                  《トンネルが取り壊されて明るくなっている江名口》

 現在では切り通しになっていて、2車線の舗装道路になっていますが、昔は雨が降ると泥濘(ぬかるみ)、たまたま用事があって帰るのが遅くなり江名・豊間方面から鹿島に帰ってくるには一寸先が闇で、暗さと恐さで身の毛がよだったと体験者が語るのを、子供の頃(昭和30年前後)によく聞かされたものです。

           《鹿島から江名へ出るにはもう1つの大沢トンネルがある=現存》

 このトンネルを抜けて坂を下って行くと県道15号(小名浜⇔四倉線)に突き当り、すぐ左側に合磯(通称・かっつぉ)トンネルがあります。
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いわき市鹿島町を歩こう73

2015-09-26 07:01:37 | Weblog
                                          分類 : 地
 いわき市鹿島町を歩こう    73
    矢田川の治衛門堰(せき)跡         場所 : いわき市鹿島町久保1

 矢田川と蔵持川が合流した地点から約100メートルほど下流へ行った所に、かつて治衛門堰と呼ばれていた堰場がありました=写真。
 推定で樹齢300年は経っていると思われる1本の黒松が土手に生えており、まるでそれが堰の目印のようでした。昭和53年に河川工事に支障が出て伐り倒されてしまい、堰自体も姿を消しました。
 その堰が存在していたという事実を、上下写真で比較してみると唯一手掛かりになるのは遠方の三角形をした山(走熊地区の高寺山)の位置で確認できます。下の写真では分かり難いかと思いますが中央部分に僅かに三角形をした山が見えるのがそうです。


               《昭和27年、コンクリ-ト造りになった当時の治衛門堰》

 久保邨(村)は昔から天然水が不足して、所有耕地が常に水不足に悩み、水田が作付け不能になる事がしばしばありました。
 30数町歩(約9,000坪)の耕地が水不足のために田植も出来ず、また潅漑水も需要期に不足する状況に見るに耐え兼ねた治衛門は一念発起し、己の考えを実行に移してその結果を見ようと耕地の高低を考えたうえ、一番の要所に自力で柴堰を築き上げ堰き止められた水を耕地に潅漑水として引き入れ、それが見事に成功し、久保の田圃は稲作に適するようになりました。
村人たちはこの偉業を讃え、堰の名を治衛門堰と呼ぶようになったのだという口伝が残っています。


                 《面影さへ残していない治衛門堰のあった矢田川》

 
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いわき市鹿島町を歩こう72

2015-09-25 07:03:48 | Weblog

                             分類 : 地
 いわき市鹿島町を歩こう    72


      かしま病院          いわき市鹿島町下蔵持字中沢目24
    鹿島病院は地域の医療、福祉を通じて大きな貢献を果たしています。
 社団医療法人の理念でもある 「地域医療と全人的医療の実践」 と、開業時から頑なに守り通してきている医師たちのキャッチフレーズ 「やさしさと安心の医療」 が、地域住民は勿論のこと、近郊近在の厚い信頼を居るのだと思います。


           《鹿島街道の旧道に面している、かしま病院入口》

 かしま病院は、社団法人 「養生会」 をもとに運営・維持されている一端で、他に 「クリニックかしま」 「特別養護老人ホームかしま荘」 など、医療内容は多岐に亘っています。

               《鹿島病院の正面》

 タクシーの運転手さんが、鹿島方面のお客さんを乗せて行き先を訪ねると、まず 「かしま病院」 を基準にして、そこから真っ直ぐとか左折するとか指示されるのが多いと聞いた事がありますが、これはいかに地域に根を張った医療機関であるかを如実に物語っていると思いました。

            《併設のクリニックかしまの全景》

 今後も医療ニーズが高まる、高齢者福祉の発展のためにも、更には鹿島地域全体が活力ある町の牽引車になって欲しいという期待を込めて、今日は 「かしま病院」 を紹介しました。

   《社団法人 養生会》関連施設  かしま病院・クリニックかしま・特別養護老人ホームかしま荘・か しま訪問看護ステーション・かしまヘルパーステーション・郷ケ丘訪問看護ステーション

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いわき市鹿島町を歩こう71

2015-09-24 07:06:08 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    71
    平藩の殿様が泊まった家     所在地 : いわき市鹿島町下矢田字前原

 口伝によると、平の殿様(年代を確定する資料はない)が下矢田の名主、園部家に一泊することになった。
 事前にそのことが下知されて、一泊するから殿さま専用の通用門を建てる事、殿様の泊まる部屋の続き間に槍を立てておける高さの部屋を用意する事、殿さま専用のかわや(トイレ)を1間(約2メートル)四方の広さに造り、その中と、かわやへ通ずる廊下には畳を敷く事、などの準備を求められた。


         《建て替えられてはいるが、原形を保持している殿様のために作られた門》

 殿様は途中、獺沢(オソザワ)の長瀬家に寄って休息してから薗部家へ向かった。薗部家の土産として「たらよう」の木1本と「白もみじ(カエデ)」1本を贈り、更に書き物1枚を与えた。
 その後々になってから昭和21年、昭和47年の家屋大改造では殿様の泊まった部屋と槍部屋は現状保存を行った他、殿様の通った門は同じ形で建て替えられた=写真上。


                   《真浄院の墓地から下矢田前原地区を望む》
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いわき市鹿島町を歩こう70

2015-09-23 06:58:27 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    70
   専称寺観音堂の子安観音         所在地 : いわき市常磐松久須根町

 子安観音は像高約1メートル30センチほどあるが、台座と尊像の石質が全く異なっています。
 台石が松久須根石で、尊像は荒川石を使用しているのがその理由だが、口伝によると元々は松久須根石で彫像した地蔵尊だったが、明治初年のころに村の若者たちが、地蔵尊を肩に担ぐ力比べをしていたそうです。
 何人かがそれを競っている内に、ある1人が肩近くまで持ち上げたが重さに耐え兼ねて落としてしまったために地蔵の首が割れてしまいました。


                    《ご難に遭った後の子安観音さま》

 かなりの重量があるので所詮、肩へ担い上げることなど無理だったのですが、昔の若者は腕自慢や力自慢を競い合ったようです。
 その後、ご難にあった地蔵の所在が分からずじまいでいましたが、境内の土中に埋まっていたことが判明し掘り出されました。
 首から折れた頭の部分が見つからないと言われていましたが、現在では写真のように全身体が揃って、新しい台座で安らかな顔を拝むことが出来ました。


                  《子安観音は、この専称寺観音堂の一角にある》

▲あくまでも推測の範囲内から脱しないが、口伝の「明治初年の頃」というのが気掛かりで、この頃の時代背景から考察すると、廃仏毀釈によって全国で仏像・仏具の破壊運動が起こった時でもあるので、もしかすると、このお地蔵さんも首が落とされてしまったのではないのかとも思えたのですが、これは単なる下種(げす)の考えなのでしょうか?
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いわき市鹿島町を歩こう69

2015-09-22 06:44:12 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  69
    弓形になったケヤキの巨木   所在地 : いわき市鹿島町飯田字前

 樹齢ははっきりしないようだが、飯田地区の永井氏宅に4代前の先祖の頃から、目通り約3メートルほどの幹の太さがあるケヤキ(欅)があります。
 今も庭園に枝葉を出してその健在ぶりを誇示しているが、これは樹木の歴史を語るのみでなく弓型になっった造形的な美の観点からも圧巻で珍しいケヤキとされています。


      《人為的に盆栽のように手を入れて育てたとしたら、時代はもっと遡る

 自然形なのか、あるいは人為形なのか興味をそそらされるところです。
 このケヤキには同家の誇りとなるエピソードがあり、長い間の語り草になっていました。それは大正時代のことだが、平のある富裕家の主人が一目見て気に入り「この木を自宅に移植したいが、もしそれが可能ならば田1反歩(約300坪)と交換したい」と切望したそうです。


        《 ケヤキの原型はこのようになっている = 昭和54年頃
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いわき市鹿島町を歩こう68

2015-09-21 06:52:25 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  68

               鹿島ショッピングセンター(エブリア、ヨークベニマル)
               所在地 : いわき市鹿島町米田字日渡5 
   鹿島ショッピングセンター屋上から四方を眺望

 鹿島ショッピングセンターについては、当ブログの8月25日付 (№41) を参照して頂くことにして、今日はその屋上から鹿島の周辺を眺めて欲しいと思いシャッターを切りました。

 遠方に見える三角型をした山は、走熊にある高照山 (たかでらさん) で、頂上に磐城三十三所観音霊場の第17番札所があるところです。=高照山観音の詳細は、当ブログの7月23日付(№8)参照。
 中央の白い建物は 「ひまわり信用金庫鹿島支店」で、赤い屋根は 「鹿島小学校」の体育館。


 鹿島ショッピングセンター西口駐車場と米田地区の一部が見えます。ここからは見えませんが家並みの先に県道48号線があり、右側が江名方面で左側が湯本方面。
 少し左へ行くと、国道6号線のバイパスが走っています。


 写真中央から流れてくるのが蔵持川で、手前の矢田川と合流している場所から家具の 「東京インテリア」方面を望む。上流の最初に見える橋が鹿島街道。
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いわき市鹿島町を歩こう67

2015-09-20 07:04:34 | Weblog
                               分類 : 歴

 いわき市鹿島町を歩こう    67
   しゅみごん桜       所在地 : いわき市鹿島町船戸字反町

 久保の磨崖仏 (いわき市指定史跡) を境にして、久保と船戸地区が分かれていますが、その磨崖仏の船戸側にしゅみごん桜があります。
 二代目桜ともいわれているが、目通り周囲3メートル、枝張り東西23メートル、南北16メートル、樹高約20メートルに達する山桜です。


 昔から、この山桜を何故しゅみごん桜と呼ばれているかというと、根本にある岩石に2体の仏像が彫られて祀られているからです。地元では 「しゅみごん様」 と呼んでいて、桜はこの権現のために植樹されたものと解されています。
 岩肌に大きく聳え立つ巨木の山桜は正に神木といえます。



 しゅみごん様とは、須彌権現(しゅみごんげん)をいい、崇高な高山を意味するようで、それが神として現れた姿を指しています=仏説。
 「しゅみごんげん様」 ではなく 「しゅみごん様」 と言われているのは、呼び易さと親しみが込められているからなのでしょう。



 根本の岩石に彫られた磨崖仏(岩山に彫られた仏像)ですが、風化が進んでいて写真では白い輪郭のようにしか見えません。
 これが須彌権現(しゅみごんげん)さまです。
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いわき市鹿島町を歩こう66

2015-09-19 06:48:05 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    66
     いわき鹿島郵便局     所在地 : いわき市鹿島町走熊字小神山63-1
                                 0246-29-3560

 走熊郵便局取扱所(現・いわき鹿島郵便局の前身)は、昭和4年5月21日に鹿島村大字走熊字坪下2番地に開設されました。
 所長は鈴木一男(上矢田)=人物に関しては当ブログの2009・3・6付を参照。この時の職員は所長以下2名。


               《鹿島街道沿いにある、現在のいわき市鹿島郵便局》

  〈いわき鹿島郵便局の沿革〉
 昭和12年11月1日 走熊郵便局(3等郵便局)に改称し、満州国及び中華民国あての郵便物も引
 き受ける。
 昭和13年12月26日 簡易保険・郵便年金事務を開始。
 昭和17年7月15日 鈴木一男は村長に就任のため、鈴木孝親(上矢田)が後任局長に就任。
 昭和21年9月 請負制度が廃止され、人件費や諸経費は国の直轄化となる。
 昭和23年1月1日 電話交換台を設置し電話加入者との交換事務を行う。その時の加入者は、役
 場・学校・巡査駐在所・農協・佐原酒造店(御代)の5件だった。・


              《昭和38年当時に営業していた郵便局=手前右側の建物》

 昭和38年10月30日 鹿島村走熊字渡折4-2に局舎を新築移転。
 昭和45年7月13日 鈴木孝親の退職により、広瀬秀光が局長に就任。


                  《走熊郵便局だった頃の建物と郵便局員》

 長い年月を経て、旧道から鹿島街道へ進出して、その名もいわき鹿島郵便局となり、局長はじめ職員が一丸となって地域密着型の業務に携わっている。


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いわき市鹿島町を歩こう65

2015-09-18 06:54:22 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    65
     鹿島から中央台への道

 いわき市は、昭和46年に 「いわき市総合開発計画」 を策定し、まちづくりの指針が決定され 「明るく住みよいいわき市」 の建設を目指した各種プロジェクトが進められました。
 その代表的なものに 「いわきニュータウン」 があります。
 自然とのふれあいの中で、小・中学校及び大学、県立公園などの文化施設が完備されて人口3万人を擁する正に 「新しい街」 です。
 鹿島地域から、この最寄りにあるニュータウンへ行くには次の方法があります。


                   《下矢田(鹿島街道)から中央台へ上る道》

 下矢田口 渡辺ゴム、エコビレッジ、タックルベリー(釣具店)がある信号を登って行くと、「いわき市暮らしの伝承郷」や「ラパーク」方面。

                   《上矢田(鹿島街道)から中央台へ上る道》

 上矢田口 新常磐交通バスの 「上矢田バス停」 付近、「関彰商事ガソリンスタンド」 がある信号を上って行くと 「スーパーマルト」や 「いわき明星大学」 方面。

                   《鹿島小学校方面から中央台へ上ってきた道》

 写真は逆方向からの撮影になるが、鹿島小学校前の信号から 「かしま幼稚園」(赤い建物) を経由して道なりに進んでくると貯水池が出てきます。
 ここを上り切ると「南小学校」の前へ辿り着きます。へ
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いわき市鹿島町を歩こう64

2015-09-17 07:09:55 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  64

    災難が続いた蓮光寺     所在地 : いわき市鹿島町上蔵持字寺内
  蓮光寺は江名⇔湯本線(県道48号)の道路沿いにあります。

     如来山正福院蓮光寺
     宗派 高野山真言宗
     本尊 弘法大師(寄木造り)
     創立 天正元年(西暦1574年)
     建造物 本堂41坪瓦葺き 庫裡23坪瓦葺き 小堂6,5坪瓦葺き


       《コンクリート造りで、洋風の白塗り寺院は珍しい蓮光寺の前景

  石柱銘(左) 正福院 (裏側)爲當院先考頓成佛果菩提
       (右) 如来山 ( 〃 )昭和三十四年二月八日
                    妙蓮院淑真玉操明鏡大姉
                    二十一週年忌に當り寄進 三島五一郎 

本尊は阿弥陀如来でしたが、昭和4年2月26日の走熊(はしりくま)大火の類焼に遭って全てを灰燼に帰してしまいました。
 昭和5年9月、堂宇を再建し翌年8月に本寺遍照院から本尊として薬師如来を戴きました。

 昭和11年(1936)8月には裏山の土砂が流出して倒壊した経緯があります。
 平成23年(2011)3月11日の東日本大震災によって、境内に建っていた「二宮尊徳翁百年慰霊碑」が倒壊してしまいました。 ▲関連記事は №58 にあります。


            《境内の片隅に六地蔵が並んでいる


          《本堂脇にバナナの木が日陰をつくっていた
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いわき市鹿島町を歩こう63

2015-09-16 06:53:45 | Weblog

                             分類 : 地
 いわき市鹿島町を歩こう     63
            パレスいわや  所在地 : いわき市鹿島町久保字梅田4-1
                                0246-58-0550

 パレスいわやは昭和51年にオープンして以来、数多くのカップルが誕生している総合結婚式場です。鹿島街道のほぼ中心地にあり、両隣に 「家具の丸ほん」 と 「ダイユーエイト」 があります。
 ホールは結婚式に限定せず、多目的に利用ができパーティーや同窓会、それに各団体の総会、講演会など多種多様です。


               《パレスいわやの正面玄関

 「パレスいわや」の人気があるのは宴席に出される料理にあると思います。新鮮な魚介類と、旬の素材を駆使した調理は定評があるからです。
 泉町の弁当仕出し屋さんからスタートした「いわや」は、矢張り食に拘りがあります。


           送迎バスの回転が良いのは活気がある証拠

 教会式の結婚をするなら「パレスいわや」の宴会場から少し離れた場所にある「聖タリアセン協会」でハモンドオルガンと盛夏の合唱の中、厳粛なセレモニーが行われます。
 聖タリアセン協会は英国ウェールズの伝統様式を受け継いでいるとされ、聖堂には17世紀頃に建造された教会から海を渡ってきたステンドガラスが輝き、天井の高さやバージンロードの長さも本格的なものとしての拘りが窺えます。


       パレスいわやからチャペルに続く落ち着いた雰囲気の小路

 また、教会の庭園には毎年5~6月に色鮮やかな薔薇の花が、結婚されるカップルの門出を祝福して見事に咲き誇ります。

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