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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

鹿島の伝説人(びと)14

2017-09-30 06:58:43 | Weblog

                                          分類:村                                               長年に亘る鹿島消防団の実績 新妻一行                                                  明治39年9月18日~平成  年  月  日 享年  歳                                         いわき市鹿島町走熊字渡折50

 明治22年に近隣12の村が()を統合して鹿島村が誕生した。同27年、勅令消防布達により鹿島消防団の前身、鹿島組が発足した。

                  

 昭和14年、消防組を警防団と改称し、消防業務の他に戦時色を帯びて空襲警報、防火訓練、地域の治安維持など重要な任務を果たし国家の指示に従った。終戦を契機として警察の監督より分離独立して、市町村を単位とする自治体消防となったことで警防団は消防団と改められた。

 市町村長が消防庁となり、団長は団員の互選によって任命される仕組みになったが、その初代団長になったのが新妻一行である。(昭和22年)                                                             それ以降、消防団長、連合消防団長として長年に亘り消防活動に専念し、昭和42年秋の叙勲では勲5等双光旭日章に輝き、鹿島消防団の名声を上げた。

 かしま幼稚園の初代園長でもあった。                                                   

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鹿島の伝説人(びと)13

2017-09-29 09:51:56 | Weblog

                                           分類:村            庄屋の跡目を果たした 志賀久吉                                                 弘化4年(1845)~大正7年(1918)9月 享年73歳                                                                                             いわき市鹿島町下蔵持戸ノ内27 

 生まれは、旧・湯長谷藩下蔵持邨(むら)ということになる。                                      生家は祖先、志賀福右衛門依頼、代々名字帯刀を許されて、上・下蔵持、久保、江名、豊間各村の庄屋兼帯割頭の役職を世襲していた。                       

 久吉が最初に公職に就いたのは明治10年の上・下蔵持村什長で当時30歳だった。翌11年には早くも福島県第20区区会議員に推され、13年3月には上・下蔵持、久保、走熊4ケ村の戸長を拝命した。

 以後、諸々の役職を重ね明治15年には菊多、磐前・磐城の3郡選出の県下連合会議員に選出されるという立身の早さであった。明治22年の鹿島村誕生と共に村会議員、助役、収入役にも就任した。                                                                公職中に官より賞を受けること10数回という、東奔西走の政治活動に徹した。                                                祖から引き継いだ政治宿命を見事に果たしたことで、明治時代を意欲的に生き抜いた傑物の一人として記録にとどめられている。        

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鹿島の伝説人(びと)12

2017-09-28 07:17:44 | Weblog

                                                                                                    分類:村                                             輝かしい政治遍歴の持ち主 鈴木聡次郎                                                     明治6年(1874)7月31日~昭和36年(1961)12月12日 享年89歳                                          いわき市常磐上矢田町道上作2(旧・鹿島村大字上矢田)

 聡次郎は好間村今新田の旧家の2男に生まれ、父吉田軍蔵は篤農家として又、学者として郡下にその名の高かった人である。

               

 明治28年11月、12歳の時に上矢田草飼の鈴木家へ養子として入った。                     持って生まれた資質を伸ばし大正8年に至って上矢田道上作2に新宅を構えた。他方面での活動により自治功労章を受けたが、その他にも敬神の念深く、式内鹿島神社氏子総代を50年間務めた。

 経歴 : 鹿島村村会議員(大正6年、同10年・昭和4年)・第12代鹿島村村長・郡会議員

 

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鹿島の伝説人(びと)11

2017-09-27 06:37:26 | Weblog

                       分類:村                                                  部落の発展に寄与した一代 渡辺與三郎 


                       弘化2年(1845)~大正8年(1921)4月 享年75歳                                                                                                 いわき市鹿島町走熊字柳作12

 鹿島村で活躍した時期は30~60歳(明治8~38年)だが、その間部落に於いては区長、消防世話係、什長、用係、神社総代人、信徒総代人、各会計係、各議長等あらゆる役に就任し常に公共のために意を注ぎ、昔の走熊部落と鹿島村政に尽力した。

               


 性格は思いやりのある反面、厳格にして公平だった。                                  己を捨てて部落発展のために力を注ぎ、特に明治の初期から中期にかけては稲作をはじめ農産物の増収を図るため、農耕馬を殖やすとともにその飼料・肥料を確保するのに共有林を伐採して萱(かや)狩場をつくり、部落民にこれを開放し又、農道の整備を行った。


 鹿島小学校の近くにある地蔵堂前から、かしま幼稚園を通って中央台へ上って行く道は、現在では車の抜け道として重宝がられているが、この頃にできたのである。(註・当時は中央台はなく、単なる山だったので途中の貯水池下までの道)                                     


 明治33年9月~同37年4月までの約3年7ケ月間、鹿島村の収入役として村政に携わった。


 鹿島小学校で27年間奉職した渡辺与一は、與三郎の子息。

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鹿島の伝説人(びと)10

2017-09-26 07:11:36 | Weblog

                                       分類:村                                               政治戦略に長けた人 鈴木大蔵                                                                     慶応3年11月14日~昭和25年3月 享年84歳                                                  磐城國磐前郡久保村 (現・いわき市鹿島町久保)

 大蔵が生まれた翌日の15日は、勤皇の志士坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が暗殺されている。

                 

 明治11年3月、久保村外6ケ村組合小学校を卒業すると直ちに同校の教師にされたが、3年余りで辞職して平窪村の培根塾で漢学を修業、農事にも懸命に取り組み明治26年11月(26歳)に、菊田・磐前・磐城の3郡米作品評会に於いて1等賞を受領し日頃の研究ぶりを発揮した。 

 明治27年に鹿島村区長に当選して再選を重ね、34年6月に村会議員に当選。その後も助役や収入役を務め、40年には石城郡会議員にも当選、2期目は副議長、大正8年11月には鹿島村長に選任された。思考は常に何年か先を見透して定め、その政治手腕は戦略的、柔軟の両様を見せた。

                                  

              

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鹿島の伝説人(びと) 9

2017-09-25 07:37:01 | Weblog

                                     分類:村         土地測量のエキスパート 高萩 祐七                                           嘉永6年(1853)  年  月  日~昭和9年9月20日 享年82歳                                              いわき市鹿島町米田

 前名主、大滝忠左衛門(米田)の嫡男忠吉の二男に生まれる。                                                     明治元年16歳にして当時の名主高萩祐右衛門の養子となり、高萩家を継ぎ、明治12年役場吏員として勤務した。

                

 その頃、政令により土地の測量が行われ、米田地区は高萩祐七、草野万次郎の両氏が選任され、日月を費やして字限図を完成させた。  また、土地台帳も作成されて各自の土地所有反別及び境界が明確になった。その字現図を基礎に御代の荒川源重が複写したものが、現在市役所及び字に保管されている。

 昭和35年ころから全国一斉に実施されている国土調査は全てこの字限図と土地台帳を基礎としたもので功績は実に大きい。その功績と人柄が見込まれ3代目鹿島村村長に任命された。この頃(明治32年から33年)にかけて 「くうじ山」 は洞門から切り割り道路になったようだ。

 退職後は郡会議員に当選した。生前中はよく 「人が世に立つためには内助の功が大切だ」 と、夫婦和合を訓戒したものであった。

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鹿島の伝説人(びと) 8

2017-09-23 07:04:19 | Weblog

                                            分類:村          村政の役職全てを歴任 四家 重吉                                                                                    いわき市常磐三沢町(旧・鹿島村大字三沢) 

                 

 明治30年から明治33年まで務めた収入役をスタートに、助役(明治35年~明治38年)、村会議員(明治40年~明治43年)、そして村長(明治44年~大正4年)と、その足跡は長年に亘っていかに鹿島村発展のために尽力したかが窺える。

 重吉が村長に就任した翌年4月(明治45年)、矢田小学校へ矢田実業補習学校を併置して、男子が12月から翌年3月までの農閑期に国語、珠算、修身公民科および農業などの学習ができるようにした。いわゆる働く若者たちの知識、教養を高めるための場で、以前は夜学会として青少年の学習であったようだ。いわゆる夜学と称した。

 その後、大正6年には蔵持小学校にも蔵持実業補習学校が併設されたが、この年の生徒数は男女24名のみと記録されている。

  

                

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鹿島の伝説人(びと) 7

2017-09-21 09:35:11 | Weblog

                             分類:村    

  多くの公職を歴任して地方自治の進展に努めた                                                  園部 花代                                                                        明治35年8月21日生~平成  年  月  日 享年  歳?                                                                    鹿島町下矢田字前原

 市内平窪の名望家、鈴木竹次郎の次女として生まれる。                                    恵まれた環境に育ち幼少の頃から頭脳明敏で成人すると鹿島の旧家、園部徳弥・マサの長男、清と結婚、幸多い家庭の主婦となった。 

                 

 義父、徳弥は村会議員、郡会村会を歴任した人望家であり、実父の竹次郎も村会議員5期、江筋会議員などで活躍した。                                                                         花代は、他人の苦労を我が苦労と感じとり、福祉の向上に精励した。生涯30数組の仲人を務めて後進を育てることも忘れなかった。昭和25年よい母子福祉関係に携わってから、生来の才気と聡明さをもって人一倍努力する姿には誰もが感嘆した。 平南開発(株)の嘉男氏は長男。

 《生前の主な役職》 県母子福祉評議員、いわき南地区保護司理事支部長、いわき母子福祉会                                          副会長、磐城母子福祉連合会長、かしま母子福祉会長、県心配事母子相                                                         談員、社会福祉協議会貸付委員会副委員長、等々。

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鹿島の伝説人(びと) 6

2017-09-18 06:48:48 | Weblog

                                      分類:村

 画境と政治を両立させた 荒川忠治(雅号・華関)   享年72歳                        明治3年(1870)1月11日~昭和16年(1941)8月31日                                                                                    いわき市鹿島町御代

                                          荒川華関の名で著名な画人》 

 荒川家に長男として生まれた。長じて吉田敦和や清水保から漢詩を学び、明治17年には住吉小学校の教師として迎えられ、1年ほど在職したが辞めている。                                                       岡倉天心らが日本美術学校を開校するといった時代的背景のもとで、忠治は絵を志向し國井雲嶂や小林寒林に学んだ。

 勿論、美術学校に入校する憧れは強かったのだが、当時の営農家庭では経済的にも、農業継承の意味でも難しい面があった。しかし、忠治にとって絵は生き甲斐であり、ついに家郷を後に上京(大正5年)する。  松林桂月に師事して作品を出品したが病にかかり、止む無く帰郷。それでも絵筆を捨てきれず農閑期には茨城の渡辺小華の高弟、野沢 白華に教えを受け翠山から華関を名乗った。

 華関の名は、 勿来の関の桜花を例えて付けられたと云われている。大正15年(1926)、55歳の時に推されて鹿島村長となり、その村治の功が認められ、自治功労者として県知事表彰を受けている。             画家と政治を両立させた人であった。         

 

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鹿島の伝説人(びと) 5 

2017-09-17 07:15:21 | Weblog

                                            分類:村

絵を描く漢学者 佐田雪心   大正15年10月7日死去(享年92歳)         

                               寶林寺 いわき市常磐松久須根町(旧・鹿島村)                                         雪心は漢学者として名を知られたが、明治5年の学制発布後は神谷小学校(平)の初代校長となり、次いで飯野、四倉、大野、赤井二小などの校長を歴任している。

              

 寶林寺の26世住職になったのはその後で、僧職に身を置くかたわら四季の墨竹を好んで描き、その作品を所蔵する家庭は鹿島の地域内に多い。                                      常磐三沢地区にある吉田宅(この家には明治・大正時代、鹿島小に46年間奉職した正義という人物がい手一時、雪心の寺子屋に学んだことがある)には、雪心が90歳の時に描かれたという墨竹画があるが、濃淡の妙や筆勢の起伏は見事で、いわきの画人として今の世になって見直されている。

 雪心の死後、昭和2年休の4月に檀家一同は寶林寺墓地へ26世住職としての、単制無縫塔を建立して法要した。雪心の出身地となるとミステリーで判っていない。

                                                                                                                                        寶林寺 (松久須根)

                                 寶林寺へ上る石段                                同寺本堂内

  

     

                          

              

 

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鹿島の伝説人(びと) 4

2017-09-16 06:57:54 | Weblog

                                            分類:村

 一圓融合」を提唱し 今に継がせる 志賀直哉

              明治20年(1887)6月12日~昭和31年(1956)2月7日 享年71歳

 旧・鹿島村下蔵持字嘉睦家15番地の、志賀林弥(同村五代村長)の長男として出生。                     昭和の前半期に於いての偉大な指導者で、後人に残した教訓は計り知れない。昭和41年に村議会議員になり、昭和5年助役となる。

                  

 その後、村長になり2期8年間村政に傾注した。一圓融合を提唱し、矢田分校を本校へ統合して鹿島村立鹿島尋常高等小学校を建設した。(※現在の、いわき市立鹿島小学校の校地)

 また、県から農業経済指定村の指定を受け、農村振興に意を用いる傍ら潅漑用貯水池・堰の改修等に努力した。更に毎月1日を道路愛護デート決め各ごとにこれを実施して道路の整備をした。

 昭和30年、下蔵持の如来山正副院に洋風の寺院二宮尊徳翁百年祭慰霊塔を建立して、地元の人たちに限らず江名方面へ向かう人の目を見張らせたが、平成23年(2011)3月11日に起きた東日本大震災によって慰霊塔は崩壊してしまった。

                               崩壊する前の「二宮尊徳百年祭慰霊塔」  名木「七本松」から作られた銘板 (鹿島神社内)

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鹿島の伝説人(びと) 3

2017-09-15 07:03:57 | Weblog

                            分類:人                                               初の公選村長、考古学者 八代義定                                                                         明治22年(1889)~昭和31年(1956)9月25日 享年67歳                                                 いわき市鹿島町御代字九反田39<

            


 八代家の次男として生まれたが、長兄が病弱であったために義定は母を助けて家業の農業に従事した。悲惨な農業生活の中で諸々の事があり、大正デモクラシーの波を身をもって享受した彼は、やがて平民社に出入りして幸徳秋水に傾倒したりもした。揺れ動く思想彷徨の中で、詩人であり宣教師であった山村慕鳥をはじめ、吉野義也、若松せい(後の吉野せい)との出会いとなる。


 義定は確固たる自然観に立ち考古学の道に進んでいった。                                           昭和22年、公職選挙法による鹿島村長に当選、同26年に再選され、同29年町村合併の先鞭をつけて退職した。昭和27年に、福島県古文化財の研究と保存に尽力を尽くした多年の功績を讃えられて、第1回福島県文化功労賞を受賞している。


 残丘舎(義定の書斎)では年1回、三猿会なるものを催し、高木誠一(平北神谷)、根本忠幸(川前高部)の3人が集まり、考古学・民俗学の研究が行われていた。


 △吉野せいの小説 「道」 に出てくる原さんは八代義定がモデルとされている。


 

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鹿島の伝説人(びと) 2

2017-09-12 06:43:48 | Weblog

                                          分類:村            何事にも先鞭をつけたハイカラ人 草野 庫太                                                             

                  明治21年7月10日~昭和8年7月10日 享年45歳                                                                                鹿島町船戸字八合23 

              

 庫太はハイカラ(西洋風を気取ったり、流行を追ったりすること)人で、鹿島街道に乗合自動車が走れば初乗りし、自転車が発売されれば直ぐに買い求め、大正の中頃にはドイツ製の高級小型写真機を購入し、乾板カメラで風景を撮ったりもした。 

 昭和4年に若くして鹿島村村議を1期務めたが、その以前に次のようなエピソードが残っている。大正2年、村議会議員立候補資格年齢の25歳に達すると、かねてより庫太を議員にすることを字の長老たちは決めていたから、彼は4月の選挙に出馬するため届け出に出頭した。                                       ところが、資格は満年齢で25歳のために庫太はその年齢に2ヶ月足らず受理を拒否されてしまった。                                                      「メンツが潰れた、もう2度と出ない」と怒鳴り散らすのを長老たちは酒攻めでその心をやっとほぐすことができた。

 酒豪であり、村中の人々から呑兵衛ぶりを知られた庫太の親友は、後に村長になり 「一圓融合」 を提唱した志賀直哉だった。庫太は胃潰瘍(現在で言う胃癌かも?)で若死にしたが、人生は短くも世をおもむくままに過ごした面では強烈な印象を今の世に残している。            

                                                                                                                                                                                  

 

 

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鹿島の伝説人(びと) 1

2017-09-08 10:18:23 | Weblog

                                分類 : 村 


 力自慢のナンバーワン 坂本 直政


 鹿島町下矢田にある 真浄院 の境内に繭(まゆ)型をした石があります=写真下。


           


まだ鹿島村だった大正17~18年頃に遡るが、青年たちは毎月の農休日には寺に集まって相撲や力比べをしたそうだ。その時にこの石が「力石」(ちからいし)として登場した訳です。石の重さは32,3貫(約120キロ)といわれ簡単に持ち上げられないが、それでも数人が成功した。力比べは更にエスカレートしていろいろ試されたが、最終的には力石を山門まで転がし、そこから担いで石段を上ることになり、見事に成功したのは直政ただ一人だった。


                                                                                                                                                                                                         《真浄院》


御代部落の八坂神社の鳥居そばにも力石があるが、これは真浄院の石よりも一回り大きいと耳にしたから早速この石に臨んだ。角ばった石で手がかりがなく挙げにくかったが、全精神力を石に集中してついに胸のあたりまで持ち上げたという。                                           昔は各地に 「力石」 は存在していたようで、四日市大学健康科学研究室の資料によると、全国で132を数える。(2010年)                                                労働力を人に頼らざるを得ない時代に体力を養うのを目的とした石だった。               


直政が17~18歳ころの実話であり、生前、彼自身の語り草であった。 一句:初詣 語り草聞く 力石                          


         

 
《力自慢を競い合った》           《御代にある力石》

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