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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

「12倍強」に増えた人口

2018-06-30 07:06:52 | Weblog
                鹿島町御代団地の一部》                                     
                              分類・地

 主要地方道いわき・古道線(旧・鹿島街道)に新道、平・小名浜線(現、鹿島街道)ができた昭和40年頃から宅地造成地には新たな家が建ち並び、道路は通過車両で増え始めました。
 船戸団地や御代団地の整備も進んでいき、各地域にも個々の住宅が建設され昭和30年前半までは閑静な純農村地帯も都市化への道を歩むようになったのです。

 これにより、当然のことながら人口増加も顕著に伸び始めました。
 団地のある地域や、商業地と目された場所が圧倒的な人口の伸びをみせ、団地がある御代地域に至っては単純計算でも昭和35年比の12,75倍(世帯数で30倍以上)にも膨れ上がっています。                                               
      《ショッピングセンターのサブ駐車場は、人口増加のバロメーター》

 手持ちの資料から昭和35年と平成20年を比較する意味で人口の推移を列記してみました。
       【昭和35年】
         町名別     世帯数   人口(総数)  男    女
        鹿島町御代     20     114
        鹿島町船戸     14      90
        鹿島町久保     41     221
        鹿島町下蔵持    31     181
        鹿島町上蔵持    41     253
        鹿島町走熊      52     265
        鹿島町下矢田    45     234
       ※米田・飯田・三沢・松久須根・上矢田地区は資料不備

       【平成20年】
         町名別     世帯数   人口(総数)   男     女
        鹿島町御代     619    1,454     680   774
        鹿島町船戸     282     619     288   331
        鹿島町久保     459    1,179     591   588        
        鹿島町下蔵持   178     635     286   349
        鹿島町上蔵持    49     147      72    75
        鹿島町走熊     164     430     215   215
        鹿島町下矢田    60     176      82    94    
        鹿島町米田     264     698     354   344     
        鹿島町飯田      96     410     214   196
        常磐三沢町      30      97      44    53
        常磐松久須根町    30      75      37    38     
        常磐上矢田町     75     233     119   114

                                          
   ※赤文字は旧・鹿島村当時に属していた地域
  
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13万円で鹿島村が買えた

2018-06-29 07:01:13 | Weblog
                   《下蔵持地区から商業地域方面を望む》 
                  
                                           分類・地歴                      
    天災・戦争で村民は苦しんでいた時代  
 いわき市鹿島町(※明治21年4月に町村制が発布され、明治22年~昭和28年までは、近郷12村が合併して石城郡鹿島村として村政が布かれていた)は、かつての村々の経済を見ると米作をもって生計を立て、僅かに養蚕、炭焼き、コンニャク、葉たばこ等を副業とする家々がありました。                                                      
        《現在の鹿島小学校界隈の風景で、中央に見える道路は旧・鹿島街道》


 しかし、明治35年以来、冷害や水害による米作の不作が数年続き、更に追い討ちを掛けるようにして明治37、8年の戦争の影響もあって村内の疲弊は高まるばかりでした。
 暮らし向きが落ち込むばかりで、村民の中には止むに止まれず父祖伝来の田畑を手離して生計を維持していかなければならない家が出てきました。
 このような事情から大正15年には、村全体に於ける247町7反歩の水田の内、12町歩ほどは、他町村居住者の手に渡ってしまったのです。
 村民が苦しむ状況の中で売り地を買い求めていたのが、平では諸橋家(釜屋)であり、下川では江尻家でした。
 
 大正15年の記録によると、当時の鹿島村全体の土地(田・畑・宅地・山林・原野・池沼)は総計1,612町3段3畝19歩で地価に換算すると、13万1,784円14銭ということになっています。
 勿論、これは当時の金銭的価値から弾き出された金額ですから、現在の価値感覚で比較するのはナンセンスです。                                
 当時1円稼ぐのには大変な労力を要した時代で、因みに鹿島村の年間予算が14,437円でした。
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松は若いが歴史は古い

2018-06-28 06:35:21 | Weblog
                  《公民館前庭に植樹されている三代目の松》                 
                                          分類・地歴

                           鹿島公民館  いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1
                                        0246-29-2250

 鹿島で 「七本松」 という地名が残っているくらい歴史に名を残す史跡です。                                                
《昭和50年、江名・湯本線工事と道路拡張の為に伐採されてしまった二代目の松=昭和30年代》               
 
 初代の松は、昭和10年までに5本が強風で倒れたという記録があり、同12年には全滅してしまい、それによって二代目の松が植えられました。                              

 延暦年間(西暦782~805年)に坂上田村麻呂将軍が東夷征途の折、江名へも行ける三叉路の走熊で戦勝を祈念して七本の松を植樹したことに始まります。
 註釈・昭和50年代に湯本へ抜ける道路が貫通して十字路になってしまい、場所は止むなく移転を強いられ、現在は若松を鹿島公民館の敷地内に植えられました。
 その後、慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争では、ここ七本松に於いて7月10日に薩摩藩(西軍)と平藩・仙台藩の攻防戦があった場所としても知られています。
  そして、7月13日は平城総攻撃を迎えることになります。

 「・・・七本松・走熊・軍次山の塞尽く破れたり。賊、巳に谷川瀬に来る。新川町関門に於いて防戦す・・・」 と、平藩儒神林惺斉(かんばやしせいさい)の日記 『出城箚記』 (しゅつじょうとうき)には鹿島の地名が表記されています。

 三代目になる若松の 「七本松」 については、2018年4月25日付のブログをご覧ください。

             
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昭和初期の乗合自動車

2018-06-27 06:31:50 | Weblog
           《昭和初期に使われたフォード社製の自動車》
                 
                             分類・地
                  
    平~小名浜間の運賃が40銭の時代
 いわき (当時は石城郡) 地方の野崎交通に乗合自動車の許可が下りたのは昭和2年8月ですが、一方の鈴木自動車も同時に許可が下りています。
 
 昭和3年、鹿島の道路に乗合自動車を走行させたのは野崎満蔵や鈴木善太郎たちで、一台3千円前後した幌付きの定員7名の車でした。
 当時(※昭和元年の資料による)の消費者米価が1俵(60㎏)当たり、12円70銭でしたから自動車の値段がいかに高価であったかが窺われます。                   
                                       
         《実際に鹿島街道の悪路を走行していた当時の風景》

 車種は米国製のシボレーやフォードなどで1日4往復の運行でした。乗客が多い時には側面のステップ台や車両後部にも乗せて、運転手も含めると総勢14名にもなったという超定員オーバーの輸送機関だったようです。
 乗合自動車の運賃は、平~小名浜間が40銭で中間にある鹿島(七本松)までは20銭でした。支那そば(ラーメン)が10銭、映画10銭の時代ですから、乗合自動車に乗るのは主に役場や郵便局などの公務で利用する人たちでした。

 その頃に、船戸地区に草野庫太(くらた)という人がいて、この人は何でも 「初取り」 することで村では名物男として知られていました。
 自転車が発売されればスグに買い求め、大正の中頃にはドイツ製の高級小型写真機を購入し、乾板カメラで風物を撮影したりもしました。当然、乗合自動車が走った時は初乗りしたばかりではなく、よく乗った客として名が挙がります。
●草野庫太の人物に関しては、当ブログの2017・9・12付参照。
          
                            
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郊外型鹿島ブックセンター

2018-06-26 07:19:37 | Weblog
                鹿島ブックセンター》                 
                              分類・地 
                        
  400坪のスペースに20万冊の在庫本
      鹿島ブックセンター  いわき市鹿島町走熊字小神山18-1
                        0246-28-2222
 
 同店は鹿島小学校や鹿島ショッピングセンター(ヨークベニマル・エブリア)、鹿島公民館、ハニーズ本社などが隣接している一等地といえます。
 エブリア(鹿島ショッピングセンター)の中にヤマニ書房があるが、鹿島街道で新刊本を取り扱っているのは同店だけ。
 他に古本を扱う店としては、ブックオフ、ワンダーグー、があります。
                     
                                                               
   《本選びは、書棚と書棚の間隔に充分な余裕があるので、ゆったりと探すことができる》 

 鹿島ブックセンター(小野光弘社長)は、400坪の広いスペースの店内に約20万冊の在庫があるので欲しい本が手に入れやすいし、見つからない場合には迅速に取り寄せてもらえます。
 
 また、同店では毎月定期的に、二階の児童書売り場で子供たちに、もっと本に親しんでもらおうと「おはなし会」を開催しています。 ※この「おはなし会」では一般の読み手の方も募集しているようですので、詳細はお店の方へお問い合わせしてみて下さい。

 毎年恒例の「夏休みコミックイラストコンテスト」は、各地方新聞社などの後援で行われ、毎回、市内外から多数の応募があるほど人気のあるコンテストです。 

   営業時間 10:00~22:00   年中無休
 
 

           
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鹿島街道、発展の軌跡

2018-06-25 06:52:43 | Weblog
         《平~小名浜間が最短距離なので利用車が多い鹿島街道》
                  
                              分類:地
                         
   いわき市の交通・商業の要所として定着した鹿島町
 昭和30年の後半に入ると、現在の鹿島街道は断続的ではありますが、田圃の中を突き抜けるような形で道路工事は着々と進められていきました。

 そういう状況の中で旧・鹿島街道(正確には主要地方道石城・古道線)は山裾を曲がりくねって、道路沿いに昔ながらの店が間隔を置いて幾つかありました。           
 小名浜方面(御代坂)から平方面(くうじ山)迄の店を列記してみると、佐原酒造・佐藤商店・筥崎自転車店・波立商店(通称おくにさん)・箱崎商店(通称おまるさん)・鹿島農業協同組合・薗部商店・尾沢理容店・鹿島郵便局・桜井精米所・土井理容店・小野商店(通称とべたな)・薗部精米所・ばんかり屋)・相馬精米所・佐原商店の以上16店舗だけでした。                       
    《久保の岩薬師(右端の白い車の上)の前を一直線に突き抜かる鹿島街道》

 やがて新・鹿島街道が開通すると、人も路線バスも之迄の旧道から離れていき、新道沿いには多種多様の店舗が急速に進出してくるようになりました。
 昭和55年の調査で街道の両側に沿って開業した店舗数を 「御代坂~くうじ山」 間の条件で数えてみると、総計で117店舗ありました。

 その後、平成21(2009)年10月に同じ区間で調べてみたところ、総数173店舗で、昭和55年比、56店舗の増加という結果が出ました。

 既に、鹿島街道沿いに店舗を進出させていくことは土地のスペース上で無理があるので、これからは街道を二重、三重に囲むようにしながら店舗は更に増え続けていくものと思われます。
            
                         
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往古、鹿島は海底だった

2018-06-24 06:53:32 | Weblog
                             分類:歴
                         
  縄文時代以前に海進海退の影響で地質が形成された
  
 鹿島地域一帯は山が多いが最も高い山でも走熊にある高照山の海抜128,1メートルです。
 この頂上には国土地理院の地図上の目印となる三角点が存在します。
 矢田川周辺の地質現象には、数万年以前より縄文時代にかけて、海進海退の影響があったことが考えられます。                                                                      
       《粘土層と粘土層に挟まれて厚さ2mほどの小角礫層が現れた》

 昭和54年12月に、いわきニュータウン造成工事中に上矢田地内の山中から多数の貝化石が産出されました。
 位置的には、鹿島神社の北側を吉野谷鉱泉方面へ向かって500メートルほど進んだ通称、千本松という地名があった海抜60メートルばかりの山頂です。その地をブルトーザーで表土を2メートルほど削った地層から、海棲の貝殻が出てきたということです。                                 
            《角礫層からは小石片や貝殻が算出した》 

 いわきの大地には幾つもの断層があり、その断層帯で例えば地震のような運動が生じると、海底だったところが山のように競り上がってくる現象が生じてきます。
 鹿島地区の随所で見られる貝の化石は、千数百万年前頃に、何らかの地殻変動が起きて、海底だった部分が盛り上がり、その時ヘドロの中に棲んでいた貝類なども一緒に陸上へ押し上げられたと思われています。





 
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鹿島町の地名あれこれ③

2018-06-23 06:43:30 | Weblog
                                           分類:地                            
   多い動物、花・植物に関した地名
 鹿島町では地形柄、土地の名前に「作」「田」「前」「内」が付くのが多いのですが、動物・植物の名前が付いた地名も結構あるので拾ってみました。          
 【動物】                                     
下蔵持地区=熊ノ沢(クマノサワ)                                     
走熊地区=走熊(ハシリクマ) 小猿田=(コサルタ)
 鶴巻(ツルマキ)  ★鬼越(オニコシ)                           
下矢田地区鷺田(サイタ)                                           《 鳥の 「ウソ(獺・鷽)」 がいた沢で、獺沢(うそざわ)と書くが、呼び名としては 「おそざわ」 と言う 》 

上矢田地区=獺沢(オソザワ)  申田(サンダ)  鶴羽平(ツルハダイラ)                              
松久須根地区=大申田(オオサンダ)  小申田(コサンダ)                               
三沢地区=奥駒(オコゴマ)                         
 【花・植物】                                    
御代地区=柿境(カキサカイ)  榎作(エノキサク)                                    
船戸地区=柿境(カキサカイ)  林下(ハヤシシタ)  花水(ハナミズ)                            
     《の境界線に杉・梅・柿の木等を植えて、そのまま地名になった所も結構ある》
             
久保地区=飯栗田(イイグリタ)  梅田(ウメダ)  穂町(ホマチ)  栗木平(クリキダイラ)  
下蔵持地区=高柳(タカヤナギ)  森ケ谷(モリガヤ)                                   
上蔵持地区=梅ノ木作(ウメノキサク)                                     
走熊地区=七本松(シチホンマツ)  柳作(ヤナギサク)  矢篠作(ヤシノサク)                                    
米田地区=柿作(カキサク)  
下矢田地区=蓬作(ヨモギサク)  榎内(エノキウチ)  
上矢田地区=蕨作(ワラビサク)  草飼(クサガイ)  穂町作(ホマチサク)  花木下(ハナ     
         キシタ)
  湯草田(ユグサダ)  草ケ谷(クサガヤ)                                   
松久須根地区=桐木平(キリノキダイラ)                                   
三沢地区=花見平(ハナミダイラ)  竹ノ花(タケノハナ)  栗原(クリハラ)
  
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鹿島町の地名あれこれ②

2018-06-22 06:51:13 | Weblog
                           分類:地
                                  
   地名が付く原点は単純明解か、伝説からきていることが多い

草飼(くさかい) 【常磐上矢田町】 後世、武人から軍神として厚い尊信を受ける武甕槌神(たけみかずちのかみ)が、奥州塩竃へ向かうため、部下を引き連れて山道を通り山頂で小休止をした。
その際、神馬をそこの松ノ木に繋いで草を与えたと伝えられています。
船戸(ふなど) 【鹿島町船戸】 縄文時代(今から約4580年ほど前)は鹿島地区一帯は海だった。それは建設工事の掘削で海棲貝殻が出たり、貝塚の存在で立証されています。
丸木舟を使って内湾で釣りをする場合に、船の出入り場であったようです。                        
      《鬼越の地名がある場所から鹿島小学校方面を望む=旧・鹿島街道》

鬼越(おにこし) 【鹿島町走熊】 昔、悪鬼が神の矢に当たって死亡した所と云われ、古い塚があり榎の大樹が標となったとされるが現在では何も残っていません。

久保(くぼ) 【鹿島町久保】 「くぼ」 というのは、村とか集落とかの意味があるらしく、早くから水田耕作が進み、台地に沿った窪地は水利の便に恵まれるという地形的な特徴を持っています。 
全国的にも久保の他、久保川、窪、窪田などの地名は多く秋田市も古名は久保田といいました。(平地区の平窪も同類)

十六坂(じゅうろくざか) 【鹿島町飯田】  矢田川の下流地帯が海浜だった頃、大暴風雨の襲来で漁船が難破して、漁師十六名が死体で打ち上げられました。
その場所が飯田の坂辺りだったといいます。 
※十六坂についての詳細は、4月29日付の 「鹿島町を見て歩こう №58 」 参照。

上ノ内(うえのうち) 【鹿島町走熊】 高台にある家。上(うえ)の家(うち)が変化したもの。


             
                 
                 
               

 
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鹿島町の地名あれこれ①

2018-06-21 06:51:18 | Weblog
                                            分類:地                           
    鹿島町には260前後の地名(字名)がある
 地名には、いわく因縁のあるものから、単純明快に付けられたもの、又はその土地に纏わる民話的な事から発祥したもの、地形、地理的な位置、人文地名や伝承、産業に纏わるものなど正に千差万別です。 
 鹿島町 (※旧・鹿島村に属していた上矢田、下矢田、三沢も含めます) には。260以上の地名 (字名) が存在します。その中から主だった呼び名と由来を記してみます。                          
         在りし日の七本松の風景。写真からみて地名の由来が素直に分かる》             

七本松 (しちほんまつ)  走熊=上の写真。 延暦年間(西暦782年~805年)。大伴弟坂上田村麻呂が794年に征夷大将軍に任ぜられ、東北地方へ征途の時に走熊地内を通りかかりました。
 西に丸山を背負い、東に折れれば江名の浜にも抜けられる三叉路(註・現在では湯本方面へも行ける道があり、十字路)で休息し、道端の一角に戦勝を祈念しながら七本の松を手植えした。
 ※征夷大将軍ー平安初期、蝦夷征討のために置かれた臨時の官。

上矢田(かみやだ) [常磐上矢田町] ①坂上田村麻呂が東征のために、この地を通り掛かり鹿島神社へ武運長久を祈って御供田すると共に、矢の根4本を献上した。田村将軍矢の根を此処に納めた際に 「田村矢を上げる」 と記したことによる説。 ②古くは岩崎東郷と称したが、後に大谷田と改める。平城に近い地区を上矢田、下の地区をした矢田と呼ぶようになった。

三沢(みさわ) [常磐三沢町] 飯野八幡宮の飯野文書では 「深沢」 という地名が出てきますが、これが今の「三沢」と解されています。
 三沢の字内には沢と呼べるものが数十あると云われますが、大沢と呼ばれるものは坂下作、奥駒作、傾城作の三つなので、その辺から三沢の名が生まれたとも考えられます。
 元弘3年の文書には、未曾有村とあるので 「みそう」 が 「みさわ」 に変化していったものとも推察されます。


 
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心待ちな嫁さんの里帰り

2018-06-20 06:49:43 | Weblog
                                         分類:地習                      
     嫁さんが実家に帰れる日は数が知れていた                                                          
          《田んぼ作業の合間に、コジュハン(おやつ)を食べてひと休みをする》 

 前日の 「嫁さま探しはで異なる」 の継続になりますが、2藩(平・湯長谷)、1幕領(小名浜)の支配のもとに近隣12ケ村が纏まり、 『鹿島村』 が成り立っていたので生活環境や慣習は、それらの地域によって微妙に違っていました。

 嫁さんの里帰りも同様のことが云えて、必ずしもこうだとは断言できるものではないが、1年を通じて実家へ帰ることができる標準的な回数は大体決まっていて、概ね次のようになっていました。

 △正月(1月2日)餅2枚と手拭いを持たせてやる。新しい嫁さんは2日~1週間ぐらい泊まる。 
  ※泊まらないところもある。
 △1月15日 2日に泊まらせなかったでは、この日に餅と手拭いを持たせて泊りにやる、
 △節句(3月3日)餅を持って泊りに行く。
 △彼岸(3月21日)うどん、酒、砂糖、菓子のどれかを持って行くが、この日は止まらない。
 △節句(5月5日)赤飯、かしわ餅のいずれか。によっては、つぼ餅を持参して2日ぐらい泊まっ
  てくる。
 △お盆(7月15日)お彼岸の時と同じような品を持って行き泊まる。
 △八朔(8月1日)ナベカリと云って嫁さんは実家に行って鍋を借り、ご馳走を作る。
 △彼岸(9月24日)春の彼岸と同様に泊まらず帰ってくる。
 △刈り上げ(10月10日)この日は嫁さんの休日として自由にさせておく。
 △歳暮 嫁さんの実家に一重の餅と手拭いを持たせてやる。しかし餅の半分は帰る時に持たせて寄
  こすといいます。 ※泊まらずに日帰り。、
、      
 
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嫁さん探しは部落で異なる

2018-06-19 06:31:08 | Weblog

                            分類:地


  嫁の評判が良いと 「次の嫁探しもその部落から」 が定着                     
           《昭和30年頃の、嫁ぎ先の家で行われた結婚式》         
  
 明治22年4月1日から町村制が実施されるようになり、それまでの戸長制を廃止して町村長を置くことになりました。
 この時、相隣り合う12の村落(上矢田・松久須根・下矢田・米田・走熊・三沢・上蔵持・下蔵持・久保・飯田・船戸・御代)は個々に独立していた村でしたが、新たに一団して『鹿島村』を誕生させました。

 また、磐城・磐前・菊多の3郡を合併して石城郡(いわきぐん)としたのは明治29年4月1日からです。石城郡(いわきぐん)鹿島村(現・いわき市鹿島町※一部常磐地区名)は、平藩・湯長谷藩・幕領の支配下から集められて構成されていたので、それぞれの部落にはその部落としての特徴や風習がありました。

 例えば結婚の相手(嫁)探しにしても、部落によって候補者範囲が異なっていたようです。
 大別すると次のようになります。

   ①同じ部落内から
   ②鹿島地区内から
   ③浜の方から
   ④山の方から

    注釈・浜の方とは⇒小名浜・江名・豊間・四ツ倉など
       山の方とは⇒三和・赤井・平窪・遠野・高久・好間など

  ◇松久須根地区=主として部落内から選ばれ結ばれたようです。
  ◇三沢地区=山の方からだが特に遠野方面から。
  ◇走熊地区=山の方から。平窪、高久、遠野方面が多い。
  ◇下蔵持地区=比較的に鹿島地区内からが多いが、浜の方からの人も割りに居ます。
  ◇船戸地区=鹿島地区内からも居るが、平地区からも多い。
  ◇久保地区=この部落は圧倒的に山の方の人たちが多いです。

 この傾向は、一度ある地区(海、山方面)から嫁を貰うと、その地域との情報交換が出来るようになり、結婚適齢期の息子や娘がいると薦めたり薦められたりして、結局長い間にはその部落によって特定の地域から嫁が集まってきたという結果なのだと思います。

 現代の婚礼は、社会的な先輩や友人、知人に対する披露が主目的のように見受けられ肝心の近親や親族の存在は、その陰に隠れてしまったようです。
 以前の古風な披露の対象は村方一般と若者仲間であって、結婚が結婚たり得るためには両人の合意、家と近親からの承認ばかりでなく、何らかの形式を以って社会のある範囲に披露されて、その承認を得ることが必要だったのです。

 

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志賀家の氏神様が村社に

2018-06-18 06:51:19 | Weblog
            常磐・江名線の道路から見た熊野神社                          
                                     
                            分類:社寺
  江名浜へ神輿を渡御させた時代もあった
    熊野神社(旧村社)   所在地 いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2

【創立・由緒】 
延暦23年(804)正月、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征討に際し勧請したと伝わるも、地元の志賀家所蔵の旧記によると「志賀家の氏神にして、弘仁2年(811)より享和3年(1803)正月まで同家宅地内に在りしを、同年より村の鎮守と為し村社と号す」とあります。

 爾来、産土(うぶすな)さまとして崇敬してきましたが、境内が高地にあったために神事やお参りなどに支障をきたし、昭和32年に近隣地の譽田別命(ほんだわけのみこと)を祀る旧小社、三島八幡神社の聖域を拡張整備をし、社殿を新たにしています。

【祭神】 
五十猛命(いそたけるのみこと)=スサノオノミコトの御子で、民に植林を薦め、航海漁撈を司った。 
速玉男命(はやたまおのみこと)=伊弉冊尊の御子。 
伊弉冊尊(いざなみのみこと)。
泉津事解男命(よもつことさかのおのみこと)=悪事も善事も一言のもとに解決する神。

 例祭は毎年5月7日で、かつては江名浜海岸に神輿を渡御させ、お潮とりの神事を行っていました。
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矢田川の草刈・清掃実施

2018-06-17 08:17:40 | Weblog

                                                      分類:催                                                         いわき市鹿島町矢田川周辺                                                           地域ぐるみで町の美化に参加                                             第2期鹿島地区まちづくり構想の基本目標を支える 「矢田川の草刈清掃・美化」 活動が今日(17日)に行われ、約30名が参加しました。                                                                 午前6時30分に鹿島ショッピングセンター北側駐車場の南東端に集まり、矢田川の土手沿いを①から④の作業エリアに分けての分担作業です。

                                                   《北側駐車場にAM6:30分まで続々と集まってきた人たち》

 この作業は、鹿島地区河川愛護会(石井英男会長)と、鹿島地区振:自然と共生委員会(海老根武光委員長)が共同で毎年実施しており、参加者の皆さんは各自持参の草刈機や鎌、トングなどを使って 「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」 の一環として熱心に取り組んでいるものです。

                                                       《草刈り作業開始 : 雑草で鬱蒼と生え繁っていた土手も見映えのする姿に変化していった》
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御代の八坂神社(旧小社)

2018-06-16 06:57:29 | Weblog
                     《八坂神社・御代(みよ)地区》                            
                                      
                                      分類:寺社                   
   内郷御台境の一ノ矢天王を尊崇して小祠を建立
       鎮座地 いわき市鹿島町御代字赤坂32-3
       祭神  素戔鳴尊(すさのおのみこと)
          ※いざなぎのみこと・いざなみのみことの御子にして、天照大神の弟に当たる。
           性凶暴で天の岩屋戸の変を起こしたが、八岐大蛇を斬って天叢雲剣(あまのむらく
           ものつるぎ)を得、それを天照大神に献じた。
       相殿神 熊野速玉神。倉稲魂神。歳徳神。
       境内末社 若木神社

 八坂神社は、鹿島街道(旧道)の御代坂の上がり口にあります。
 左隣りに、昔は「御代の鶴」や「みちのく」という銘柄の清酒を造っていた酒蔵で旧家の佐原家があります。右隣りは自動車流通センターJRCグループ本部になっています。

 急傾斜の階段を、旧酒蔵だった赤レンガ造りの煙突を横目にして上っていくと本殿に辿り着きます。階段の数は境内から参拝するところまでを数えると108段ありました。当社は、御代地域の人々が、いわき市内郷御台境町に鎮座する、一ノ矢天王(八坂神社)を深く尊崇していたため、その願望に応えるために明治11年(1878)、この地へ小祠を建て御分霊御遷宮したことに始まるとされています。

 御代に古くから開山の臨済宗光西寺の山は、昔は熊野山と称し熊野大神を祀っていましたが、八坂神社の鎮座に伴い、熊野神社は八坂神社へ合祀されました。
 大正7年旧6月4日に拝殿及び幣殿を新築し、昭和27年3月31日には本殿を再新築して拝殿・幣殿の屋根を瓦に葺き替えました。
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