いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

さよなら鹿島農協

2019-06-10 06:32:01 | Weblog

                               分類:記

                  JA福島さくら農業協同組合 鹿島支店
                   いわき市鹿島町走熊字坪下3

     農業振興に寄与した 「鹿島農協」
 JA福島さくら農業協同組合 鹿島支店が、本日(10日)を以って小名浜支店に統合された。
 昭和23年4月9日付で 「鹿島村農業協同組合」 が発足して以来、通称 「鹿島農協」 として親しまれ、旧・12部落の農事作業に欠かせない存在だったが、さすがに時代の趨勢には勝てず、店舗は姿を消すことになった。
        《鹿島支店の前景、前を横切る道路は旧・鹿島街道》

 当時の鹿島村には、大正11年5月1日付で知事認可の有限責任鹿島信用購買組合が設立されたが現在の農協とは程遠いものがあった。昭和の年代に入り時代の進展に伴い内容も充実し、全農家が加入出資の組合に成長し農業経済を支えるまでに発展した。
 昭和22年11月公布の農業協同組合法により、昭和23年4月9日付知事認可の「鹿島村農業協同組合」が設立された。

    《農協の店舗事態が、名残り惜しそうな表情をしているように見えた》 

 終戦間もない開業以降、政府米の集荷や肥料はじめ農業生産資材の確保に寄与した農協の役割は大きく、地域農家経済を支えて発展してきた。
 社会経済の変化と地域の発展に対応して、昭和39年には鹿島・小名浜・江名・玉川の4農協が合併して「磐城農業協同組合」を設立した。
 昭和55年に、磐城・常磐・渡辺・泉の4農協が合併して 「いわき中部農業協同組合」になった。平成28年には 『JA福島さくら農業協同組合 』 に名称変更され鹿島支店として営業してきたが、ついに力尽きてしまった。残念。 
 △市内では鹿島支店の他に、内郷・玉川・渡辺の各支店も10日で『JA福島さくら小名浜支店』に統合されることになる。

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『教育勅語』 が出てきた

2019-06-06 12:54:42 | Weblog
                                          分類:歴
    桐箱入り、表解付きで見つかる
 
 昨日(5日)は 「鹿島小学校の沿革」 を紹介したが、その中で旧校舎の写真説明で 「左端に奉安殿が見える」 と書いた。
 偶然とはあるもので、その後で家の中に分散している諸々の写真を寄せ集めて整理していたら煤けた桐箱が出てきた=写真下。
 箱の表書きは煤けていて解読不明(おそらく「教育勅語」と記してあるのだろう)なので蓋を開けてみると、教育勅語(きょういくちょくご)そのものが入っていた=写真上。以前に見た記憶はあるが、すっかり忘れていたのだった。
 小学校・奉安殿・教育勅語。 特別の関連性があるので書いてみた。

               《明治22年10月30日の日付がある教育勅語》

 教育勅語の用紙はA3の大きさで、黄色く変色して色褪せたこの紙を、昭和10年代初期生まれの人たちまでは両手で握って真っ直ぐに手を伸ばし学校で読まされていたに違いない。
 私のように終戦間際生まれの者には無縁だったが、この紙をジッと見ていたら当時の世相が何となく思い浮かんできた。
 教育勅語に添えてあるA4タイプの紙には 教育勅語煥発四十周年記念教育勅語表解石城郡小学校長協議会発行 とあり、福島県石城郡鹿島尋常高等小学校の押印がある。
 裏面は文字通り、表解で「朕(※天皇陛下が)惟(おも)フニ我が皇祖皇宗(わが御先祖が)…… 」というように、全文を事細かに解説している。
 文面は当然のことながら旧漢字が使用されていて、例えば、國・濟・亦・實・儉・發などが出てくるが、当時の小学生はこれら355文字の教育勅語全文を暗記させられたとも言うのだから只々、感心するばかりだ。、

                  《教育勅語が入っていた桐箱と表解》

 奉安殿と教育勅語の関連
 奉安殿は、第二次大戦前・戦中に建てられたもので、学校に下賜された『御真影』や『教育勅語』など、勅語類を安置するため、特別に設けられた。
 管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされていて、学校が火事に遭い『御真影』を守って焼死する校長などが全国的に相次いだ時もあった。
 生徒は朝登校してきて校門に入った際に、先ず奉安殿に向かって拝礼することが決まりになっていたが、「これを怠ると近くで監視していた教師に厳しく叱責され、あるいはビンタを食らった」と、私より5,6歳先輩の人から聞いたことがある。

  
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鹿島小学校の沿革

2019-06-05 06:02:12 | Weblog

                           分類:学

校  名 : いわき市立鹿島小学校
所在地  : いわき市鹿島町走熊字                                        
☎ 0246 29 2052
 
    明治6年、金光寺(久保)の啓蒙小学校が始まり
 明治時代の『鹿島小学校』は12村に3つあり、校名も場所も目まぐるしいほど変わった。
 明治6年6月、鹿島町久保(当時は久保村)の金光寺を借り受けて久保、米田、上・下蔵持の生徒男14名、女2名の総計16名を抱え、啓蒙小学校を開校した。
 その後、久保小学校、下蔵持小学校、蔵持小学校、と改称されたが、明治13年に火災によって焼失してしまった。成徳小学校(後の矢田小学校)は、明治6年に上矢田村神宮寺に開校し明治7年、下矢田村の真浄院に移転し矢田小学校に改称され、ここに米田、走熊など全部で6ケ村の児童が通うようになった。
 御代、船戸の両村は住吉村(現・小名浜住吉)の鉄心小学(旧・住吉小)へ通学した。

            《昭和56年に完成した現在の鹿島小学校》

 明治14年、矢田小は下矢田村字細作の新校舎に移転し、明治16年、蔵持小は以前の校地に校舎を新築、移転している。同年、行政区の改正に伴い学区も改正され、、走熊・御代・船戸村は共に蔵持小の学区になったが、矢田小や住吉小に通う生徒もいた。
 明治20年4月~同22年4月の間は授業料を徴収されない簡易小学校になったが、その後、下矢田、蔵持の両簡易小学校を共に尋常小学校と改めた。
  
          《昭和20年頃の鹿島小学校・左端に奉安殿が見える》

 昭和10年5月10日、走熊字中島(※現在、鹿島小学校がある場所)に木造平屋建て瓦葺きの小学校が完成した。耕地面積が11,500平方メートル、予算1万1,900円で、校舎面積860平方メートル(260坪)だった。
しかし、経費節約のために矢田、蔵持両校の解体材料が多く使用されたという記録がある。
 現在の鹿島小学校は、鉄筋コンクリート3階建てだが完成したのは昭和54年。


         
①《小学校発祥の地碑(久保)》   ②《小学校発祥の地碑(上矢田)》  ③《上に蔵持小学校があった坂道》


  ①久保の金光寺境内にあり、説明版が付いている。
  ② 上矢田の鹿島神社上り口の鳥居脇にある。
  ③ 江名⇔湯本線(県道48号線)の七本松信号(角がファミリーマート)の近くにある。

 ▲ 小さい写真を拡大して見るには、ポインターを写真の上に置きクリックして下さい。

 ◎ 昭和23年に、校庭内に新制中学の『鹿島中学校』が併設されたが、昭和44年4月には小名浜1 中、平3中に統合されたために、21年の歴史を以って閉校になった。従って、鹿島町には中学校 は存在しない。

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