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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき鹿島の昔ばなし45

2013-05-30 06:42:41 | Weblog
                                           分類:歴
       お盆の花取り兄弟

 お盆が近くなってきたもんだから、兄弟が山さ花取りに行った。
 ところが山奥に入ってしまって帰る道が判んなくなってしまったんだと。それで、さ迷って歩いている内にピカーリピカリと灯がともっているのが見えたという。
 それで兄弟は、その灯をたよって行ったところ、婆っぱさんが居た。
 2人を見て「おめらなんさ来た、よう来たな」と言うから、実はお盆の花を取りに来たんだけども山で道に迷って、どっちさ行っていいのか分んなくなっちまっていたら丁度、灯りがともっていんのが見えたんで頼って来たんだ」って言ったんだと。


            

 「ああ良く来た。んではなんぼか疲れていっぺから休んだほうがいい」と言われたので、兄弟2人は喜んで「んではお世話になります」と安心して休んでいた。
 弟の方は寝入ったけど、兄の方は眠くなかったので小便に起きたところ、婆っぱというのは本当は鬼婆だったことに気付いた。それでビックリして小便も出なくなってしまった。
 すぐ弟を起こして「ここは鬼婆の家かも知んにぇえから、小便に行ってくると言って出っぺ。ただでは出らんにぇえから」と言って出ようとした。
 すると婆っぱがやって来て「そこでも構わねえからションベンしろ」と言った。「いや、こういうとこさションベンしたことねえから出さんにぇ」「んだらば便所はそこだから行んべ」と言って連れて行った。
 そして「その柱に紐でつないでやっから行げ」って言う。「そんでは紐とかんにゃくてどうしっぺ」と言ったら「紐とけるようにしてやっから」と解けるようにして貰って便所へ行った。

 そして「どうして逃げっぺ」とひとり言を便所の神様に言った。
 「こういう訳でお助け下さい。鬼婆に出っかせで家さ帰らんにぇから助けて貰いてい」と頼んだ。それから便所の柱に縄をつないだ。
 すると、その鬼婆が「まーだか」って言うんだと。「まーだだ、まーだだ」ってその便所の神様は言ってて下さる。その間に逃げ出したという。
 ところが気付いて追われ追われて、あとどうしようもないと思って「大川んなれー、大川んなれー」と言うと大川が出来た。すると鬼婆はその大川の水をみんな飲んで追いかけてくる。
 今度は「大山んなれー、大山んなれー」って言うと大山になった。それで逃げて逃げてやっと家さたどり着いたということだ。


 ※この昔話は 『三枚の御札』 を簡素化、及びアレンジしたものが伝わったと思われる。
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いわき鹿島の昔ばなし44

2013-05-29 06:58:30 | Weblog
                                            分類:歴
      鹿島にも温泉宿があった
                              場所 : いわき市鹿島町下蔵持字満屋

 小名浜(中坪)にバイク、自転車の販売・修理をしている「レクセン商会」という店がある。
 そこの先祖は、鹿島町下蔵持の鈴木家から出た人で、日露戦争に従軍し帰還後の明治45年に、常磐炭鉱の前身である磐城炭鉱が下蔵持字満屋2-1番地にボーリングを下ろして採炭調査を行っていたところ、お湯が湧出したことに目を付け、その権利を買い受けて温泉宿を開いた。


            
             《温泉宿のイメージ》 ※本文との直接的な関係はない

 温度としては、やや低かったので沸かし湯だったが、東京の湯質検査所まで1升徳利に地下湯を入れて持って行き、検査をしてもらったところ胃腸病や婦人病に効果があるとの結果が出た。
 
 宿は、たいそう流行って背負い行商人が日用品や肉などを持ち込んできて、湯場で商いをしたというエピソードも残っている。
 この宿は10年くらい営業が続いたようだが、湯治場といい、ガス灯といい、当時にしては時代の先端を行く蔵持の「つるや」温泉だったそうだ。
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いわき鹿島の昔ばなし43

2013-05-28 08:05:31 | Weblog
                                            分類:歴
      御代(みよ)坂に洞門があった
                               場所 : いわき市鹿島町御代字御代坂

             
                   《切り通しになっている現在の御代坂》

 鹿島街道の御代と岡小名の境(かつての村境)にある御代坂は、現在の道路の位置とは異なり、もっと高台の頂上近くにあった。
 小名浜に向って、御代坂を上り切ったところで左側の山頂を見ると分るが、あの高さが昔、村人たちが往来した洞門があった場所になる。
 土壁の洞門で急勾配だったために度々、洞門内は落土して通行不能になった云われている。
 
 年代的に御代坂の存在確認をしてみると、寛永15年(1638)戌寅年の検地帳「陸奥國 磐前郡岡小名村本田畑水帳 墨附弐百拾参枚 蓋紙共」には、113の字名が載っているが、その中には御代坂も記載されている。
 また、明治30年代の字限図「磐城國石城郡玉川村大字岡小名字限図」によると、字名が51字に減少しているものの御代坂は残っている。
 この鹿島村大字御代坂の、字限図での他のとの境界(隣接)には、玉川村大字大原、玉川村大字相子島、小名浜、江名村大字上神白が表示されている。


             
                  《御代坂の中段辺りの道路脇に見える池》

 その後、山は何度となく切り割りされては道幅も広げられていき、山肌は円錐形の生々しい積層の肌をさらけ出し、当時の高さからは相当下がっていることを如実に物語っている。
 昭和30年代頃までは、頂上へ上って行く狭い道と、洞門跡の名残を見ることができた。
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いわき鹿島の昔ばなし42

2013-05-27 08:03:19 | Weblog
                                           分類:歴
       小坊主の菓子もらい

 昔、ある所のお寺の話だけども、そのお寺には何人もの小坊主がいたんだと。
 お坊さんが出掛ける前に言い付けていった仕事を済ませたところさ、お坊さんが帰ってきた。
「おう、おう綺麗に片付けておいてくれたか」お坊さんは満足そうに頷いて、檀家さんから頂いて来たお菓子を、小坊主たちに分けてあげようと思ってみんなを集めた。
 そこで、ただ上げたんでは面白くないから「どうだ、いまから話の中に 『か』 という言葉が入ったら1つに付きお菓子を1個あげることにしょう」と言った。

             
              《まんが「一休さん」から》 ※本文と直接的な関係はない

 そうしたら小坊主たちは真剣になって 「か」 の付く言葉を考え始めた。珍念が一番最初に手を挙げて「棺おけ」と言ったから、お坊さんは棺おけの『か』か、と頷いて珍念に早速お菓子を1個あげた。
 他の小坊主たちも 「かんざし」 「刀」 などと言ってはもらったが、その内に徳念が「かんかん照りの日に亀が甲羅干し」と言ったから、お坊さんが 「うん、うん、そうきたか」 と感心しながら3個やったんだと。
 さっきから考えていた究念が手を挙げると 「いまから言うので指を折りながら数えておいて下さい」 とお坊さんに言った。
 お坊さんは 「分った」 というような顔をして、ニコニコしながら指を折る用意をした。
「それでは言います。神田鍛冶町の角の乾物屋で買ったカチ栗固くて噛めない返して帰」と言って、究念はいっぺんに10個のお菓子をもらうことが出来たんだとよ。

 
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いわき鹿島の昔ばなし41

2013-05-26 07:24:37 | Weblog
                               分類:歴
    食わず女房
 昔々、欲張りな聟(むこ)さんが住んでいて、嫁さんをもらうならば飯を食わない人がいいなと、いつも思っていたんだそうだ。
 それで飯を食わせたくない一心で、口の無い嫁さん探しをしていたんだと。

          
 
 ところが、そのように口の無い嫁さんが居たから聟さんは喜んだのなんのって……。
 それで一緒になったのはいいのだけんど、どういう訳か聟さんが食う分以上に米はどんどん減っていってしまう。

 或る時、気が付いたら、その嫁さんの頭の上に大きな口があって、おはち(飯びつ)が一つも入るような口を持っていたという話だ。
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いわき鹿島の昔ばなし40

2013-05-25 06:33:23 | Weblog
                                            分類:歴
     鼬 (イタチ) が十二支に入らない訳

 昔々、動物たちの集まりがあったそうな。
 そこへ動物が13匹やってきて、その中に十二支に入っていないイタチが一匹混じっていた。
 イタチは、おもさく (面白く) ねえから「おれ1人だけ十二支に入ってねえのはどういう訳だっぺ?」という話になってきたそうだ。


             

 そうすると、ある動物が「つい、あんたのごと入れんの忘れてしまったけんども、あんたごとは1番いいどこさ入れてやっから、そんで我慢してくんちぇない」と言ったと。
 それで「あんたはいたちだから、月の始めに持ってきて毎月一日を「いたち」と呼ぶようにしてやっから」と宥(なだ)めるように言ったら、イタチはそれで納得したんだとさ。
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いわき鹿島の昔ばなし39

2013-05-24 07:06:30 | Weblog
                               分類:歴
   団子聟(むこ)

 或る所に馬鹿聟がいて、或る時、舅(しゅうと)のところさ、お呼ばれに行ったんだと。
 そして団子をごちそうになった。
          

 それがあまりにも美味かったものだから家さ帰って妻に教えてやんべとして、忘れねえように途中の道をダンゴ、ダンゴと暗唱してきたんだと。
 そしたら塀があったもんだから、そっちさ気を取られてそこをドッコイと飛び跳ねたところ、すっかり暗唱していたものを忘れちまって、今度は家までドッコイ、ドッコイと言いながら帰ってきた。

 そして妻に「おめえ、ドッコイというものをこせえて(作って)食わせてくれろ」と言った。
 妻は「あんた、そのドッコイっちはどんなものだ?」と訊いたら「ドッコイを分んねえことあっか」と言って拳固を一つやったら、団子のようなコブができた。
 それで妻は「ありゃ、この人こんなに団子みてえなコブをこしらえてしまって」と呆れて言ったそうだ。

 「ああ、その団子だ」と言って思い出したそうだ。


   ※語り手によっては団子が、ぼた餅(牡丹餅)になったりします。
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いわき鹿島の昔ばなし38

2013-05-23 06:57:54 | Weblog
                                            分類:歴
        時鳥 (ホトトギス) の兄弟

                  

 昔あったそうだ。或る家があって、そこの母親は後妻だったんだと。
 母親は自分が連れて来た本当の子供には美味い物を食わせて、先妻の子供には何でもない普通の食い物を与えていたんだとよ。
 ところが、後妻の子供は自分にはこんな美味いもんだから、先妻の子供にはどんなに美味いものを食わせているんだっぺと思うようになってきたんだと。
 先妻の子供は食い物について、何ひとつ文句を言う訳ではねかったから、益々疑うようになってしまったそうだ。
 さあそこで、なじょ(どう)したらば自分より美味い物を食っているかを確かめる為に、とんでもねえことを考え付いてしまった。
 先妻の子供の腹を切って見れば、ハッキリと分ることだと思ったんだと。
 ところが実際に腹を切ってみたら、別に何も美味い物を食っていなかったどころか、腹の中には食った物は、ほんの少ししかなかったというでねえか。
 ああ、これは済まねえことをしてしまったと後悔して 「兄さま、オラが悪かった。勘弁してけろ」 と、後妻の子供は死んだ後に時鳥に変身して、八千八声鳴いて兄の功徳をしているということだ。
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いわき鹿島の昔ばなし37

2013-05-22 07:50:57 | Weblog
                                           分類:歴
       亀の甲より年の功

             
                  《映画「楢山節考」から=昭和33年・松竹》              

 或る所にあったそうだ。
 その地方ではな60歳になると皆、親を山さ捨てに行くことに決めていたんだとよ。 それである家の息子も、おっかさん(母親)が60歳になったもんで親を山さ捨てるために出かけたんだけども、とても可哀想で、とうとう捨てることは出来ねかった。
 それでまた背負い直して一緒に家に帰って隠れさせておいた。
 ある時、殿様から灰で縄をもじった物を献上しろと言ってきたんだと。それを聞いた息子は、なじょしたらよかっぺと悩んでしまったと。
 それで母親に聞いてみたところ、灰ではとても縄はよれねえから縄を燃やして、そのままそっくりとっておけば、灰で作った縄と同じになっぺからそれを上げれば良かっぺと助言した。
 それが段々と世に聞こえて、親というものは有り難いものだということになった。
とても60歳で捨てるなんてことは出来ねえという事になって、それからは親を捨てなくなったと言うんだ。
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いわき鹿島の昔ばなし36

2013-05-21 07:01:20 | Weblog
                                            分類:歴
       蛇聟 (へびむこ) 入り

 昔話というのは語りの始めに「昔々、あったとさ」とか「昔々、ある所に」とか、時代や場所を決め付けないのが特徴だから日本の各地で似たような物語が出来上がっているのは仕方がない。

 鹿島でも、明治生まれの人がまだ子供だった頃に聞かされたという「昔ばなし」を、昭和の後半に直接本人(・名前・生年月日まで明記してある)たちから聞き集めたという記録があるが、持ち合わせの資料に調査した人物が判明できないのが残念に思っている。
 当時、高齢者からの聞き取りということもあって、話の内容には既に原型をそこなっていることが多く、筋の脱落、混同によって曖昧な点を指摘されるのは否めないが、それら幾つかの昔話を、一編ずつ日を追って紹介してみたい。
             

 昔々、ある所に若い娘っこがいたんだと。
 ところでその娘っこが年頃になって色気が出てきたのはいいんだけっども、何しろ箱入り娘だから何処さも出ることが出来ねかった。
 ところが或る日、男が通い始めたそうなんだ。そうしてだんだんとその交際が深くなってきて、とうとう身篭ってしまったと。
 その時、その相手が言うのには「自分の子供を懐胎したときは絶対に菖蒲の湯に入ってはいけねかんな」と言ったんだと。
 その内に段々臨月になると、懐胎したことが親達にも判ってしまった。
 それで親達は色々と話を聞いていくうちに、相手が菖蒲の湯に入ってはいけねえと言ったことが分かったもんだから不思議に思って、菖蒲と蓬を丸めて湯につけ、その娘を湯さ入れさせたところ、俄かに産気付いて湯の中に子供を産んだ。
 その子供はみんな蛇の子だったっちゅう話だ。
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いわき鹿島の昔ばなし35

2013-05-20 07:03:17 | Weblog
                                           分類:歴
     「鹿島」 が一時なくなった

 鹿島村は、昭和28年(1953)戦後の町村統合に即して石城郡小名浜町に統合合併したが、昭和29年の磐城市になるまでは住居表示から「鹿島」という文字が消滅してしまった時期がある。
 それまで「石城郡鹿島村大字○○字○○」だったものが「石城郡小名浜町大字○○字○○」と変更になった為に「鹿島」の表示が不要になってしまったからだった。 
             
                  《湯ノ嶽を遠くに見た鹿島の長閑な風景》

 昭和27年頃から町村合併が繰り返し行われるようになり、市名や地名がコロコロと変更されて石城(いわき)郡、磐城市(一部地域が常磐市に編入)、そして昭和41年(1966)に14市町村(5市4町5村)が合併して、現在の「いわき市」が誕生した。

             
              《稲作は手植え、手刈りでハセギに掛けて稲干しをした》

 当時の鹿島を総じていうと、上矢田を源流とする矢田川と、蔵持地区を横断してきて矢田川に合流する蔵持川の両岸に水田を持つ純粋な農村地帯だった。
 昭和38年の新産業都市指定前後から、まず船戸地区に団地が造成され、道路の整備と共に大型商店の進出、食堂・レストランなどの建設ラッシュが始まった。
 更に県道48号線(常磐・江名線)もこの地を通り、鹿島街道を交差する交通上の要
衝となって「鹿島」の名前が消えて無くなっていたというのは嘘のようだ。             
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いわき鹿島の昔ばなし34

2013-05-19 06:09:33 | Weblog
                                             分類:歴
     宝物は砲弾1個の八幡さま
                    八幡神社(旧小社)  鎮座地 いわき市鹿島町米田字家ノ前56

             
                      《米田地区にある八幡神社》

 米田八幡神社の宝物(ほうもつ)は砲弾1個である。

 祭神は譽多別命(ほんだわけのみこと)で、第15代応神天皇の御名。
 仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた第4皇子。
 
  磐城の国に八幡神の勧請されたのは、後鳥羽院の御代前後であることは他の八幡神社の由緒によって明らかにされているが、米田の八幡神社の場合、祭神を同じくしながらも往古の記録を失って、創建年代は不詳。
 但し、社殿内の由緒板によると、安政4年(1857)と安政6年(1859)には9名の氏子が、社殿の再建を行ったことが記されている。
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いわき鹿島の昔ばなし33

2013-05-18 07:12:15 | Weblog
                                           分類:歴
      嫁さんの里帰り

 以前にも述べたが、鹿島村は2藩、1幕領の支配の下に近隣12ケ村が纏まり誕生しているので、生活環境や慣習は隣りのへ入っただけでも微妙にも違っていた。
             
               《昔の風情が残っている鹿島町の一部=米田地区》

 嫁さんの「里帰り」も同様のことが云えて、必ずしもこうだとは断言できるものではないが、1年を通じて実家へ帰ることが出来る標準的な回数は次のようになっていた。

 ・正月(1月2日) 餅2枚と手拭を持たせてやる。新しく嫁さんになった人は、2日~1週間ぐらい泊まっ
            てくる。 ※泊まらないところもある。
 ・1月15日 2日に泊まらせなかったでは、この日に餅と手拭いを持たせて泊まりにやる。
 ・節句(3月3日) 餅を持って泊まりに行く。
 ・彼岸(3月21日) うどん、酒、砂糖、菓子のどれかを持っていくが、この日は泊まらない。
 ・節句(5月5日) 赤飯、かしわ餅のいずれか。によっては、つぼ餅を持参して2日ぐらい泊まって
            くる。
 ・お盆(7月15日) お彼岸の時と同じような品を持って行き泊まってくる。
 ・八朔(8月1日) ナベカリと云って嫁さんは実家に行って鍋を借り、ご馳走を作る。
 ・彼岸(9月24日) 春の彼岸と同様に泊まらずに帰ってくる。
 ・刈り上げ(10月10日) この日は嫁さんの休日として自由にさせておく。
 ・歳暮 嫁さんの実家に一重の餅と手拭いを持たせてやる。しかし餅の半分は帰るときに持ち帰らせる
      という。泊まらずに日帰りとなる。

 
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いわき鹿島の昔ばなし32

2013-05-17 07:26:51 | Weblog
                                             分類・歴
      お地蔵さんのご難
                      場所 : いわき市常磐松久須根町字坂下 (旧・鹿島村)

 昔は力自慢をする若者が多かったようで、第2話でも下矢田と御代にある力石の持ち上げ自慢に関する伝説を紹介した。
 今回は力石の代わりに、お地蔵さんを使って力自慢をやってしまったという、松久須根の話。

              
               《台座の石や土台とは異質のものに治まった地蔵尊》

 鹿島街道にある鹿島神社前の信号から「五安の堤」方面に向かっていくと、右側に中島山(ちゅうとうざん)宝林寺がある。その境内の一角に祀られているのが像高1m30cmほどの子安観音=写真。
 
 明治初年の頃、村の若者たちが地蔵さんを肩に担ぐ力比べをしようということななった。
 次々に抱えては持ち上げようと競っているうちに、1人が精一杯の力を出し尽くして肩の近くまで持ち上げたものの重さに耐えかねて地蔵さんを落としてしまった。
 かなりの重量で、もともと肩へ担い上げることは無理だったが皆が挑戦した。その結果、お地蔵さんの胴体と首は割れて離れたしまった。
 難儀に遭ったお地蔵さんはそのまま放置され、いつの間にか姿を消してしまった。

 ところが昭和50年代に入ってから、鹿島の有志たちが郷土誌を作ろうとしていた編纂委員がその話を聞きつけ、子安観音の裏手を僅か10cmばかり手で掘りはじめたところで、石面が現れて首の無い地蔵尊であることが判明した。
 
 こうして長い間、土に埋もれていたお地蔵さんは再び世に出ることが出来て、今日も高台からの子供たちの健康と安全を見守っている。
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いわき鹿島の昔ばなし31

2013-05-16 07:29:33 | Weblog
                                           分類:歴
       馬は農家にとって家族の一員

 鹿島地区の各所に馬頭観世音の碑が多く見られるが、それらの場所は農耕地跡や急な坂道のようなところにあるのが多い。
 馬の航路安全を祈願して建てられたり、急死した場所に供養塔の意味を込めて建てられたからだ。

         
           《走熊地区の農道に建つ馬頭観音の碑》        《農作業に向う農夫と馬》

 昭和28年10月まで12大字が鹿島村だったが以降、小名浜町になり、昭和29年3月に磐城市(上矢田・松久須根・三沢は常磐市に編入)となり、昭和41年10月に現在の「いわき市鹿島町」(前述の3地区は、いわき市常磐)になった。
 そこで、鹿島村だった頃の馬匹数を調べてみた。

   明治 2年  牝 124頭  牡15頭   合計139頭
   大正 元年                     118頭
   大正13年                      177頭
   昭和 7年                      177頭
         △この年の全戸数による平均的な馬の頭数は0,6戸に1頭の割合になる。
   昭和17年                       89頭
   昭和20年                      120頭

 昭和30年代に至っては馬から牛へ替わった事情や、農耕機械化・化学肥料の普及などにより、昭和56年には鹿島からは馬の姿は完全に消えてしまった。
 昭和の初期まで馬は農家の財産で、人と馬は運命共同体として大切に扱われ賄いは嫁か長男が行い、しかも人よりも早く餌が与えられた。
 その馬も発作的な腹痛からくる死や、背に荷物を積んで山越えの途中で絶命したりで、飼い主を悲嘆させることが数々あった。
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