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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき鹿島の昔ばなし15

2013-04-30 07:10:28 | Weblog
                               分類・歴
    石段になった老松

                 若宮八幡神社 : いわき市鹿島町船戸字林下65

 若宮八幡神社は、鹿島街道のタイヤ館パソコン工房の前の道を150メートルほど入った場所にある。
 蔡神は、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)。第10代仁徳天皇のことであり、同天皇は厚く仁政を布き、民に農業を奨励して国力を養い、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)は相次いで朝廷へ貢物を献上した。大雀命(おおささぎのみこと)とも書く。
 現在では周囲を公営住宅船戸団地群にすっかり囲まれた形になってしまったが、昭和30年頃までは辺り一帯は田圃と畑に包まれた静寂な鎮守の杜そのものだった。


        
                  若宮八幡神社
 周囲の環境が変わっても、平坦地にある小山の高台で、しかも雑木が生え繁っているので、近くを通ると雰囲気からして神社は分かる。
 昭和41年に船戸団地造成に当たって境内の一部が削られたが、社屋はその地に止まり石造鳥居を建立し、子供神輿を造った。
 毎年5月3日の例祭には近隣から多数の子供が参加する。


        
              黒松を伐採して石段を造ったという石碑
 昭和10年代までは社前で別火の行事を、さらに昭和30年代までは神輿を小名浜湾に渡御させたが残念ながら現在では行われていない。
 境内には老松が生え繁っていたが、松食い虫に侵されて枯死寸前になったために止むを得ず、昭和57年に伐採し老松代価を以って石段を造り、氏子一同がその樹魂を慰めた。

    
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いわき鹿島の昔ばなし14

2013-04-29 08:31:30 | Weblog
                               分類・歴
     鹿島に村歌があった

 昭和の初期は全国的に不況の波に襲われて、鹿島村も例外なく苦しい生活を強いられていた。
 村内の世相も激しく揺れ動いていた中で、昭和9年に村長に就任した志賀直哉は「一円融合」を合言葉に、荒廃した村政の建て直しを決意した。


                 《12本のシュロに囲まれた二宮金次郎像》
 先ず、手始めに各字(12の字)から1本ずつの棕櫚(シュロ)の木を提供して貰い、鹿島小学校の玄関前に円形に植え、その中央部に二宮金次郎が薪を背負い書物を読み歩く少年時の像を据えた=写真。
 村政執行の姿勢に報徳仕法を取り入れて、一円融合を旗印に村長の融和を基調とし、村勢の再興を期した表れだった。

        
             《盆踊り》 ※本文との直接的な関係なし
 また、この時期に『一円融合』(作詞・小泉義浩)の村歌も出来上がり、曲は「山の唄」に合わせて歌えるようにした。
 この歌が小学校児童や村民各層に浸透し、野口実訓導の振り付けによる踊りも鹿島小学校の校庭で行われるようになった。
 歌は四節になっていて、一円融合の風潮が村内隅々に行き渡らせる工夫が成されている。


 1.東しゃ江名浜 湯本は西よ
    南 小名浜 北 平
   円く固まれ 鹿島よ 村よ
    一円融合で 進みましょう

 2.字は12で 名はこそ異(ちが)へ
    同じ心は 村のため
   老いも若きも 力のかぎり
    男女も 手をとりて

 3.國のためなら 水火も辞せぬ
    此の腕 此の足 此の心
   サッサ乗り切れ 不況の波よ
    村は平和な オラが村

 4.響く太鼓は 旭日昇天
    一円融合の 鐘の音か
   朝は早よから 夜は遅くまで
    セッセとかせぐも 誰が為  
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いわき鹿島の昔ばなし13

2013-04-28 08:09:51 | Weblog
                               分類・歴
     唄で覚えた鹿島の地名
 鹿島村(現・いわき市鹿島町)は、明治22年4月1日に近隣12村が合併して誕生したものだが、それ以前に遡ること時代は元禄(1688~1704)頃に、大津絵(追分絵ともいう)が売り出されて人気を得、江戸末期には全国各地でその地の名所名物を読み込んで替え歌が作られ、大津絵節と共に広がった。
 特に江戸時代には大津絵だけでなく庶民の間では、会話の中で洒落や冗句を取り入れて地名を覚えていった。
            
          
       《大津の追分辺りで売り出されたのが始まりとされる大津絵

 鹿島村でも明治の頃に、地名や名所旧跡を織り込んだもので大津絵の旋律(メロデー)に合わせた唄が作られている。
 
 軍次山(くうじやま)から 熊が出て
 矢田らに走る 走熊
 名所七本松 後にして
 久保見てと通れば 金光寺
 船も着かぬに 船戸という
 それより御代の 大仏様拝みつつ
 御代坂越えれば 岡小名で
 向こうに見ゆる 遍照院
 大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院

 夕暮れに 小名浜を立ち退いて
 水押し上(うわ)って 後にして
 東の法華寺 拝みつつ
 西の山田湯場 横に見て
 御代坂登って大仏様遥拝し
 それより船戸 岩薬師拝みつつ
 久保の里屋橋 通り抜け
 名所七本松 後にして
 走熊へと さしかかる
 次は 下矢田 上矢田で
 郷社鹿島神社に参拝し
 それより進めば 軍次山
 越せば 上荒川と谷川瀬で
 平町 日光町に着きますよ

 三沢の里へも 一度はおいで
 名所古跡もありますよ
 磐城七門一の向かいに
 三沢の館あとあり
 その上に 八幡公の陣とりし跡に
 八幡神社の祭りあり
 それより西の作に 宗任貞任の石碑あり
 この作を 霊墓(おきはか)作という
 その上に 母の小屋掛けせし山を
 小屋の山という
 その下に 母の祈願所 薬師堂
 それより奥を 花見平という
 昔 平の城主 安藤信正の
 花見せし所とか
 越して小名浜海上眼下に見え
 眺望すこぶる絶景なり
 それより西に下れば
 小野谷村に 程近し
 
◇作者は当地の漢学者・吉田正義といわれている。 
(※人物詳細に関しては当ブログの2009・2・25付を参照)
 
 
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いわき鹿島の昔ばなし12

2013-04-27 06:21:38 | Weblog
                               分類・歴
  天狗の下駄から落ちた石
                       場所 : いわき市鹿島町走熊字山ノ神

 鹿島小学校から、かしま幼稚園がある道を通り中央台へ向って行く途中の左側に、高さが約1,8メートルで横幅が3メートル位の岩がポツンと一つ見える。
 石質は風化しやすい凝灰岩だが、この石は天狗岩といって昔からの言い伝えがある。
              
          
              天狗岩に生き続ける1本の根性松

 むかし、むかし高寺山(たかでらさん)には悪魔や病気を追っ払う天狗様が住んでいた。
 高寺山とは「磐城三十三観音」の1つに数えられ、その17番目のお参り場所。
 その天狗様は気は優しくて力持ちときているから、村の人たちから非情に親しまれていたが或る日、この地の安泰と平穏を悟って山から飛び去っていく事になった。
 ところが、その時に天狗様の下駄の歯に引っ掛かっていた小石が田圃に落っこちて、だんだんと大きくなっていき今のような岩になった。
 天狗様が残していってくれたお守りとして部落の人は大切にしていた。
 岩の上には1本の松の木が生えていて土がないのに元気に育っているのは、根っこが岩の割れ目を伝って長く伸び、畑の地面から栄養分を摂っていたからだ。
  
        
              《無残な最期を遂げた松の木

 ところが残念無念なことに、畑の所有者が松の根っこが余りにも長く伸びすぎて、作物の栽培に支障をきたす事から根っこを切り落してしまった。
 平成23(2011)年の出来事だった。松の木は見る間に枯れ始めて、天狗岩と1本の松が対(つい)となって親しまれてきた歴史が終焉を迎えた。

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いわき鹿島の昔ばなし11

2013-04-26 06:57:58 | Weblog
                                           分類・歴
     戦時中に供出を免れた梵鐘
                               養照山寶蔵院 金光寺
                                  いわき市鹿島町久保字西ノ作71

 太平洋戦争で、戦局の悪化と物資、特に武器生産に必要な金属資源の附則を補うために家庭にあった鉄びん、火箸、煙管(キセル)、バックルなどあらゆるものが回収される中で、それだけではこと足らず、やがて官公庁、市町村の施設、神社、寺院、教会なども例外なく金属類回収の対象になった。
 昭和16(1941)年8月30日公布、同年9月1日施行の「国家総動員法」にもとづく金属類回収令により実施された。
             
             
                    《供出せずに済んだ金光寺の梵鐘》
 いわき地方に於いても、昭和19年頃から各寺院の梵鐘が外されて溶かされ、兵器類の地金と化したものが沢山あった。
 鹿島村役場でも、各寺に吊るしてある梵鐘の供出を求めるよう職員に指示を出して、係の者が久保にある金光寺を訪ねた。ところが、その日は住職が外出中で留守を守る女の人だけだった。

                      《久保地区にある金光寺》
 女の人は「住職が居ないところでは渡せない」と留守をしている責任上、頑なに断ったために係の者は仕方なく後日、改めて訪ねる旨を伝えて帰った。
 昭和19年のことで、翌20年8月15日には終戦を迎えてしまい、あの時にたまたま住職が留守だったために、金光寺の梵鐘は寺に残る結果となった。
     
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いわき鹿島の昔ばなし10

2013-04-25 05:58:35 | Weblog
                                            分類・歴
      旧、鹿島村の手毬(てまり)唄

 手毬唄は明治後期から昭和時代にかけて、全国で唄われていたが、今では歌詞を覚えている人や、実際に唄える人は皆無と云ってもいいのかも知れない。
 故人だが常磐松久須根町(旧鹿島村)のSさんという明治31(1898)年生まれの人が、10歳の頃に覚えたという手毬唄を「鹿島郷土誌」の中で紹介している記事があったので、その二題を転載する。
 既に100年以上も前から鹿島の子供たちの間に「手毬遊び」があったことに驚く。


     《まりつき(ゴムまり)で遊ぶ子供だが、手毬も基本的には同じような動作をして遊んだ》

        正月門松〈手毬唄〉  
♪正月門松 2月初午
     3月雛様 4月お祭り
     5月は誤節句 6月天王
     7月七夕 8月八朔
     9月は菊ずけ 10月恵比寿講で
     夕べ呼ばれに 恵比寿講に行ったらば
     鯛の浜焼き すずきの吸い物
     おつけでざくざく 一杯吸いましょ

        一番初めは一の宮〈手毬唄〉
    ♪一番初めは一の宮
     二また 日光東照宮
     三また 佐倉の宗五郎
     四で 信濃の善光寺
     五つは 出雲の大社
     六つ 村々鎮守様
     七つは 成田の不動様
     八つ 八幡の八幡宮
     九つ 弘法大師なり
     十で とうとう専願し
     これほど専願したけれど
     浪さんの病は 治らぬか

註釈・三は讃岐の金比羅さん/八つ大和の東大寺/十で所の氏神さん/東京泉岳寺/東京本願寺、など様々なバリエーションが地域ごとに見られる。

◇鹿島地域には地搗き唄や、祝儀唄、鹿島村(当時)の地名や名所古跡を織り込んだ唄など、文献に多
 数残っている。
 中には歌詞が長いために、朝から昼過ぎまで掛かるという唄もある。
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いわき鹿島の昔ばなし 9

2013-04-24 11:32:26 | Weblog
                                           分類・歴
    氏神様が村社になった話
                        熊野神社 : いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2

             
                        《旧村社、熊野神社》

 常磐・江名線(県道48号線)の下蔵持地域を走行中、道路脇にある神社を目にする=写真。
 この神社は地元、志賀家所蔵の旧記によると同家の氏神であって、弘仁2(西暦811)年より約990年間は宅地内に在ったがその後、村の鎮守となり、村社と呼ばれるようになった。
 
 以来、産土(うぶすな)様として崇敬してきたが、境内が高地にあったために神事やお参りなどに支障をきたし、昭和32年に近隣地の譽田別命(ほんだわけのみこと)を祀る旧小社、三島八幡神社の整地を拡張整備し社殿を新たにした。

 かつては江名浜海岸に神輿を渡御させ、お潮とりの神事を行っていた=例祭は毎年5月7日。

◆延暦23(804)年正月に、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征伐に際し勧進したとも伝わる。
 

 
 
                  


 
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いわき鹿島の昔ばなし 8

2013-04-23 07:21:51 | Weblog
                                           分類・歴
     小井戸の水
                             場所 : いわき市鹿島町走熊字柳作12

 磐城三十三所観音霊場第17番札所は、高寺山(当、昔話の5を参照)の頂上にあるが、その登り口そばにある渡辺家の側道に小井戸(こいど)は今でも存在する。
 当家の先祖が、の一大行事として毎年、旧暦7月17日に行われる獅子舞奉納と、高寺山へのお参りで登山する人たちの身体を清め、喉の渇きを癒すために作ったという。

 この水は身体をこわして病で床に伏したり、死期を悟ったりした人たちは、よく「小井戸の水を飲みたい」と家人に頼み、汲んで貰ってきては口にしたそうだ。      
    
                 《一年中、涸(か)れることがない小井戸の水》
 この井戸水を土地の人たちは小井戸の水とか観音様の御水垂(おみたらし)と呼んでいる。
 岩盤の一筋の割れ目から湧き出てくる清水は、年間を通して涸れることがなく、昔から地元の人々からは美味しくて身体にも良いとされて農作業の合間や、通りすがりに寄って口にしていた水である。
 汲んで家に持ち帰る人たちもいたくらいだから聖水としても尊ばれた。
 
       《渡辺家で観音様の御朱印も押してもらえるから其の時にでも一杯いかが!》
 現在では、ミネラルウォーターや清涼飲水などが豊富に出回り、上水道も整備されているから、利用者から忘れ去られたように「小井戸」は今でも山草に隠れるようにして聖水を湧き出している。
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いわき鹿島の昔ばなし 7

2013-04-22 07:49:27 | Weblog
                                             分類・歴
     鹿島公民館は丸山公園の跡地
                          鹿島公民館 : いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1
                                    0246-29-2250

◇「昔」という定義が分からないが、よく10年ひと昔とか、昔むかしなどと話を始めようとするところから解釈すれば、詳細な説明をしなくて概略的に「このような事があった」と、伝えようとする時の枕言葉なのかも知れない。
 めまぐるしく変様していく現代社会に於いて、昨日は既に昔であり歴史だと捉えると鹿島に関する題材はいくらでも出てくる。
 そういう考えで〈鹿島の昔ばなし〉として多々記していきたい。

             《丸山は、公民館の裏に見える山の半分位の高さだった》
 現在の公民館は昭和56年に建設されたが、以前はその場所に名前の通り丸型の小さな山があった。
 史跡「七本松」のすぐ傍にあり、江名から鹿島に来る道路は旧鹿島街道と合流し、丸山に突き当たってT字路になっていた。
 この円形状の丸山が削り取られる時には、もしかすると古墳で、遺跡発掘にも繋がるのではないかと大きな期待もかかったが出てくるものは何もなかった。
 現在は県道(48号線)常磐・江名線になって湯本へ抜ける十字路になっている。
 山は丸山公園と呼び子供の遊び場で頂上の平坦なスペースに、忠魂碑だけが子供の目線で見上げるように建っていた。
 ※その忠魂碑は、現在の公民館敷地内にある。


 《上段の写真は道路新設のために半分が削り取られたが、まだ左側部分が残っていた当時の丸山》

 下段の写真左端に白い建物が見えるのが鹿島公民館で、手前の建物(レストラン グランド・レガロ)の陰になって見えないが道路までは駐車場になっている。
 道路を挟んで公民館の前がハニーズ本社。

 


 
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いわき鹿島の昔ばなし 6

2013-04-21 06:46:52 | Weblog
                                              分類・歴
       嫁送りの松
                          場所 : いわき市中央台鹿島3丁目 (旧・走熊地域)


              《娘が嫁いで行く…… 嬉しくもあり、淋しくもあり》

 中央台南中学校のバス停付近に、松の木が1本植えられて 「 嫁送りの松 」 の碑が建っている。
 昔、この周辺は奥深い山林でちょうど鹿島村と高久村の境になる場所だった。
 村から嫁になって山を越えていくときには、親戚縁者や村人たちが頂上近くにある1本の松の木のある所まで送ってくると、そこで名残を惜しんでお別れをした。
 いつの間にかその場所にある松を「嫁送りの松」と呼ぶようになった。

 鹿島から高久・山口方面へ行くには、正式な道(旧・鹿島街道)を通って行くと一旦、平に向って途中の谷川瀬から迂回しなければならないので、遠回りで時間も掛かった。
 このため、結いの田植えとか稲刈りとか、また冠婚葬祭があると村人たちは獣道のような細い道でも近道としてよく利用していた。
 夜になって帰る時には必ず数人で行動をとるのが当然のことだったが、事情ができてどうしても1人で帰るようになった人は、途中でキツネに化かされて1晩中、独り言を云いながら山の中を彷徨(さまよ)っていたという例もいくつか話の種として残っている。
 それほど淋しい山道だった。

 ◇石碑=(写真)には「嫁送りの松」と刻まれているだけで、説明文が付いていないのでこれを目にする人たちの中には何故ここに、このようなものが建っているのか理解できないかも知れない。

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いわき鹿島の昔ばなし 5

2013-04-20 07:38:06 | Weblog
                               分類・歴
  十六坂と呼ぶようになった訳(理由)
                       場所 : いわき市鹿島町飯田字十六坂

 常磐バイパスを通過中に開成病院を目にするが、病院の裏側に並行している飯田地区の旧道があります。
 その道を林城方面に向って少し行ったところが十六坂です=写真。
 
         
            漁師が打上げられたとされる十六坂

 昔は細くて険しく、急な坂道だった。その時代は矢田川の下流地帯が海浜であり、飯田から対岸の船戸地区までも海で、かなりの荒海だった。
 付近の地域には御代の貝塚があり、船戸という地名も「船」という文字が付いているところからも海であったことが容易に推察できる。

 ある時、海は暴風雨の襲来でこの一帯も逆巻く怒涛と化した日に、付近で出漁していた漁船が難破して、漁師たちの死体が打上げられたのが飯田部落で、死者が16人であったことからそれ以来、この坂を十六坂と呼ぶようになった。

 ◇飯田地内では山や飯田橋の地表下などから海棲の貝殻類が多数出て、付近一帯が特別な堆積
  環境であったことを物語っている 。


         
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いわき鹿島の昔ばなし 4

2013-04-19 08:14:52 | Weblog
                             分類・歴
  絵馬から飛び出た馬
            場所 : いわき市鹿島町走熊高寺山
                磐城三十三所観音霊場 17番札所 高照観音堂

 走熊(はしりくま)には通称、高照(寺)山(たかでらさん)という標高126メートルの山があり、鹿島町では最も高い。
 ※旧・鹿島村役場にあった磐城國磐前郡走熊總計二十八字地名の書物には高照山は「コウショウザン」のフリガナが振ってある。

       
              《観音堂へ上っていく山道》 
 
 昔、このお堂に絵馬が掛かっていて、そこに描かれている馬が毎晩夜になると山を境にした隣村の蔵持へ出て、走り回っては悪さをするという噂や苦情が多くなったものだから、走熊の部落ではお堂の扉に錠を掛けたところそれ以降、馬の出没がピタリと止んだという話が残っている。
                      
                《高照山十一面観音堂

                       
                《祭典日に開扉されたお堂》

                     
             《外壁に掛かっている奉納額・幕など

 ◇このような古い話から、走熊という地名の由来は「熊」ではなく「駒(馬)」で、役人が検地の際に走駒(はしりこま)を「はしりくま」と聞き間違えて、台帳へ「走熊」と誤記してしまったという話もある。
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いわき鹿島の昔ばなし 3

2013-04-18 06:57:28 | Weblog
                                           分類・歴

   追い剥ぎが出た 「 くうじ山 」
                                 場所 : 上矢田(現・常磐上矢田町)

 鹿島村は、昭和29年に小名浜町に編入合併したが、この時に12部落あった内の上矢田、松久須根、三沢が分離して湯本町に編入したために区分けされて、鹿島地域からは外れた。
 これにより上矢田の地名変遷は、鹿島村上矢田から湯本町上矢田に変わり、更に常磐市上矢田になって、昭和41年いわき市制が誕生したのと同時に、いわき市常磐上矢田町というように何度も変わった。
 「鹿島の昔ばなし」の中には前述の3地域も、かつては鹿島村12部落として長い間共存してきた関係で、多々関連性があるので鹿島全体と見做(みな)して、以降も地名と所縁(ゆかり)が出てくる。
 写真は鹿島街道の獺沢(おそざわ)バス停付近から平方面を見たもので、右側が新道、左が旧道でその先にあるのが「くうじ山(軍事山)」。
 新道部分の方が宅地造成で削り取られ、道路と郷ケ丘ニュータウンになった=写真。     

      《坂上の前方左が 「 くうじ山 」 の1部だが、右側部分は開発によって跡形もない》

 昔は、あの頂上辺りに約50メートルの洞門(トンネル)があって、明治の中頃には “ 追い剥ぎ ” が巣食っていて、暗闇が訪れると数人の男たちが洞門の中に寄り集まり、男根丸出しで焚き火に手あぶりしながら、通行人を脅して金品を巻き上げたという。
 くうじ山の洞門に追い剥ぎが出没したという伝聞は多く、難所であるばかりではなく人里離れた場所だけに、そういう悪さをして人々を苦しめる悪党がいたことは事実のようである。
 くうじ山は、戊辰戦争が勃発した慶応4年(1868)に、列藩側が軍事上の作戦拠点としたために「軍事(軍次)山」と呼ばれるようになった。
 後に官選知事、三島通庸(みちやす)が在任した時に、平~小名浜間の道路(旧・鹿島街道)が県道に指定されたが、当時のことだから県道指定による道路改良といっても荷馬車が通行できる程度だった。

◇くうじ山の洞門があった場所は、郷ケ丘の信号がある辺り(位置的には、もっと高い所)で、近くには
 NTT東日本福島いわき支店がある。




 
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いわき鹿島の昔ばなし 2

2013-04-17 07:20:56 | Weblog
                                            分類・歴

     御代と下矢田にある力石
                          杉社山真浄院 いわき市鹿島町下矢田字大作140
                            八坂神社   〃    〃  御代字赤坂32-3

 「力石」とは、労働を人力に頼らざるを得なかった時代に体力を養うのを目的とした石のこと。
 力石を用いた「力持ち」は、1人前の男としての通過儀礼、鍛錬および娯楽として用いられ、特に村の若者が力自慢を競うためにも使われた。
 全国的にも力石という名の石は存在するが、鹿島地区では下矢田の真浄院境内と御代の八坂神社上り口に残っている。
 
           
                      《真浄院境内にある力石》

 下矢田には大きな堰が2つあって毎年堰止め工事が行われ、青年たちはそういう労力作業に備え毎月の農休日にはお寺に集まり、修行のための寺泊まりや体力作りに相撲や力くらべをしたが、その時に活躍したのが繭型をした力石だった。
 なぜ繭型をしているのかというと実は胴搗き石で、真浄院創建の際に石の一周に縄を括って地固め用に使用された石なのだ。
 この石を置いてある場所は、山門を潜って石段を上り切った境内の右手にある。
 大きな黒松の根元に身を潜めているかのようにあるが、力石は尺貫法で32貫というから120キロ前後の重さである。


           
                   《御代の八坂神社階段前にある力石》

                 
                    《このようにして力を競い合った》                

 

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いわき鹿島の昔ばなし 1

2013-04-16 11:24:50 | Weblog
                                           分類・歴

   里也橋(お里の橋) という名前が付いた謂れ

                      場所 ・ いわき市鹿島町久保字里屋と、走熊字小神山の境

 旧道の鹿島街道と湯本・江名線が交差する七本松の信号から久保方面へ向って行くと、左側に「かしまクリニック」と「かしま病院」があり、手前に蔵持川がある。
 その川に架かっているのが里也橋(さとやばし)=写真。


                       《現在の里也橋》
 昔、久保村から欅(ケヤキ)の巨木を伐り出して、蔵持川に橋を架けるようになった。
 しかし、巨木は重量があり人夫が押しても引いても簡単に動かすのは困難だった。何としても運び出さなくてはならないので、思案の結果、蔵持に住む「さと」という美少女(※一説には寡婦とも言われている)に木遣り唄(音頭)をとらせて運ぼうということになった。

             
                    《橋を渡って左が、かしまクリニック》
 人夫たちは唄の上手な「さと」の音頭に合わせて気合が入ったものだから、大木は動き出して目的の場所に達し、工事を無事に済ませることが出来た。             
             
                        《里也橋の歩道橋》
 橋はその名に因んで「里の橋也(さとのはしなり)」というところから「里也橋」と命名された。             
             
                        《蔵持川のプレート》
 ◇言い伝えや書物の1部には、巨木の伐り出し場所が蔵持地区の榎(エノキ)であったり、里〈屋〉橋となっているものもある。                                       
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