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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

鹿島の風景 船戸~久保

2018-08-31 06:34:27 | Weblog

                                分類:地

 写真の中央に見える黄色い看板は 「ABCマート」 で、その先のブルーに白の看板が見えるのは 「西松屋」 です。          《鹿島街道の久保と船戸の境界付近。右に見える岩肌は磨崖仏》

 久保地区は幕藩時代の行政区画としては、湯長谷藩領に入っていました。                         現在の人口652名  世帯数479世帯

                                                         【主な商業】 「家具の丸ほん」 「パレスいわや」 「まるまついわき鹿島店」 「ダイユーエイト」 「かっぱ寿し」         

   船戸地区は幕藩時代の行政区画としては、平藩領に入っていました。                             現在の人口611名  世帯数266世帯                                      【主な商業】 ガリバーいわき鹿島店 ラーメン山岡家 マクドナルド シュープラザいわき鹿島店 ※いずれも平成29年10月1日現在の資料                                                  《左側に見えるのが金光寺、右が御霊神社》                     

           

             《鹿島保育所から岩薬師方面の旧道》

                                                        

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ひと山越えると谷川瀬村

2018-08-30 06:11:13 | Weblog

            《この坂を登り切った所が鹿島と谷川瀬村(平)の村堺だった》                                                                                                                    分類・地歴

 現在の、いわき市鹿島町には明治22日年3月まで12の村が存在し、しかも幕藩時代の行政区画として、平藩領(7村)・湯長谷藩領(3村)・幕領[※小名浜代官所の支配下(2村)の三区域に分かれていました。
 同年、4月1日を以って12ケ村が一括併合して 『鹿島村』 を誕生させました。

 その頃は鹿島から平の町へ出るためには、くうじ山(軍事山)=写真、の頂上近くにあった洞門(トンネル)を潜って谷川瀬村や下荒川村を通って行かなければなりませんでした。
 写真で見る2本の道路は、右側が旧道を拡幅して出来た現在の鹿島街道で、左が獺沢(おそざわ)へ入って行く田圃の畦道のような狭い農道でした。                                写真は鹿島から平方面に向かって撮りました。

 坂道を上り切った辺りが「くうじ山」で、現・NTT東日本福島いわき支店がある場所です。
 昔は左の山の高さ位の所が坂の頂上でしたから、村人の生活上に於いて何かと不便が生じました。                    現在の谷川瀬(平)方面から、くうじ山に差し掛かった場所の上り坂》 

   鹿島村内の農家は、平の「釜屋」という大地主から農地を借り受けていた小作農家が多かったので、秋上がりには小作米を納めなければなりませんでした。
 これを、あげ米といって荷馬車に積んで釜屋まで運ぶのですが、俵数で13俵前後を荷馬車に積んだ馬は「くうじ山」の上り口まで行くと、急勾配の余り途中で立ち往生してしまい馬に精一杯の掛け声をかけても動かなくなってしまうのです。
 仕方なく荷台から数俵を降ろして、まず荷馬車を頂上に留めておき荷主が1俵ずつ担いで坂上まで運んだといいます。 一山越えて、谷川瀬村(現在の自由ヶ丘・福島高専付近)へ出るだけでも大変な苦労をしたことが窺い知れます。


  「くうじ山」の関連記事は2008・12・25日付参照。

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七本松碑文を拓本に採る

2018-08-29 05:33:13 | Weblog

                                           分類:地歴

                              場所 : 鹿島公民館 敷地内                                                                                 いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1                 歴史を繋ぐ七本の松                                                   25日(土)に、鹿島公民館の敷地内に植栽されている史跡 「七本松」 の由来を刻んである石碑文の拓本採りの実技と講演がありました。                                                鹿島民俗見聞会 (小松隆代表・駒木根通夫氏) の主催によるもので直接、実技に入らずに先ず公民館の和室で、地元の講師により七本の松が最初に植えられた謂(いわ)れと、今年は折しも戊辰戦争150周年を迎えた年でもあるところから、七本松での戦いをも含めたエピソードから始まった。                        《開始前に早くも予定人数を越えて聴講に集まってきた人たち》

 拓本についての話や実技は、全技連マイスター・ものづくりマイスター、県・市名工の肩書を持つ佐藤達好先生(郡山)及び佐藤英男先生(湯本)と会川幸親先生(久保)に、日中の暑い陽射しの中で実演をして頂き、また参加者も拓本手法のご教示を仰ぎました。                         《足場組や石碑の洗浄などで、拓本はそう簡単には採れない事も学びのひとつ》

  鹿島の山間の道に七本の松が植えられたのは、いまから遡ること延暦23年(804)正月で、坂上田村麻呂将軍が兵を引き連れて蝦夷征討へ向かう途中でした。                             走熊を通り掛かった所で休憩をしました。これより真っ直ぐ進めば平へ、右に曲がれば江名港へ行ける三叉路で、ここで休んでいれば常に周囲の動向が把握できるからでもありました。  坂上田村麻呂将軍はその時に、戦勝を祈念して七本の松を植えました。 いまから1214年も前のことです。                《二代目の松だったが、昭和50年の道路拡張工事のために止む無く伐採されてしまった》 

 従って、現在の七本の若松は三代目になりますが、最近まで1本が枯れたままで暫くの間 「六本松」 状態でした。この一本欠けてしまった松の対策に苦慮していたのですが、鹿島地区地域振興協議会と、その中の部会、歴史と文化委員会、それに鹿島公民館の働きかけによって七月に元の七本松に甦らせました。                                                                              地名にもなっている 「七本松」 について、今回、鹿島に住む人たちの一連の活動を見ていて、名実ともに後世に残す名跡としての重要性を改めて気付かされました。        

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鹿島に金融機関は六店舗

2018-08-28 06:03:37 | Weblog

                           分類:商                                                                                                                                       東邦銀行いわき鹿島支店   いわき市鹿島町久保1-5-20                                                                                                              ☎ 0246-58-2111                                                                    《東邦銀行いわき鹿島支店》 


   東邦銀行は1941年に郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行が合併して株式会社東邦銀行を設立したのが始まりで、現在いわき市内だけでも13店舗を開設しており、東北地方では七十七銀行に次いで第二の規模です。                                         窓口営業時間 9:00~15:00                              ATM営業時間 平日8:45~19:00 土曜9:00~9:00 
                       日・祝9:00~15:00


 鹿島には金融機関が6店舗あり、殆んどは鹿島街道沿いに集中していて、その全てが走熊と久保地内にあります。                                                           東邦銀行いわき鹿島支店もその1つですが、他に、ひまわり信用金庫鹿島支店・大東銀行東支店・いわき信用金庫鹿島支店・福島さくら農業協同組合鹿島支店・いわき鹿島郵便局があります。                                                 《大東銀行東支店》                                                                                 《ひまわり信用金庫鹿島支店》                                                                    《いわき信用金庫鹿島支店》                                                                                                                    《福島さくら農業協同組合鹿島支店》                                                                                                《いわき鹿島郵便局》                     


                       


           

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鹿島の山火事(昭和4年)

2018-08-27 06:13:52 | Weblog

              《烈風の中、燃え広がる山火事》                   
            ※写真は本文と直接関係するものではありません 
                                                                                                                        分類:地歴
 

 昭和4年2月25日(旧正月の16日)、午前11時半頃に走熊部落の民家より火災が発生。
 これを地元の人たちは俗に「走熊の大火事」と呼んでいますが、『福島県災害誌』では〈石城郡鹿島村の大火〉として掲載されています。 それによると、住家48戸、非住家38棟、山林300町歩を焼失。原因は失火。損害額40万円となっています。当時の米価が60㎏で6円20銭前後でしたから、現在の金額に換算すると約8億円以上の損害だったことになります。                        《火事は山から山へ伝って他村にまで延焼していった=火元の近くだった現在の走熊》   

 火災発生の状況を調べると失火の発生地は走熊地内の農家で、家の建て替えで大工や石屋が作業をしていました。この日は
北風が吹く寒い日で、10時の一服(休憩)時間に残材やカンナ屑を燃やしながら暖をとり、その後仕事に取り掛かっても火種を消すことなく、木っ端が発生するたびに燃していました。 時折、烈風吹く中で、石屋が馬屋萱屋根中段から火の手が上がっているのを発見、大声で人を呼びました。近隣の人々も慌てて駆けつけ、バケツで散水しましたが火勢は増すばかりで、その火は見る間に延焼して八坂神社や福正院の他、観音様を祀る高寺山までを焼き焦がし、更に火は隣部落の上蔵持に留まらずに、江名・豊間へと火は延びていったという大火災でした。

 ▲その他にも、昭和9年3月2日の午後、鹿島村の山林から原因不明の出火があり、火は鹿島村の山林をはじめ江名・豊間・飯野・高久へと近隣各村の山野へ延び、実に山林200町歩を焼失してしまいました。
 これによる損害額などの記録はの残っておりません。

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中央台の朝市(マルシェ)

2018-08-26 08:26:07 | Weblog

                              分類:催


                     場所 : いわき市中央台鹿島1丁目


新鮮な野菜と食品などetc.          
  今朝(26日)は、中央台(いわきニュータウン)で朝市がある日。                                                   
場所は中央台南小学校前の「ぷろぱんす56」の通りで、毎月第2、第4日曜日の6時30分から9時まで開かれている、地元ではもうお馴染の朝市です。


 露店の主な販売商品は、新鮮野菜・菓子類・手作り豆腐・中華惣菜・手作り惣菜・インテリア小物・リサイクルウェアなど、早朝の清々しい時間帯に見て歩くだけでも楽しい。                     《出店準備中の朝市メイン通り=6時過ぎ》            


              《中国料理、いわき四川のメニューも豊富で早朝から手に入るので人気がある》 


           《リサイクルウェア売り場》  《あいざわ(店舗)では早朝コーヒーも味わえる》                 


                                

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鹿島街道~中央台への道

2018-08-25 06:11:57 | Weblog

             《上矢田方面から中央台へ上る道》
                              分類:地


 いわき市は、昭和46年に「いわき市総合開発計画」を策定し、まちづくりの指針が決定され「明るく住み良いいわき市」の建設を目指した各種プロジェクトが進められてきました。 その代表的なものに「いわきニュータウン」があります。 自然とのふれあいの中で、小・中学校及び大学、県立公園などの文化施設が完備されて人口約3万人を擁する正に「新しい街」です。 鹿島街道から、いわきニュータウン(中央台・飯野・高久方面)へ向かうには三つの方法があるので挙げてみます。※平寄りから。


①(上矢田口)天ぷら「天秀」と「関彰商事ガソリンスタンド」のある信号を上っていくとスーパーマルト                                   や、いわき明星大学方面。(写真上)②(下矢田口)渡辺ゴムがある信号を上っていくと「暮らしの伝承郷」や「ラパーク」方面。③「鹿島小学校」から「かしま幼稚園」を経由して、道なりに進んでいくと大きな貯水池があり、そこを                                         上り詰めると「中央台南小学校」の前に出ます。                                           《 ③のコースで中央台へ上って来ると、走熊の原風景が見られます》        

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走熊のお地蔵さん

2018-08-24 06:12:17 | Weblog

                                            分類:歴                                                                                  場所 :  いわき市鹿島町走熊字鬼越

 鹿島小学校から、かしま幼稚園へ向かう道の角を曲がった場所に、願い事を聞いてくれると言われているお地蔵さんがあります。                                               どこにもお地蔵さんはありますが、このお地蔵さんの特筆すべき点は真北を向いて立っているところにあります。ちょっと身近にいるお地蔵さんを思い浮かべてみて下さい。「どちらかと言われれば北寄りかな?」というのもあるでしょうが、このお地蔵さんは〈北向き地蔵〉として知られているのです。
                                《親子連れや幼稚園児、車で通る人たちがお参りをして通る地蔵さん》

 よく、亡くなった人の頭は北向きにするから、寝る時は北枕といって忌み嫌い、旅先などでも寝る時の頭の向きに拘る人を見かけることもあります。ところが、この走熊(はしりくま)のお地蔵さんは、ご慈悲ある顔を敢えて北に向けています。                                                  昔からお地蔵さんが願いごとを聞いてくれたとか、助けてもらったと言って信仰している人は多く、わざわざ他地区からお参りに来る人たちがいます。   
                                                                                             《土台が腐蝕してきた頃の地蔵堂》           《平成23年に新しくした地蔵堂》

 沢山の事例を伺っていますが、書き出したらキリがないので一例だけを紹介します。                 故、Y・Hさん(享年83歳)は幼少の頃に原因不明の高熱で寝込み、医者に診てもらっても芳しくなく、周囲の人たちさえ 「もう駄目じゃないのか」 と囁いているのまで耳にしたそうです。                    実際に自分でも、このままでは死んでしまうと思っていたらしいが、その晩、枕元にお地蔵さんが現れて、それはそれは優しい顔ををして、にっこり微笑んでいたというのです。

 翌日になったら嘘のように熱が下がり、元気を取り戻したというエピソードは、私が子供の頃に聞かされました。今では、それだけ真剣になって話してくれた隣のお爺さん(当時)の表情を思い出すと、懐かしくなる歳になりました。                               
      

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鹿島村歌は伝えたかった

2018-08-23 06:16:32 | Weblog

     《村歌 「一円圓癒合融合」 に合わせて踊る村人たち=昭和10年代》     
 分類:地


 全国的に昭和の初期は不況の波に襲われて、鹿島村も例外なくその被害は甚大でした。 村内の世相も激しく揺れ動いていた中で、昭和9年に村長に就任した志賀直哉は「一圓融合」を合言葉に荒廃した村政の建て直しを決意しました。   先ず、その手始めに各字(12字)から一本ずつのシュロの木を提供して貰い、鹿島小学校の玄関前に円形に植え、その中央部に二宮金次郎が薪を背負い書物を読み歩く少年時の像を据えました。 村政執行の姿勢に報徳仕法を取り入れて、一圓融合を旗印に村長の融和を基調とし、村勢の再興を期した表れでした。 また、この時期に『一圓融合』(作詞・小泉義浩)の村歌も出来上がり、曲は「山の唄」に合わせて歌えるようになっていました。     この歌は四節までありますが、その全部を紹介します。
     1.東しゃ江名浜 湯本は西よ
          
南 小名浜 北 平
                     
円く固まれ 鹿島よ 村よ
          
一圓融合で 進みましょう

 
     2.字は十二で 名はこそ異(ちが)へ
          
同じ心は 村のため
          
老も若きも 力のかぎり
          
男女も 手をとりて

                                                                            3.国のためなら 水火も辞さぬ                                                    此の腕 此の脚 此の心                                                          サッサ乗り切れ 不況の波よ                                                       村は平和な オラが村                                                                                                                                                                                     4.響く太鼓は 旭日昇天                                                          一圓融合の 鐘の音か                                                            朝は早よから 夜は遅くまで                                                     セッセとかせぐも 誰が為
 


  この歌が小学校児童や村民各層に浸透し、野口実訓導の振付による踊りも鹿島小学校の校庭で行われるようになりました。     

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十九夜講と安産祈願

2018-08-22 07:04:32 | Weblog

            《走熊の蔵福寺境内にある如意輪観音像》                                             
                               分類:地

 かつて、十九夜講は、毎月十九日の夜に輪番制で決まった家に女性たちが集まり、安産や延命などを祈願する伝統的な行事で各部落ごとに行われました。これを人々は親しみを込めて「十九夜様」と呼んでいます。

                         
          《米田地区》                《走熊地区》

 祭壇に観音様が子供を抱いた姿の掛軸を飾り、団子やお菓子、果物などを供え全員で線香をあげてお題目を唱和します。全員が車座になって座り、直径約1・8mに1千個の数珠玉が通された綱を、右回りにたぐり寄せ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えながら、自分の手元に大きな数珠が回ってくると深く頭を下げる数珠繰りが行われます。

             《蔵福寺(走熊)で行われた十九夜講

 走熊地区を例に取ると、唱和は実際には「ナンマイダンボ、ナンマイダンボ」と皆で調子を合わせながら願いを込めての唱えかたをしていました。
 いまでは集まる場所は寺であったり、回数も少なくなっているのが現状のようです。この風習が始まったのは、江戸時代に磐城平藩の殿様が働きずくめの女性を休養させるための方策として「十九夜講」をつくり、女性たちに外出許可を出したと伝えられています。

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戊辰戦で矢田川利用の術

2018-08-21 06:40:12 | Weblog

               《この土手下を、西軍は鳴りを潜めて進軍して行った》                                                                                            分類:歴    

 矢田川は上矢田の獺沢(おそざわ)を源として鹿島地域を貫流し、南富岡(小名浜)に至って藤原川と合流しています。
この矢田川を戊辰戦争の際に西軍がうまく利用して、平城進撃を有利にさせた起因の一つに挙げ                                      られています。

 慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、4月に幕府の江戸城開城、無条件降伏により大勢が決した。
 しかし、薩長両藩を中心とする新政府主戦派は、東北諸藩の武力討伐を主張し、その中でも特に会津藩が標的となりました。
 これに対し、仙台藩を盟主として奥羽25藩は列藩同盟を結成(※後に北越6藩が加わる)、新政府に抗議することを決議しました。
 磐城三藩もこれに加盟して、こうした状況の中で磐城の戦いは始まったのです。
 
 磐城三藩は海岸線の無防備を懸念して、仙台藩に援兵を頼み300名ほどの兵が送り込まれ平潟、植田八幡山、二ツ橋などに配置されていきました。
 西軍の諜報機関の巧みな活用により、各地に於ける東軍の敗色は次第に濃厚となり、平城下への進攻は早まっていくことになります。
                         《東軍はこの辺りに砲台を据えて敵方を待つが、裏をかかれて奇襲されてしまう》                                                                                                                7月10日には鹿島の走熊(はしりくま)七本松地点でも両軍の攻防戦が起こるが、西軍の奇襲作戦に遭い戦況は不利となります。 この奇襲作戦とは、前を流れる矢田川の中を密かに進んで台場の直前に出たことにあります。
 不意打ちを食らった仙台・平藩の兵は戦況不利の憂き目に遭い、仙台兵は江名へ敗走、中ノ作港から船で逃亡してしまいました。

 これほどまでに西軍の戦いを有利にさせた陰に、実は小名浜の侠客として知られた若松鉄五郎父子の存在を無視する訳にはいきません。鉄五郎・誠三郎は西軍の道案内を買って出て、地方の地理、地形を教えていたことにより西軍の戦果が上がりました。更に軍次山(平と鹿島の村境)の要塞も破られ、谷川瀬から新川町関門へと攻められます。

 そして7月13日、遂に平城陥落の日を迎えることになってしまうのです。

走熊の蔵福寺の墓地の一角(鹿島村役場跡入り口の左細道を上りきった高台)には、明治15                                     年に建立された「仙台藩士五名戦死」の碑が無名のまま、ひっそりと佇んでいる。

 

 

 
 
  

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ピンク街道と呼ばれた時代

2018-08-20 06:21:00 | Weblog

            《鹿島街道沿いに林立するモーテル群》 
                                                      分類・地
 

 鹿島町は昭和40年代の初期から、道路沿線の画期的な発展が人々の心証と結びついて、「鹿島街道」という呼び名が付けられ浸透していきました。
 しかし、街道筋にに各種の商業が輻輳してくると、その度に羨望や蔑称を込められたアダ名がついたことも事実です。  昭和44年(1969)にカニピラフで人気を高めたレストラン 「メヒコ」 と前後して、レストランの類が増え出した頃には 「レストラン街道」 と呼ばれたことがあります。 また、米田(こもだ)・走熊(はしりくま)にモーテル(簡易宿泊施設)建設が続出して、夜ともなれば華やかなネオンサインが灯され始めた当初は 「モーテル街道」 とか 「ピンク街道」 に取って代わった時代もありました。 このモーテル(いまは一般的にラブホともいう)が並ぶ道路は、もともと走熊地区(※現在ブックオフいわき鹿島店がある場所)から米田・三沢・水野谷・関船(湯本自動車教習所がある場所)を通って湯本へ抜けていく道でした。   現在は、江名⇔湯本線(県道48号線)が出来ていて、小神山交差点(びっくりドンキーがある場所)から鹿島ショッピングセンター・ヨークベニマル前を通る道路が、それに代わるメインストリートになりました。  

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恒例の中央台盆踊り

2018-08-19 06:15:09 | Weblog

                             分類:地                                                               
                                                      走熊公園 : いわき市中央台鹿島1丁目55-1


  櫓(やぐら)太鼓がひと夏を惜しんで鳴り響く            
 日中はまだまだ暑さが残るが、この1~3日から朝夕涼しく感じるようになってはきました。                 
  昨日(18日)は、走熊公園で賑やかに盆踊り大会がありました。                    《5時過ぎではまだ宵の口だが、待ちきれない人たちは早くも踊り出した》


  走熊(はしりくま)公園は、いわき市暮らしの伝承郷や中央台南小学校の近くにあります。
中央台地区には5つの自治会があって毎年、自治会ごとのお祭りが催されますが、中でも走熊公 園の夏祭りは人気があり、広大な公園を埋め尽くすほどの人が集まり一気に盛り上がります。                         
             
             
            《いつの間にか賑わいを見せてきた時間》


   地域住民の交流を図るためのイベントで、会場には櫓が据えられ歌と太鼓の音が辺り一帯に響き渡り、否が応でも残り少ない夏を盛り上げていました。公園を取り囲むようにして建ち並ぶ露店の数は40はあるでしょうか、たこ焼き・焼きそば・綿あめ・名物かしま焼き・焼き鳥・お好み焼き・飲み物類などがあり、親子ズ連れで夏の夜を満喫していました。                                                                                     《どの露店も大盛況》         《各自治会でもテントを張って売り子役》                                                                                 8時30分過ぎには鹿島貯水池(防災池)の土手から花火が打ち上がって、集まった人たちからの大きな歓声と共に今年も夏の終わりを告げていました。                                                                           

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鹿島の大地主だった釜屋

2018-08-18 06:39:00 | Weblog

             《栄華を極めた頃の面影が残る釜屋》                                                                                             分類・地歴

 かつて、いわき市平5丁目に創業が元禄13年(1700)という老舗があり、鍋・釜・農機具など何でも販売していたから今で言うとスーパーの先駆けみたいな店舗ではありました。
 それが「釜屋」で、近郷近在の人たちに知らない人はいないぐらいの大きな商売をしていました。後に「諸橋金物株式会社」、建設資材卸会社「諸橋」と名称が変わって営業していましたが、残念な事に惜しまれながらも平成14年2月に自己破産しました。

 現在は、その由緒ある建物は市内の有力者が買い受け、壊さずに改造して多目的ホールをメインとした複合施設に生まれ変わって「SARON de 蔵」として店蔵は、見本市や物産展、ミニコンサート、美術展などが開ける多目的ホールで、袖蔵にバー「KURA BAR」、両蔵をつなぐ石張り建築部分には焙煎喫茶「香楽(からく)」が出店しています。
      《喫茶店や多目的ホールとして使用されている釜屋(旧)の全景》                                              鹿島村(現・いわき市鹿島町)は終戦の農地解放以前までは、かなりの農地が小作地で、特に「釜屋」所有分だけでも相当な面積を有していました。
 鹿島に小作者が多くなった理由は、明治の末期から大正時代にかけ生計を立てるために止む無く、農民は小作権を持つことを条件にして土地を手放し、自分の土地だった水田を小作するようになったのだと伝わっています。

 小作者が毎年「釜屋」へ納める小作米(上げ米)は、一反歩(300坪)につき一石(2,5俵=150キロ)が一般的のようでしたが、田圃には上田、中田、下田というような差があるので、そこは耕作地によって小作米の量も微妙に違っていました。
 耕地整理前で、水はけの悪かった御代・船戸地区の小作地は一石よりも下回ったようです。
        

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没イチの背中に見えるもの

2018-08-17 07:35:46 | Weblog

                                               分類:PV

   男は没イチ覚悟で、いまの内から自立せよ!                      バツイチ 〟の場合は、一度離婚した経験を持ち現在独身である状態の人を指す俗称だが、〝 没イチ 〟はそうではなく、配偶者を亡くし単身となった人たちが自らを没イチと呼ぶのが最近、世の中に深く静かに浸透している…… そうなのです。                                       つまり、死別の悲しみから一歩踏み出しポジティブな生き方を切り開いていこうという発想かららしいが、厳しい直面に立たされているのが現実のようです。                                                                                                                《男の背中に淋しが漂うのは何故だろうか》       

   年齢的には1947~1951年代に生まれた、いわゆる団塊世代の人たちで、日本には1,000万人いると言われています。                                                    戦前からの 「古い価値観」 を引きずっているところがあり、男は会社人間になって働き、女は家庭で子供を育て、夫を支えていればそれでいいのだと思い込んで生きてきた人たちばかりです。                                       

 ところが会社を定年退職し、子供は親から離れ、妻に先立たれてしまうと、そこで初めて自分というものを見つめるようになります。                                                悲しいかな、頭のてっぺんから足の爪先まで妻に任せていたのに、その相手がいなくなるのだから途方にくれる訳です。例えば食事の支度一つをとってみても自分ではできないので、即席の食べ物や、店屋物で我慢はするが飽きがきます。自然と食事時間の間隔が不規則になり体調を崩していきます。妻だけを頼りにしてきた男の悲劇が、その辺から始まるようです。

 単に高齢化社会に進んでいるという捉え方ではなく、増え続ける「没イチ」の人たちに対する対応も、これからは重要視していかなければならない問題だと思います。                              こうした動きに対しては企業も注目して、「高齢者専門の結婚相談」を設けたり、「お一人様専用旅」など、早くも 〝没イチ〟を意識したビジネス参入に乗り出したようです。

 すでに男性・女性に拘わらず、長く生きる時代に突入した以上は、仮に夫婦のどちらかが欠けても、強(したた)かに生きるための目的と気力を持たないことには、悲惨な結果を招くようになります。                               悔いのない生き方をするためには、むしろ高齢になってからだという意識を持って余生をエンジョイするのが賢い男の生き方ではないでしょうか。人とのつながりを作るとか、男子厨房に入るとか、好きな趣味を生かすとか、方法は多々あります。                                                                     発想の転換で、楽しいことはいっぱい見つかります。

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