いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

幻の波立(はりゅう)商店

2018-05-31 07:44:25 | Weblog
                             分類:観      
  鹿島町を見て歩こう (85)           
                           いわき市鹿島町走熊字鬼越
                                             
 「おくにさん」で親しまれていた店                                        波立商店は旧・鹿島街道と、江名方面から来る道がぶつかるT字路にあって、目の前の史跡七本松とセットになっているような存在でした。                                         主に食品や雑貨類を扱っていて今でいえばコンビニのような店でした。この場所は、昭和50年の前半から十字路になって、江名港⇔湯本線(県道48号)が突き抜けました。                                                                               
               解体中の波立商店 
地元の人たちにとっては生活の中にあって当たり前の店だったので、解体され          ていく光景を見ると「また、古き良き時代が1つ消えていく」というセンチメンタルな思いがしました。                  
 延暦年間(782~805)には征夷将軍坂上田村麻呂が東北地方へ征途の時、この地(波立商店前の道)を通り掛かり、道端の一角に植えられたという七本の松がありました。(註・二代目の松まであったが道路整備のために伐り倒され、今は鹿島公民館の敷地内に三代目の松として記念碑と共に植えられている) 
           
                                               
     店の左側は丸山だったが削り取られて鹿島公民館になっている=白い建物                                                                 
  鹿島の人たちは、この店を屋号では呼ばずに、誰もが女将さんの名前で「おくにさん」と言っていました。それほど人のいい人で親しまれていた証です。                                   波立商店が姿を消してしまった今、この地を通る度に当時の建物が頭の中で鮮明に蘇ってきます。                                      
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鹿島にも温泉宿があった

2018-05-30 11:21:02 | Weblog

                                               分類:観                                      鹿島町を見て歩こう(84)       いわき市鹿島町下蔵持                                         行商人も商いをした湯場                                     鹿島町下蔵持地区に、昭和の初め頃まで湯場があったことは今では又聞きによって伝わっているにすぎません。                                                         小名浜(中坪)にバイク、自転車の販売・修理をしていたレクセン商会がありましたが、そこの先祖(岱助さん)は、下蔵持小部屋作の鈴木家から出た人で、日露戦争に従軍して帰還後の明治45年、常磐炭礦の前身である「磐城炭礦」が下蔵持字満屋2-1番地に、ボーリングを下ろして採炭調査を行っていたところ、お湯が湧出したことに目を付け、その権利を買い受けて温泉宿を開きました。                                                             《下蔵持の江名港⇔湯本線(県道48号)が走っている方面を見る》                       温度としては、やや低かったので沸かし湯でしたが、東京の湯質検査所まで1升徳利に地下湯を入れて持って行き、検査をして貰ったところ胃腸病や婦人病に効果があるとの結果がでました。          宿の名前を「つるや」と名付けて営業を始めました。                                 総2階造りで、6畳間15室ほどの客室には地下から排出されるメタンガスを引いて、ガス灯として使用しました。                                                                                  《人気の湯場が1軒あった=写真はイメージ》                                   宿はたいそう流行って、背負い行商人が日用品や肉などを持ち込んできて、湯場で商いをしたというエピソードが残っています。                                                  10年近く営業が続いたようですが、湯治場といい、ガス灯といい、当時にしては時代の先端を行く蔵持の「つるや」温泉だったようです。       

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宝物は砲弾の八幡神社

2018-05-29 06:27:56 | Weblog

                            分類:観

    鹿島町を見て歩こう(83)           
                         八幡神社(旧小社)         
                     
 
いわき市鹿島町米田字家ノ前56

   創建年代は記録を失い不詳                                             祭神 : 譽多別名(ほんだわけのみこと) ・譽多別名、第15代応神天皇の御名                                          宝物 : 砲弾一個                                                      例祭 : 旧暦4月15日 旧暦9月15日                                          
                                                                                                 《米田地区にある八幡神社》


 後鳥羽院の御代前後に磐城國に八幡神の勧進されたのは他の八幡神社の由緒によって明らかなされているが、米田の八幡神社の場合、祭祭を同じくしながらも確たる記録がなく創建年代は定かではありません。                                                                社殿内に残る由緒板によると、安政4年(1857)に社の寄進があり、安政6年正月には氏子ら9名が社殿の再建を行ったことが分かります。                                            明治19年(1886)には石段再築、翌20年は屋根の葺き替え、明治28年の鳥居再築、明治34年には社殿の再建を果たし、同年8月に遷宮式を行っています。                                                                           《昭和30年代の頃まで行われていた神輿渡御


 神輿(みこし)とは、神幸の際に神体または御霊代(みたましろ)が乗るとされる輿をいい、渡御(とぎょ)は神輿のお出かけ(おでまし)になること。、


                        。

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八方塞がりだった鹿島

2018-05-27 06:42:19 | Weblog

                           分類:観 
                                        
   鹿島町を見て歩こう(82)      いわき市鹿島町全域              鹿島は四方がトンネルに囲まれていた                                              平から小名浜に通ずる道には、平側に 「軍事山」 (くうじやま)、小名浜側に 「御代坂」 があって、双方共に急勾配で洞門(トンネル)があったので山越えには難儀したようです。                   現在でも山の呼び名と坂は存在しますが、坂の高さと道幅は当時とは比較になりません。                     平、小名浜間は位置的に南北で、東西にも三沢(湯本との境)と、上蔵持(江名との境)に坂と洞門があって阻まれていました。                                                                                                       《平に向かって行く坂道だがこの先に難所とされる軍事山洞門があった》     
 上の写真で右寄りに複数の建物が見えますが、あの辺りが郷ケ丘の信号で通称、軍事山(くうじやま)と呼ばれる所です。                                                    かつては、頂上が更に高い場所にあって約50mの洞門を利用して山越えをした道で、切り割り道路にしたのは明治32年から33年に掛けてのことでした。                                  
四方が山と洞門に包囲されていた鹿島村(当時)は地形的にいうと、すり鉢型の真ん中にあるようなもので、その中に12の部落がありました。                           《切り通しになった御代坂だが、もっと高台にトンネルがあった》           
御代と岡小名の境(昔の鹿島村と小名浜村の村境)にある御代坂は、現在の道路の位置とは異なり、山の頂上近くに洞門がありました。                                             2m前後の高さに山をくり抜いて、長さにして100m位の土壁の洞門で、急勾配だったために度々、洞門内は落土して通行不能になったと言われています。
                                                                       《この先に江名口トンネルが現存するが、ここにも1つトンネルがあった》                   鹿島から江名へ行くには2つのトンネルがありましたが、そのうちの1つが切り割り道路(写真)になり姿を消しましたが、この先(江名寄り)にもう1つあるトンネルはまだ残っています。


                                  《湯本へ抜ける三沢トンネルだが、昔は人が通るのがやっとだった》            
  江名港⇔湯本線(県道48号)を湯本方面へ向かうと常磐鹿島工業団地が見えてくるが、その手前の信号を右折して進んでいくとトンネルが出てきます。                                       トンネルを抜けると、かつて栄えた常磐炭礦鹿島礦(水野谷礦)跡と、湯本自動車学校を通り、国道6号線のある関船地区へ出ます。

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大津絵と鹿島の替え歌

2018-05-26 06:41:42 | Weblog

                                          分類:観                                       鹿島町を見て歩こう(81)         いわき市鹿島町全域                          鹿島の替え歌が流行った頃                                                              大津絵 (別名:追分絵とも呼ばれる) は、元禄(1688-1704)の頃に大津の追分 (おいわけ) 辺りで売り出され、仏像・民間信仰・伝説などを描いた絵で、素朴な味わいがあります。                       それらの絵を売るために、題材に合わせて歌い込まれたのが大津絵ですが、文句も節も面白おかしいというので各地で、その土地の名物や名所を読み込んで替え歌が作られ、全国で流行しました。                                                                    これにより大津絵というと、簡素な筆づかいで描かれた絵よりも一般には 「唄」 の方で浸透していったようです。                                                                                                                                                                 《大津絵のうちの1枚=鬼の念仏図》

  大津絵節に合わせて作られた鹿島の替え歌もあります。                               明治の頃に、当地の地名や名所古跡を織り込んだ替え歌が作られました。                 漢学者であり、鹿島小学校に46年間奉職したという吉田正義 (※人物像の詳細については当ブ                                                       ログの2017/10/1を参照) によるものです。                                                                                                 《替え歌の作者、吉田正義》

 旋律(メロディー)は大津絵節に合わせて歌われ、歌詞は3番まであります。(註釈・鹿島地区の地名や名所旧跡名は、特に赤文字にしました)

   (^^♪軍次山(くうじやま)から 熊が出て                                                     矢田らに走る 走熊                                                     名所七本松 後にして                                                   久保見て通れば 金光寺                                                   船も着かぬに 船戸という                                                                 それより御代の 大仏様拝みつつ                                                御代坂越えれば 岡小名で                                                     向こうに見ゆる 遍照院                                                           大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院

   (^^♪夕暮れに 小名浜を立ち退いて                                                            水押し上(うわ)って あとにして                                                                                            東の法華寺 拝みつつ                                                                   久保里屋橋 通りぬけ                                                   名所七本松 あとにして                                                             走熊へと さしかかる                                                         次は 下矢田 上矢田で                                                   郷社鹿島神社に参拝し                                                      それより進めば 軍事山                                                  越せば 上荒川と谷川瀬で                                                        平町 日光町に着きますよ

   (^^♪三沢の里へも 一度はおいで                                                名所古跡もありますよ                                                           磐城七門一の向かいに                                                         三沢の館あとあり                                                                     その上に 八幡公の陣どりし跡に                                                      八幡神社の祭あり                                                                 それより西の作に 宗任貞任の石碑あり                                                    この作を 霊墓(おきはか)作という                                                       その上に 母の小屋掛けせし山を                                                       小屋の山という                                                                     その下に 母の祈願所 薬師堂                                                           それより奥を 花見平という                                                            昔 平の城主 安藤信正の                                                             花見せし所とか                                                                  越して小名浜海上眼下に見え                                                                                        眺望すこぶる絶佳なり                                                               それより西に下れば                                                               小野谷村に 程近し

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従軍馬慰霊塔への想い

2018-05-25 06:23:16 | Weblog

                                            分類:観                                              鹿島町を見て歩こう(80)           いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1                                                                                   鹿島公民館 敷地内                          愛馬を偲んで建てられた慰霊塔                                                         満州事変から太平洋戦争に至る約15年の間に、全国から約100万頭に及ぶ農耕馬が徴用されたと言われています。                                                                                   農家にとって財産の半分に相当するという農耕馬を従軍馬として取られ、極寒の満州、シベリア、又は灼熱の南方戦線の各戦地へ送り込まれ、馬たちは再び故国の土を踏むことはありませんでした。                                                                                                                             《昭和14年に造立された従軍馬慰霊塔で元は丸山公園の上り口にあった》                                                                                    この鹿島地域からも例外なく多くの馬が徴用されています。                  戦争は止まることなく農耕馬が徴用されていく数が増し、徴用された家の中には必要に迫られてやっとの思いで新たに馬を買い求めると、再び徴用されてしまうという始末でした。

                   《軍の供補馬として農家の馬を鍛え上げる鍛錬会=御代坂で昭和12年のこと》

 昭和14年3月10日、丸山公園の上り口(現在、慰霊塔が建っている辺り)に、村の扶助受給者一同と、国防後援会で造立した「従軍馬慰霊塔」の裏面に従軍馬を送り出した飼い主31名の名前が刻まれています。                                                                                                        正に、人馬一体となって戦った戦地での馬たちは、ただの1頭も帰ることなく現地で命尽きて、一片の骨さえ帰らなかったのでした。                             戦後73年、新しい世代の人たちに、「人も動物も犠牲になっていった戦争の悲惨さを忘れないで欲しい」 と、小さな慰霊碑が問いかけているように思えます。                     慰霊碑は小さいけれど、その意義は決して小さくはありません。                         

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丸ごとなくなった丸山

2018-05-24 08:15:43 | Weblog

                                            分類:観                                            鹿島町を見て歩こう(79)           いわき市鹿島町走熊字小神山                              小神山交差点付近にあった丸山                                                    丸山は、高さが30mほどの小さな山で走熊鬼越にありました。鹿島小学校の目の前にあって、頂上は平地で忠魂碑が一基あるだけの広場は子供たちの遊び場にもなっていました。                                                 手頃な高さなので誰でも上ることができ、見晴らしが良く走熊は勿論のこと、遠く飯田や、久保、米田、下矢田地区が一望できた場所でした。                                                                                《道路新設で削られたが、まだ辛うじて姿を残していた頃の丸山》

    丸山公園と呼ばれ、上の写真先は旧鹿島街道が横切っていて、史跡七本松があった場所になります。 昔は豊間・江名方面から鹿島に向かって来ると、この丸山に突き当るT字路になっていました。               真ん中から削り取られた左の部分が、この後に整地されて現在の鹿島公民館ができました。                《白黒写真と同じ位置から撮った現在の風景、右端はびっくりドンキ-

 この一帯は、昭和50年に入ると急激に変化して、二代目だった史跡七本松が道路工事の為に伐採され、丸山も中央から削り取られて江名⇔湯本線(県道48号)が貫通しました。                                                                        《小神山交差点の手前から丸山があった方向を見る》

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鹿島街道の起点・終点

2018-05-23 06:47:21 | Weblog

                              分類:観                                         鹿島街道を見て歩こう(78)       いわき市鹿島町全体                      
  鹿島街道の起点・終点                                             いわきの人たちに、愛称で鹿島街道と呼ばれている26号線は、商都・平と、国際港を抱える産業拠点・小名浜間を直結する重要な道路で、正式名称は県道小名浜⇔平線(都市計画上の事業名は平・磐城線だった)で、始点は小名浜本町通りの信号(写真下)から平の十五丁目の信号までとなります。
                                                                                                                              《鹿島街道の始点となる小名浜本町の信号》


 かつて、主要地方道磐城・古道線と呼ばれていた頃は平の町へ入ると全くの別ルートで、福島高専から右の道を通り、平三中~月見町~五丁目を通過して平駅(現・いわき駅)へ出ていきました。                                                      現在では、福島高専前からいわき駅前までは直進になっていて、国道六号線と交差する十五丁目の信号から先は、いわき駅方向へ向かって 「鹿島街道」 から 「磐城街道」 に変りります。                                                                                                    《中央の青い看板が見えるところが国道6号が横切っていてロータリーがあった交差点》


 現在、十五丁目の角に平セントラルホテルがありますが、昭和40年の初め頃まではその建物の対面角に平消防署があり、交差点は珍しく信号機ではなく、ロータリー式になっていて十字路の中心に遠景の池があり、車はどの方向から来ても時計回りで通過していくようになっていました=写真下                      《昭和40年初期まであった十五丁目のロータリーで右角が消防署

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山の中腹に横穴150基

2018-05-22 08:10:41 | Weblog

                                              分類:観                                             鹿島町を見て歩こう(77)        いわき市鹿島町船戸字八合                                 弥生時代の八合横穴群                          鹿島町船戸地区にある八合横穴群は、民家の裏山の中腹に整然と段を造ってあるのですが現在では鬱蒼とした雑木林に覆われていて確認できないのが残念です。                                                                                                                                      《横穴の一部と整然と並んだ横穴群》

 昭和50年代頃に約50基とされていた横穴は、その後に行われた考古学者の学術調査では、その3倍の150基は確実に姿を現すといわれています。                                          横穴墓は、古墳時代後半(5世紀終わりの頃)から奈良時代の頃までに造られた墓で、古墳時代後半は古墳の被葬者が下位階層まで広まる時代で、古墳の小型化、群衆化が見られます。                そのような状況下で人工の墳丘に埋葬施設を設ける古墳とは異なり、崖など自然の斜面を横穴状に掘って埋葬施設とする新たな形の墓として横穴墓が誕生しました。

  鹿島で、この時代に造られたものは「船戸の八合横穴群」の他に、「久保の大玉横穴」「御代の合曹子横穴」「九反田横穴」「柿境横穴」があります。                                           ▲柿境横穴は、昭和54年に砂質土を埋め立て用に使用するために一帯が削り取られ、横穴も同時に     破壊されてしまいました。                                                                  《久保薬師前の道を入って行くと横穴があるが今は木々に覆われていて見えない》

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鹿島通った田村麻呂将軍

2018-05-20 06:39:08 | Weblog

                                                          分類:観                                  鹿島町を見て歩こう(76)      
                いわき市常磐上矢田町花木下(旧・鹿島村)                      
  七本の松を植え、矢の根4本を献上                                           坂上田村麻呂将軍は、宝亀5年(775)に始まり延暦年間の全期間、そして弘仁2年(811)に至るまでの東北38年間戦争の過程で登場してきます。                                                                         大別して6回の出兵が行われている中の第5次(延暦16年~)将軍として、動員兵力約4万を率いて東夷征途の指揮を執りました。                                                                                                                                 坂上田村麻呂将軍像と、鹿島神社に残る矢の根


 坂上田村麻呂は、その延暦年間に現在の鹿島町走熊地内を通り掛かった折りに記録を残しています。具体的に例を挙げてみると、                                             ①延暦23年(804)正月に、蝦夷征討に際し下蔵持にある熊野神社に勧請したと伝わっ               ています。                                                        ②走熊地内の三叉路(西に丸山を背負い、東に折れれば江名の浜にも抜けられる場所)で、               休憩をとると戦勝を祈願しながら道端の一角に七本の松を手植えしました。                         ※走熊のその場所は、昔から土地名ではなく「七本の松」と呼ばれる所以です。                                            ③鹿島神社には、坂上田村麻呂将軍が武運長久を祈願し御供田すると共に、矢の根(写真)                        が献上され宝物として現存しています。                                                                           
《矢の根が献上されている鹿島神社》 


 この地は古くは岩崎東郷と称し、後に大矢田と呼ばれていましたが、田村将軍が矢の根を此処に納めた際に「げる」と記したことから「上矢田」の地名が付いたとの説があります。


                                                           《昭和30年頃の二代目の七本松》


 ※二代目の松は道路拡張工事のため伐採されてしまいましたが、三代目の七本松(若木)が鹿島公民館の敷地内に石碑と共に植栽されています。                                                     

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お地蔵さんのご難

2018-05-18 07:29:41 | Weblog

                                          分類:観                                       鹿島町を見て歩こう(75)         中島山寶林寺                                                          いわき市常磐松久須根町字坂下(旧・鹿島村)                   土中から出てきたお地蔵さん                                              5月10日付の記事に関連しますが、中島山寶林寺境内の一角に祀られている像高 1m30㎝ ほどの子安観音があります=写真。

 このお地蔵さん、姿を消したまま暫く所在が分からないままでした。                          昭和50年代に入ってから鹿島の有志たちが郷土誌を作ろうとして編纂委員がその話を聞きつけ、境内一帯を丹念に調べ始めて裏手の方も掘り始めたところ、僅か10㎝ばかりの土中から石面が現れてそれが首のない地蔵尊であることが判明しました。                                                                                                                      《地蔵尊と台座が異なる理由は!?》                 〈エピソード〉                                          明治初年の頃、村の若者たちが地蔵さんを肩に担ぐ力比べをしようということになりました。                   次々に抱えては持ち上げようと競っている内に、1人が精一杯の力を出し尽くして肩の近くまで持ち上げたものの、重さに耐え兼ねて地蔵さんを落してしまいました。                                  かなりの重量で、もともと肩へ担ぎ上げることは無理だったのですが、それ故に若者たちは闘志が一層高まり挑戦したのですが、その結果は無残にもお地蔵さんの胴体と首は割れて離れてしまいました。 

 その後、ご難に遭ったお地蔵さんはそのまま放置され、長い間にいつの間にか姿を消してしまいました。やがて発見されると、新しく台座が造り替えられて同地に子安観音堂が建てられました。                            

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鹿島町の一端を望む

2018-05-17 07:54:30 | Weblog

                                    分類:地    鹿島町を見て歩こう(75)                                                                              いわき市鹿島町 《走熊地区》                                                                            鹿島町の一端を望む                                                     真ん中に1本の細い道があり、その周りを囲むようにして家並みがある町(写真下)ですが実はこれ、かつての面影さえ残っていない鹿島の旧道で、場所は走熊地域です。                              それでも、この地域は昔から鹿島街道(旧)のメインストリートで、道の右側に小、中学校・農協・雑貨店・駐在所・簡易郵便局・床屋・精米所が並んでいました。                                                       そして 「鹿島農協前」 というバス停があり、その他は一面が見渡す限りの田圃でした。                                                                                        《鹿島の旧道で、正面に見えるのが鹿島小学校=走熊地区》

 ひるまはげんげと藤のむらさき。                                      夜は梟(ふくろう)のほろすけほう。

  ブリキ屋のとなりは下駄屋。下駄屋のとなりは小作人。                            小作人のとなりは畳屋。畳屋のとなりは鍛冶屋。                               鍛冶屋のとなりはおしんちゃん……。

 草野心平の詩「上小川村」の一節ですが、子供の時から鹿島で育ってきた者にとっての原風景と重複してしまうから何とも不思議です。                                  、

              《手前が「しまむら」鹿島街道を挟んで wonderGOO が見える》           

 遠く高台に見えるのが鹿島台(米田地区)の団地です。                              当時(私の場合は昭和30年代)は鹿島が、いわき市の発展から取り残されたような環境の中にいたので、草野心平の詩には特に共感を覚えたのかも知れません。                                          現在(いま)、何処へ行っても町も、駅も、画一化した建物で成り立っているので、賑やかさの中に風情というものが掻き消されてしまって味も素っ気もない感じがしてしまうのですが、これは老いた者の単なる嘆きになってしまうのでしょうか。                                                                                          

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中央台の貯水池

2018-05-16 06:58:27 | Weblog

                            分類:観                                      鹿島町を見て歩こう(74)     いわき市鹿島町走熊地域                         中央台の貯水池(防災池)                                               いわきニュータウンの中央台から小名浜・湯本・江名方面への往来には、上矢田または下矢田交差点へ出ることが必須です。                                                     ところが、鹿島街道の鹿島小前(中華、楽陽がある所)の信号、あるいは七本松信号へ出る唯一の抜け道として利用されている道路があるのです=写真下。                                       但し、通学路になっているために朝の七時から八時までは通行禁止になので、その点を充分に注意して欲しいのです。                                                            しかも道幅が狭いので、通り慣れている人は対向車がくると、どこで停車して待っていればよいかを心得ているようですが、この通りに不慣れな人、運転に自信のない人には要注意のコースです。                                                                              《中央台から鹿島小学校方面へ出ていくコース・赤い屋根は、かしま幼稚園》


 逆に説明すると、貯水池を上り切ったところが中央台二丁目で、「和風レストラン健ずし」と「中央台南小学校」の側へ出ます。                                                                                                                                                   《走熊地域から中央台へ登って行く途中の景色》          


 


           

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尋常小学校の登校坂

2018-05-15 06:55:43 | Weblog

                                            分類:観                                  鹿島町を見て歩こう(72)           いわき市鹿島町走熊字鬼越                              蔵持尋常小学校の跡地                                            鹿島の小学校は、明治時代の12ケ村(現在の大字名にあたる)に三つあり、校名も場所も目まぐるしいほどに変わっています。                                                        明治6年6月、鹿島町久保(当時は久保村)の金光寺を借り受けて久保、飯田、上・下蔵持の生徒、男14名、女2名の総計16名を抱え啓蒙小学校が開校しました。                                     その後、久保小学校、下蔵持小学校、蔵持小学校と改称されて、明治13年に火災によって焼失しています。                                                                                                 《ファミリーマート角の七本松信号そばに上り口がある(中央)》

 成徳小学校(後の矢田小学校)は、明治6年に上矢田村神宮寺に開校し、明治7年には下矢田村の真浄院に移転して矢田小学校に改称されました。ここに米田、走熊など全部で6ケ村の児童が通うようになりました。                                                                  御代、船戸の両村は住吉村(現・小名浜住吉)の銑心小学(旧・住吉小)へ通学していました。                 明治14年、矢田小は下矢田村字細作の新校舎に移転し明治16年、蔵持小は以前の校地に校舎を新築、移転しています。                                                           同年、行政区の改正に伴い学区も改正され、走熊・御代・船戸村は、ともに蔵持小の学区になりましたが、矢田小や住吉小へ通う生徒もいました。                                                      《上の写真をアップするとこうなる。右の道路は江名港⇔湯本線》

 明治20年4月~同22年4月の間は授業料を徴収されない簡易小学校となりましたが、その後、下矢田、蔵持の両小学校を共に尋常小学校と改めています。                                  

    昭和10年に現在ある鹿島小学校(走熊字中島)に木造平屋建て瓦葺きの小学校が完成しました。 今の鉄筋3階建て校舎ができたのは昭和54年です。

                          《坂を上りきった場所》     《学校の名残はなく只の雑木林だった》

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鹿島に市庁舎の夢あった

2018-05-13 06:38:59 | Weblog

                                                    分類:観                                                 鹿島町を見て歩こう(71)       《いわき市鹿島町全体》                                                    鹿島に市庁舎が出来る可能性は20%あった                                                        昭和41年(1966)10月1日。                                                14町村(5市、4町、5村)が合併して、平成15年(2003)4月まで市の面積としては日本一を誇る 「いわき市」 が誕生した訳ですが、そこに至るまでは並大抵のことではありませんでした。                      《註釈》2000年以降に於ける平成の大合併により、2015年の時点で市の面積1位は         「岐阜県高山市」2位「静岡県浜松市」……「いわき市」は12位になっています。                                                                                《鹿島街道とは至近距離にある米田・走熊の風景=右の赤い屋根は鹿島小体育館

 市庁舎の位置の設定や旧市町村相互の連携などについては、多くの課題が山積していました。           特に決定が難しいといわれた新庁舎の位置に関しては、合併前の新産特別委員会で 「決定は合併後」 と先送りされたまま、その建設はめどさえ立っていませんでした。                               合併後、暫くの間は県立平商業高等学校の旧校舎が当てられていたものの、建物は昭和10年代初めに建設されたもので、老朽化が著しく進んでいたので改築は急務とされていました。

 「高山レポート」なるものが提出されて、この報告書が公になった翌年の昭和44年(1969)市議会に於いて、候補地に ①仮庁舎付近 ②福島高専付近(旧・平高専) ③鹿島小学校付近 の3案が絞り込まれました。

                                            《鹿島ショッピングセンターから久保方面を見る》

 庁舎建設調査特別委員会は第11回の会議で、投票による採決を取り、仮庁舎付近16票、鹿島小学校付近4票、福島高専付近0票 という結果がでました。                                    次いで行われた公聴会においても、仮庁舎付近が支持されて確定したという経緯があります。

 鹿島地区が本庁舎の候補地に選ばれていたことは画期的な出来事で、やはり鹿島は当時から注目されていたという証明に繋がります。                                                     もし、鹿島地域に市役所ができていたら……。今でもそう思うと夢が膨らみます。

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