いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

庭にニッコウキスゲが咲く

2019-05-31 06:21:12 | Weblog
                             分類:PV

    湿原地を散策している気分にさせる
 いま、我が家の庭にはあちこちでニッコウキスゲの花が咲いている。30数年前に小名浜の畳屋さんが仕事で来た時に、1個のニッコウキスゲの球根を持ってきてくれたのが始まり。
 1個の球根が秋になると3~5個ぐらいになるので、毎年それを株分けして植えている内に増えていったもの。
          庭に余り目立たないで咲くが、それがまた良い

 ニッコウキスゲは主に湿地帯に群生するもので、霧ヶ峰湿原や雄国沼湿原、尾瀬(大江湿原)などがよく知られている。
 正式な植物名は、ゼンテイカ(禅庭花)だが、一般的にニッコウキスゲ(日光黄菅)と呼んでいる。
 天然記念物指定地域に多く群生しているので誤解されやすいが、ニッコウキスゲ自体は保護されているものではないのだそうだ。
 それにしても毎年、家の庭に少しずつでも増えていってくれるのは、楽しみでもあり嬉しいものだ。

          《黄色い幸せのハンカチならぬ、ニッコウキスゲ》
    



  
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中間貯蔵施設を見学

2019-05-25 19:57:25 | Weblog
                             分類:催
                    中間貯蔵工事情報センター
                    場所:福島県双葉郡大熊町大字小入野字向畑256
                       ☎0240-25-8377


    中間貯蔵施設の用地に仰天
 昨日(24日)は大熊町にある「中間貯蔵施設見学会」に参加した。
 国道6号線の道路沿いにある中間貯蔵工事情報センターに集合し、13時から担当職員が同センター展示室内で、中間貯蔵施設の主な施設や地元の風景をドローン映像による状況案内があった。
 次いで中間貯蔵施設が立地する大熊町と双葉町の歴史や文化と、復興に向けた取り組みなどの紹介があって、マイクロバス2台に分乗して直接現場に入った。
   
《フレコンバッグから除去土壌が飛散したり、雨水が入らないよう遮水シートが掛けられている》
  
 原発事故が発生したのは平成23年(2011)3月11日。つまり東日本大震災が起きた直後だが、それ以降、除染・保管・除去土壌などの受け入れ、分別施設への輸送・安全な貯蔵の工程を経て、あとは中間貯蔵開始後に福島県外(30年以内)で最終処分を完了する計画が進められている。
 見学は帰還困難区域に入域する関係上、マイクロバスに乗車中は窓は開けられないし、外にも出られないのだが実際に工事現場を一巡すると原発事故による影響が如何に甚大であるか、あるいは解決に近付けるまでの途方もない道程の長さに私は主催者側と意に反するショックを受けた。
 
   《1日に大型トラック1500台~1700台の搬入があるフレコンバック》
 
 かつては〝原子力発電は安全、安心〟〝火力発電所と比較して家庭の電気料金が安くなる〟〝地域の人たちが出稼ぎに行かなくても済むようになる〟などと至れり尽くせりの神話めいた話が流布されたが、その反動は大きい。
 いま、原発事故の処理に途轍もない税金を使って「再生」「復興」とか言っているが、やはり問題なのは原発依存の前に、原発はどんな事が起きても絶対に安全なのだという確信のもとに手を出してもらいたい。それに人為的なミスが加わったのでは堪ったものでない。
 百聞は一見に如かず。中間貯蔵工事センターで展示室内を見るだけなら平日10時から16時まで、無料で自由に見ることができます。
 中間貯蔵施設の工事現場を見学するには予約が必要です。予め電話で開催日の確認をとっておくと良いと思います。

           
  《展示室内》 《案内板とスクリーン》《現地行きのマイクロバス》《建設中の分別施設》

 
 中間貯蔵工事情報センターへ車で行く場合には、常磐自動車道 常磐冨岡ICから約12分、国道6号線を仙台方面へ進み、三角屋交差点付近です。

 ◎小さい写真は、カーソルを写真の上に置いてクリックすると拡大して見ることができます。           
  
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春うらら鹿島小の運動会

2019-05-18 14:11:42 | Weblog
                            分類:催

                    いわき市立鹿島小学校
                      いわき市鹿島町走熊字中島1
                      

   精いっぱい戦った紅白の競技
 今朝(18日)は天を仰いで、間違いなく「今日はあるな」 と思っていたら案の定、6時の時報と共に開催合図の花火が響き渡った。 ~~鹿島小学校の運動会の話だ。


          《清々しいロケーションで行われていた運動会》

 昔のように開催中はボリュームいっぱいに捻って、ひっきりなしに音楽やアナウンスを流すということはなくなったが、必要最小限度にマイクを使っての案内や誘導の声を聞いていると、どんな事情があっても運動会はいいものだと感じた。
 子どもは勉強ばかりでなく、精神的に身体の発散も大事であることが、その子供たちの真面目で一途な活躍ぶりを見ながら改めて教えられるものがあった。


        《生き生きとした子供たちから漲るパワーが伝わってくる》


    《農家は田植えが済み、会社は土曜日とあって見物客が校庭を取り巻いた》
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船戸の若宮八幡様の祭典

2019-05-04 06:15:59 | Weblog
                             分類:催

               若宮八幡神社(俗称・船戸の若宮八幡さま)
                 祭神:大鷦鷯大神(おおささぎのおおかみ)
                    いわき市鹿島町船戸字林下65

                                                             


   子供神輿(みこし)で賑わった頃が懐かしい
 3日(祭日)は、本来ならば子供神輿(みこし)が町内を練り歩いて地域住民が祭り気分に浸るところだが、残念ながらその雰囲気は味わえずに神社本殿で氏子代表が集まり、形式的な神事を行うだけに留まった。
 昭和40年代にこの船戸地区がベッドタウンとしていち早く公営住宅が建設されると、旧部落と新興住宅の人々の親和を深めるために、若宮八幡神社の祭典は以前より活発になっていった。
 住宅が増え人が住めば子供の数もそれに比例して多くなることから、祭りは古来のしきたりを守りつつ子供神輿も造って団地の子供たちにも加わってもらおうということになった。

          《神事が執り行われるのを待つ神社総代の人たち》<

/strong>祭り袢纏を100着用意してたが次第に子供の数が増えていき足りなくなってきたので、昭和50年代からは小学4年生までの子供に限って袢纏を着るようになり、5~6年生の分までは回らなくなるほど人気のある祭りだった。
 しかも、神輿は1つでは足りないので樽神輿も加わるほど盛況でした。
               《若宮八幡神社への上り口》 
 ところが現状はどうかというと、いまや社会全体が少子高齢化が進む中で、この船戸地区も御多分に漏れず団地内には高齢者は増えても、子供の数は圧倒的に少なくなってしまった。
 今日の祭には子供たちの元気溌剌な神輿担ぎの風景をカメラに収めてこようと思って、若宮八幡神社へ馳せ参じたが空振りに終わった。周囲には人っ子1人居ない。(これ本当)
 神社への石段上り口に立てられた幟(のぼり)だけが、カメラに淋し気に納まった。

 
        《懐かしい! 神輿を担いで町内を回る子供たち=昭和60年》

 ▲2018年5月1日付の拙ブログに、若宮八幡神社に関する 石段になった老松 の記事あり。
 
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先陣を切って田植え始動

2019-05-02 20:36:22 | Weblog
                                           分類;農
                              場所 : いわき市鹿島町上・下蔵持地区一帯

    鹿島9地区では毎年、機関車役
 折角の10連休とはいえ天候不順で、寒かったり暖かかったり、雨が降ったり降らなかったりして計画が足踏み状態で思うように進まないじれったさを味わされましたが、鹿島の一部地域では昨日(1日)田植え作業が始まりました。 上蔵持と下蔵持ですが、この地区では鹿島9地区(御代・船戸・飯田・久保・上蔵持・下蔵持・走熊・米田・下矢田)のうち、毎年早く田植えが行われます。

                  田植え作業の真っ最中=上蔵持地区

 現在の田植えは、苗そのものをJAから購入し植えるのは機会に頼るので作業効率が良くなり、見ていると面白いように苗が植えられていきます。
 昭和40年代頃までは田植えとなると細かな仕事が沢山ありました。「千歯こぎ」で種モミをこいで、実入りの良いものだけを採取して稲俵に入れ、家の天井梁(はり)に上げておきました。そして春の彼岸頃に梁から下ろして唐箕(とうみ)にかけてタナエと呼ぶ池や、溜池に浸します。
            下蔵持地区の水田も次々に田植えが進んでいた
 田圃の掘り起こし、堆肥運び、代搔き、苗代作り、種蒔き。クロ塗り、苗引き、田植え、田の草取りなど、数多くの工程がありました。
 田植は、予め植える日を決めておき村人や隣組の人は勿論のこと、遠くの親戚の人たちにも来てもらい手伝ってもらいます。それでも足りない時には他人に手間賃(日当)を払いながら作業を進めていきました。そして相手の家で田植えをする日には手伝ってもらった日数分は返さなければなりません。これを「結い」と言いました。 

       苗床から水田に移って、これから伸び伸びと成長していく苗がたくましく見える       

 「米」という字は 「八十八」 と書くように、それほど手間隙が掛かるのだから、御飯つぶ一つでも粗末にしたら罰(バチ)が当たるのだと説教されながら、卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで大勢の家族が食事をした時代を、今頃の時期になると頭に浮かんできます。
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