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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

山の中腹に横穴が150基

2018-07-31 06:37:36 | Weblog

                             分類:跡


                  場所 : いわき市鹿島町船戸字八合                                                
  < /span>             《船戸の八合横穴群と、その一基》  
鹿島町船戸地区にある八合横穴群は、民家の裏山の雑木林の中腹に整然と並んでいます。
 実際に見られる横穴は、昭和50年代頃に50基くらいとされていましたが現在では草木や雑木に覆われてしまい、現場を探し歩くようになってしまいました。 考古学者の説では学術調査をすれば、その3倍の150基は確実に姿を現すといわれています。                                                                      《久保、金光寺の裏山にある横穴


 横穴墓は、古墳時代後半(5世紀終わりの頃)から奈良時代頃までに造られたお墓です。 古墳時代後半は古墳の被葬者が下位階層まで広まる時代で、古墳の小型化、群衆化が見られます。そのような状況下で人工の墳丘に埋葬施設を設ける古墳とは異なり、崖など自然の斜面を横穴状に掘って埋葬施設とする新たな形のお墓として横穴墓が誕生しました。 鹿島で、この時代に作られたものは「船戸の八合横穴群」の他に、「久保の大玉横穴」「御代の合曹子横穴」「九反田横穴」「柿境横穴群」があります。 ※柿境横穴群は、昭和54年に砂質土を埋め立て用に使用するために削り取られ、残念ながら横穴も破壊されてしまいました。               

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口伝の力石ものがたり

2018-07-30 06:23:35 | Weblog

              《坂本さんが持ち上げた力石》                         
                              分類・人 
          
 
 この伝説の石は御代「八坂神社」の上り口、鳥居の側に現存します=写真。                                                  
昭和初期に鹿島村下矢田部落(現・鹿島町下矢田)に住む若者で、当時17,8歳だった坂本直政さんという人がいました。
 部落の真浄院という寺の境内には繭型石があり、その石は真浄院創立の際に胴搗き石として使用されたものですが、部落内の地固め事業などにも大いに活躍したとのことです。 石は32,3貫(120㎏前後)はあると言われますが、坂本さんはこの石を山門まで転がし、そこから担いで石段を登ることに挑戦して見事成功した人です。                            
                                 
《真浄院(下矢田)境内にある繭型の力石》 

 
ある時、部落を4つ隔てた先の御代部落に真浄院の力石よりも一回り大きな石があるということを聞いた坂本さんは早速、その石の持ち上げにも挑みました。 真浄院の繭型石と違って、こちらの石はどちらかというと長方形で、手掛かりがなく揚げにくかったそうですが、その石を前にして深く呼吸を整えると一気にグイと力を入れ胸のあたりまで持ち上げたそうです。 坂本さんは晩年、小名浜の鳥居下8番地に住んでいましたが、自身の若き日の語り草にしていたそうです。                                              

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かしま福祉まつり

2018-07-29 06:07:14 | Weblog

                            分類 : 催 
                                  
                   会場 : かしま荘駐車場
                                  
                        いわき市鹿島町下蔵持字中沢目24
    
                   主催 : かしま福祉まつり実行委員会
          
                          0246-58-8271
 
 高齢者を讃える、みんなの祭典


手をつなごう 心もつなごう
をキャッチフレーズに、鹿島福祉まつりが昨日(28日)行われました。
  台風12号の進路がハッキリしない曇り空ではありましたが、連日の暑さに比べたら凌ぎやすく、イベントは盛況のうちに幕を閉じた……。と、ここまで書きたかったが生憎の雨はやってきた。でも、開催するからには想定内だったようで、野外にいつものステージは設営せずに室内で行われました。                 
《かしま福祉まつりは、平工吹奏楽部の演奏に耳を傾け拍手が起こった》           


   例年、出演者は目白押しで、フラダンス(ハウオリ・マルヒアフラダンスの皆さん)をはじめとして、よさこいソーラン、シーサイドシスターズライブ、地元・上蔵持のじゃんがら念佛踊りなど、来場者を飽きさせませんでした。                          朝のうちハッキリしない天候で開催が危ぶまれたが、午後2時から予定通り開催して特別養護老人ホームかしま荘の施設利用者と、地域住民たちとの交流を深めた。              《かしま福祉まつりは、かしま荘のお年寄りたちが介護士さんと1日を楽しんだ》      


  模擬店では、鹿島地区振興協議会特製の名物 かしま焼きをはじめ、地元の協賛団体が出展したほか、中山医院の「ホットドッグ・フレンチフライドポテト」や、新舞子ファーム・キダの「トウモロコシ」、いわき鹿島ロータリークラブの「フリーマーケット」等々、沢山のテントが並びました。   

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鹿島と戊辰戦争

2018-07-28 06:05:06 | Weblog

                            分類:観                                                      場所 : 鹿島神社隣   いわき市常磐上矢田町花木下34                                                                                                                             

 鹿島で戊辰戦争というと、七本松の戦いを即座に思い浮かべますが実はもう一カ所、鹿島神社隣地にある華木公園の場所でも大砲を据えて、平藩と仙台藩の奥羽越列藩同盟軍が西軍と戦った場所があります。

  慶応4年(1868)1月に鳥羽・伏見の戦いで始まり、6月16日には早くも薩摩・佐土原・大村の3藩の西軍の兵が平潟港(茨城県)に到達し、上陸を開始しました。                       磐城3藩は仙台藩に援軍を頼み300名ほどの兵が送り込まれて、うち80名ほどが平潟に配置され平藩や 仙台藩の兵はこれを迎えて戦ったものの、西軍の兵力に圧倒されて関田村へ退却。                                                           《鹿島神社の階段を上りながら右側を注視していくと「華木公園」の石柱がある》                                                                              しかし、翌17日には平・泉・仙台など同盟軍(東軍)側は平潟奪還に繰り出しましたが西軍が応戦し状況は劣勢のまま、関田付近での戦闘が繰り広げられました。 これが磐城に於ける戊辰戦争の幕開けとなりました。                                その後、新田山・添野・植田八幡山・二ツ橋などでの攻防が繰り返され、7月10日の鹿島七本松の戦いに入ります。薩摩藩の巧妙な作戦によって平・仙台藩の兵は敗走、鹿島ではこの戦いによる戦死者の供養塔や古跡の跡が各所で見ることができます。                                      《鹿島神社境内の右手にある戊辰戦役砲台古跡の碑》

 鹿島神社の境内(隣地)には大砲を据えた跡地があり、昭和2年2月10日に建立された石碑があります=写真。                                      上矢田・上荒川(平)の境になる 「くうじ山」 の山頂には郷ケ丘団地が出来るまで壕跡がありました。獺沢(おそざわ)地区には、地元の2名が昭和45年に明治100年を機会として、無縁仏となった兵の霊を供養するため、同地に石碑を建てました。

 

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鹿島の表示が消えた時代

2018-07-27 06:20:23 | Weblog

                                           分類:地 

   昭和30年代は、日本国内において高度経済成長が進み始めた頃でもあり他県の寒村からは、東京方面への集団就職がニュースになっていた頃でした。
 暫らくして、家族から離れて就職していった人々の哀歓を歌った、伊沢八郎の「ああ上野駅」が大ヒットしたのもその時代でした。

 そういう中で、鹿島地域の生活状況も決して良いとは云えませんでした。
 又、町村合併の繰り返しで市名や地名がコロコロと変更されて石城郡、磐城市(一部、常磐市)、そして昭和41年からは現在の【いわき市】になりました。
                        《木造2階建ての鹿島村役場が存在した頃の写真=昭和41年まであった》

  【鹿島村】として存在していたのは石城郡の時で、昭和28年10月に磐城市小名浜町に合併編入された時には、その間「鹿島」の住居表示は一時的に消滅してしまった時期があります。
 当然、手紙の宛先は「鹿島」が「小名浜町」にとって代わって「磐城市小名浜町」の次に大字名と小字名を書くので鹿島の二文字はなくなってしまいました。
 昭和41年に「いわき市」になってから、いわき市の下に「鹿島町」が付けられるようになり、宛名は「いわき市鹿島町」として復活したのでした。                                              小名浜町に合併時、鹿島の人口は2,362人で、小名浜町は26,608人でした。

 ※磐城市成立の直前、昭和29年3月、松久須根、上矢田、三沢の三大字は湯本町に編入されて、3日後には常磐市の市政施行とともに常磐市の一部となったために、この3地区には今でも「鹿島」の名称は付きません。
 逆に宅地造成された若葉台団地や、いわきニュータウンは鹿島町を名乗っています。
                   《この道の突き当りが役場だった》       《鹿島村役場の跡地=階段部分》    


 当時の鹿島を総じていうと、上矢田に発する矢田川と、蔵持地区を横断してきて矢田川に合流する蔵持川の両岸に、水田を持つ純粋な農村地帯でした。
 主要地方道いわき古道線は旧道となって、その側を並行して走る「平⇔小名浜線」の道路は、俗に鹿島街道という愛称で呼ばれるようになりました。
 この道路こそが鹿島の大動脈ともいうべきもので、昭和38年の新産業都市指定前後に、まず船戸地区に団地が造成され、道路の整備とともに大型商店の進出、食堂、喫茶店などが数多く建設されたのでした。

 常磐・江名港線(県道48号)も鹿島街道を交差するようになり、正に交通の要衝と化しました。


 
 
 

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4年掛かりで建った蔵福寺

2018-07-26 06:09:54 | Weblog

                                           分類:神仏

                         高野山真言宗 天徳山福正院 蔵福寺                                             いわき市鹿島町走熊字坪下28                                                                                開山についての詳細は不明ですが、過去帳からすると宝永5年(1708)10月28日に、法印堅秀が入寂している記があり、それ以前法印堅秀第4世の記から1700年以前に開山されている事は推定できます。                                                                その頃は、山号を鬼渡山(きわたりさん)呼んで禅東は植田の東光院、及び長孫の長宗寺にも転任(移って住職となる)しています。(入寂は長孫の長宗寺)第16世の寿栄は宝暦3年(1753)に、湯本の勝行院に転任したという記録があります。                                                      《平成2年に再建された蔵福寺》

 蔵福寺は昭和4年(1929)の走熊大火の難を逃れた古寺で、暫くは廃寺となっていますがの檀信徒に守られて維持されてきました。
                《再建前の蔵福》              《走熊地区の高台にある蔵福寺の遠景》

 走熊には、高寺山(標高126m)にある磐城三十三所観音霊場の一つ、十七番札所の高寺観音(本尊・十一面観音)とゆかりの東泉寺(現在は寺跡のみ)と、蔵福寺境内の八坂神社⇒古い神号を牛頭天王(ごずてんのう)除疫神があります。                                        かつては、この三か所で地元青年団によって、獅子舞と棒術の奉納がが八月一七日(八坂神社では一五日)に行われていましたが、残念ながら現在には至っていません。

 過去帳よる住職名は、第四世堅秀法師堅照は宝永五年十月二十八日(1708)入寂、堅弘は延亮四年七月十一日(1747)入寂、第十四世であろう。 覚誉(天徳山と改号)・智明(第十七世か)入寂は天保五年(1834)三月二十五日となっています。

 現、住職(兼務)は、小名浜住吉の遍照院・永崎亮賢師です。

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イナゴが沢山とれた時代

2018-07-25 07:09:53 | Weblog

                            分類:PV


                      いわき市立鹿島小学校                                                  (旧・石城郡鹿島村立鹿島小学校)
  昭和19年前後、日本は愈々敗戦の色も濃くなってきて学校教育上に於いて、授業よりも次第に警戒警報や空襲警報発令の防空訓練及び、避難訓練などに重点を置くようになってきました。                                              また、空閑地を利用しての食料増産策も行われて鹿島小学校の校庭は歩道以外、全部開墾され、野菜、大豆類が栽培されて生徒たちも道路沿いや空地にカボチャやサツマイモを植えました。秋の稲刈り時期には生徒全員で、イナゴとりが行われました。
                    
《毎年、イナゴとりは学校の恒例行事になっていた。遠くに見える三角の山は高照山》

 生徒たちが手にしている白く見えるのは布袋で、袋の先を竹筒で、縛って獲ったイナゴを入れていく物です。                                              写真を2つに分けて、上が「 国民精神総動員強調週間中に於ける小学児童のイナゴとり状況」 のタイトルで戦地の兵隊に送った絵はがきの部分で、下が現在、同じ位置から撮影したものです。 絵はがきの撮影場所は、川の緩やかなカーブと小橋があることを手掛かりに探したら、鹿島小学校裏の走熊川土手でした。今は川一帯に雑草と葦が生え繁り、土手沿いには防災フェンスが張り巡らされて、なんとも殺風景な雰囲気ではありました。
 このイナゴとりは、昭和30年初期の頃まで行われていていました。 私も辛うじてこの年代に引っ掛かった年令だったので経験があります。売り上げた収益で各学級の図書購入費として使用されたのを覚えています。
                                             

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鹿島小学校のバス停界隈

2018-07-24 07:10:04 | Weblog

               《いわきタクシー(鹿島営)前から小名浜方向を見る》                                                                           場所  いわき市鹿島町走熊字西反町付近
                                                                       分類・地

                              
 左側にある水色の建物は「文具センター鹿島」で、画面では見えませんが右向かいに、とんかつの「かつ丸いわき鹿島街道店」があります。
 その先の茶色い3階建てビルが「いわき鹿島郵便局」で、手前に「鹿島小」の信号があって、ラーメン「楽陽」を左折すると「ギャラリー創芸工房」、30メートル先の左が「鹿島小学校」の正門です。                                           《ギャラリー創芸工房》           《夏休みに入った鹿島小学校》                                                                                                      《この両方向に、新常交バス「鹿島小学校入口」の停留所がある》

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鹿島 S・C ヨークベニマル

2018-07-23 06:08:48 | Weblog

             《開業12年目になるヨークベニマル》


                             分類・地
     ヨークベニマル エブリア店  いわき市鹿島町米田字日渡5                               
                       0246-46-1210


 「鹿島ショッピングセンター エブリア」 の同施設(店舗)にあるのが 「ヨークベニマル エブリア店」です。  「ダイエーいわき店」が店舗整理により、平成17年(2005)11月に撤退してからヨークベニマルが同ショッピングセンターのキーテナントとして平成18年(2006)4月から営業を開始しました。                              
              《店舗前は江名港⇔湯本線(県道48号)で、左側が江名、右側が湯本方面》 

 
 いわき市の中核的商業施設ともいわれる鹿島ショッピングセンターの延べ床面積は3万8729平方㍍ですが、その内の4011平方㍍がヨークベニマルの売り場面積になっており、食品を主体に肌着や靴下などが豊富に陳列されています。 また、この頃とほぼ同じくして、1階に 「ダイソー」 と 「マックハウス」、2階にスーパースポーツ 「ゼビオいわき店」 と 「オレンジフード」 の営業も始まりました。        
    営業時間  10:00~21:00   
 

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東海山西光寺 (上蔵持)

2018-07-22 06:11:04 | Weblog

                     《江名口に近い場所にある西光寺》                                                                                                           分類・神仏

                       東海山西光寺  いわき市鹿島町上蔵持字鈴ノ沢
                       〈とうかいざんさいこうじ〉

   宗派 曹洞宗
   本尊 釈迦牟尼仏〈木造坐像〉
   創立 永禄元年(1558)
   本堂 瓦葺15坪  庫裡 瓦葺15坪

 「東海山西光寺」は、青雲院(いわき市好間町下好間字大館282)6世の僧天際長大和尚が永禄元年に開山したものです。
 檀家は上蔵持・下蔵持の他に一部、下矢田地域の世帯も含まれています。

 昭和4年2月26日の鹿島村(当時)走熊の大火の際に当山まで延焼し、その際伽藍を灰燼(かいじん)に帰しました。
 しかし、その後は檀家の信念を集め仮堂を建て、昭和28年3月には本堂及び庫裡を再建しました。

   西光寺は江名港⇔湯本線(県道48号)沿いにあって、上蔵持地区でも最も江名寄りの場所になります。   

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青年団の根源は年齢集団

2018-07-21 06:40:28 | Weblog

                              分類:地                                                  
   地域社会に機能した青年団 
人の一生の中で、それぞれの段階に移行する時期に色々な儀式が行われます。
 このような年齢的関係を、子供・青年(若者)・成人・老年という世代として持つものに、かつて年齢集団という制度がありました。伝統的社会に於ける集合体で、地域社会を支える一つの機能として古くから守られてきたのです。
 例えば 「青年の部」 を一例に挙げると、青年(若者)組→青年会→青年団というような形で引き継がれてきたところかと思います。現代では青年団といわれても、お盆に新盆の家を回り、じゃんがら踊りをする人達位の感覚しかありませんし、実際に青年団そのものの存在は稀です。

                                    
  《お盆を迎えて走熊青年団が獅子舞の演技を見せて写真に納まる=昭和30年前半》


 では、どのような組織と役割を果たしていたのかを区分けをしてみます。
★子供組頭となる年齢の者を鳥小屋大将・ぼんでん大将・みそすり大将などと呼んでいるように、小屋との関係も深かったようです。(鹿島地区全体)                                  
★若者組 ※若者衆、若者仲間、若者連中、青年組などと地方地域によって異なり、さまざまな呼び方があった。男子十五、六歳で入会するが上限はその村々によって異なっている。久保では三十二歳、船戸・御代では三十五歳迄であったという。鹿島では、この祝いを「ふんどし祝い」といって伯母が、褌(ふんどし)を祝いに贈ってくれたからだといいます。
 しかし問題となるのは、その構成者がそれぞれ村の事情によって規制されていました。船戸では十六歳から三十五歳迄の各戸の長男だけと限定しているのですが、隣の久保では十六歳から三十二歳までの村に住む男子総てでありニ、三男から「年や」と呼ばれます。一年契約の雇い人に至るまで参加することになっていたという。組内の構成、呼び方は近隣の村々によって異なり久保では小頭と呼びました。頭の年期が終わり、新しい頭に替わることを「頭の立て替え」と言いました。
 若者組には若者宿というような拠点があり、そこで作業をしたり寝泊りしたりする場合が多かった。しかし夜這いの風習なども慣例的になってきて、次第に倫理観と不整合が自覚され名称も変ってきて青年団ととして再編され若者組は衰退していきました。
 長い間の伝統的な慣習や行事は、何でも簡素化されていく現代ではいとも簡単に切り捨てられ、殺伐とした社会になっていく風潮は物寂しい気がしてなりません。
 
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鹿島小前身、啓蒙小学校

2018-07-20 06:03:23 | Weblog

                  《金光寺境内にある鹿島小学校発祥の碑》  

                                            分類・学
                             
 養照山宝蔵院金光寺(久保地区)の境内に黒御影の石碑と説明版があります=写真。

 現在のいわき市鹿島町は、明治22年以前までは12の村がそれぞれ独立していたので教育施設も数箇所に分かれていました。
 明治6年、久保村の金光寺境内に啓蒙小学校(後に久保小学校と改称)、上矢田村神宮寺成徳小学校が設置されました。
 明治13年に下蔵持村に小学校が新築され啓蒙小学校は、それに伴う移転が行われて金光寺の教育現場としての歴史は閉じました。
 校名の「啓蒙」とか「成徳」は中国の古典からとって名付けられています。                        
                   《現在の、いわき市立鹿島小学校》
 
 しかし、小学校が出来たとはいっても実情は財政上の問題から校舎を新築するほどの余裕が無かったために、暫らくの間は寺子屋や塾などを改造、依存していたようです。
 その後、双方の学校は校名を変えたり、移転したりと幾多の変遷を経て昭和9年(1934)10月に走熊字中島1番地に木造平屋建て瓦葺校舎が造られました。
 昭和54年(1979)、同地に待望の鉄筋コンクリート3階建て新校舎が完成しました。今年、平成30年(2018)で「鹿島小学校」は、創立145年を数えます。
     《鹿島神社(上矢田)鳥居の脇にも、同等(成徳小学校)の発祥の地碑があります》 
  




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走熊(はしりくま)公園

2018-07-19 06:44:09 | Weblog

                             分類・地

                         
                場所 : いわき市中央台鹿島1丁目55-1
 
                               
         
           《公園内に中央台パークセンターがある》
            
 走熊公園は昭和50年度から30年計画の下に、いわき市中央部の丘陵地帯に造成された「いわきニュータウン」の一角にある公園です。
 元は鹿島町走熊地域の山林でしたが、宅地造成後からは地番変更されました。
                                                                                              
             《この先には広大なグランドがある》

 JRいわき駅から車で約25分の場所にあり、駐車場は普通車17台、車イス用1台のスペース有り。 この走熊公園界隈には「中央台南小学校」や「いわき市暮らしの伝承郷」「ラパークいわき」があり、また北方面は「郷ケ丘」や「高久」地域になります。                                                   
高台にあるため、遠景に湯の岳を眺められるのは開放感を得られます。

 地元の人たちは、広大な敷地内でジョギングやバードゴルフなどをして楽しんでいますが、子供たちが夏休みに入り、お盆が近付くと、自治会では公園に櫓(やぐら)を設営し、盆踊り大会や花火大会などを開催して、ひと夏を一気に盛りあげます。 

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八坂神社(走熊)

2018-07-18 06:19:23 | Weblog

                                            分類:神仏                                                  八坂神社 鎮座地 ; いわき市鹿島町走熊字宮下53                                                                                              祭 神 : 素戔嗚尊(すさのおのみこと)=須佐之男命              

         7月16日は例大祭だったが……。                         毎日、暑い日が続くなかで今日(17日)は、区長や神社総代、寺世話人、地域の人たちが集まって、例大祭を執り行う準備を進めてきたが、宮司の父親が7月8日に逝去して取り止めになった。                                      宮司とは、平の中神谷にある 「立鉾鹿島神社」 の佐藤大和さんで、父親とは元・立鉾鹿島神社の宮司、佐藤典久さんのことです。先代の典久宮司にも長らくお務めを頂いていただけに、謹んでお悔やみを申し上げるとともに、御霊のご平安をお祈りいたします。                                                                                           《鹿島の走熊地域にある八坂神社》

 意気消沈して記事にもならないが、折角なので八坂神社に対する要所だけを記しておきたいと思います。                                                                                      祭神を今の宮下地内へ勧請した年月は不詳です。古来神号を牛頭天王(徐疫神)と称していたが、明治3年6月8日、八坂神社と改称し、同6年3月12日小社に列格されました。昭和4年2月25日の走熊大火の折に社屋が灰燼に帰したため、同4年7月21日同境内に再建しました。                                                                                                                                                                                                                              《八坂神社の上り口》                          《右柱に鳥居を奉納した人の銘板がある》

 八坂神社は、国内に約3,000社あり、俗に 「胡瓜(きゅうり)天皇」 とも言います。

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吉野せい賞応募の勧め

2018-07-17 06:51:16 | Weblog
           《開墾した梨畑跡地と生前暮らしていた家》 
                 
                           分類・歴他

                  場所  いわき市好間町北好間字上野

 好間にある菊竹山の開墾地で苦労を重ねてきた吉野せい(1899~1977)は、晩年に小説「洟(はな)をたらした神」を発表し、第6回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回田村俊子賞の2つの文学賞を受賞し、更に同年10月には教育文化功労賞として、いわき市から表彰を受けています。76歳の時でした。

 吉野せいは、明治32年(1899)に磐城郡小名浜町(現・いわき市小名浜町)の裕福な網元の娘として生まれ、若い頃から山村暮鳥らの文人と交流をもち、雑誌や新聞に作品を投稿していました。
 大正10年(1921)詩人、三野混沌(みのこんとん)=本名・吉野義也、と結婚し、好間の菊竹山で開墾生活に入ります。その後、混沌が亡くなるまでは殆んど作品を書いておらず、彼の死後、交流のあった小川出身の草野心平に作品を書くように勧められたことを契機に、再び執筆活動を始めることになります。                                        
              《ありし日の吉野せい》 

 昭和52年(1977)、病に倒れ鬼籍に入りますが、この年「洟をたらした神」が劇団「手織座」によって演劇化され、吉野せいの生誕地・小名浜で上演され、その時の益金が主催者から市へ寄付されました。 
 市はこれを受けて吉野せいの輝かしい文学業績を記念して、新人の優れた文学作品を顕彰し、いわき市の文化の振興に資するために「吉野せい賞」を設けることになりました。
 今年で第41回目を迎え、10月下旬には応募者の中から各賞が決定し、11月4日に草野心平記念文学館で授賞式が行われます。
 
  第41回吉野せい賞作品を募集中 
 吉野せい賞に関心があって、日頃から自分で作品を書いてみようと思っていた方や、既に作品は出来ているが応募先を決めかねていた方たちには、この機会に是非応募してみるようお勧めします。
 応募資格は、いわき市に関連のある人(市内に在住して通勤、通学した人、又はいわき出身者か、過去に於いて市内に在住・通勤・通学した人)
 募集締め切り日は、平成30年8月8日(水)必着。
◎詳細については、いわき市のホームページ内の 「第41回吉野せい賞」 を検索か、問い合わせは、いわき市文化スポーツ室文化振興課「吉野せい賞」係 0246-22-7544


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