いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

久保の磨崖仏が市指定文化財へ

2009-03-29 06:06:31 | Weblog
 3/24 いわき市文化財保護審議委員会(佐藤孝徳会長)は、鹿島町の鹿島街道沿いにある久保の磨崖仏(まがいぶつ)を、市の文化財に指定するよう遠藤宏市教育長に答申書を手渡しました。
 
4月に開かれる予定の教育委員会に諮り、正式決定される見通しです。

「久保磨崖仏」は、久保と船戸の丁度、境界地点にあり岸壁に如来形坐像が彫り出されているもので地元では昔から「岩薬師」と呼んでいます。
 像は4体確認され、高さは最大で1m34、5cmセンチほど。
 
薬師堂の建立時期については、久保の金光寺境内にある中山観音堂内に納められている棟札によると、造立年代は貞亨5年5月18日(江戸時代・西暦1688)とあるから、この年「元禄」と年号が改まっているので元禄元年でもあります。
 その頃には、岩薬師にお堂が存在し、近村の人々が厚く信仰していたようで、お堂は一説によると小名浜代官が罪に問われて薬師前を通った折、もし無罪になったらお堂を建立する旨心願し、やがて代官は咎(とが)を逃れて無事に元の職に戻ったために、薬師前に立派なお堂を奉納したということも伝わっています。
 
長い年月の中で、現在ではお堂そのものは有りませんが、磨崖仏は風化されていく危険性はあるものの、当初からの原形は保たれているものとし、市指定文化財としての価値を備えているとしています。
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兄妹旅日記 ⑫

2009-03-28 09:22:11 | Weblog
AM07:20
 3階の部屋からカーテンを開けて外を眺めると、霊峰富士山が朝の澄んだ空気の中にくっきりと姿を見せていた。
 300メートル先ほどに沼津駅のホームがあって、電車が入線してくるのを見ていると、交通博物館の箱庭のように思えてくる。

 東海道線の電車が、グリーンとオレンジのツートンカラーなのはミカンの色と葉を連想させるもので、横須賀線がブルーとホワイトなのは海と砂をイメージしたものだということを思い出した。

 義弟と殆んど同じく目を覚まし(いや、実際には私よりももっと早く起きていたのかもしれないが)市内の街並みを眺めていると妹二人が入ってくる。4名が顔を合わせたところで、モーニングコーヒーを手にして今日のスケジュールを話し合う。

 私の意見として、これから関東圏に入ったら改めて、これといって観るところも無いので今日中に自宅に戻ることにしようと提案した。
 誰も異議を唱えるものはなく、距離的に運転時間も長くなるのでその点だけを心配してくれたが、運転を替わるというものはいなかった。
 4名全員が運転免許証を持参しているのだが、結局これで全線を私一人の運転ということになった。 それだけ運転を信頼して、一任してくれたのだと思えばいいか(納得?)

 旅は風光明媚な場所を求めて巡り歩くのも良いが、その土地土地の人達と接し、話し、そして笑い合えたことが大きな印象として私の心にいつまでも残るだろう。 〈了〉

 

  
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兄妹旅日記 ⑪

2009-03-27 08:21:19 | Weblog
 東名高速道吉田ICで下りて、国道150号線を焼津市内に向かい駅前界隈と中港を見て回る。
 時計を見ると16時を少し過ぎたところで、宿をとるには未だ早いからもう少し行ける所まで行ってみようということになる。
 
 同じ道を走行している積りでいたら、いつの間にか国道1号線に変っていた。
 日が暮れて道幅も狭くなったようで、道沿いのコンビニの明かりだけが周囲の暗さから一際目立って見える。
 私たちはコンビニ前に車を止めて、店員にこの近くか先に泊まれる宿があるかどうかを尋ねた。
 店員は首を捻ってから「店長ー」と呼んで,カウンターの中にいたオーナーらしき年輩の男性に宿探しの内容を話してくれた。
 残念ながら、この辺りには民宿も旅館も無いという答が返ってきた。
 昔的に云えば旅籠の名残のような宿が、一軒ぐらいあってもいい雰囲気の土地なのにと思いながら、気を取り直して先へ進む。

 JR沼津駅前に着いたのは20時。
 ホテルを探し当て宿泊を申し込むが二軒とも断られる。
 4名の表情に焦りの色が出てきたが、最悪の場合このまま走行を続けることに決めて、もう一回りしたら国道沿いの信号の角で「沼津ホテル」の大きな文字が目に入ってきた。
 断られるのを覚悟して交渉したら結果はOK。
 正に三度目の正直というやつだ。

 寝る前に4名で外に出て、駅前の居酒屋「笑笑」で乾杯を交わす。
 生ビールが旨いと感じたひと時だった。
 
 それにしても、きわどい飛び込み宿泊に決着がついて安心した。 《続く》 

 
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兄妹旅日記 ⑩  

2009-03-26 07:35:17 | Weblog
 
 御座に着くと周囲は民宿のオンパレードだ。
 私たちが泊まる民宿は、3階建ての白い建物で目に付きやすい場所にあった。
 御座白浜海水浴場のすぐ側でキャンプ場も、どこの民宿も退屈そうに肩を寄せ合っているように見えるのは場所柄、やはり夏場が最盛期になるからだ。
 浜辺に打ち寄せる波は、まるで湖の白波のような穏やかさ。

 若い頃は海女さんで今でも時折、潜ることがあるという日焼け(海焼け?)して健康そうな女将さんが、夕食時に部屋に挨拶にきた。
 鯛の生き作りのサービスがあって「今夜のお泊り客は、お客さんたちだけですからどうぞご自由にお使い下さい」と伝えて暫らくすると、お手伝いさんたちも本当に引き上げてしまった。
 女将さん夫婦は娘家族と一緒に別のところに住んでいると言っていた。

 こうなると「シーサイド帆ケ島」は、私たち4名にとっての別荘状態になってしまった。シーズンオフの方が好待遇を受けることを改めて思った。
 予め頼んでおいた飲み物類をテーブルに並べて、今夜も四方山話に花が咲いた。

    3月16日
 朝早くから厨房で食事の用意をしている物音が部屋に心地よく聞こえてきた。
 
 さて、此処までは毎日宿泊先が決まっていて、時間に追われながらも安心感があったが今日からは泊まり先の予約は入れてないので道中、自由は利くが何となく不安な気持ちも湧いてくる。
 成るべく一般道を通って、その土地の景色を満喫して行こうと出発時には思うのだがハンドルが言うことを聞いてくれない。
 一度、高速道を利用してしまうと一般道を走るのは億劫になってしまうようだ。
 伊勢自動車道から、矢張り東名阪自動車道へ乗り継いでしまった。
 
 浜名湖のPAで昼食を兼ねた休憩に入る。
 ガラス張りの窓越しから湖面が眩しいぐらいに光って見える。
 4名がメニューを見るなり揃って、うな重を注文した。
 義弟が一口食べるなり「あまり美味いとは言えないな」とYに言った。うなぎのボリュウム感、焼き具合、味加減が良くないという訳だ。
 「さすがにグルメは目の付けどころが違うわね」とMが言ってYと目を合わせて笑った。
 
 しかし、私は義弟にそう言わせる根拠があると即座に感じ取った。
 義弟は平では名のある寿司屋の常連で、出前はしていないのだが私が義弟の家に行った時など電話一本で届けるほど懇意にしている店がある。
 そこの店と比較したら確かに雲泥の差があった。
 
 うなぎの本場で、名物で知られる浜名湖に期待しすぎてしまったようだ。

「名物に美味いもの無し」とYが言ったが、誤解の無いように付け加えておくと、どうやらこの一件は値段的にも問題があったことは否めない。
 《続く》 
 
 
 
 

 
 
  
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兄妹旅日記 ⑨ 

2009-03-25 08:26:56 | Weblog
    3月15日
 よく床が変わると、いや枕が変ると寝られないなどと云うが今朝、妹二人も起き掛けにそのことで話していた。
 私の特技(?)は、何処へ行って寝るにしても5分前後で熟睡状態に入れることだ。
 あとは枕元でマージャンをしていようが、鐘を叩かれようが一切関係なく睡魔の餌食になってしまうのだ。だから夢は滅多に見ないし、目が覚めたら朝になる。
 蒲団の中に入ったら寝るものだという自己暗示が強いのかも知れない。(単純といえば単純なのだろうか?)
 妹達は私とは正反対で、寝床に入るとその日の出来事などを色々、考えて却って目が冴えてきてしまうのだそうだ。

 3階の浴場で、ひとっ風呂浴びてきてからの朝食にした。
宿を9時30分に出て、近鉄大阪線と並行している国道165号を橿原、名張を経由して室生村の「道の駅」で食事。
 久居市は、妹T(姉妹の四女で一番下)の夫が此処の出身で、父母も来たことがある場所なので通過中は親しみを覚えた街中だった。
 久居ICから伊勢自動車道で伊勢西まで行き、伊勢神宮を参拝する。
 
 伊勢から鳥羽までは伊勢志摩スカイラインを通っていくことにした。
 天候に恵まれて、宇田展望所からは五十鈴川と宮川の河口付近が一望できる。
 朝熊山(あさまやま)頂上付近まで来ると、後は鳥羽湾の景色を見ながら鳥羽方面へ下るのみ。
 本日の宿泊地は御座岬近くにある「民宿シーサイド帆ケ島」だから、伊勢道路を利用すれば距離は大幅に短縮できたのだが、4人の総意でスカイラインを通った。
《続く》
 

 
 
 
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兄妹旅日記 ⑧

2009-03-24 07:29:18 | Weblog
   3月14日
 AM9:30に博多を発つ。
 山陽自動車道を通って周防灘、瀬戸内海沿い眺めながら大阪まで行くのだが、距離的に云って途中で寄り道していく余裕は全くない強行軍の一日だ。
 広島の八幡PAで車を止め、昼食と小用を済ませた。
 妹が缶コーヒ-と,つまみ類を車の中に持ち込んだ。

 高速道路一辺倒で突っ走ってきたが、それでも神戸の町に入った頃には日が暮れてしまった。
 大阪市内のメイン通りは、車線は多いのだが車の通行量も激しい。
 義弟が地図を見て、この先を右だの左だのといっても早めに言ってくれない限り車線変更は難しいくらいだ。
 そして少しでも前を開けようものなら直ぐに他車が割り込んで入ってくる。

 かねよし旅館は、宗右衛門町にあって旅館の裏側は道頓堀。
 4人で夜の街を歩く。道頓堀の川の水面がネオンの光を鏡のように撥ね返す。
 法善寺横町へ向かう途中の一角に、たこ焼き屋が二軒並んでいる露天があり、場所が良いのだろう途切れなく客が寄ってくる。
 私たちも関西のたこ焼きを食べようと、母娘でやっている店に近づくと隣の若い男の呼び子が空かさず寄ってきて「やめておきなさい、ウチの方が美味しいのだから。ここのは、とても食べられたものじゃない」というようなことを関西弁でまくしたてた。
 
 私たちは唖然とした。しかし、たこ焼きは母娘のものを買うことにした。
 相手も流石に力ずくで阻止することはできないのだろう、別の客にまた同じようなことを大声を張り上げて言っていた。
 営業妨害も甚だしく、大阪弁で「えげつない」とは、こういうことを云うのだなだなとつくづく感じた。
 お金を払う時に私は「ひどいことを言うものだねえ」と、おばさんに言ったら「いつも、こうなんですよ」と母娘で弱々しく笑ってみせた。

 励ましになるのかどうか判らないが、私たちは「頑張ってね」と言い残して去ったが、あの行為は明らかに嫌がらせであり、立ち退かせるための魂胆であることが窺えた。
 帰り際に、嫌がらせの若い男は二人居たことに気付く。

 街の散策を取りやめて四舟のたこ焼きを部屋に持ち帰り、今日の出来事と明日の予定の確認をした。
 口にした、たこ焼きそのものが、あの母娘の味と温もりのようだった。《続く》

 

 
 
 
 
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兄妹旅日記 ⑦

2009-03-23 07:27:23 | Weblog
                博多の屋台まみちゃんで》 

 ゆっくりと公園内を散策して、仲見世を見て歩く。
 社寺境内で販売しているものは何処も似たようなも品ばかりだ。和風食堂があったので暖簾をくぐり、腹ごしらえをしておく。
 
 熊本から福岡まで、一般道と九州自動車道を適当に使い分けて博多東急インに到着したのは19時を過ぎていた。
ホテルは天神1丁目の西中島橋側で、那珂川を挟んで中州の街が良く見える。
 4人は部屋に荷物を置くと、外へ出て散歩がてら晩の食事をとることに決め込んだ。
 
 川の土手通りや昭和通り、地下鉄天神南駅界隈など、どこを通っても屋台が並んでいる。
 私はもう食事するという概念から外れて、空きっ腹に染み渡るであろう酒の誘惑に応えて、皆も屋台に招き入れようとした。
「どうだろう折角、屋台で有名な博多に居るんだからラーメンでも食べてみるかい?」目的は違ってもラーメンで妹たちを誘った。
「食べようか」「いいわよ」妹二人は即答に近い返事だった。
 勿論、義弟も私と同じような心境だろうから断る理由などない。立ち止まった目の前の屋台に指を差して「入ろう」と言った。

 紅白の暖簾に「まみちゃん」の屋台名が入っている。
 四十路を過ぎた女性が主役で、口数の少ない旦那は裏方だ。
 手羽先を肴にして芋焼酎が喉元を通り過ぎると、五臓六腑に染み渡る。妹たちはチャンポンが出来る間、スカッシュ系の飲み物を口にした。
 
 この店は、パソコンで 屋台 まみちゃん で検索すると店の情報とお客さんのスナップ写真がリアルタイムに見ることが出来ると斜向かいの客が言った。
 私たちが店を出る時に、まみちゃんがデジタルカメラを手にして記念写真を撮った。
「明日から当分の間はホームページに載るので、旅の思い出に是非見てください」と云われてホテルに戻る。 
 とうに22時を回っていた。 《続く》 



   ◆訃報 鵜沼正一さん 95歳 22日死去 (元いわき市磐城支所長)  鹿島町下矢田字蓬作1
         

 
 
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兄妹旅日記 ⑥ 

2009-03-22 07:23:42 | Weblog
えびので下りてから人吉までは、笠置山を越えて約1時間の道程だった。
人吉市内に入るとMの夫が案内役に回った。彼が生まれ育った土地であり、そこでタクシーの運転手をしているのだから案内する口調も滑らかで、確かに良く知っていた。
 
 人吉城の藩主は相良(さがら)氏だが、鎌倉時代に遠江国相良庄(現在の静岡県牧之原市)から人吉庄にに下向し、戦国大名になり明治維新まで続いた。
 この一族が相馬中村藩の家臣となり、藩制時代を送ったという経緯からすると福島県と熊本県には少なくとも何らかの因果関係があることを知る。

 Mの夫の家を訪ね、お義母さんに逢い挨拶を済ませてから次の目的地へ向かうことになるのだが、ここでMの夫ともお別れすることになる。
 車中は4名になって、なにか物寂しい雰囲気になったが気を取り直して熊本城へと車は進む。
 熊本市内に入ると「熊本城は只今修復工事中」の看板が目に入ってきた。残念!

 水前寺公園に着くと、この時期に小雪が舞ってきた。
 出水神社本殿脇の神札授与所で、全員がおみくじを引きYの夫が、ナント「凶」を引き当てた。
 引かなければ良かったと落胆する義弟に、私は「いつだったかテレビで宮司さんが言っていたけども、凶札は100枚中に1、2枚の割合で入るらしいが、これを引く人の確率は圧倒的に低いわけだから、この札を引いたら喜ばなければいけないんじゃないかい。凶札が最悪と解釈するならば、あとは上に登るだけしか方法は無いから上昇気運で、この上は無いという大吉よりは寧ろ良いと思うな」
 訳の判らないようなことを言って慰めたら、義弟は他人事だと思ってと笑いながらも納得してくれた。・・・ようだった。
 「それにしても凶とはねー」と妹二人が腹の底から笑った。

 水前寺成趣園は、桃山様式の優美な回遊式庭園で東海道五十三次を模したといわれる趣のある風情が漂う。
 池の向こう側の築山が富士山を表現しているのがよく判る。
 本日の宿泊予約地は福岡市内なので、チェックインは相当遅くなることは今から想定できるので先ず、ホテル側に夕食のキャンセルと大体の到着時間を電話で連絡を済ませておくことにした。 《続く》 

 

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兄妹旅日記 ⑤  

2009-03-21 07:44:12 | Weblog
 宿に戻ると畳敷きの広間には、今夜の宿泊者分の食事が用意されていた。
 間仕切りされた隣の厨房ではカウンター越しから、おかみさん夫婦と娘夫婦(または息子夫婦)の4名が気忙しそうに動いているのが見える。
 私たち男3名が横に並び、対面にYとMの妹が座った。
 民宿特有の家庭的な雰囲気の中で、食事の前に女性は地ビール、男性は薩摩焼酎を頼んで、何はともあれ皆が元気で暮らしている事と旅の初日が無事に終えたことへの感謝を祝して乾杯をした。
 母親のこと、日常生活のこと、世間話などで時間を忘れて盛り上がった。

   
   3月13日
 指宿での早朝、部屋が別々なので判らないが、どうやら目を覚ましたのは私が一番早いらしく静まり返った部屋から抜け出し、ビデオカメラを片手に民宿の周辺を散策した。
 観光客で賑わった昨夜がまるで嘘のようで、表の通りは地元の人が時折、通り過ぎるのと道沿いのフェニックスの葉が潮風で揺らぐ程度の閑散とした街中に変身していた。
 昨夜入った砂風呂が砂浜の一角にブルーシートで覆われて、その隙間から湯気が
上がっていた。
 
 30分ほどして宿の前まで来ると、二階の窓から私を見つけた妹たちが手を振った。
「いつまで寝ているんだ」と渇を入れると「年よりは朝が早いからなー」と、年齢的に差の無い妹夫婦たちが笑った。
 
 10時過ぎに宿を出て、私の運転で錦江湾に浮かんだ桜島を右にしながら、国道226号線を突っ走る。湾沿いを走る車と共に桜島がどこまでも付いてくる。
 今日、最初に向かう先は熊本県の人吉になっている。 
 帰り掛けにM夫婦の家に寄り、皆で九州のお義母さんにも逢って挨拶していこうと思うからだ。
 また、Mの夫は仕事の都合上、残念ながらそこまでの旅となり降りることになる。
 一般道路の姶良辺りに峠の茶屋風の食事処を見つけたので、休憩がてら昼食をとることにした。
 店の片隅で大きな水車が滑車の音を鳴り響かせて客を呼んでいる。

 鹿児島北から九州自動車道に入り、ダイナミックな山々の雄大さに感嘆した。
  《続く》


  本日の催し 3月21日(土)
 「おはなし会」   鹿島ブックセンター 午後2:00~  参加無料
          同店スタッフが絵本の読み聞かせをし、シールや絵はがきなどのお土産もあります。

 
 
 
 
 
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兄妹旅日記 ④

2009-03-20 07:54:44 | Weblog
 指宿の砂風呂へは、砂むし会館「砂楽」で浴衣一枚に着替えて外の砂浜まで行くのだが、雨が降っていたので小走りで向かった。
 砂に横たわる場所は、男女別に仕切られてはいるが、テント屋根一枚でオープンになっている。
 女性砂風呂脇の通路で、いきなり砂をかけられたので、私はムカッとなって相手をよく見たら妹二人で次に投げかける砂を握って笑っていた。
 「なんだ、お前たちだったのか」と思うと私は引きつった表情を慌てて笑顔に作り直した。
 
 テント張りの砂場にスコップを持った従業員が、客を見つけると手馴れた動作で砂に寝そべられるだけの穴を掘り招き寄せる。
 そこからは、外気の低温に触れた地熱が白い湯気となって舞い上がった。

 仰向けになって砂から頭だけを出しているのだが、私には熱くて我慢が出来ず身動きの出来ない状態の中で、腰を浮かしたり寝返りを打つように左右に反転しようとするのだが思うようにいかず隣にいるYの夫に砂加減?を聞いたら、とても気持ちが良いと言って額から汗を滲ませながら目を瞑ったままで答えた。
 腰痛持ちの義弟には効くのかも知れないが、私のような至って健康な者には熱いと感じるだけなのかと思い、5分といられず先に上がって会館の温泉に行く。
 やはり、自分には広い湯船に一人ゆっくりと入っていたほうが性に合っている。
 
 民宿へは皆と一緒に帰ろうと思い、時間調整に館内の展示物を見て回る。
 砂むし湯治については「約300年昔の元禄16年(1703)頃から行われていたらしく、明治から昭和にかけて砂むし療法は絶大な信頼を得て、農閑期には近郷近在ばかりでなく全国各地からの湯治客で賑わい、指宿観光の目玉となり全国に根強い常連客が数多く増えた」というような説明や、市内の観光案内とかパネル写真などを見て時間を費やした。

 やがて砂風呂組がやってきた。
 5人が揃ったところで、土産店を数店覗きながら民宿へ戻った。  《続く》


   春分の日
      「おはぎ」と「ぼたもち」⇒ 春に作るものを牡丹餅と言い、秋に作るものを御萩または萩の餅
                      と言います。
                      それぞれ春の花「牡丹」と、秋の花「萩」に見立てた名であって、同
                      じもののことです。
                      また、粒あんのものをおはぎ、こしあんのものをぼたもちと言い分
                      ける地域もあります。
 
   
 
 
 
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兄妹旅日記 ③ 

2009-03-19 07:41:11 | Weblog
 Yの夫がゲート出口で金属探知機に反応してしまったのである。
 側に立っていた警備員が寄ってきて、彼の頭から足元までをハンド探知機で探るのだが別に、これといった異常は見つからずに警備員が首を捻る。
「すみませんが、もう一度チェックゲートを通って戴けますか」
 警備員に促されて靴をサンダルに換え、上着を脱いで通過するとまた鳴る。
 
 双方が納得できないでいるところへ、もう一人の警備員が来て義弟の腰あたりに手をやり「お客さん、ベルトのようなものを付けていますか?」と訪ねた。
「私は腰痛持ちで絶えずコルセットを嵌めていますけど」と義弟が答えた。
 見た目では判らないが、コルセットの内部には網目条の金属線が入っているそうなのだ。
 一件落着とはなったが、それにしても最初の警備員は機転を働かせて、早く気付いて欲しいものだったと不満が残る一齣であった。

 出口に近いロビーのガラス越しからM夫婦が笑顔で手を振っていた。
 久し振りに再開できたことをお互いに喜び合った。
 14時30分、M夫婦の乗用車に乗り込み指宿に向かうことにする。空港を出た直ぐ近くに西郷隆盛の大きな立像が見えて、既に鹿児島の雰囲気が漂ってきた。
 九州自動車道を経て、その途中で桜島の景観を満喫する。
 指宿温泉街の民宿に到着した時には小雨が降り出していた。
「夕食前にお風呂に入れるようになっていますよ」と、おかみさんが勧めてくれたが、指宿の有名な砂風呂は何処かと聞いたら、ここから歩いても5分と掛からないというので全員、そちらに行くことにした。 《続く》



  本日の催し 3月19日(木) 10:00~15:00
 「あけびづるかご」 あけびのつるで、素敵なかごを編みます。
 指導者:鈴木タミ子さん 永山ヒデ子さん(渡辺町) 
      いわき市暮らしの伝承郷  旧猪狩家/材料費800円(観覧料は別途)
     ◆事前申込み制で8名。(※受付は終了しています)

 鹿島フォークダンス  9:00~    鹿島公民館


快晴。前の山でウグイスの初鳴きを聞く




 


   
 

 
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兄妹旅日記 ②

2009-03-18 07:40:34 | Weblog
  3月12日  本文は平成18年(2006年)当時の日記録より掲載しています。
 
 AM6時に私とY夫婦の3名が中央台へ向かい、ラパーク前から高速バスに乗車した。
 バスのマフラーから真っ白い蒸気のような煙を吐き出しながら、エンジン音だけが閑散としたニュータウンの地面を這うようにして広がっていく。
 義弟が何かに気付いたらしく、後部座席へ進んで行き誰かと会話を交わしはじめた。あとで聞いたら旭化成に居た時の後輩で、出張でこれから宮崎県延岡市の本社へ行くらしいと言っていた。
 相手も本来ならば義弟を格好の旅の友として同行したいところだったのだろうが、気兼ねをしてか同乗中、こちらの座席に寄ってくることはなかった。

 延岡というと「いわき」とは無縁ではない。
 延享4年(西暦1747年)に平城藩主、内藤備後守正樹は一揆の責任をとらされて日向国延岡に転封された地だからだ。

 AM10時過ぎに東京駅前に到着。
 新橋浜松町からモノレールで羽田空港まで行き、12時15分の鹿児島空港便に搭乗した。
 スカイマーク・エア・ラインで航空運賃が1万9千円(前割)は安い。
 予約申込みをあと2週間早く前に行っておけば、僅か5千円で行けたというのだから驚きだ。
 日頃から何でも調べておけば損はないと痛感した。

 今日の予定では、鹿児島空港で熊本県人吉市に住んでいるM夫婦と合流して、そこからは5名で指宿温泉まで行くことになっている。
 14時05分に同空港に到着。
 しかし、空港出口のチェックゲートでハプニングは起こった。
《続く》
 

 

 
 
   
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兄妹旅日記 ① 

2009-03-17 08:43:21 | Weblog
   思い立ったが吉日

 私の直ぐ下の妹が勤め先の会社を定年退職し、その夫婦が近くに住居を構えている関係で私がいつ行っても二人揃って迎えてくれるようになった。

 愈々、老後の境地がわかる仲間入りをしたなと言ったら「そうは云っても毎日家の中でお茶ばかり飲んでいても始まらない。私には羽が生えたのよ」と軽く一蹴されてしまった。
 私は二日酔いで重い頭を更に垂れて、妹の夫のフォローを待った。
「どうだろう、皆で旅行でもしてみないかね?」
 義弟が私と妹の表情を読むようにして「ネ」というような仕種をした。

「ああ、それもいいね」と軽く流す積りで私が言うと、妹が即座に「賛成、それで何処へ行くの?」と急須にお茶を入れるのを止めて目が輝いた。
 さっき、妹が「・・・始まらない」と言っていたのは、こういう状況を引き出すための台詞(セリフ)だったのかと思うと、納得と同時に私自身も旅行するにはこの際、良い機会を与えてくれたのかなと心が揺らいでしまったのだ。

 そこで、皮肉なことに双方の往来が更に頻繁になってしまった。
全国の観光地や宿をパソコンで検索し、地図を百均のダイソーや書店から買い集めては無い知恵を絞って行き先を探す作業に入った。
 妹が「どうせなら、Mの居る九州を重点にして、帰り掛けに各地を観てきながら戻ってくるというのはどうかしら。帰りはMの家に寄ってMの車でMも一緒に乗せてくるという発想なんだけど」とMとも旅行がしたいという妹の提案だった。

 話が、ややこしくなってきたので、ここで注釈を入れると私からみて、最初から妹と呼んでいたのは兄妹の中の長女にあたるYであり、Mは次女ということになります。以降は妹の呼称を「Y」と「M」とします。

 YがMに電話連絡してみたところ「一年半以上も故郷に帰っていないので、九州に来るのなら是非、同行させて欲しい」と弾んだ声が受話器の中から洩れてきた。
 それならばと、私とYの夫は、コップの中に馥郁な薩摩焼酎を注ぎ、お湯で割って日程表の作成に入った。 《続く》

 
   
 
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鹿島の神社仏閣 ②

2009-03-16 07:41:34 | Weblog
光西寺  臨済宗妙心寺派 開創年代西暦1790(中興) 左右の楼門に仁王尊を安置
      本尊 地蔵尊  寺宝 堂造阿弥陀如来坐像    鹿島町御代字寺ノ入

金光寺  高野山真言宗      大同元年(西暦806年) 遍照院末
      本尊 聖観世音菩薩  寺宝 養照山由来一巻(安藤侯時代平藩の儒官であった神
                    林復所〈通称、清助という〉の筆) 鹿島町久保字
                   西ノ作

如来山正福院蓮光寺  高野山真言宗    西暦1573年
 本尊 弘法大師〈寄木造〉 寺宝 元禄二年(善国大)の過去帳 慶応二年(淨全大)
                 の過去帳         鹿島町上蔵持

正福院  高野山真言宗 遍照院末 開基(空興) 西暦1573年  鹿島町上蔵持字寺内

西光寺  曹洞宗 青雲院末 開基(天際長順) 西暦1558年
      本尊 釈迦牟尼仏〈木造坐像〉※昭和4年、走熊の大火の際に当山まで延焼し、そ
         の際伽藍を灰燼に帰した

天徳山蔵福寺福正院  高野山真言宗  元禄年間
      本尊 大日如来 ※往古の記録を失い、開山年代の確証なるものは不明  
               鹿島町走熊

極楽山密蔵院  真言宗  西暦1698年
      本尊 大日如来 ※本尊の大日如来は、何かの事情により現在お姿を消している
               鹿島町米田

杉社山真浄院  真言宗智山派  西暦1511年
      本尊 薬師如来 ※寺の記録に「鵜沼一族の寄進により伽藍建立」とある 鹿島町       
下矢田字大作

金峰山円福寺  曹洞宗  開基(芳賀) 西暦1469年-西暦1486年
      本尊 上品阿弥陀如来坐像(木造寄木造)恵心僧都作  寺宝 本尊及び、大般若
         経(600巻)ほか7点        常磐上矢田町寺ノ作

中島山宝林寺  開基(中塩伊庵) 西暦1532年ー西暦1554年
      本尊 釈迦牟尼仏※昭和17年、庫裡及び本堂を焼失、昭和27年に至って本尊を入
         仏した

 いわき市の人口(3月1日現在)
 347,098人(男168,346人 女178752人)で2月1日と比較して、191人減少している。 世帯数は132,341世帯で7件減だった。

 
                                            

     
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鹿島の神社仏閣 ①

2009-03-15 07:45:22 | Weblog
鹿島神社  武甕槌命(たけみかずちのみこと)  創建 神護景雲2年(大和時代・西暦768年)
                常磐上矢田町花木下   延喜式内社(えんぎしきないしゃ)・旧郷社

羽黒神社  倉稲魂命(うかのみたまのみこと)    永正14年(室町時代・西暦1517年)
                常磐松久須根町字大夫内58   村社

日吉神社  大山咋命(おおやまくいのみこと)    康平5年(平安時代・西暦1062年)
                常磐三沢町字日吉下66    旧小社

八幡神社  誉田別命(ほんだわけのみこと)     不明
                鹿島町米田字家ノ前56    旧小社

王霊(おうれい)神社  神功皇后            延宝2年(再築)江戸時代・西暦1674年
                鹿島町飯田字前36      旧小社

八坂神社  素戔鳴尊(すさのおのみこと)       明治11年(西暦1878年)
                鹿島町御代字赤坂32-2   旧小社

若宮八幡神社  大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)   正応2年(鎌倉時代・西暦1289年)
                鹿島町船戸字林下65     旧小社

御霊(ごれい)神社   久那斗命(くなどのみこと)。八衢比古命(やちまたひこのみこと)。                 
              八衢比賣命(やちまたひめのみこと)。藤原冬嗣命。
                                明治15年(西暦1882年)
                鹿島町久保字木船37     旧村社

白山(はくさん)神社  白山比?命(しらやまひめのみこと)※一名、菊理媛命(くくりひめのみこ
              と)                延歴23年(平安時代・西暦804年)
                鹿島町上蔵持字滝根9     旧村社

熊野神社  五十猛命(いそたけるのみこと)。速玉男命(はやたまおのみこと)
        伊?冊尊(いざなみのみこと)。泉津事解男命(よもつことさかのおのみこと)
                                延歴23年(平安時代・西暦803年)
                鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2 旧村社

八坂神社  素戔鳴尊(すさのおのみこと)※須佐之男命      年月不詳
                鹿島町走熊字宮下53

杉社神社  大己貴神(おおなむちのかみ)。少彦名神(すくなひこなのかみ)。  年月不詳
                鹿島町下矢田字大作140


 本日の催し 15日(日) 13:00~ & 15:00~ 
   ちびっ子ビンゴゲーム大会
     鹿島ショッピングセンター・エブリア 2階ギャラリーエブリア


 
                                



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