いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

心待ちな嫁さんの里帰り

2018-06-20 06:49:43 | Weblog
                                         分類:地習                      
     嫁さんが実家に帰れる日は数が知れていた                                                          
          《田んぼ作業の合間に、コジュハン(おやつ)を食べてひと休みをする》 

 前日の 「嫁さま探しは部落で異なる」 の継続になりますが、2藩(平・湯長谷)、1幕領(小名浜)の支配のもとに近隣12ケ村が纏まり、 『鹿島村』 が成り立っていたので生活環境や慣習は、それらの地域によって微妙に違っていました。

 嫁さんの里帰りも同様のことが云えて、必ずしもこうだとは断言できるものではないが、1年を通じて実家へ帰ることができる標準的な回数は大体決まっていて、概ね次のようになっていました。

 △正月(1月2日)餅2枚と手拭いを持たせてやる。新しい嫁さんは2日~1週間ぐらい泊まる。 
  ※泊まらないところもある。
 △1月15日 2日に泊まらせなかった部落では、この日に餅と手拭いを持たせて泊りにやる、
 △節句(3月3日)餅を持って泊りに行く。
 △彼岸(3月21日)うどん、酒、砂糖、菓子のどれかを持って行くが、この日は止まらない。
 △節句(5月5日)赤飯、かしわ餅のいずれか。部落によっては、つぼ餅を持参して2日ぐらい泊まっ
  てくる。
 △お盆(7月15日)お彼岸の時と同じような品を持って行き泊まる。
 △八朔(8月1日)ナベカリと云って嫁さんは実家に行って鍋を借り、ご馳走を作る。
 △彼岸(9月24日)春の彼岸と同様に泊まらず帰ってくる。
 △刈り上げ(10月10日)この日は嫁さんの休日として自由にさせておく。
 △歳暮 嫁さんの実家に一重の餅と手拭いを持たせてやる。しかし餅の半分は帰る時に持たせて寄
  こすといいます。 ※泊まらずに日帰り。、
、      
 
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嫁さん探しは部落で異なる

2018-06-19 06:31:08 | Weblog
                                       分類:地習
  嫁の評判が良いと 「次の嫁探しもその部落から」 が定着                     
               《昭和30年頃の、嫁ぎ先の家で行われた結婚式》         
  
 明治22年4月1日から町村制が実施されるようになり、それまでの戸長制を廃止して町村長を置くことになりました。
 この時、相隣り合う12の村落(上矢田・松久須根・下矢田・米田・走熊・三沢・上蔵持・下蔵持・久保・飯田・船戸・御代)は個々に独立していた村でしたが、新たに一団して『鹿島村』を誕生させました。

 また、磐城・磐前・菊多の3郡を合併して石城郡(いわきぐん)としたのは明治29年4月1日からです。石城郡(いわきぐん)鹿島村(現・いわき市鹿島町※一部常磐地区名)は、平藩・湯長谷藩・幕領の支配下から集められて構成されていたので、それぞれの部落にはその部落としての特徴や風習がありました。

 例えば結婚の相手(嫁)探しにしても、部落によって候補者範囲が異なっていたようです。
 大別すると次のようになります。

   ①同じ部落内から
   ②鹿島地区内から
   ③浜の方から
   ④山の方から

    注釈・浜の方とは⇒小名浜・江名・豊間・四ツ倉など
       山の方とは⇒三和・赤井・平窪・遠野・高久・好間など

  ◇松久須根地区=主として部落内から選ばれ結ばれたようです。
  ◇三沢地区=山の方からだが特に遠野方面から。
  ◇走熊地区=山の方から。平窪、高久、遠野方面が多い。
  ◇下蔵持地区=比較的に鹿島地区内からが多いが、浜の方からの人も割りに居ます。
  ◇船戸地区=鹿島地区内からも居るが、平地区からも多い。
  ◇久保地区=この部落は圧倒的に山の方の人たちが多いです。

 この傾向は、一度ある地区(海、山方面)から嫁を貰うと、その地域との情報交換が出来るようになり、結婚適齢期の息子や娘がいると薦めたり薦められたりして、結局長い間にはその部落によって特定の地域から嫁が集まってきたという結果なのだと思います。

 現代の婚礼は、社会的な先輩や友人、知人に対する披露が主目的のように見受けられ肝心の近親や親族の存在は、その陰に隠れてしまったようです。
 以前の古風な披露の対象は村方一般と若者仲間であって、結婚が結婚たり得るためには両人の合意、家と近親からの承認ばかりでなく、何らかの形式を以って社会のある範囲に披露されて、その承認を得ることが必要だったのです。

 
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志賀家の氏神様が村社に

2018-06-18 06:51:19 | Weblog
                  《常磐・江名線の道路から見た熊野神社》                          
                                     
                                          分類:社寺
  江名浜へ神輿を渡御させた時代もあった
         熊野神社(旧村社)    所在地 いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2

【創立・由緒】 
延暦23年(804)正月、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征討に際し勧請したと伝わるも、地元の志賀家所蔵の旧記によると「志賀家の氏神にして、弘仁2年(811)より享和3年(1803)正月まで同家宅地内に在りしを、同年より村の鎮守と為し村社と号す」とあります。

 爾来、産土(うぶすな)さまとして崇敬してきましたが、境内が高地にあったために神事やお参りなどに支障をきたし、昭和32年に近隣地の譽田別命(ほんだわけのみこと)を祀る旧小社、三島八幡神社の聖域を拡張整備をし、社殿を新たにしています。

【祭神】 
五十猛命(いそたけるのみこと)=スサノオノミコトの御子で、民に植林を薦め、航海漁撈を司った。 
速玉男命(はやたまおのみこと)=伊弉冊尊の御子。 
伊弉冊尊(いざなみのみこと)。
泉津事解男命(よもつことさかのおのみこと)=悪事も善事も一言のもとに解決する神。

 例祭は毎年5月7日で、かつては江名浜海岸に神輿を渡御させ、お潮とりの神事を行っていました。
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矢田川の草刈・清掃実施

2018-06-17 08:17:40 | Weblog

                                                      分類:催                                                         いわき市鹿島町矢田川周辺                                                           地域ぐるみで町の美化に参加                                             第2期鹿島地区まちづくり構想の基本目標を支える 「矢田川の草刈清掃・美化」 活動が今日(17日)に行われ、約30名が参加しました。                                                                 午前6時30分に鹿島ショッピングセンター北側駐車場の南東端に集まり、矢田川の土手沿いを①から④の作業エリアに分けての分担作業です。

                                                   《北側駐車場にAM6:30分まで続々と集まってきた人たち》

 この作業は、鹿島地区河川愛護会(石井英男会長)と、鹿島地区振:自然と共生委員会(海老根武光委員長)が共同で毎年実施しており、参加者の皆さんは各自持参の草刈機や鎌、トングなどを使って 「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」 の一環として熱心に取り組んでいるものです。

                                                       《草刈り作業開始 : 雑草で鬱蒼と生え繁っていた土手も見映えのする姿に変化していった》
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御代の八坂神社(旧小社)

2018-06-16 06:57:29 | Weblog
                     《八坂神社・御代(みよ)地区》                            
                                      
                                      分類:寺社                   
   内郷御台境の一ノ矢天王を尊崇して小祠を建立
       鎮座地 いわき市鹿島町御代字赤坂32-3
       祭神  素戔鳴尊(すさのおのみこと)
          ※いざなぎのみこと・いざなみのみことの御子にして、天照大神の弟に当たる。
           性凶暴で天の岩屋戸の変を起こしたが、八岐大蛇を斬って天叢雲剣(あまのむらく
           ものつるぎ)を得、それを天照大神に献じた。
       相殿神 熊野速玉神。倉稲魂神。歳徳神。
       境内末社 若木神社

 八坂神社は、鹿島街道(旧道)の御代坂の上がり口にあります。
 左隣りに、昔は「御代の鶴」や「みちのく」という銘柄の清酒を造っていた酒蔵で旧家の佐原家があります。右隣りは自動車流通センターJRCグループ本部になっています。

 急傾斜の階段を、旧酒蔵だった赤レンガ造りの煙突を横目にして上っていくと本殿に辿り着きます。階段の数は境内から参拝するところまでを数えると108段ありました。当社は、御代地域の人々が、いわき市内郷御台境町に鎮座する、一ノ矢天王(八坂神社)を深く尊崇していたため、その願望に応えるために明治11年(1878)、この地へ小祠を建て御分霊御遷宮したことに始まるとされています。

 御代に古くから開山の臨済宗光西寺の山は、昔は熊野山と称し熊野大神を祀っていましたが、八坂神社の鎮座に伴い、熊野神社は八坂神社へ合祀されました。
 大正7年旧6月4日に拝殿及び幣殿を新築し、昭和27年3月31日には本殿を再新築して拝殿・幣殿の屋根を瓦に葺き替えました。
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鹿島小学校の今昔

2018-06-15 06:40:31 | Weblog
                                           分類:観                          鹿島町を見て歩こう (100)       いわき市立鹿島小学校     
                       いわき市鹿島町走熊字中島1 ☎ 0246-29-2052                                    現在の校舎は尋常小学校が3校統合して移転した場所                     鹿島小学校が久保、矢田、蔵持の尋常小学校の統合により、現在の地に移転したのは昭和10年(1935)5月10日になっています。                                                    11,500平方メートルの校庭面積に予算1万1、900円で、木造平屋建て瓦葺きの校舎(坪数260坪・860平方メートル)ができました=写真下。                                       しかし、経費の節約のために矢田、蔵持両校の解体材料が多く使用されたようです。                                                    《昭和20年代の校舎で校門前は田圃。左端にあるのは奉安殿》
                 
 古老の話によれば、登校時の朝、校門内に入る時には必ず左の奉安殿に向かって一礼しないと、先生からきついお咎(とが)めがあったそうです。                                                      この奉安殿は戦前の日本に於いて、天皇と皇后の御真影と教育勅語を納めていた建物で、小学校の奉安殿建設は昭和10年頃から全国で活発化していったものです。            
 昭和23年(1948)4月に同、校庭内に新制中学の「鹿島中学校」が併設されましたが、昭和44年(1969)に小名浜1中、平三中に統合されたため、21年の歴史を以って幕を閉じました。                                           これによって、鹿島町には中学校は存在しません。
                               《同じ位置から見た現在の校舎で、昭和54年から1,2,3期工事を進めて同56年に完成した》 
                
  昭和42年(1967)頃から木造校舎改築の動きが高まり、その後10年間の歳月を経て校舎は鉄筋コンクリート3階建てに生まれ変わりました。                                                新校舎は既存の校舎跡に建設するために、図書室を教室にしたり、理科音楽室を移動したり、玄関を仕切って教職員室にしたり、1年間に何回も教室の移動を余儀なくされて、先生も生徒も大変苦労されたようです。                                                                        
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写真で見る七本松の今昔

2018-06-14 06:29:11 | Weblog
                                            分類:観                             鹿島町を見て歩こう(99)       いわき市鹿島町走熊字七本松                           平・小名浜・江名港を結ぶ要所だったところ                                                                    この辺りの地名を七本松と呼ぶ謂(いわ)れは、その名の通り、延暦年間(782年~805年)に、坂上田村麻呂将軍が東夷征途の折、江名へも行ける三叉路(現在は十字路)の走熊の地点で戦勝を祈念して七本の松を植栽していったことにあります。
                                                                         慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争では、ここ七本松においても7月10日に薩摩藩(西軍)と平藩・仙台藩の攻防戦があったという鹿島の歴史上に名が残る場所となっています。
                                《坂上田村麻呂将軍が東夷征途の際に七本の松を植栽していった=写真は二代目の松》             
  最初の松は、昭和10年までに5本が強風で倒れ、同12年には全滅してしまったので二代目となる松が植えられました。その後は昭和50年に道路拡張工事のために伐採されてしまい、今は三代目として鹿島公民館の敷地内に若松を移植されました。                                                              《昔の写真と、同じ位置から撮った七本松の場所。コンビニの後ろは、かしま病院》 
  コンビニの前を横切っている道路が江名港⇔湯本線(県道48号で、撮影場所から前に伸びているのが旧・鹿島街道になります。右角が №85 で紹介した、おくにさんの店「波立商店」があった場所になります。     
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高照観音への道は険しい

2018-06-13 06:51:48 | Weblog
                  《高照(たかでら)観音堂へ上っていく入り口》

                                          分類:観                                                       鹿島町を見て歩こう(98)        いわき市鹿島町走熊                                    鹿島町では一番高い山(海抜126m)にある                             
 磐城三十三ケ所観音霊場、第17番礼所になっているこのコースの道程は、他の観音堂を巡って歩くより最もキツく、距離があることで知られています。
 足元が悪く片道20分前後掛るので、急がずマイペースで上って行くのがコツ。
 
     礼所17番 高照観音   ご本尊 十一面観世音菩薩
                   場所 いわき市鹿島町走熊高照山

     《御詠歌》 世の中は麓(ふもと)にありや東泉寺
            日は高寺に水走熊(みずはしりくま)

 
 走熊観音堂再建勧進趣意書によると「石城三十三番礼所の一なる當十七番走熊高照山十一面観世音菩薩は今を距る實に1千四百七十三年一世の大徳徳一大師の御祈願に係るものにて云々」とこと細かに記されてありますから、年号は文明年間に遡ることになります。
 
 旧菊田、磐前、磐城、楢葉の四郡に祀られる霊験あらたかな磐城三十三ケ所霊場の一つに挙げられていることは周知の通りです。
 
 観音堂は、これまでに何度となく火難に遭い、その度に焼失しましたが現在あるお堂は昭和45年の建立になるもので、そのお堂の前の一段下の平地部分(杉や雑木に覆われて鬱蒼としています)が、かつて存在した東泉寺跡です。                                            本堂の裏を少し登ると、国土地理院の三角点があり、小名浜や勿来、平などが一望できるのですが、草木を掻き分けて行くようになるので要注意。

  「高照観音」 については、本ブログ2018/3/25付 ㉕ 参照

  








































 





あ 
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鹿島という地名の由来

2018-06-12 06:44:56 | Weblog
                         《鹿島神社の入口》                                  
                                          分類:観                                                               鹿島町を見て歩こう(97)       いわき市鹿島町〈全域〉                                                                          氏神として崇められていた寺社から命名                 

 明治22年4月1日付で町村制が実施される以前までは上矢田村、下矢田村、松久須根村、三沢村、米田村、走熊村、飯田村、上蔵持村、下蔵持村、久保村、船戸村、御代村の12ケ村が、平藩と湯長谷藩、そして小名浜代官所の支配下に別れていました。 
 それまでの戸長制を廃止して町村制が実施されることになり、12ケ村の合併の際に問題になったのが、新しい村名をどのようにして付けようかということでした。                              《延喜式内社で磐城七座の一つである鹿島神社》   
 そこで、上矢田に祀ってある延喜式内社の鹿島神社が、古くより各村民の氏神として崇められていたところから、その社号が採り入れられることで決まったのです。
 明治維新後、22年後にして隣り合う12の村落が一団して 「鹿島村」 を誕生させました。

 以来、小名浜町(一部、湯本町)との合併をはじめ、磐城市(一部、常磐市)、いわき市という市名の変遷はあったものの、鹿島という地名だけは現在でも住所表示の中に残すようになり地域住民の人たちは、かつての12町村を総称して 「鹿島」 と呼んでいます。
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自然体の、かしま幼稚園

2018-06-11 06:43:50 | Weblog
                                         分類:観                                               鹿島町を見て歩こう(96)        学校法人新妻学園 私立かしま幼稚園     いわき市鹿島町走熊字渡折19-1                                        緑に赤い屋根が映える幼稚園                                                               かしま幼稚園は、いわき市立鹿島小学校から中央台へ抜けていく途中にあります。           周囲が山に囲まれた自然環境の中に位置しているので、卒園児や在園時の父兄たちの口コミからも効果があって人気の幼稚園です。                                                                            《福島さくら農業協同組合鹿島支店から見た、かしま幼稚園の全景》                           初代園長の新妻一行氏は、鹿島の消防活動に専念し歴代組頭に名を連ね、消防団長、連合消防団長を歴任して、昭和42年には勲五等双光旭日章の栄誉に輝き、鹿島消防団の存在を大いに高めた人物です。                                                              もともと農業を営んでいましたが幼児の教育に発奮して、土地と山を開放し幼稚園を開設しました。                                                          《幼稚園の出入り口で、朝夕は母(父)子の弾んだ声で賑わう通り道の一つ》                 二代目の園長は、恵まれた自然環境を十分に生かし、園庭から登れる 「がんばり山」 に力を入れ、頂上にはアスレチックや山小屋が作られていて園児が遊びの中で想像力や運動能力を養う広場にしました。                                                             現在の園長(三代目)は持ち味のバイタリティーで、園児たちと秋には栗拾いや、学習田に実った稲の刈り取りを一緒にやって、その楽しみを分かち合います。                                                 『自然に親しめる環境が豊富なこと』の特徴を上手く活用して、園児たちが将来に思い出をいっぱい残せるような構想を描いて運営にあたっています。
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鹿島で今や一等地の団地

2018-06-10 06:23:05 | Weblog
                                           分類:観                               鹿島町を見て歩こう (95)        いわき市鹿島町米田                                ゴルフ練習場から立地条件の良い団地に変身                         まだ昭和30年の前半に、この米田地区にゴルフ練習場が出来たこと自体が画期的な出来事でしたが、その後は宅地造成をして「鹿島台団地」の開発が進められるようになっていきました。                     《前方の高台に、1列状に並んで見えるのが鹿島台団地》 

  周辺が田圃と山に囲まれた寒村に過ぎず、宅地としての売れ行きは芳しいとは言えませんでしたが、時代は、昭和40年頃を境に鹿島地域にはベッドタウン的な感覚で脚光を浴びてくるようになり、船戸団地や御代団地、いわきニュータウン、若葉台団地などが次々と造成されてくるようになりました。
                      鹿島団地の目の前には鹿島ショッピングセンターエブリア・ヨークベニマルができ、「江名港⇔湯本線(県道48号)」があり、常磐バイパスがあり、今では鹿島町の一等地に変身してしまいました。                                                             《なだらかな坂を上り詰めた先に鹿島台団地がある》

 平成14年(2002)には、市消防本部が市内5ヵ所に住宅防火推進地区を設置しましたが、その中に早くも指定され「初期消火訓練や地区内のパトロールなど地域ぐるみで防火対策を推進し、地区民一人ひとりが防火意識を高め、火災予防と火災での犠牲者を減少させる活動」に取り組みました。                                                      《ショッピングセンター歩道橋の遠方に僅かながらに見えるのが鹿島台団地》
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危っかしい光西寺の楼門

2018-06-09 06:43:36 | Weblog
                《傾いた楼門は太い丸太1本で支えられている》                                  分類:観                                                                                  鹿島町を見て歩こう (94)                                                     大仏さまとセットで、早急に補強が必要
  熊野山光西寺  いわき市鹿島町御代

 「御代の大仏さま」で知られている光西寺は古くは廣濟寺と書き、小名浜林城(旧、林城村)禅長寺の末寺でした。建立されたのが文禄4年(1595)で今から415年も前で、本堂と楼門は往時の建立とされています。
 ※庫裡は、その後に隣村、相子島(あいごしま)の寺の建物を譲り受けて移築したと伝わります。

 場所は鹿島街道を平方面に向かうと、御代坂下りの中間あたりの左側に見下ろすような形で見ることができます。

 楼門は三間一戸・入母屋造り鋼板葺きで左右の楼門に木造の仁王尊が安置されています。
 老朽化が激しく楼門の裏側(=写真)から見ると、左側に太い丸太の支柱でガードされていますが屋根部分の重量感から推測して、いまや崩壊寸前の状態ともいえます。
 建物は既に幾らか傾斜しており、支柱に架かる重量負担は大きい筈です。

 境内にある「御代の大仏」(銅造阿弥陀如来坐像)は、昭和43年12月27日に、いわき市有形文化財(彫刻)に指定されていますが、この楼門もそれに附随して「いわき」にとっては貴重な建造物だと思いますので、是非とも丁重な保護をお願いしたいものです。
 「御代の大仏」に関しての詳細は当ブログの2009・4・1付を御覧下さい。
                      
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悪疫の侵入を防ぐ庚申塔

2018-06-08 10:02:32 | Weblog
                                           分類 : 観                                    鹿島町を見て歩こう (93)        いわき市鹿島町〈全域〉              鹿島には10基の庚申塔がある                              場所 : ① いわき市常磐三沢町(墓地入口)                                            ② いわき市常磐上矢田町(円福寺境内)
 庚申塔(こうしんとう)は村境や三叉路に造立され、悪疫などの侵入を防ぐと信じられていました。                                        ▲鹿島町には合わせて10基の庚申塔があるので、その内の2基だけを紹介する事にします。

                     《 ①昭和24年旧10月建之
  ・後に立て掛けられている石は、風化して文字が全く無くなってしまった昔の石塔
 中国の道教に由来する庚申信仰は、日本では室町時代に始まり江戸時代には隆盛を極めた。
「庚申縁起」によれば、60日ごとに回ってくる庚申の夜、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が天に昇ってその人の罪禍を天帝に告げるため生命を縮めるといわれた。
人々は「 講 」を結んで、その夜は眠らず身を慎んで過ごし、延命招福を祈念した。



                    《 ② 文政十丁亥歳二月庚申
 庚申塔の標準的な形は、病魔を追い払ってくれる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれているが、鹿島には一基もなく「 庚申塔 」と彫られたものだけ。
 6本の腕のそれぞれの手には三叉戟(さんさげき)と呼ばれる三又の矛や法輪・剣・弓等を持ち、邪気を踏みつけ、足元には三猿が刻まれています。


  
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横穴墓群がある寺の付近

2018-06-07 06:46:00 | Weblog
                     《樹木の影にひっそりと並ぶ横穴墓》                           分類:観                                                                   鹿島町を見て歩こう (92)                                     20基以上の横穴が確認できる
                                所在地  養照山宝蔵院 金光寺
                                      いわき市鹿島町久保字西ノ作71                                     《金光寺の境内で、横穴墓はこの裏山にある》 

 金光寺(こんこうじ)は、宗派が高野山真言宗で、大同元年(806年)に徳一大師により創設されました。 久保横穴墓群=(写真)は、この寺の墓地裏の凝灰砂岩質で出来た少し高台になった場所にあるもので、その横には「磐城三十三所観音霊場」の一つに数えられる第十六番札所もあります。                                            また、金光寺にある「宝篋印塔」 (ほうきょういんとう)は、平成27年(2015)5月1日にいわき市指定文化財に指定されています。(※本題の記事詳細は №52 を参照)

 横穴墓について、案内板に表示されている全文は下記の通りです。

  久保横穴墓群 古墳時代後期の500年から600年にかけてつくられる。
              〈所在地〉いわき市鹿島町久保字木船

 凝灰砂岩質の丘陵に営まれている横穴墓は市内の鮫川流域、滑津川流域(国史跡=平沼ノ内中田横穴墓など)、藤原川流域に数多く見られる。
 久保横穴墓群は同じ鹿島町御代(みよ)の九反田横穴墓群と共に藤原川流域に属する。
 約20~30基の横穴が傾斜面につくられているが、樹木の根や土砂などに埋もれ、その一部しか確認されない。
 かつては横穴墓の内部から副葬品が出土され、それがマニア間に流出している。
 
 現在はこの横穴墓の一部を利用して、両墓制(又は参り墓)という古い信仰のかたちを保っている。
  

            
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鹿島公民館の変遷

2018-06-06 06:27:16 | Weblog
                                            分類:観                         鹿島町を見て歩こう (91)     鹿島公民館  いわき市鹿島町走熊字鬼越                  部落が分離して公民館は2館あった                                                                  現在、鹿島公民館といえば鹿島町走熊にある1館だけですが、昭和56年(1981)以前までは鹿島小学校敷地内と、常磐上矢田町の2館が存在していました。
鹿島は「いわき市」になる前の「磐城」と「常磐」に分離合併していたので2館あっても管轄は別個でした。
                             《昭和56年に建てられた現在の鹿島公民館》                                   鹿島村当時は12部落が一つの集団として結束していましたが、昭和28年(1953)戦後の町村統合に即して一時は全部落が小名浜町に総合合併を果たしました。                                      しかし、上矢田、松久須根、三沢の3部落は、翌年3月29日を以って常磐市に編入しました。                                                                                                      《利用者が長年の念願だった講堂は、平成29年に同敷地内に完成した》                               湯本町と合併はしたものの、湯本町役場までが遠隔であるために生活上に置いて何かと支障を来し、行政業務の窓口として上矢田町(現在は、いわき中央卸売市場入口にある東北農政局鹿島事務所いわき統計センター)に、湯本町役場鹿島支所が設置されました。                        これに付随して設置されたのが鹿島北公民館でした。                                                             鹿島小学校敷地内の一角にあった鹿島南公民館 s39年頃                        昭和41年(1956)に14市町村(5市、4町、5村)が合併して「いわき市」が誕生し結果、鹿島地区には行政区の関係から2つの公民館があるが、社会教育行政上1館に統合すべきであるとの意見が暫くのあいだ論じられ、昭和55年(1980)1月31日、統合の合意に達し、鹿島公民館は1館(鹿島町走熊)へと移行した経緯があります。、                                                                   《現在の東北農政局鹿島事務所いわき統計センター(上矢田)の場所にあった北公民館》 s40年頃                                  
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