いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

鹿島公民館まつり開催

2018-11-11 12:56:20 | Weblog

                                               分類:催                                                                       場所:鹿島公民館                                                                                                 いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1

   新講堂2回目の開催で盛り上がる

  第34回 ふれあい鹿島公民館まつりが今日(12日)行われました。         「ふれあい鹿島公民館まつり実行委員会」と「鹿島公民館」の主催。〈協力団体〉鹿島町区長会・鹿島ふれあい会・防犯協会・交通安全協会などによるもので、講堂内や敷地では芸能、バザー、展示、各種コーナーを設けて賑やかな開催となりました。                                         《講堂内を覗いた時にはフラ教室をしていた》

 一昨年までは、近隣の鹿島小学校体育館を借用して開催されていたが、昨年からは公民館独自の施設を利用して地域住民との交流が出来るようになったことに大きな意義があると思います。                               会場には多くの参観者が集まり、模擬店やバザー、新鮮野菜軽トラ市などで買い物をし、各ブースの展示物を見たり、ステージ上のダンスやカラオケなどを観て1日を楽しんでいました。

                                              《敷地内の案内所=バザーや新鮮野菜軽トラ市などが開かれた》

 大講堂は、鹿島地区住民の生涯学習施設の拡充と、鹿島に避難して仮設住宅や災害公営住宅に住んでいる方たちとの交流促進などを目的として建設されたものです。

                                                    

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子ども3人と児童館

2018-11-08 09:04:05 | Weblog

                                         分類:PV                                      自己責任も付き纏うのでは?                                             他人を批判するものではないので敢えて名前は伏せるが、「子供3人を児童館に連れていって、大人1人につき子供2人だけ」 と言われて、入館できなかったという問題が新聞やテレビで報道されていた。                                                                やり玉に挙がったのは今年10月にオープンした墨田区の児童館だったが、これを観て(読んで)いて先ず、ごく普通に児童館側の対応のどこが悪いのだろうかと思った。なぜなら物事には決まりや規制というのが必要で、野放しにしてしまうと収拾がつかなくなるからだ。                    《児童館内での子どもの遊び=写真は記事と直接的な関係はありません》

  報道によると本人はここだけに限らず、他の児童館へも10館ぐらい行っているが何処もみんな断られたと話していた。そこで疑問を抱いたのは、それならなぜ事前に受け入れ情報を調べたり、直接問い合わせをしないで行くのか? ということだった。                                              しかも児童館へ行けば当然、入口に案内板があって明記してある訳だから、その時点で納得してもらわなければいけない。                                                       規則は規則であって、担当者がこれを無視して受け入れたとして、仮に遊んでいる最中にその子供本人、もしくは相手の子供が怪我でも発生してしまった場合には、いったい誰が責任を負う立場になるのだろうか。間違いなく児童館側への責任転嫁へと発展していく筈だ。                                    本来2人のところを、3人を容認した施設側の弁解の余地は全くなくなってしまうではないか。

 少子化社会が進んでいる現代で3人の子供を育てているということには感服しているし、無条件で応援してあげたい。  しかし、それだから 「何でも通用する」 というのは世間一般的に通用しないと思う。今回、例外的に受け入れてしまったら、「あそこは3人でも大丈夫」 というような噂が流れ、2人という規則は破られてしまう。                                                         次に起こりそうな問題は、同じ3人でも姉(妹)の子供が1人加わっていたらどうなるのか、3人なら良くて4人はなぜ駄目なのか? という新たな事態が起こってくるのも明々白々。

 「余りにも杓子定規すぎる」、「子供が多い家族を排除している」、「子どもが楽しみにしていたのに、と言うなら親は事前に確認しておくべき」、「安全のため最低限のルール」、など意見はさまざまのようだ。                                                         いまの時点でハッキリしていることは、短絡的な思いをぶつけ合っているだけではなく、どの意見も一理あるのだから例えば、地域住民や有志たちが立ちあがって委員会・懇談会・考える会などを作り、真剣に論ずるべきかと思う。                                                            そういう意味では、この〝児童館に子ども3人はダメ〟問題は大きな一石を投じている。                                                                         

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鹿島,七本松と戊辰戦争⑧

2018-10-31 13:59:30 | Weblog

                                         分類:歴                                                                浜通りに於ける戊辰戦争の経緯                                              慶応4年(1868)1月に、鳥羽・伏見の戦いで始まり、西軍(新政府軍)は6月16日に茨城県平潟の沖合に軍艦3隻を配備した。西軍に敵対する奥羽越列藩同盟軍の指揮者でもある仙台藩が入港を阻止したが、当時の平潟は西軍に味方した川越藩の領地であったために、西軍は上陸を成功させ綿密な計画を立てた。                                                           これにより、浜通り( 陸前浜街道) 一帯での戦いは一気に加速していった。                               6月17日の九面(ここづら)〈勿来〉の戦いから始まり、7月13日夜の平城が落城するまで各地での激戦がが続いた。                                                                      《鹿島神社隣の華ノ木公園にある戊辰戦役砲台古跡の碑》

                           《福正院 (走熊) 墓地内にある戊辰戦没者の供養碑》

                   《松久須根の民家裏にある戊辰戦没無縁者霊供養塔》                                                           

  《その経緯を日を追って辿っていくと次のようになる》 

  6月16日 西軍(新政府軍)の平潟(茨城)上陸。午前10時頃、西軍の軍艦3艘が姿を現                  す。

     17日 九面の戦い 東軍(奥羽越列藩同盟軍)は、平潟を奪い返そうとして2手に分か                  れたが、九面(現・勿来漁港)で激しい銃撃戦になった。

        28日 泉城落城 泉城の南、剣浜などで激戦を制した西軍は、泉城の表門と裏門から                     突入したが、すでに城内には誰もいなかった。 

             新田坂(しんでん)の戦い 西軍は新田坂から湯長谷城へ進軍しようとした                   が、東軍の激しい抵抗に遭い苦戦した戦場。しかし泉城より駆け付けた応援部                   隊と の挟み撃ちが成功して勝利した。

        29日 二ツ橋の戦い 東軍は戦いを有利に進めていたが、山上より西軍の大砲による                  連続攻撃が始まると敢え無く退散。                       

        湯長谷城落城 東軍の鉄砲隊が矢板坂で構えていたが、事前にそのことを                          知っていた西軍は兵を二手に分け、正面と西側の両方向から攻撃し鉄砲隊を                  湯長谷城へ進撃させた。

                 第1次磐城平城攻撃

  7月 1日 第2次磐城平城攻撃

    10日 七本松の戦い 東軍は、西軍の進攻を防ぐために、七本松附近の高台に砲台                   を築いたが、西軍は地理・地形を巧みに利用し東軍を退却させた。

    13日 田町の戦い 

        六軒門の戦い 六軒門は城を守る要の場所で、第3次磐城平城攻撃により激し                  い戦いが繰り広げられた場所だが、この門は最後まで破られることはなかった。

                 第3次磐城平城攻撃 東軍の拠点だった平城は、3回に亘って猛攻撃を受け落                  城。

 ◎「鹿島,七本松と戊辰戦争」のシリーズは、今年で戊辰戦争150年を数える年でもあるの               で、それに関する鹿島町の歴史について少し資料を齧(かじ)ってみました。

 

                                                                                                                                                                                                                          

                                                     

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鹿島,七本松と戊辰戦争⑦

2018-10-29 06:12:50 | Weblog

                                         分類:歴                                                           奥羽越列藩同盟を結成                                            慶応4年(1868)、会津藩主、松平容保は徳川慶喜により登城を止められると江戸より会津へ帰国(2月22日)し、挙藩防戦を藩士に伝えた。5月3日には25の藩による奥羽列藩同盟が成立し、同6日には新たに北陸6藩を加えた奥羽越列藩同盟が成立した。                                                                          西軍(新政府軍)は6月16に茨城県の平潟港に到着。この侵攻を防ぐために磐城平城は仙台藩兵と編成して 「七本松」 に砲台を据えて銃撃戦に備えた。                                                                                                                               《丸山から、小名浜方面(前方)より来る西軍を把握できるはずだったが…

 平藩・仙台藩兵は、見晴らしの良い丸山から西軍を待ち構えていたが裏をかかれてしまう。                小名浜の侠客として知られた若松鉄五郎と息子の誠三郎親子が、西軍に地理・地形を教えたばかりか、道案内まで買って出たから不意打ちを食らってしまった。。                                                                                                                                                                                          《西軍はこの矢田川の土手伝いを深く静かに侵攻してきた》

 西軍は、平方面から小名浜の藤原川に合流する鹿島の矢田川添いを巧みに利用した。                七本松地点に於いて両軍の攻防戦が起こったが、奥羽越列藩同盟軍はこの奇襲作戦に戦況不利となり退却せざるを得なり、仙台藩兵は江名港へ敗走し、舟で逃亡してしまった。

 西軍は更に鹿島神社隣の華ノ木公園の台場を突破し、軍事山(俗称、くうじやま)の要塞を破り、谷川瀬から新川町関門も突破し、そして平城攻防戦へと進んだ。。                                                                                       

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鹿島,七本松と戊辰戦争⑥

2018-10-28 08:36:54 | Weblog

                                           分類:歴                                            七本松と戊辰戦争                                                  地元の人たちは日常会話的に 「七本松」 というと 「松」 そのモノを言うのではなく、場所を指している場合が多い=現に七本松という地名は存在する。                                               慶応4年に勃発した戊辰戦争では新しい政権を発足した薩長藩と幕府が熾烈な戦いに発展し、鹿島もその影響を受けて 「七本松の戦い」 があった。この名称も便宜上(分かり易く)使われているのであって、実際には七本松の側にあった丸山での攻防戦であった。                                          両山が凹字形をなして小名浜・江名の両街道を挟むような山だったので、東軍(奥羽越列藩同盟軍)はここに砲弾を据えて、西軍の進軍を拒もうとしたと、石城郡案内では記されている。                                                                   《丸山は削り取られて平地になり、鹿島公民館が建っている》

 「戊辰」 というのは、その年の呼び方を干支(えと)で表したもので、正しく読むなら「つちのえたつ」という。 因みに今年(平成30年)でいうと 「戊戌」 だから 「つちのえいぬ」 という。

  慶応3年(1867)10月14日に江戸幕府の15代将軍、徳川慶喜が大政奉還を行い、同12月9日に天皇が王政復古の大号令を出した。                                                  この時、薩摩藩や長州藩などが主導する新政権と幕府の影響力を残そうとする勢力が対立し、慶応4年(1868)京都の鳥羽・伏見で武力衝突があり、戊辰の戦いが起こった。その際、会津若松の城主、松平容保を朝敵と見做した行為に対して、仙台の伊達慶邦を盟主として奥羽越の三国の諸大名が 「奥羽越列藩同盟」 を結成して立ちあがったのだった。                                             奥羽越列藩同盟の23藩のうち平藩も加盟した=慶応4年(1868)5月3日。

 

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鹿島,七本松と戊辰戦争⑤

2018-10-27 11:13:37 | Weblog

                                             分類:歴                                       七本の松が植えられた年代                                           三代目になる松(写真下)は 昨年までに1本が松喰い虫にやられ、このままでは六本松になってしまうと危惧されてきたが、今年に入ってもう一本が弱ってきたために「鹿島地区地域振興協議会」と、その中の部会、「歴史と文化委員会」、それに「鹿島公民館」の積極的な働きかけによぅて、今年の8月に2本を植え直して元の七本松に蘇った。                                                         《公民館の前に植栽されている三代目の松で、手前が江名港・湯本線の道路》

    【七本松の植樹経歴】                                                                              初代の松 延暦23年(804)1月~昭和11年 寿命1133年                                                        (※最後の1本が枯れた年まで)

     二代目 昭和12年(1937) 寿命38年                                                                       (※昭和50年に道路拡張工事のめ止む無く伐採)

     三代目 昭和50年(1975) ※植樹から43年経過(平成30年現在)

  ▲「七本松」というのは単に松の本数を言うのではなく、地名の「いわき市鹿島町走熊字                                          七本松」という地名でも残っています。

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鹿島,七本松と戊辰戦争④

2018-10-26 07:07:52 | Weblog

                                           分類:歴                                         坂上田村麻呂将軍の人物像                                        坂上田村麻呂将軍が東夷征伐に向かう途中、鹿島の走熊で休息をとった折、戦勝を期して七本の松を植えてから今年(平成30年現在)で1214年を数えるが、この先、鹿島神社にも立ち寄っている。                                            その際、武運長久を祈願し矢の根4本が献上されたが、鏃(やじり)は現在でも残っている。                                《坂上田村麻呂像と、実際に鹿島神社へ奉納したという鏃(やじり)》 

 坂上田村麻呂は平安時代の公卿、武官で、名は田村麿とも書く。父は左京大夫・坂上苅田麻呂で官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。                                         田村麻呂は身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(約36cm)あって、向かいに立つと仰け反って見え、背後から見ると河岸でいるように見えるというほどの堂々たる容姿だった。                              田村麻呂の生誕地については諸説あり、命名が地名に由来するものであれば「平城京田村里」(奈良市尼辻町)が有力とされる。また俗説として陸奥国田村庄(現・郡山市田村町)で誕生したという「坂上田村麻呂奥州誕生説」や、蝦夷出身だったとする「坂上田村麻呂夷人説」などもある。                                                                     《矢の根が献上されている鹿島神社=上矢田町》                                                                                                               この地は、古くは岩崎東郷と称し、後に大矢田と呼ばれていたが、田村将軍が矢の根を此処に納めた際に「げる」 と記したところから 「上矢田」 の地名が付いたとの説がある。

                                   《鹿島神社入口の鳥居。鳥居の前は鹿島街道になっている》 

    場所  : 鹿島神社                                                                                いわき市常磐上矢田町花木下 (旧・鹿島村大字上矢田)

                                                                                                                                         

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鹿島七本松と戊辰戦争③

2018-10-25 07:06:41 | Weblog

                                             分類:歴                                                 松を輪切りにして出来た銘板                                                志賀直哉村長(昭和9年2月就任)が荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土をつくるという発想から村民に意識を促すために広めた言葉が 『一圓融合』 で、今でいう4文字熟語になる。         その文字を、初代の松で最後まで残った木を輪切りにして、銘板にした発想は素晴らしいもので、これが鹿島神社に奉納されて現在でも残っている=写真下。                                            《一圓融合 奉納 鹿島村振興委員会 と書かれてある》

  「一圓融合」 を簡単に説明するのは中々難しいが、趣旨の一部に触れると 『人徳を以って万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に、報徳生活は人道の原則であり一圓融合によって万象が生々発展し……。』 となる。

                                                                      《ありし日の志賀直哉=自宅部屋の火鉢の前で》 

  村政執行の姿勢に報徳仕法を採り入れて、一圓融合を旗印に村内の融和を基調とし、村勢の再興を期した表れだった。                                                    また、この時期に 「一圓融合」 の村歌(作詞・小泉義浩)も出来上がり、曲は 「山の歌」 に合わせて歌えるようになっていた。この歌は4節まであるが、その内の1節を紹介します。

 ♪東しゃ江名浜 湯本は西よ                                                  南 小名浜 北 平                                                       円く固まれ 鹿島よ 村よ                                                     一圓融合で 進みましょう                                    昔の鹿島街道で右に折れて進むと江名・中ノ作港。松は初代目》                                                                    

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鹿島と7本松と戊辰戦争②

2018-10-24 08:15:26 | Weblog

                                            分類:歴                                         

    坂上田村麻呂将軍が植えた七本の松                          史跡七本松」 の由来は、延暦23年(804年)の、今から遡ること1214年前(平成30年の時点)の正月に坂上田村麻呂という将軍が兵を引き連れて蝦夷征伐に向かう途中、鹿島の走熊部落に差し掛かった所で休憩をとった。                                                      休憩の場所は T 字路で、そこは南に小名浜、北に平、東に江名を控えた鹿島の要衝ともいうべきところだったからだ。戦略家はいつ如何なる時であっても油断は禁物なのを如実に物語っている。                                 その際に、戦勝を祈念して七本の松を植えていったというのが始まり。                                                                         《中央に見えるのが初代目の松の木=明治40年代の頃》                                                                                         初代の松は古木になり松喰い虫にやられたり、強風で倒れたりという記録があるが、その最後に残った一本を見た当時の鹿島村村長(昭和9~17年)、志賀直哉は、由緒あるこの松を何とか後世に残す方法はないかと考え、松を輪切りにして 『一圓融合』 と刻んで鹿島神社に奉納した。                                                           昭和10年(1935)前後は鹿島部落に限らず、全国的に経済不況に見舞われていた時でもあったので、この松を利用して銘板を作ることを思い付いたのだった。                                志賀直哉は第16~17代の村長を務めた人で、尊徳精神の『一圓融合』を村是とした。                               《昭和12年以降に植樹された2代目の松=昭和32年》

  鹿島には12の部落(大字)があったので、志賀直哉は全部落が一体になって、この難局を乗り越えていこうという強い意志を示したのだった。

 

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鹿島と7本松と戊辰戦争①

2018-10-23 07:39:20 | Weblog

                                          分類:歴                                                                        七本松の所在地:いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1(鹿島公民館敷地内)

  史跡七本松に想いを馳せる                                         今年は、戊辰戦争150年ということで各地で講演やイベントなどが行われているが、ここ鹿島でも戊辰戦争に係る記録が残っている。                                                               「七本松」 での新政府軍(西軍)と、奥羽越列藩同盟(東軍)兵との熾烈な戦いがその一例。 鹿島で七本松といえば1214年(平成30年現在)の長い歴史があり、地域住民代々、親から子へ、子から親へと語り継がれてきた伝説の松なので、七本松を抜きにしては語れないところが多々ある。                                                                        そういう意味でも、いま戊辰戦争との係わりを含めて 「七本松」 を出来る限り詳しく記しておくには絶好のタイミングかと思う。                                《8月25日に行われた碑文の拓本採り(松は3代目)》

  ♪清らかな 御代の大仏 なかよしな 七本松……。                                          昭和36年12月14日に制定された鹿島小学校の校歌で2番の1節に出てくる歌詞です。

 鹿島公民館の敷地内にある七本の松(写真上)は三代目にあたるもので、 元々は初代の松も2代目の松も、現在のファミリーマートかしま病院前店と江名港・湯本線(県道48号)の境のところにあったが、昭和50年(1975)の道路拡張工事のため2代目の松は伐採され、鹿島公民館が建設される敷地内に新しく3代目の松として若松が植栽された。                                                             鹿島公民館が建った場所は、もとは丸山公園といって高さ20メートルほどの、文字通り丸山で、平坦になっていた頂上には忠魂碑が建っていて、子供の遊び場でもあった。                                                             《丸山の頂上に建立された当時の忠魂碑=大正10年》

 昭和50年になってから丸山は削り取られ、忠魂碑は公民館の敷地内に収まったが、結果的には忠魂碑は丸山の頂上からそのまま平地に下がったということになる。                                                  現在(いま)、かつて丸山だった跡地には公民館が建ち、従軍馬慰霊碑があり、忠魂碑があり、史跡 「七本松」 がある鹿島町の観光スポットになった。                                     三代目の七本松は、ちょうど江名港・湯本線(県道48号)の道路沿いから見える場所にあるが、まだ若木のために車で通過しても見落とされがちなので、走行中、鹿島公民館が近くになってきたら注視してみて下さい。                                                          史蹟 「七本松」 の記念碑や、由来などの碑文を直接(じか)に目を通したい方は、公民館の駐車場を利用することができます。

          

              

                                            

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鹿島S・C西側の遠景

2018-10-17 08:05:25 | Weblog

                                          分類:地

                           鹿島ショッピングセンター エブリア                                                                    いわき市鹿島町米田字日渡5                              視点を移すと別の世界が見えてくる                          鹿島ショッピングセンター エブリアの屋上から西側を撮ってみました。                            建物の下は同センターの納品所になっている関係で、貨物トラックが頻繁に往来する場所です。                         《右側の道路を真っ直ぐ進むと江名港⇔湯本線(県道48号)で左方向が湯本》

 鹿島街道(県道26号線)は、平市街地と小名浜を結ぶ主要道路。                             沿道に形成された大商圏で、郊外型レストランや量販店などの大型店舗が並んでいて、そのほぼ中心地辺りにあるのが鹿島ショッピングセンターエブリアとヨークベニマルです。                                                      《北側駐車場とショッピングセンターを跨ぐ歩道橋。道路は江名港⇔湯本線》

  平と小名浜間を直結する大動脈であり、県内で最も日照時間の長い風土に恵まれている地域ですが、普段は買い物に出掛けても用事だけを済ませて帰るのを、今日は何の風の吹き回しかショッピングセンターの上に上がってみる気になり、屋上からの風景を撮影してきたのでした。                     

                                《上の写真2枚は、この屋上から撮影したものです》

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天徳山蔵福寺福正院

2018-10-15 06:13:39 | Weblog

                                            分類:寺社

                         場所 : いわき市鹿島町走熊字坪下28                                                                                                        天徳山蔵福寺福正院                    宗派:高野山真言宗                                                          本尊:大日如来                                                             住職:永崎亮賢 遍照院(住吉)兼務                                                  檀家:39世帯 

   旧・山号を「鬼渡山 (きわたりざん)」と呼んだ                                西暦1744年、115代桜町天皇が江戸時代の初期延享4年7月11日、僧侶禅東法師が建造しました。今より271年前(平成30年時点)、後植田東光院長孫(常磐湯本)の長宝寺などに転住、安永5年10月28日智明が転住。天保5年智明が鬼渡山福正院と呼んだのを、後に天徳山蔵福寺福正院と改号しました。                                                            法印禅東が15世の住職となり、山号を鬼渡山(きわたりざん)と称して客殿を新造しました。禅東は、植田の東光院、及び長孫(湯本)の長宗寺にも転住して住職になっています。                                                         第16世の寿栄は宝暦3年(1753)に湯本の勝行院に転住したという記録が残っています。                                                                         《平成2年(1990)に再建された福正院》

  福正院は走熊の高台にあるため、境内から見る眺めは素晴らしく遠く飯田方面や住吉地区辺りまで一望することができるし、近くには鹿島小学校や鹿島ショッピングセンターなどが見下ろせます。               また、墓地の突端まで進むと、鹿島街道・米田・下矢田地区も見ることができます。                                                                  《昭和63年まで現存した茅葺屋根の福正院》

   福正院は昭和4年(1929)の走熊の大火の難を逃れた古寺でしたが、雨漏れがしたり戸袋の板が剥がれたりして老朽化が激しくなってきたために、檀家からの寄附により平成2年8月に新しく建て替えられました。                                                              建物は、白水(内郷)の阿弥陀堂をモデルにしたと言われています。

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文学散歩で古河文学館へ

2018-10-14 08:18:10 | Weblog

                                           分類:PV

                              古河文学館                                                                                         場所:茨城県古河市中央町3丁目10-21                     古河ゆかりの文学者たちを偲ぶ                                      昨日(13日)は、いわき市立草野心平記念文学館ボランティアの会が主催した 「文学散歩」 ツアーに参加しました。                                                                                                                                                           《バスが到着前に余裕を持って集まってきた参加者たち》  

    総勢41名(同館学芸員・添乗員を含む)が、いわき市役所本町前に集合し朝の7時30分に大型バスに乗車。最初の目的地、古河文学へ着いたのは10時30分でした。 

                                       《こじんまりとした建物だが内部の展示物は貴重なものばかり》   

 文学館は、古川城諏訪郭の閑静な佇まいの中にあり、入ると直ぐに大きな蓄音機が据えられているサロンで、実際に竹針を使用した演奏でSPレコード独特のやわらかな音色を聴かせてもらえます。                                                             大正ロマンの雰囲気が漂う建物内に、①古河ゆかりの文学者たち  ②鷹見久太郎と絵雑誌「コドモノクニ」 ③歴史小説家 永井路子 の3展示室があります。      

                  《竹針の蓄音機で演奏に聴き入っている来館者》  《益子焼の土産を選んでいる人たち》

                                    《益子焼窯元 『つかもと』 で昼食をとる参加者たち

 時過ぎからは、見学場所を笠間の 『茨城県陶芸美術館』 に移し各種の展示物を縦覧し、庭内に設置してある登り窯やモニュメントを見ながら自由散策をしました。

  草野心平記念文学館ボランティアの会では毎年、手頃な参加費で県内外の文学散歩を企画しているようなので、次回は参加してみては如何でしょうか。ちなみに今回の参加費は5,200円でした。                                 問い合わせ先は、草野心平記念文学館ボランティアの会 ☎ 0246-83-0005                                                                                              FAX 0246-83-2939 

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鹿島に珍しいバス時刻表

2018-10-13 06:14:44 | Weblog

                                                                分類:地                                                                                                       場所 : いわき市鹿島町御代字柿境 
    1日に通るバスが3本だけという道路               浜通りの公共交通を一手に担っている新常磐交通(株)は、路線バスの運行を主体として地元の利用者に密着した営業を行っています。
 それでも、赤字路線存続と市の補助制度の問題で、平成17年(2005)には中山間地域を含む市街地まで併せて20の生活バス路線が廃止になりました。
                                                  
                 《疎外されたようにポツンと立つ バス停》

  鹿島町の路線網でも、鹿島S・C経由の江名⇔湯本(県道48号)路線が廃止の憂き目に遭いました。そういう中で一つだけ珍しいバス路線が残っています。
 特殊路線の典型で、一日に「湯本駅⇒玉川団地⇒いわき光洋高校」線が1本と、「いわき光洋高校⇒玉川団地⇒湯本駅」線が2本にみです=写真。
 これは生活路線ではなく、通学路線であることは始発(又は到着)地からみても理解できますが市内では稀に見る「バス停」なのです。               
                                 《運行時間が16時台に2本だけという時刻表》


   《船戸(鹿島街道)⇔林城(常磐バイパス)に繋がっている道路で、バス停は此処にある》

 
 

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ご難に遭ったお地蔵さん

2018-10-12 06:01:49 | Weblog

                                            分類:神仏                                                                                                          子安観音                                                                                             場所 : いわき市常磐松久須根町                                          若者の力試しがご難のもと                                            松久須根の観音堂境内に祀られている像高1m30㎝ほどの子安観音は、台座と尊像の石質が異なっています=写真。 台石は松久須根石(硬質)で、尊像は荒川石(軟石)になっています。それには理由(わけ)がありました。                                                         もともとは松久須根石で彫像した地蔵尊を祀っていたものですが、明治初年の頃に村の若者たちが地蔵さんを肩に担ぐ力比べを始めたのだそうです。何人かがそれを競っている内に、一人が肩近くまで持ち上げたが重さに耐えかねて手を離したために地面に落ちて、地蔵さんの首がとれてしまいました。                                                            かなりの重量があるので、肩へ担い上げることなど無理だったが、若者にはそれ故に尚更挑戦してみたかったのでしょう。                                                                                                      《観音堂境内に祀られている子安観音》 

  ご難に遭った地蔵さんは、そのままに放置され、いつの間にか姿を消してしまった。              昭和54年、 「鹿島郷土誌」 編纂委員たちが子安観音の裏地を素手で掘り始めてみた。すると深さ10㎝ばかりの土砂をのけたところで石面が出て、更に掘り起こしてみると、首のない地蔵尊であることが判明しました。

 昔は、労働を人力に頼らざるを得なかった時代。体力を養うのを目的に、若者たちは手頃な石を持ち上げては力自慢を競い合ったもので、そういう石を「力石(ちからいし)」と呼んでいましたが、なんと、このお地蔵さんは力石の対象にされてしまったのでした。。                                   力石を用いた力持ちは、一人前の男としての通過儀礼で鍛錬及び娯楽として用いられていました。    ※ 「力石」 の関連記事は2015/8/2のブログ参照。 

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