いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

小説 ひとつの選択(19)

2013-01-31 06:28:38 | Weblog
                                            分類・文
    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載           箱 崎  昭

 302号室の6人部屋は5床が既に同じような患者で埋まっていたが、入室と同時にベッドの中から患者全員が新参者の顔と容態に関心があるらしく視線が集中した。
「はーい、河村さんですよー」
 看護師がなれた口調で同室の皆に声を掛けた。
「よろしくお願いします」繁も軽く会釈をしながら挨拶した。
 母をベッドに移して下になったタオルケットを抜くのに痛がって難儀した。母が穏やかな表情になるのを見極めてから運転手が繁に話し掛けてきた。
「それでは私はこれで失礼します。どうぞお大事になさってください。有り難うございました」
 玄関先で料金を支払った際にチップを弾んだせいなのか、マニュアル通りの対応だったのか、馬鹿丁寧な挨拶を何度もしてから空のストレッチャーを押して帰っていった。
 それと前後して整形外科の中野医師が入ってきた。今度の入院前まで月に1度は検診を受けていた先生だ。
「河村さん、駄目じゃないか。庭から下の道へ落ちたんだって? あれほど転ばないように注意をしていたのに、今度で何回目?」
「3回目です……」
「3回目か、しようがねえな。ま、いいや。前の病院からも聞いたとは思うけど河村さんの診断結果は腰の骨が折れているんだよ。保存的加療ということで、ここでも暫らくは身体を動かすことは出来ないぞ」
 母との問診内容を傍で聞いていた繁は、横柄な言葉で接する医師の態度に不快を感じたが、先生が部屋から姿を消すと母は首をすくめるようにして言った。
「中野先生は、どの患者さんにもあのような調子なんだよ」
 通院している患者仲間では腕がよく、頼り甲斐のある先生だと評判がいいらしい。口は悪いが患者の心理をうまく摑むことに長けているということだ。
 中の医師から後で診察室まで来るように言われていたのでエレベーターで1階まで降りた。既に午後3時を過ぎていたから外来患者はなく受付も待合フロアも閑散としていて、靴音だけが通路全体に響いて水琴窟の音色にも似ている。
 入口のドアを軽くノックすると直ぐに看護師に反応があってドアが開いた。
「失礼します、302号室の河村ですが」
「ああ、こっちへどうぞ」
 衝立1枚隔てた場所から例の先生の声が掛かった。
「まあ、そこへ掛けて下さい」
 大きなレントゲン写真をバサバサさせて透視版に挟めながら逆さにした鉛筆の先で説明し始めた。
「ここの第2、第3腰椎が他の部分と異なって潰れたようになっているのが分かるでしょう。これが骨折している箇所です。河村さんの場合は年齢的に言って骨折すると完治するまでには相当の期間を要します。最悪の場合は歩行困難になることさえあります」「そうですか……」繁にそれ以上の言葉は出なかった。
「2ヶ月の入院だけど最善を尽しますから、そう悲観をしなさんな」
 力強く乾いた声が繁に安心感を持たせる。 (続) 
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小説 ひとつの選択(18)

2013-01-30 06:46:03 | Weblog
                                           分類・文
    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載            箱 崎  昭

      (7)
 朝夕めっきり涼しさが増してきて病室から眺める町並みから、コバルトブルーに広がる大空に幾筋かの白い雲が流れているのを見ているとすっかり秋の気配を感じさせる。
 思えば1年ぐらい前に家族4人がダイニングテーブルで、母の対応について何度か議論したのが丁度この頃だったと思い出した。
 母の容態は芳しくなく、いまだに身体を横にするのを痛がりベッドを少し起こしての食事をとっていた。起き上がって自力でトイレに行くことも出来ず、相変わらず排便は介護士に頼ったが3度の食事は繁が母の口元へ運んでやっていた。
 ぼは同室のベッドから退院者が出る度に自由の利かない自分の身体が情けないと暗い表情を見せては嘆いた。
 そういうある日、先生から繁にお呼びが掛かっていると看護師に伝えられ診察へ行くと、担当医が待っていたように繁を呼び寄せた。
「あっ、河村さん、頼まれていた希望の転院先からOKが出ました。明日からでも受け入れ可能らしいですが何時頃にここを出るようにしますかね?」
「有り難うございます。それでは明日に昼食を済ませたら出るように準備をしますので、できれば2時頃にかしま病院へ着くようにしたいんですが如何でしょうか」
「いいですよ、私の方で連絡をとっておきますから。整形外科の中野靖先生が担当になります。それと向こうに行った時にこの封筒を受付に渡してください。レントゲン写真と診断書が入っています」
 2通の封筒の表に在中物が明記してあるが、レントゲン写真はクラフト紙の大きな封筒に入っていた。
 繁は毎日、自宅からぼの病室へ通ったが距離的な時間の空費と長期による固定入院の問題もあり、地元の病院への転院を担当医師に相談していてそれが実現した。
 病室に戻るなり母に報告した。
「かしま病院への転院許可が下りたから、いよいよ明日は家に近い鹿島に戻れるよ」
 母が以前から掛かり付けの病院であり中野先生に看て貰っていたこともあるのでとても喜んだ。かしま病院は自宅から徒歩でも15分ぐらいの位置にあり、同じ鹿島地区だから母にしてみれば家も同然、精神的な抑圧から解放され回復力を少しでも高められるのではないかと繁は期待を抱いた。
 転院当日、あらかじめタクシー会社に電話しておいたストレッチャー付きの介護タクシーが到着し、運転手と看護師が母の寝ているベッドの下敷きにしているタオルケットの4隅を持ち上げてストレッチャーへ移動した。
 痛いのだろう 「うっ」 と息を詰まらせ、泣きべそをかくような表情をして我慢した。 常磐バイパスを40分掛けてかしま病院に着くと、母が見慣れた看護師が玄関口に立って笑顔で迎えてくれた。
「河村さーん、大変だったねえ。ここで良くなるまで頑張りましょうね」
 2人の内の若い方が母に顔を付けるようにして言った。 (続)
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小説 ひとつの選択(17)

2013-01-29 06:33:16 | Weblog
                                            分類・文
     小説 ひとつの選択
           いわきの総合文藝誌風舎7号掲載          箱 崎  昭

 花枝が言うのは的を射ていると思った。それは紀子が繁によく話していたもにでもあるから、単刀直入にいう花枝の言葉は繁に緊々(ひしひし)と伝わってきた。
「分かっているんだ、紀子がオレのことを本当に思ってくれる気持ちがあればどんな事情があっても一緒についてくる筈だものな。そういえば都々逸か何かに“好いて好かれた仲ならば例え火の中水の中”なんていう文句があったよな。夫婦である以上はその位の愛情と覚悟がなかったら絶対にうまくいかないって」
 繁は自身の思いをこの際、すっかり打ち明けてしまった方が良いと考えていた。
「悪いなあ。多少酔ったこともあるけど、こうして皆が揃っているのでオレの胸の内を明確に言える場としては絶好のチャンスだと思ったからさ。なんかスッキリしたよ」
 繁はこの話題にピリオドを打とうと思った。
「いやいや、兄さんのことは花枝といつも話しているんですよ。余計な口出しはできないけども納得のいく結論は兄さん自身が必ず出すと思っていましたから」
 1つ年下の弟同然の孝男が励ましの言葉を繁に向けて、グラスに残っているビールを飲み干すよう勧めるとまた注いだ。
 盆の上に空になったビール缶が幾つも横たわっていた。
 いつの間にか話は咲江の大阪での奮闘話や、母が若くて元気だった頃の思い出話で盛り上がり、山裾の暗くて静寂な周囲を跳ね返すかのようにして4人の歓談は夜をすっかり忘れさせていた。
 翌日、4人が揃ってハシダ総合病院へ着いたのは10時近かった。
 残暑の陽射しが容赦なく照り付けて、駐車場から病棟に向う見舞い客の殆んどが額にハンカチを押し当ててくる。
 通路の自動販売機から冷たいコーヒー缶を取り出しているうちに妹たちは売店で何かを購入したようで、手にビニール袋をぶら提げていた。
 病室に近づくと咲江が小走りして先頭に立ち、部屋の中をそっと覗くより早く「母さん」と言いながら入口から消えた。
 母は入口に顔を向けたまま、いつ来るのかと待ち続けていたのだ。
「よく来てくれたなあ」
 母も咲江も久し振りの再会を喜んで手を取り合った。
「遠い所を大変だったね。こっちへ来るまでに電車の中では座って来られたのかい?」
 娘の長旅に入院患者の母が気遣った。
 花枝が同室の患者に半房に切った黒葡萄のピオーネを配ると、咲江も母から離れて持参した和菓子を1個ずつ渡しながら母を宜しくと丁寧に挨拶をして回った。 
 ベッドの両側を4人に囲まれるようにしていられるのが心強いのだろうか、母の顔色が急に良くなったような感じがした。
 担当医師の説明から、高齢者になっての骨折は致命傷になる場合が多く腰椎の第2、第3の圧迫骨折とあっては回復は難しいのではないかと聞いている。最悪の場合は寝たきりの状態になってしまう可能性も考慮しなければいけないと言われたので、それを思うと繁の心は曇った。 (続)
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小説 ひとつの選択(16)

2013-01-28 06:37:41 | Weblog
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    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載           箱 崎  昭

「家を8時に出てこの時間には、いわき駅に着いちゃうんだから昔と比べると距離がうんと短くなったも同然ね」
 少しも苦にならないというのを強調して屈託のない顔で陽気に笑った。
 駅前の駐車場から車を出すと後部座席から姉妹らしい会話が飛び交い、母の話題で持ち切りになった。
「よく高齢者が転んで骨折すると寝たきりになって、急に身体が衰えてしまうと聞くけど母さんの具合はどうなの?」
「きっと母さんもその例に当てはまると思う。腰の骨が折れたというのが致命傷になって寝たきり状態になってしまうのを心配しているのよ」
「なんか最悪の事態になってしまったね」
 咲江が深刻な面持ちで言うと、今まで明るかった車内が重苦しい雰囲気に一変した。「オレが一寸の油断をしたばっかりに母さんをこういう結果にしてしまって、何のために田舎に戻ってきたのか分からなくなってしまうよ」
 繁が自問自答するように2人の会話に割り込んだ。
「そんなことはないよ、誰が居たって怪我をする時はするものなのよ」
 花枝がタイミングよくフォローする。
「明日は一番で母さんのところへあげたいな」
 咲江の言葉に同意しながら途中で樫ノ木ニュータウンに寄って孝男を同乗させ、今夜は繁の家で4名が泊まることに決めた。
 この場合に母が居ないのは寂しいが、繁にとって兄妹揃ったところで紀子との複雑な事情や経緯を打ち明けるには絶好の機会でもあると思った。
 娘2人は生まれ育った家の勝手を知っているから手際よく酒食の仕度をして、6畳と8畳の間に蒲団を敷き終わると徐(おもむろ)に座卓に戻った。
 ビール缶のプルトップが弾けるような音をたてて喉元をそそらせる。
「ところで、この際にハッキリと皆の前で言っておきたいことがあるんだが、是非聞いて欲しい」
 繁は、そう言って一呼吸すると冷静に切り出した。
「よくよく考えた末だが、自分としては紀子と離婚という最悪の事態を招いてもここで暮らすという腹積もりでいるんだ。おふくろが聞いたら怒るだろうが、いつまでも1人にしておくには限界があると思ってね」
 皆は前から概ねの事情を聞いていたので驚きはしなかったが、矢張りそのような方向で進んでいるのかという現実的な受け止め方をせざるを得なかった。
 繁は本来ならば深刻な眼差しで、しぼみ掛かっている草花のような態度を見せればいいのだろうがそれはなかった。
 母親の扱いに対して夫婦で解決策を見出すことができず、平行線を辿るばかりであったから、いま追分に立たされてどっちの道を選ぶかは繁自身が決断すれば良いのだと割り切っていたからだ。
 聞いている3人に誰も反論する余地はなかった。
「こういう判断をするまでには相当な苦しみと悩みがあったと思う。最終的には兄さんが決めればいいことなんだ」
 花枝が殊勝にも兄を庇うように、小さく何度も頷きながら言った。
「紀子さんとは会ったり電話で連絡を取り合ったりはしていないという訳? 私も前から心配はしていたけど兄さんからその後は一言も話しが出ないから黙っていたの」
 咲江も相当気にはしていたようだ。
「入院したときに1度だけ電話をしたけど、まるで素っ気のない返事だったし、現に見舞いに顔を出さないことからも何を意味しているかが分かるだろ。紀子の結論を待たずにオレの方から出向いていって決着をつけてくる積りでいるんだ。いつまでも母さんに嘘をついていることもできないしな」
「つまり、紀子さんは兄さんとの結婚によって田舎から脱出したかったのよ。ご両親は居ないし家を執っているただ1人の弟さん夫婦ともうまくいっていないんだもの、本音としては生涯兄さんと川崎で過ごしたかったんじゃないかしら。そういう夫婦でいたかったのよ。ところが今回は母さんの面倒と一番嫌がっている田舎生活が浮上してきたものから慌てたと思うの」 (続)
                                          
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小説 ひとつの選択(15)

2013-01-27 06:39:53 | Weblog
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    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載         箱 崎  昭

「いま私の勤め先はリストラによる人員削減で躍起になっているのよ。パートの私が休んだらどうなるかは火を見るより明らかで、少数精鋭で皆が頑張っている時なので休むのは絶対に無理」
 紀子は『絶対無理』と言葉を閉めたが、仕事も然ることながら直感的に体裁(てい)のいい断り方であるのは容易に感じ取れた。
「そうだろうな、どこの会社も厳しいようだから従業員の自由が利く職場なんて稀なのは知っているよ。只、紀子との連絡さえ途絶えている状況の中で、こういう時ぐらいは電話するのも有りかなと思ったものだから掛けてみたんだ悪かった。あっ、それから息子たちはどうしている?居たら一寸だけでもいいから出してもらいたいね」
 繁は会話の最後にわざと急に思い出したようにして言った。
「……健二なら居るわよ。待って」
 紀子は繁の問い掛けに何かと間隔を置く。次に話す言葉を慎重に選んでいるのだろうか、健二を呼ぶときもそうだった。受話器を手で押さえているのか微かな呼び声が聞こえた。
「もしもし」
 長いこと耳にしなかった健二の変わらぬ声が目の前にあるようだった。「暫らくだったね、元気にしているかい?」
 音沙汰なしの自分が無責任な言葉を発しているのが気恥ずかしい。
「元気元気!父さんも元気でいるんでしょう?」
 繁は驚いた。予想に反して余りにも弾んだ声だったからだ。夫婦の縁は切れるが親子の縁は切れないと聞くが、もしかしたらこんな親父でも親は親として認めてくれているのだろうかと都合の良い解釈もしてみたくなる。
「母さん大切にしてやっておくれ」
 子供とはもっともっと話したかったが紀子の手前もあるし父親としての役も果たせなくなった自分がまるで他人の家に土足で踏み込んだようで凄く気兼ねをした。 
 だが普段は紀子から繁の悪口、雑言を相当聞かされているだろう健二から素直で明るい言葉が聞けて何よりも救われた気分になった。
 この夜、繁は紀子との夫婦関係は間違いなく醒めていることを確認し、途絶えていた双方の連絡を自分からしてしまったことを酷く後悔した。
 紀子の考えはどうするのかを決めるタイムリミットは、あと1ヶ月を切って間もなく半年目を迎えようとしている。その時期を待つまでもなく結果は既に出ているとみた。

      (6)
 大阪から咲江が母の見舞いにやってくる。上野発15時のスーパーひたちに乗車するとの電話が入っていたので、頃合を見計らって繁は花枝と2人でいわき駅まで迎えに出た。
 列車が到着するたびに改札口は賑わうが、その人混みの中から咲江が咲江が出てくるのを花枝が素早く見つけた。
 久し振りに故郷に戻った嬉しさと兄姉に会えたという悦びが混じって満面に笑顔がこぼれていた。
 大阪池田市から何度か交通機関を乗り継いできて、疲れも見せずに一人でよく来たものだと繁は感心した。
 咲江が中学生の頃だったろうか、転校して行った親友を訪ねて北茨城の大津港まで電車を利用して行く時に、切符の買い方が分からないとか降りてからの道順が不安だとかを心配して母に心細さを訴えていたことがあった。
 母は即座に「何のために口があるんだ。食べる為だけに口はあるんじゃないからね、他人にものを聞いたり自分の意見をハッキリ言うためにも口はあるんだから」と言い、咲江に同情する顔は見せなかった。
「dさけど、なんか聞くのが恥ずかしいなあ」それでも不安が付きまとっていた。「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥といって同じ恥でも聞かないでいる方がもっと恥ずかしい思いをするんだよ」
 母の言葉は間違いなく咲江を勇気立たせた。
 咲江の顔を見ていたら、そういう子供の頃にあったエピソードが蘇えってきて、あの小心者で方向音痴が大阪から来られるようになったかと思うと可笑しさを覚えた。
                                          (続)
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小説 ひとつの選択(14)

2013-01-26 07:18:10 | Weblog
                                            分類・文
    小説 ひとつの選択
           いわきの総合文藝誌風舎7号掲載            箱 崎  昭

「咲江が電話をしたらしいんだけど出ないと言って私のところへ掛けてきたのよ。実は2,3日したらこっちへ来るらしいよ」
「きっと風呂に入っていて気が付かなかったんだな。それは母さんが喜ぶだろう」
「このことは兄さんから言ってあげな」
 花枝が繁に配慮して、穏やかな口調で兄を立てた。
「母さん、ビッグニュースだよ」
「ナニニュース?」
 軽く頭を捻るような仕種をして怪訝そうな顔で聞き直した。
「朗報だよ、朗報。咲江が母さんの所に見舞に来るってよ」
 急に母の表情が緩んで目が細くなった。
「そうかい、わざわざ遠い所を着てくれなくてもいいのになあ……。」
 母の頭の中にはもう咲江が来ているのだろうか、嬉しそうな目尻から濡れたものが一筋耳元に伝わった。
「ところで紀子さんたちはどうしているんだい、繁に連絡はあるのかい?」
 突拍子もないことを言われると繁は一瞬返答に詰まる。母は普段は黙っているが、2人の間に何かが起こっているのを薄々感じているのが分かる。
 だから繁が忘れた頃に不意を突いて反応を見るようだ。
「そんなこ心配しなくていいんだよ。紀子には母さんが入院したのを知らせていないだけなんだから」
 繁は痛いところを突かれて思わず受け応えに語気を強めた。
 まだ正式な離婚もしていないのに夫婦関係が遮断しているのは異常だと思う。いっそのこと、この機会に怪我の状況を伝えて紀子の内心を探ってみようと思い立ち、今夜にでも帰宅したら家から電話をしてみようと決めた。
 花枝は売店から買ってきたシャーベットをスプーンにとって母の口元に運んでやっている。
 病室ごとに夕食の配膳が始まったのだろう。食器の擦れ合う音がして慌しい雰囲気が廊下を伝わってくる。花枝は部屋に居ては邪魔になるだろうから帰ると言った。
 繁も母が介護士に食べさせてもらうのを確認してから花枝を追うようにして病院を出た。
 途中コンビニで簡単な弁当を買い家で夕食をとった。食後のお茶を飲みながら今日1日を振り返り、容態を考えている内にやり残しがあるのを気が付いた。
 紀子へ母が怪我をして入院しているのを連絡することだった。暫らく呼び出し音が続いた後に受話器を取る音がした。
「あら、久し振りね。一体どうしたの?」抑揚のない紀子の声が耳元に入ってきた。
「実は、おふくろが転んで腰椎を骨折して入院したんだよ」
「それは大変だわ……。でも、あなたが傍にいてあげられるんだからお義母さんは安心している筈よ。それに近くに花枝さんも居ることだし回復するのは意外と早いと思うけど」
 繁が予想した通りの言葉が素っ気なく返ってくる。
「おふくろが紀子たちをとても心配しているものだから、できたら安心させてあげる意味でも1度でいいから見舞いという形で来て欲しいんだけどなあ」
 どうしたのだろう、紀子は無言状態になる。紀子の答が吉と出るか凶と出るか繁も無言で息を殺している。 (続)
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小説 ひとつの選択(13)

2013-01-25 06:31:42 | Weblog
                                           分類・文
    小説 ひとつの選択
           いわきの総合文藝誌風舎7号掲載           箱 崎  昭

 繁は母の入院が確定したところで樫ノ木ニュータウンの花枝夫婦に電話で今日の出来事と容態を知らせると、陽が落ちた頃に夫婦2人が病院を訪ねてきた。
 母は精神的に安定したのか、痛み止めの注射が効いてきたのか、静かな眠りに入っている時だった。
「どうなの、怪我の具合は?」
 花枝が心配そうな顔で声を抑えて聞いた。
「後頭部を打ったけど幸い頭には異常がないみたいなんだ。ただ腰の骨が折れたのでそこが問題なんだ。すごく痛がってさ」
 繁は自分もい得に居ながら、こういう結果になってしまったという自責の念に駆られてか気落ちした口調で話すと深い溜め息を1つした。
「今夜、先生から誰かが付き添うように言われた?」
「看護士長さんにこの病院では付き添いの必要はないと言われているからその点は心配ないけど、ただ明日来るときでいいから洗面用具とオムツを用意してくるようにと言われた」
「それだったら今から帰り掛けにドラッグストアーに寄って、オムツと他に必要なものを買っていこう。明日届ければいいんだものねえ」
 花枝は夫の孝男に同意を求めた。
「そうしよう、必要なものや思い付いたものは早い内に用意をしておいた方がいいだろうからな」孝男はそう言って頷いた。
「付き添いが要らないのなら兄さんも私の車で帰る?」
 繁も帰宅を促されて「帰る」と答えた。病院へ来る時に救急車に同乗してきたので、帰る足がなかったから好都合だった。
 3人でナースセンターへ顔を出し、母が寝入っているようなのでこのまま帰るから目が覚めたらその旨を伝えてくれるよう頼んで病院を出た。

     (6)
 ハシダ総合病院までは鹿島の自宅から車で40分掛かる。
 バスと電車を乗り継いでくるとなると、優に2時間は掛かってしまう。 
 担当医からレントゲン写真による説明を受け第2第3腰椎圧迫骨折で先ずは2ヶ月程度の入院が必要だと改めて知らされた。
 高齢者であることから保存的加療ということで、完治するかどうかについては不透明だとも言われた。
 コルセットを腰に付けて安静にしていることだけが母に与えられた仕事だったが、食事や排泄の際には介護士の世話で多少なりとも身体を動かさなければならない。
 その度に「痛い、痛い」の連続と苦痛の表情が母の身体に付きまとう。 
 繁はベッドに椅子を引き寄せ母の顔の傍に腰掛けて、母の言うのを何でも聞き漏らさず手足の代わりになれるよう努めた。
「耳が痒いから綿棒を取っておくれ」、「水を飲みたい」、「爪が伸びてきた」、「暑いから掛け蒲団を外してくれ」などと1日を通じて細かい用事が結構あるものだ。
 繁は自宅との行き来が面倒なので午前中に病院に入ると、母の夕食時間が過ぎるまではベッドの脇にいるか外来の待合室に行って文庫本を読むことにしていた。
 これなら家に居るのと然程変わらないから苦にならない。
 また時には患者同士の会話に耳を傾け、受付カウンターの係と患者の動きを見ていると飽きることもなかった。
 花枝は夕方の夕方の淡い陽射しが母の真っ白な蒲団を黄金色に染め始める頃にやってくる。
「兄さん、きのう夜8時ごろ家に居た?」
「もちろん居たよ。どうして」 (続)
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小説 ひとつの選択(12)

2013-01-24 06:10:44 | Weblog
                                           分類・文
     小説 ひとつの選択
           いわきの総合文藝誌風舎7号掲載         箱 崎  昭

 「痛い、痛い、早くタオルを水で冷やして持って来ておくれ」
 繁は顔面蒼白になって理由も聞かずに台所へ走り、タオルに水を浸み込ませて氷を挟んで持ってくると、どこに当てがったらいいのか聞いた。
 頭の後ろだというので軽く浮かせて後頭部を覘いて見ると、出血はしていないがピンポン玉くらいの瘤ができていて充血していた。
 「すぐに救急車を呼ぶから動いちゃ駄目だからね、そのままでいるんだよ」
 そう言うと洋傘を持ってきて広げ、顔に日差しが当らないように陰を作ってから119番に電話をした。
 細かな状況を聴取されて今から向うと応えた係員からは、緊迫した雰囲気は全く伝わってはこない。
 母は苦痛の表情を浮かべながら、草花に水遣りをしていたら足を滑らせて庭の端から落ちたのだと言うが、庭との落差が1メートルほどあるアスファルトの道だからまかり間違えれば死んでいたかもしれない。
 如雨露(じょうろ)が母の手元から離れて無造作に転がっていた。
「そろそろ救急車が来る頃だからもう少し辛抱しているんだよ」
 すでに25分経過していたが一向に来る気配がなく待つ身の時間が長いことを知る。 何の意味もなさないが、救急車が見える所まで走っていこうかとさえ思った。救急車を呼んでから到着するまでに40分位の時間を要した。
 赤色灯を点滅させ緊急音を鳴らして、山間の狭い道を慎重な面持ちで運転しながら救急車が入ってくる。
 付近の人たちが何が起こったのか関心を寄せて救急車に目を向けていたが、停車した場所が分かると足早にやってきた。
 若い人たちが勤めに出た後で家に残っている高齢者たちだ。
 救急隊員が母の怪我の状態を確認してから病院の受け入れ先を無線で探し始めた。  繁は気が逸るが隊員は冷静沈着に対応して、母を担架に乗せ車両の後部からストレッチャーへ移す。僅かな動きでも敏感に反応して痛がる母を早く病院へ連れて行って欲しいのだが、どこの病院も怪我人が頭を打っているということで敬遠するらしく中々受け入れ先が見つからない。
「兼子さん、なしてこんなことになったんだーい?」
 搬送される前に寄ってきた隣近所の高齢者仲間が、母を覗き込むようにして大袈裟な心配顔を見せて聞くと母は照れ隠しもあるのだろうか、あるいは面倒臭いのか「庭から落っこちた」とだけ言って目を逸らした。
 あとは繁が母の代弁で経緯(いきさつ)を説明して少し離れた場所に下がってもらった。
 救急隊員が6件目にして、ようやく勿来にあるハシダ総合病院が受け入れを了解したと繁に伝えた。
 頭部と全身を打撲しているようだが、特に腰の部分を強打したらしく走行中の揺れやバウンドする度に声を出し顔を歪めて痛がった。
 病院へ到着すると担当医師と看護師が玄関先で待機していた。
 MRIの診療結果から後頭部打撲、血腫、第2,3腰椎圧迫骨折という診断が報告され即座に入院が決まった。 (続)
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小説 一つの選択(11)

2013-01-23 06:43:30 | Weblog
                                            分類・文
    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載         箱 崎  昭

     (5)
 繁と母が2人で暮らすようになってからも、花枝は仕事帰りといわず家の近くを通ると普段でもよく寄っていく。
 花枝が来るのは1人であったり時には孝男と一緒だったりしたが、繁との雑談の合間でも絶えず母への気配りを欠かさないのには感心した。ところが日を増すごとに家に立ち寄る回数が激減していった。
 一体これは何故なのか不可解だったので聞いてみた。
「ごめん、その理由は簡単なの。孝男さんと相談して兄さんが家に来たから安心したので、あとは何かが起きたような時は別として普段は余り来ないようにしようと考えたのよ」と笑顔で答えた。
 母と繁の生活の中に花枝たちが執拗に介在しない方が良いのではないかと夫婦で決めたようだ。繁を自由に行動させるための気兼ねと、出来る限りはお任せという依存度が高まったからでもあるようだった。
 繁は母が病院へ行く日には診察券を預かって少しでも若い番号を貰っておくために家を出て、母が診察を終えるまでは待合室で静かに文庫本を読み耽った。
 帰り掛けに医師から渡された処方箋を薬局へ持って行き投薬を待つ役目もあった。
 要介護2の認定を受けている母は病院系列のヘルパーステーションから往復の送迎となるが、医師の検診を受け自宅に戻ると不思議にその日は痛いという言葉は出ない。
『病は気から』ともいうが1か月分の薬をテーブルの上に置いて日に3回分ずつに選り分けている傍で、繁が薄笑いをしているのを横目に「やっぱり、あの先生は評判が良いだけに看て貰うとうーんと違うな」
 満足そうに言う。いつもそうだ。
 大阪に住んでいる咲江も時折電話を掛けてよこすが、そんな時に母は「この頃は前に比べて身体の調子が大分良くなってきたし、そばに繁が居てくれるから随分と助かるよ」などという会話を耳にすると繁自身も悪い気がしない。矢張り微力ではあっても、母に何らかの役には立っているのだなと思えるその嬉しさに変わるからだ。 
 母が1人で住んでいる時には毎夜寝ることが出来ないので睡眠薬を常用しているとか、夢を見ると必ず父が出てきて家の周りを巡回してくれているから安心だとかを花枝に話していたというから最近では精神的な面から安定してきたのだろう。 
 繁は母に寝込まれないだけ幸せだと思っていたし、少しでも元気な内は自分の身の回りは自分で処理してもらうことが本人の健康維持のためにも良いと考え、大概のことは放っておくようにしていた。
 野山が深い緑に覆われ、暑い陽差しが木洩れ日となって根元の下草にまで養分を与えているかのように見えた夏の終りに思わぬ事故が発生した。
 繁が玄関のゴミを掃きだしていた時に近くで物音がしたので、外に顔を向けたが別に異常がない。それは古紙を束ねて地面に放り投げたような鈍い音に似ていた。 
 母が何かを落としたなと思いながら手箒を持ち直した時に、うめくようなか細い声が聞こえてきた。
「繁~……」
 弱々しい声だ。咄嗟に表へ出て庭を見回したが姿がない。
 2度目の声を聞くより早く母は道路側にいるなと直感した。案の定、段差のついた庭から道路上に仰向けになって倒れていた。 (続)

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小説 ひとつの選択(10)

2013-01-22 06:33:54 | Weblog
                                           分類・文
    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載           箱 崎  昭

「長い間、世話になりっ放しで本当に申し訳なかったね。これから暫らくの間はお母ちゃんと居て、調子を見ながら良くなれば川崎へ戻るので宜しく頼むよ」
 繁は母の前でそうは言ったものの、実は2人だけには既に我が家の事情を明かしてあり、繁1人が戻ってきたのは充分に承知している。
「母さん、兄さん来て貰って本当に良かったね。これで元気100倍になったんだから、また杖を突かなくても歩けるようになっから」
 義弟の孝男が母の顔へ首を伸ばして言った。
 孝男も母のことを母さん、繁のことを兄さんと呼ぶ。これは花枝と結婚した時から妹達がそう呼んでいたので恐らく気脈が通じてそうなったのだろう。繁も実の兄弟がいないので長いことそう呼ばれている内に、妹の亭主というよりも本当の兄妹のように思っている。
 繁が立とうとしたら空かさず花枝が「私がやる」と言って台所に入った。 
 勝手知った冷蔵庫の中から適当な酒の肴を見繕って小皿に盛り、グラスを添えて手際よくテーブルに並べた。
「兄さんが来ても、なるべく食事の支度は母さんに任せた方がいいからね。息子が来たんだもの張り合いが出て、毎日美味しいものを作ってくれるから……。とにかく動ける内は何でもやってもらった方がいいと思うんだ。それが母さんの身体のためにも一番いいだろうと思うし」
 花枝は繁が母の傍に居るのが一番良いのだと屈託のない言い方をした。 
 話題が大阪に嫁いでいる咲江夫婦の近況や世間話に盛り上がってきたあたりで母が川崎のことに触れてきた。
「繁1人がこっちへ来ている間は、残っている紀子さんや孫たちは何かと大変だっぺなあ。私はまだ1人でもなんとかやっていけるからさ」
 母は誰に言うでもなく視点の定まらない目をして言った。
「そうは言っても夜中に電話をよこして、寝られないとか腰が痛いから病院へ行きたいとか言うでしょう。母さんは何も心配することはないの。自分のことだけを考えていればいいんだからね」
 花枝が穏やかな口調で言うとすぐさま「ねえ」と話の続きを繁にさせようと相槌を求めた。
「ああ、それは大丈夫だ。子供と言っても一端の社会人だし、オレが田舎で母親の許に暫らく居るというのは紀子も承知の上で来ているんだから」
 事実と懸け離れている言葉を口に出さなければならない繁は心苦しかった。 
 花枝に目をやると花枝も繁を見ていた。
「こうして兄さんに来てもらって母さんは本望だろうし、私も凄く嬉しい。どんなことでも協力は惜しまないから遠慮なく言ってね」
 いま繁がここに居る本当の理由を知らないのは母だけだったから、花枝も言葉遣いには慎重で母に察知されないよう配慮しているのがよく分かった。
 孝男が差し出す缶ビールをグラスに注いでもらうと、真っ白い気泡が忽ちグラスの口いっぱいに広がって、精神的な開放感を表現しているように見えた。 (続)
         
     
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小説 ひとつの選択(9)

2013-01-21 06:27:41 | Weblog
                                            分類・文
    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載         箱 崎  昭

 台所に母が立っていて、朝食の支度をしているようだった。
「何だい、いつもこんな時間に起きて飯の仕度をするのかい?」
 繁は母の耳元の傍に寄って話が1度で済むように口調を強めて言った。
「あっ、驚いた。いきなり話し掛けてくるんだもの。いつもは自分の好きな時に起きて好きな時間に飯を食うんだけども、おまえが夕べから何も食っていねえと思って寝てる間にちょこっと何かをこしらえておいてやっかなと思ってな」
 繁の声掛けに一瞬ビックリしたようだったが、すぐ笑顔に変わった。
「何もすることはないんだよ、オレが来たのは母の身体の具合を見に来たんであって、そんなに調子が良いならオレがここに来る必要も、居る必要もないんだから」
「……そうだな」
 母の明るい表情が俄かに曇った。
 繁は咄嗟にいけない、余計なことを言い過ぎたと思った。母は足腰の痛いのを押し殺してまで自分のために食べる物を心配してくれているのではないか。思い上がった言葉を返してしまったと後悔した。
それは、家にも戻って来るまでの経緯を考えた時に、家族対母親に対する1つの選択を迫られた当時の苦しみや悩みの残痕が脳裏から発したのかも知れない。
「そういえば確かに腹は減っているよ、夕べは途中のコンビニでおにぎり1個とコーヒー缶を買っただけだもの」
 母の朝食の支度に話を関連させて言い過ぎを取り繕った。
「ンだっぺ」
 母は、だから作っているのだと言うようにマナ板の音を立て始めた。
 繁は裏山の竹林から庭に舞ってくる枯れ笹を掻き集めてビニール袋に押し込み、雨ドイに詰まったものも綺麗に突き落とした。
 何もしないでいるには丁度良い気候だが、少しでも動くと身体が汗ばんでくる。タオルで顔を拭っているところに、母が竹棒を杖代わりにして玄関先から出てきた。
「危ないから気をつけたやれよ。急にあれもこれもやっぺと思っても無理だから、お前が居る間に少しずつやってくれればいいよ。私は腰が痛くて長いこと立っていられないのでベッドで少し横になるから」
 そう言うと上半身を大きく左右に振りながr、また家の中に入っていった。0脚で今にもつまずきそうな足どりは、電池切れに近い人形のように動くたびにギーギーと音をたてているように見えた。
 なんということだ、独り身で暮らしている年老いた母の生活実態の1部を見せられたような気がした。これだから時には、花枝に弱音を吐いていたのも仕方がないと思えた。
『もう何も心配することはないからな。これからはオレがおふくろの手となり足になって出来るだけのことはするから』
 繁は母の後姿を見ながら心の中でそう叫んだ。
 夜になって近くに住む花枝夫婦が缶ビール1ケースと、ドライブスルーで買ってきたのだと言うフライドチキンをぶら下げてやってきた。
「お帰りなさーい」
 夫婦揃って玄関を入るなりそう言いながら繁の帰郷を喜んだ。
 Kフライドチキン外箱のロイド眼鏡を掛けた白髭の老人も、ふくよかな笑顔をして繁を迎えてくれているようでもあった。 (続)
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小説 ひとつの選択(8)

2013-01-20 06:29:17 | Weblog
                                           分類・文
    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載           箱 崎  昭

 走行中の車は遠くの明かりを目指して、その明かりに辿り着くとまたと遠くにある明かりに向って行くことを何度となく繰り返す。
 磯原から大津港辺りまで来ると微かに潮の香りがしてきて、県境の勿来トンネルを抜けた時には暗い海辺に打ち寄せる白波と潮騒が道路側まで押し寄せているのが見える。
 ここから家に着くまではあと40分位は掛かるが、既にいわき市内に入っていることで気分的に楽になり急に安堵感が湧いてきた。
 バイパスの路肩に車を寄せてタバコに火をつけ口に銜(くわ)えると、休まずにハンドルを握った。僅かに開けてある窓から吐き出す紫煙が外気へ向って飛び出していく。
 腕時計が2時10分を差している。出発時に予測した時間とほぼ合致していた。  
 繁の実家は山間のどん詰まりだから辺鄙で暗く、しかも今の時間では物音が立つものは何一つない。闇の中で単発的に梟がもの寂しく啼くぐらいだった。
 繁がいま夜中に来ることは花枝から聞いているからだろう、玄関灯が庭の芝生に吸い込まれそうになって淡い光を放っている。
 母には家庭の事情を悟られないために、持ち物は最小限に抑えて着替え用の衣類と僅かばかりの書物にしておいた。
 車から荷物を取り出して玄関に入るのと同時に応接間の室内灯が点いた。蛍光灯から垂れ下がっている長い紐を中腰で引っ張って点灯させた母の姿が現れた。
「来てくれたのかー、何だか車の音が聞こえたようだったから今、電気を点けてみたとこなんだ」灯りの下に母の笑顔があった。
「遅くなるから寝ていて構わないと花枝から聞いていたっぺ?」
 繁は家族の間でも滅多に使わない方言をなんの抵抗感もなく口に出した。 
 いま自分は田舎の人間に戻ったのだという実感がある。
「お前から途中で電話があったら、その時には直ぐに出られるようにここで横になっていたんだ。何しろ出先ではどんな事が起こるか判んねえからな。……? 1人で来たのかい、紀子さんは?」
「勿論1人だよ。急病じゃあるまいし、どんな具合なのか見にきただけだから暫らく居てみて様子が良ければまた川崎へ帰るんだから」
 母に面と向かって平気な顔で嘘をついている自分の醜い顔が見えるようだったし、罪悪感が心を締め付けるようで息苦しさを覚えた。
 嘘も方便で仕方がないのだと思い直す他はなかった。
「いやあ、今度ばかりは皆に心配掛けてしまって済まないね。なんだってこの頃、足腰は弱くなったしあっちこっち痛いところばかりで、もう先がねえのかなーなんて考えるようになってしまった……」
 苦労の年輪が顔の皺になって表れ、弱気になっている言葉にはかつての母ではない。
「そういうことを花枝から聞いていたから、少しでも早く母さんの所へ来ようと思ってはいたんだけど、とうとう今になってしまったんだよ」
 繁は詫びる積りで、ゆっくりと言い聞かせるように言った。
「紀子さんや太郎たちには変わりはないんだっぺ?」
「ああ、元気でいるから心配は要らないよ。来る時に家族から宜しく伝えてくれるよう言われてきたよ」
 これも嘘だった。母は真に受けているのだろうか、空々しい言葉に先ず自分自身が嫌気を差す。

 今夜は繁が帰ってくることで、母が寝ずに待っていてくれたとは予想もしていなかっただけにとても嬉しい気持ちになった。
 夜の運転は楽なように感じたが、久し振りに6時間近くも連続走行すると慣れないせいもあってか疲れが出て今朝の起床には手間取った。 (続)
                                           
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小説 ひとつの選択(7)

2013-01-19 06:24:00 | Weblog
                                             分類・文
    小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載          箱 崎  昭

「それは真剣に考えたよ。エゴかもしれないが長いあいだ家を放りっぱなしにしておいた挙句に、今度は特老施設へ入れるというのはとてもできないんだ。よく病気で入院中の患者さんや養護老人ホームに入居している人が最期を遂げるときに、決まって言うセリフは“自分の家で死にたい……”だそうだ。他人は至れり尽くせりの場所に居られるのだからあんな幸せなことはないと思うらしいが、本人にしてみるとどんな生活でもボロ家でも喜怒哀楽を肌身で体験してきた我が家に万感の思いを寄せているようだ」
 太郎が主張する老人ホーム行きは繁の否定で敢えなく萎(しぼ)んでしまった。
 部屋は重苦しい空気に包まれて暫らくのあいだ沈黙が続き、いつの間にか1つの灰皿に折れ曲がったタバコの吸殻が盛り上がっていた。

     (4)
 繁1人が帰郷するようになったが、家族の崩壊が母の扱い方に起因しているとはどんな事があっても母には言えないしいう必要もないと思っている。
 そんな事までしてして息子に傍に居てもらい喜ぶ母ではないし、単なるお仕着せになってしまう危険性も生じてしまう。
 母が生命ある限り家族との結末については口外しないで暮そうと心の決めている。 
 樫ノ木ニュータウンの花枝夫婦には、繁が帰る日とおおよその到着時間を知らせてあったが、夜中になるのは間違いないので実家に来てくれなくてもよいと連絡して、母にもその旨を伝えておいてくれるように頼んでおいた。
 母は難聴でややもすれば電話の呼び出し音が聴こえない時があり、受話器を持ったところでさっぱり要領を得ないという難点があるので、花枝に直接伝えておいた方が早いし正確だからだ。
 川崎から、いわきまでの距離を約230キロとして平均速度を50キロで走ると5時間ぐらいで着くが、それに1時間をプラスすれば午後8時に出発しても深夜の2時頃には間違いなく着く計算になる。
 中古車というよりもクラシックカーの部類に属するのではないかと、息子たちに冷やかされたこともある乗用車のハンドルを手にして夜の水戸街道をひたすら走る繁の姿があった。
 会社時代から乗り慣れした車で愛着があり、今でも使用しているが総キロ数はとうに10万キロを越え、最近ではエンジン音も耳障りがするようになってきた。 水戸、日立を過ぎると周囲の明かりも次第に疎らになり対向車が時折、運転席いっぱいにスポットを当てたように照らして擦れ違っていく。
 相手の運転手は、覇気がなく青白い顔をした繁を一瞬見ていくだろう。  
 単調な時間の流れが過去の全てを車の後部から投げ捨てているような錯覚を起こさせる。
 繁の選択は家族と母親の比重を二者択一の天秤にかけて、その結果が母親のほうに傾いたというのは誰が見ても予想外で無謀だと思うに違いない。
 やはり紀子の言う特別養護老人ホームへ母を入れた方が良かったのか、あるいは健二が言うように半強制的ではあっても川崎で同居させるべきであったかは、繁自身も表面上では否定していても随分と迷ったところだった。
 結果として、いま繁1人が母の許へ向って深夜の道を突っ走っている。もう繁には紀子との間に後悔することもなければ、新たな対応策を練るという考えも消えうせていた。
 いまは、ただ母の最期を見届けてやるまで傍で暮そうという思いだけだった。(続) 
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小説 ひとつの選択(6)

2013-01-18 06:33:26 | Weblog
                                             分類・文
      小説 ひとつの選択
         いわきの総合文藝誌風舎7号掲載              箱 崎  昭

     (3)
 息子2人を交えて最終的な家族会議が行われたが、核心を突く部分になると相変わらず平行線を辿るだけで終始した。
「仕方がない……」 繁は覚悟を決めて3人へ簡単明瞭に言った。
「お婆ちゃんの先は短い。お前たちはこれから夢に向っての未来があるし、やるべきことも当然あると思う。この際、オレは生きることに残り少ないお婆ちゃんの許で暮してあげようと決めたよ。家族と母親の狭間に立って悩み苦しんできた結果がこれだ」
 繁はテーブルに両手を乗せて頭を深く下げることによって、実行に移す意志の固さを初めて家族の前で表明した。
「どのくらいの期間になるわけ?」
 行動を共にしない紀子は、公園で繁に言われた緩衝的な言葉を利用して直ぐには受け止め難いというような素振りで聞いた。
 繁には実に白々しい言葉として跳ね返ってきたが腹の虫を抑えた。
「今の時点では全く見当が付かない。それは身体の具合が日毎に悪くなることはあっても良くなるというのは考えられないし、寝たきり状態になったら急に悪化が進むのか、5年も6年も長く行き続けるのかは予測が付かないからな」
 行ったらもう来ないという紀子に対しての暗示と自分の意見を込めて、なるべく柔らかな口調を保ちながら答えた。
 よく世間では見た目で夫唱婦随とか夫婦2人三脚などと言うが、少なくとも繁たち夫婦の間では、それは単なる偽りの美辞麗句としか通用しない。
 それは母の余命幾ばくもないと思われる人生の幕引きに、妻として一緒に介護の手助けをしようとする気さえ起こらない紀子の言動が如実に物語っている。
 挙句の果てに“親の始末が付いたらまた2人で暮せばいいでしょう”などと安易な気持ちで別居されていたのでは、繁の心にある許容範囲からはみ出してしまう。
 息子たちも繁の言い分を理解できない訳ではないが難しい面も感じ取った。「父さんが言うのは極論に近いでしょう。既に母さんと離婚するという前提で話を進めているように思えるからさ」
 二男の健二が口を尖らせるようにして紀子へのフォローをしてら紀子も太郎も同時に視線を繁に合わせた。
 繁は一瞬、生意気なと思ったが反面、繁が言おうとしている要所を上手く衝いている。
 これだけ大人として成長しているのだと考えたら、子供たちに関しては何も心配ないと逆に頼もしさを感じて嬉しく思った。
「いや、極論ではないよ。その証拠に母さんには未だ自分自身で結論を出すという決定権が残されているんだから」
 太郎が満を持していたかのように「おばあちゃんによく説明した上で、特別養護老人ホームに入って貰ったらどうかな。そうすればおれたちも協力できるし、手の空いた者が交代で行くようにも出来るよ」
 繁には先刻承知で到底容認できるものではなかった。
 往復の交通費がかさむことと時間の浪費がネックになるし、最初は1週間あるいは1ヶ月に1度ぐらいの割合で足を運んでも次第に疎遠になって、結果的には施設の人たちに丸投げしてしまうような扱いになるのは目に見えていたからだ。
 肝心な理由がもう一つある。 (続)

 
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小説 ひとつの選択(5)

2013-01-17 06:42:54 | Weblog
                                            分類・文
       小説 ひとつの選択
          いわきの総合文藝誌風舎7号掲載          箱 崎  昭

 田舎に戻るというのは、紀子にとってこれからの自由を一切剥奪されてしまうということを意味している訳で、実際に義母と生活するようになり寝込まれた場合は、最後の最後まで身の回りの面倒を看るのは紀子になる。
 それを煩わしく思い厭だと言うのなら仕方がない。
 息子2人も既に社会人になっているし、太郎が主張したような生き方をすれば良いのだから一緒についてくる必要もないし心配もない。
 繁は息子たちがまだ帰宅しない夕方に紀子を近くの小田山公園へ散策がてら連れて行き、田舎へ戻らない理由を聞き出して最終的な決断を下そうとしていた。
 紀子は浮かない顔を露わにしたが黙ってついてきた。公園を2人で歩くのは久しいが、これが夫婦として終止符を打つための姿であるのかと思うとはかなく空しいものが心の奥底から湧出してくるのを実感した。
 公園内には犬を連れて散歩する者、ジョギングをする者などが頃良い気温に誘われて、静寂の中で時間をもて遊んでいる。
 芝生の上をはしゃいで走り回っている親子の姿が夕日に照らされて、細長い影になって地面からその親子を必死で追っている。 繁は紀子の顔を見て田舎へ帰ることをどうしても頑なに拒むのかを問い質してみた。
「あなたに不平不満があって行かないんじゃないのよ。はっきり言って私は田舎そのものが厭なの、あなたと同じ故郷なのにね。封建的な慣習の中で自由がないし、些細なことでも大きな噂を立てられるし、そして他人が失敗すると喜ぶという旧態依然の生活を強いられるということを考えただけで病気になりそう。田舎で生まれて田舎で育った私が厭というほど、そういう体験をしてきたから二度と田舎と言う場所には行く覚悟になれないの。あなたの傍にも居たいし、お義母さんの面倒も看させてもらいたいのが本心だけど、生理的にどうすることもできないんです。本当に申し訳ないと思っています」
 家族と話し合いの中で、母を川崎へ呼び戻そうとしている意図に大差はなかった。
 身体が不自由になったきた母を1人にしておくこと自体が世間の物笑いになるのではないのか、だからこそ田舎へ戻らなければならないのだと語気を強めて言いたかったが繁は黙っていた。
 最初から田舎そのものが厭だと否定している者に何を言っても通じるわけがないと判断したからだった。
「仕方がない。これでオレにも決心が付いたよ。母親の許へはオレ1人で行くことにする。どのくらいの期間になるのかは皆目見当が付かないけれど、その間にもしも紀子の気持ちが変わるようであれば、又その時に2人で話し合いをしよう」
 繁はこの場で一刀両断に紀子との縁を切ろうと思ったがそれはしなかった。 
 1度離れたら、再びよりを戻すなどという考えは繁にはないし、紀子にもない筈だから今、ここで決断すれば簡単に解決できるが仮にも30年を共に暮してきた紀子に非情な態度をとるのが男として、大人としてするべきではないと判断したからだ。  
 表面的には紀子に考え直す猶予期間を与えるという形をとって、穏やかに身を引いた方がお互いに心理的なダメージが抑えられるのは確かだろう。
 そこには期待感を抱くこともなく、只々現実との乖離になす術はなかった。
「帰ろう……」繁は紀子に力のない声で言った。
 いつの間にか公園の側道には会社帰りのマイカーやバスの列が数珠繋ぎになっていた。 (続)
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