いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

「洟をたらした神」 上映会

2017-10-15 06:44:43 | Weblog

                            分類:PV 


                                                                                                         場所 : チームスマイル・いわきPIT                                                                                                    いわき市平祢宜町5-13                  吉野せい賞40周年記念の上映会 


 昨日(14日)は、市の文学振興施策の一環として、吉野せい賞40周年記念事業に関連し 映画『洟(はな)をたらした神』 と、トークショーを開催した=写真下。


       


 神山征二郎監督で、昭和53年(1978)に製作されたもので、当初はテレビドラマとして製作されたそうなのだがスポンサーが内容に難色を示し、結局放送は中止され、後に劇場で公開されたというもの。鑑賞希望者を募ったが応募多数により抽選で、当選した180人が鑑賞するようになった。                  


 いわき市内の阿武隈山系の麓で開墾生活を送った吉野せいが書いた『洟をたらした神』は、昭和50年(1975)に、大宅壮一ノンフィクション賞を受けた作品で、せい独特の筆致は串田孫一が〝刃こぼれなどどこにもない斧でスパッと木を割ったような切れ味〟と評価したほど素晴らしい作品だ。             


                                           《左から、長谷川由美さん・神山征二郎監督・吉田隆治さん》


 上映後のトークショーでは、『洟をたらした神』 の神山征二郎監督、吉野せい賞選考委員長の吉田隆治さん、市暮らしの伝承郷副館長の長谷川由美さんの3人が登場して、映画の製作談議や、吉野せいが生前、厳しい自然と過酷な現実を生き抜いて、70歳を過ぎてから追われるように作品を次々と発表していったという話に来場者が耳を傾けていた。

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鹿島の伝説人(びと)27

2017-10-13 06:48:16 | Weblog

                                           分類:村

  村会議員の後に村長を1期務める 志賀林弥                            いわき市鹿島町下蔵持字嘉睦家15番地

 明治31年から同34年まで鹿島村会議員を務め、翌年には村長に推されて活躍した。村長の期間は、明治35年5月17日から同37年4月22日まで。                                         明治維新以前から、旧鹿島村に属するようになった村々の経済は、殆んどが米作をもって生計を立て、わずかに養蚕、コンニャク、薪炭等を副業とする家があった。

                  

 こういう米作一本鎗の鹿島村だったので、林弥の村長時代になった時も苦労が多かった。                  明治35年以来、連年米作の不作が続き、それに明治37、38年の戦争も手伝って、村内の疲弊は一層高くなったのだった。                                                         このような事情から、大正15年に於ける1村247町7反歩の水田のうち、12町歩ほどは他町村居住者の所有地になってしまった。

 暮らし向きが楽でないので止むに止まれず、父祖伝来の田畑を売り払って生計を保たなければならない家が多かったのである。                                                             こういう売り畑を買い求めた先には、平の諸橋家や、泉下川の江尻家などが絡んでいたようだ。                                                                                                              

                                                                                                                                             乗馬姿で役所通いをする志賀林弥(明治39年)   

 尊徳精神の 「一圓融合」 を村是とした16~17代(昭和9年~昭和17年)の村長、志賀直哉は林弥の長男である。     

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鹿島の伝説人(びと)26

2017-10-12 07:02:30 | Weblog

                                             分類:村                                                     鹿島村役場の初代村長 佐原久次郎                                                            いわき市鹿島町御代字柿坂9

 明治21年4月に村政が発布され、明治22年4月1日から施行されたが、その初代鹿島村村長になったのが久次郎だった。

                 

 この法律の実施により、住民は長かった藩政、官治行政から解放され待望の自治権を得たがその前途にはなお不安と難問が山積していた。                                                          久次郎が要職に就いたのは明治22年7月だから、村政が発布されて3ケ月後というのは、12村(御代、船戸、飯田、久保、上蔵持、下蔵持村、米田、走熊、下矢田、上矢田、松久須根、三沢)の合併当初から諸々の混乱があったものと推察できる。

 村長就任期間は1年足らずだった。

 当時の佐原家は繭の仲買をしていて、伊達地方より糸繰女を雇って養蚕業をし、質屋も併業していた。酒造業は明治9年の創業で当主が久次郎だった。

 

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鹿島の伝説人(びと)25

2017-10-11 06:52:26 | Weblog

                                              分類:村                                           戒名でも分かる武力の達人 箱﨑源五郎                                文政9年(1826)?~明治33年(1900)3月10日 享年74歳                                                                                             いわき市鹿島町走熊字坪下1番地                                              現・世帯主 悦雄 氏

 旧、鹿島街道から走熊にある 『天徳山福正院蔵福寺』 へ行く入口にある家が剣の達人といわれた源五郎の生家である。

                                                                   下座が源五郎

 源五郎は小野派兵法一刀流の門に属し、松本誠意軒を師とした。                             厳しい鍛錬を経て同門12か条の兵法を全て会得し、明治8年1月には免許皆伝を許され、その証しに皆伝を書き記した巻物2巻を与えられて、その証拠の品や絵姿(上の写真)が同家に現存している。

 源五郎がなぜ武術に執心したかは判然としないのだが、死去した時の戒名が 「武術院殿佳照箱源誠翁大居士」 とあることでも、鹿島では著名な剣の達人であったことを如実に物語っている。

   

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鹿島の伝説人(びと)24

2017-10-10 06:58:59 | Weblog

                                             分類:村                                         鹿島村の収入役で貢献 三島五一郎                                              明治29年9月5日生~昭和39年2月10日 享年68歳                                                    いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内42  現・世帯主 康夫 氏                           

  鹿島村の収入役の期間 昭和9年11月25日~昭和22年4月30日                           明治22年4月1日付で町村制が実施され、それ迄の戸長制を廃止して町村長を置くことになった。         

                  

  鹿島もその例に倣(なら)い、上矢田村、下矢田村、松久須根村、三沢村、米田村、走熊村、上蔵持村、下蔵持村、久保村、船戸村、飯田村、御代村の12ケ村を併せて鹿島村が誕生した。             それ以後、昭和28年10月10日に小名浜町と合併する迄の長きに亘って鹿島は村として存在した。

 五一郎は、その内の23年間を収入役として務めた。                                         《その他の役職》  鹿島村助役 昭和26年10月1日~昭和28年10月9日                                   小名浜町と合併後主事として町役場勤務。のち鹿島支所長となる。                                                鹿島南公民館の初代館長                                                                     鹿島小学校PTA会長 昭和33年4月~昭和36年3月

 

 

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鹿島の伝説人(びと)23

2017-10-09 07:08:16 | Weblog

                              分類:村

 「護身法」「九字之大事」を修めた 鵜沼長治右衛門                                        いわき市鹿島町下矢田蓮作 1 

 鵜沼家は代々名主を務めた旧家だが、今から290年ほど前(平成29年現在)の先祖に鵜沼長治右衛門という人がいた。 

                         長治衛門が受けた「護身法」と「九字之大事」の教示書

 この人が真浄院住職権代大僧都法印胎教(安永丁酉6年3月21日没)から「護身法」「九字之大事」を修めたことを証する授与書が鵜沼家に保存されている=写真。仏教辞典によると「護身法」とは、密教で真言行者が修法の初めにさわりを除き、心身を清らかに修するところの法を成就させるための身心を加持することをいう。また「九字之大事」とは、臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前の九字による呪術で、九字之大事、縦横法ともいう。

 この九字を唱えて立て4本、横5本の線を空中に劃(かく)すれば一切の禍を除いて身を護り勝を制することができるという。民間人がこのような仕法を授けられたことは信徒として相当信仰心が厚く、寺院との係わり合いが深かったものと思われている。真浄院の創建にあたり篤心の鵜沼家一族から特別の協力があったものとされている。 因みに、同院参道にある金剛力士像は、当家の正一氏が平成3年に建立したもの。

   

           《参道入口に建っている金剛力士像》            《左側にある建立記念碑》

   

 

       

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鹿島の伝説人(びと)22

2017-10-08 07:11:52 | Weblog

                           分類:村


  断続的に4代務めた村長 山口 入(いる)                                                                         いわき市鹿島町上蔵持字宮ノ下18


 山口入は、2、3、6、7代に亘って村長職を務めた他に、収入役(明治22年8月5日~明治24年10月10日)や、村会議員(明治22年)を歴任して、鹿島村政に大きく貢献した人物であった。


                                  


 特に明治38年は当地方が大凶作に見舞われ、農作物等に相当の被害をもたらしたことが石城郡誌などに記録されている。


 鹿島の被害状況についてはその詳細を知る記録はないが、村会議事録を見ると窮民救済のため御下賜金を下賜されているのが分かる。それは明治39年のことだが、その時に入(いる)は村長をしていて、御下賜金並びに寄贈金の取り扱いについて村会で協議している。


 現在の山口家には、明治の頃を伝えるものとして、桜と百日紅(さるすべり)の古木が庭に悠然とい据わっている。

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鹿島の伝説人(びと)21

2017-10-07 07:04:02 | Weblog

                                     分類:村                         磐城市役所鹿島支所長を最後に務めた人 大滝忠男                                                       大正  年  月  日~平成12年3月17日 享年  歳                                                                               いわき市鹿島町米田字殿作30

 鹿島村は、明治22年4月1日に近隣12ケ村(松久須根・上矢田・下矢田・三沢・走熊・上蔵持・下蔵持・米田・久保・飯田・船戸・御代) を統合して誕生した。

                    

 昭和28年10月10日に小名浜町と合併して、鹿島村役場は 「小名浜町役場鹿島支所」 と改名した。                      同29年(1954)3月31日には江名・泉・渡辺などの町村と合併して、小名浜町から磐城市になった。※この時に、常磐市と内郷市もできた。

 「小名浜町役場鹿島支所」 は、 「磐城市役所鹿島支所」 になり、昭和41年10月10日(1966) には当時、日本一面積が広い 『いわき市』 と評判になったが、市役所は平に本庁を置き、かつての磐城市役所は小名浜支所となり、鹿島支所は統括されて消滅してしまった。

 鹿島村役場が小名浜、磐城の 「支所 」として看板を上げて存在している間を、支所長として務めていたのが大滝忠男だった。               

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鹿島の伝説人(びと)20

2017-10-06 06:54:57 | Weblog

                                              分類:村                                    父の代に湯長谷藩から下蔵持に転住 志賀久左衛門                                                                    明治  年  月  日~昭和  年  月  日 享年  歳                                                                 いわき市鹿島町下蔵持戸ノ内27                                                           現・世帯主 敬 氏

 久左衛門は志賀家の28代目であるが、その父、久吉は湯長谷藩のもとで名主(庄屋)として地域をまとめ、明治10年(1877)磐前県、上・下蔵持の戸長として行政にあたった。

                  

 久左衛門自身は、大正4年から同8年までの期間、鹿島村の村長を務めた人である。           因みに、現、世帯主の敬 氏は志賀家を継ぐ31代目になる。

 旧家の歴史を思わせるかのように、樹齢300年ともいわれる高野槇(こうやまき)や、柏槇(びゃくしん)などが威風堂々と庭に据わっている。特に高野槇は、江名・湯本線(県道48号)へ、はみ出すように生い茂っている古木だが、この木は高野山から持ってきたものだと伝えられている。

 

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鹿島の伝説人(びと)19

2017-10-05 11:42:40 | Weblog

                                             分類:村                                          公職一途の生涯 鈴木一男                                                          明治26年(1893)9月29日~昭和47年6月24日 享年80歳                                          いわき市常磐上矢田町草ヶ谷1(旧・鹿島村大字上矢田)

 父秀松は一男が3歳の時に早世した。このため後の政客、鈴木聡次郎を鈴木家の後見人に迎え、そのもとに育ち学問と徳義の薫陶を受け継いだことで大正9年、27歳の時に第1回国勢調査員に選任され一男の才幹を発揮する第1歩を踏んだ。

                 

 その後の要職は死去するまでに32を数え、その中から幾つかを挙げてみると33歳で鹿島村収入役、36歳の時に走熊郵便局取扱所長(のち局長で継続11年間)、39歳で鹿島村村会議員となり以後10年間村議を続け、昭和17年鹿島村長に推薦され、その時は49歳だった。      諸々の役職を列記するときりがないので省略するが、それだけ 「鹿島」 に対する思い入れが深かったことになる。こうして公職活動は52年にも亘り、その実績は鹿島の中で他に例をみない公職一途なものとして記録に留められている。

 天命を全うした同日付けをもって、勲6等単光旭日章に叙せられ生前の功労を讃えられた。

               

                 

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鹿島の伝説人(びと)18

2017-10-04 07:08:58 | Weblog

                                            分類:村 

 助役や村会議員も歴任し村政に寄与 荒川吉松                                                                                                                        いわき市鹿島町御代合曹子80                                                    現・世帯主 荒川誠一氏

 吉松は、鹿島村の村政に携わり役職の多くをこなした人物で、第14代村長、荒川忠治(※9月18日付⑥を参照)の本家筋にあたる。

                  

 村会議員を合算して12年(明治22年・同25年・同28年・同40年)務め、助役(明治41年1月13日~同年2月9日)も経験している。

 村長は第8代として、明治42年7月16日から明治44年8月21日までの2年間を務めた。

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鹿島の伝説人(びと)17

2017-10-03 08:00:55 | Weblog

                                            分類:村                               フリー報道写真家 草野日出雄                                                                               大正15年(1925)~平成  年  月  日 享年  歳                                                                   いわき市鹿島町船戸字八合23

 鹿島町船戸の出身で、13歳からカメラを手にする。                                        日本写真家協会会員・日本民族学会会員・日本ペンクラブ会員・会社役員

                 

 戦後は一橋大学芝菅六教授の影響を受け、一貫して報道写真術を研鑽、昭和48年企画の「写真で綴る・ふるさとシリーズ」は昭和54年15集をもって完結し、第1回福島民報社出版文化賞受賞。                       昭和55年3月から「いわき・カメラルポシリーズ」を発刊し「首長竜のふるさと」はその第6集。

 昭和55年10月1日、郷土紹介などの功績により、いわき市長より市政功労〈教育文化功労〉者として表彰を受ける。       

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鹿島の伝説人(びと)16

2017-10-02 07:19:54 | Weblog

                                           分類:村              耕地整理に業績を残す 佐原久道                                                                   慶応4年3月~昭和5年5月29日 享年64歳                                                           いわき市鹿島町御代字赤坂9 

 佐原宗家の久次郎長男として生まれ、幼名を米次郎といった。

               

 当時の佐原家は繭の仲買をし、伊達地方より糸繰女を雇って養蚕業をし、質屋も併業していた。酒造業は明治9年の創業で、当主久次郎は鹿島村の初代村長になった。久道は平の 「室塾」 室桜関に学び、明治32年に若干31歳で福島県議会議員選挙で当選している。

 1期4年間の在任中に地元関係では鹿島地内の県道拡張工事や、御代坂の隧道(トンネル)開削工事などを行い、鹿島村の産業経済と日々の暮らしの向上に貢献したが、これは今日の鹿島全体の発展にも重要な役割を果たしたことにもなる。御代・船戸耕土の耕地整理事業を明治39年から県費負担などで起工させる原動力となり、この工事は出役することで得られる労賃で、鹿島村民の暮らしを助けた。

 村内が凶作の不幸に嘆く時も、県費助成で御代・船戸の溜池工事を施工している。鹿島に止まらず玉川地区の耕土整理にも指導の手を差し伸べ、大正時代を迎えると再び政治の場へ出て郡会議員として活躍したが、惜しくも64歳で世を去った。

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鹿島の伝説人(びと)15

2017-10-01 07:16:43 | Weblog

                               分類:村         


  鹿島小に情熱を傾けた46年 吉田正義                                              文久3年(1863)3月15日~昭和23年(1948)7月7日 享年85歳                               鹿島村大字三沢字竹ノ花7(現・いわき市常磐三沢町)


 鹿島村民を46年間に亘って教育した篤実な教育者として、明治・大正時代に学んだ人々の心に今も深く刻まれている。


                


 文久3年の生まれというから江戸時代の末期で、4年後には明治維新が訪れる。


 幼い頃より学問を好み、一時は松久須根の僧、雪心 (№5参照) の寺子屋に学んだこともあるが、殆んどは独学で学問をものにした。                                                          明治10年4月1日付で矢田小学校長を拝命、以後一貫して教職にあり明治30年に矢田尋常小学校長になった。大正11年には学制発布50年に際し、福島県内の訓導4人を文部大臣が表彰したが、その中の1人に選ばれた。


 帝国大学講堂で、大正天皇ご来臨のもとに行われた表彰式へ参列した正義を、生徒たちは 「くうじ山」 まで送り迎えして師と共に喜んだというエピソードがある。正義77歳の時に教え子で、ときの村長志賀直哉らは、鹿島小学校校庭に 「吉田先生頌徳碑」 を建立し、一代を鹿島村民の教育に捧げた翁の人徳を讃えた。


 

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