不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき市鹿島町を歩こう⑯

2015-07-31 07:04:04 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
     十六坂の由来                     場所 : いわき市鹿島町飯田十六坂

 飯田から林城(りんじょう)へ抜ける道に十六坂(写真)があります。
 地名にもなっていて場所を簡単に説明すると、常磐バイパスを走行して鹿島を通過する時に 「開成病院」 が見えてきますが、その裏の旧道に十六坂はあります。


                 《気に掛けないと素通りしてしまうような十六坂》

 昔は、もっと急な切り通しで、更にそれ以前は林城地域とは遮断されたような細い道でした。まだ矢田川の下流地帯が海浜であり、飯田地帯は相当の荒海だったようです。
 暴風雨の襲来によって逆巻く怒涛と化した日、この地内に出漁していた漁船が難破して、漁師たちの死体が打ち上げられたのが飯田の辺りで、死者が16人であったことから、それ以来この坂を十六坂と呼ぶよになりました。


                   《十六坂がある道路から見た開成病院》


        《鹿島街道から矢田川の橋を渡ると常磐バイパスで、左側の建物が開成病院》



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑮

2015-07-30 06:52:44 | Weblog
                               分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
     庚申塔        ● 鹿島町には10基の庚申塔があります。

 庚申塔(こうしんとう)は村境や三叉路に造立され、悪疫などの侵入を防ぐと信じられていました。
 中国の道教に由来する庚申信仰は、日本では室町時代に始まり江戸時代には隆盛を極めました。
 「庚申縁起」によれば、60日ごとに回ってくる庚申の夜、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が天に昇ってその人の罪禍を天帝に告げるため生命を縮められると言われました。
 人々は「講」を結んで、その夜は眠らず身を慎んで過ごし、延命招福を祈念しました。


             《常磐三沢町にある石塔


       《常磐上矢田町の石塔、文政十丁亥歳二月庚申の銘刻あり

 庚申塔の標準的な形は、病魔を追い払ってくれる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれていますが、鹿島には一基もなく「庚申塔」と彫られたものだけです。
 六本の腕のそれぞれの手には三叉戟(さんさげき)と呼ばれる三又の矛や法輪・剣・弓等を持ち、邪気を踏みつけ、足元には三猿が刻まれています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑭

2015-07-29 07:08:43 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
     階段石建造の碑
                             
                 《若宮八幡神社
                   鎮座地 : いわき市鹿島町船戸字林下65

 祭神 大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)
 16代仁徳天皇の御ことであり、同天皇は厚く仁政を布き、民に農業を奨励して国力を養い、三韓(古代朝鮮の馬韓・辰韓・弁韓)は相次いで朝廷へ貢ぎ物を献上した。大雀命(おおささぎのみこと)とも書きます。


             《この石段は老松を売却して造られた
 石段を上っていくと、中間辺りの右側に黒御影石で出来た碑(下の写真)が見られます。


           《石段が出来るまでの経緯が刻まれている石碑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑬

2015-07-28 06:51:48 | Weblog
                                           分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
    金峰山圓福寺                場所 : いわき市常磐上矢田町寺ノ作41

 宗派 曹洞宗
 本尊 上品(じょうぼん)阿弥陀如来坐像(木造寄木造)恵心僧都作
 創立 天文23(1549)年
 檀家 常磐上矢田町、鹿島町下矢田、平、小名浜、その他近隣170世帯

                   《鹿島街道から見た圓福寺の遠景》

 現在の、いわき地方を支配していた岩城氏は大舘城を大本家として、およそ四十八舘を置き、その一つに中山舘(現・中央台飯野)がありました。
 文明時代、中山領主に嗣子がなかったため大本家、岩城下総守常隆の二男を養子として迎え、中山讃岐守隆吉と名乗らせました。
 その後、隆吉は三春常盤の城を攻め落としますが、不運にも帰陣の際に流れ矢を胸に受けて落命しました。


                       《圓福寺の本堂》

 隆吉の隻袖(せきしゅ=夫人)は深く夫君の亡跡を弔うため、圓福寺の僧に追福を乞うたという記録があります。松久須根に草庵を建て、夫君の守り本尊を安置して専称庵と名付け、日夜夫君の冥福を祈りました。 享年七十五歳。

                 《歴代和尚の名が刻まれた碑は墓地内にある》

 圓福寺を開山した芳賢大和尚は、永禄十二(1569)年に六十九歳で辞世しました。
 現在の住職は圓福寺第三十二世、三田仙芳大和尚です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑫

2015-07-27 07:10:03 | Weblog
                               分類:歴
 いわき市鹿島町を歩こう  

    十九夜講の石像
 ・「講」は神仏の信者の団体、又はその集会。 「講中」はその仲間たちを意味します。

 十九夜講は、毎月十九日の夜に輪番制で決まった家に女性が集まり、安産や延命などを祈願する伝統的な行事で各部落ごとに行われていました。
 祭壇に観音様が子供を抱いた姿の掛け軸を飾り、団子やお菓子、果物を供え全員で線香をあげてお題目を唱和するものです。
 如意輪観音に南無阿弥陀仏、ナンマイダンボなどの念仏や光明真言、御詠歌、和讃等を唱えます。
◎この風習が始まったのは、江戸時代に磐城の殿様が働きずくめの女性を休養させるための方法として「十九夜」講をつくり、女性たちに外出許可を出したと伝えられています。


             《走熊(はしりくま)地区・蔵福寺境内
 十九夜様(如意輪観音)。左右の像が異なるが、両方とも女性の出産の無事と赤ん坊の息災にご利益のあることには間違いありません。大切なものを守ろうとする心根が如実に伝わってきます。

               《三沢地区・墓地の入口
 墓地から移転させたと聞きましたが、左側が平成17年に建立されたもので比較的新しく、右側が歳月が経っていているもので大切に修復されているが風化していて刻印が全く見当たりませんでした。
             
       《松久須根地区
 
             
                   《久保地区・金光寺境内

                      
      《上矢田地区・円福寺境内

 鹿島地区では12基の十九夜塔が確認されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑪

2015-07-26 06:57:46 | Weblog
                                            分類:歴
 いわき市鹿島町を歩こう       ⑪                
戊辰の役、戦死者の供養塔     
                                場所 :蔵福寺( いわき市鹿島町走熊 )

 戊戦死供養塔は正福院蔵福寺の墓地内にあり、元の鹿島村役場跡の手前を左に入って、細い道を上り切った高台です。

                   《自生した水仙の花がせめてもの慰め》

          《碑文》  慶應四辰年七月十日於字
                  七本松仙台藩五名墓

                 為戦死供養
                          走熊村中
                      明治十五年    内 発起人
                         七日建立        六名
                                  石 有志
                                       一名


 慶応四年(1868)鳥羽・伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、西軍(新政府)の勢い止まるところ知らず、同年七月十日(金)には七本松(走熊)まで進攻してきました。
 平・仙台藩は七本松地点にも砲台を設けて熾烈な戦いが行われたが、西軍は矢田川の中を密かに進んで台場の直前に出るという奇襲作戦を取り、有利な戦績を残すことになります。
 不意打ちを食らった平・仙台藩の兵は戦況不利の憂き目に遭い、仙台兵は江名港へ敗走、船で逃亡しました。
 しかし、この戦いにより絶命した兵士が五名おり、粗末な墓碑には名を刻まれることもなく、蔵福寺の一角に身を潜めるようにして存在しています。


                                 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑩

2015-07-25 07:03:58 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    ⑩     
    戊辰戦役鉋臺古跡           場所 : いわき市常磐上矢田町(鹿島神社附近)

 鹿島神社の石段を上っていく途中の右側に華木公園の白い御影石が建っていて、その奥へ 入ったところにあります。
            
                    《華木公演にある砲台跡地の石碑》
 雑草が生え繁り、何の変哲もない長方形の空間だが、真下に鹿島街道を見下ろすことができます。
 西軍(新政府軍)を迎え撃った場所で戦略的には平藩、仙台兵などの東軍(同盟軍)が地の利から言っても有利かと思われるが、いかに西軍の攻略術と勢いが優っていたかが窺われます。



                     《戊辰の役、戦死者の供養塔》

                              場所 : いわき市常磐上矢田町獺沢
    碑文 戊辰戦役無縁者霊供養塔
 鹿島街道を平方面に向かって、獺沢(おそざわ)バス停から坂を上らないで左へ下りて道なりに約1キロほど、常磐バイパスを潜って直ぐの所にあります。
 但し、個人(長瀬)宅の裏山に存在するので、訪ねる時にはその家の了承を得るのが必要です。
 慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いから端を発した戊辰戦争で西軍(新政府)は、平城を攻めるために7月10日の早朝、鹿島を経由して進攻を目論み、小名浜・御代村から直進する隊と、大原・下船尾を経て迫る隊、そして神白村から久保に抜けて進む隊の三方攻めで圧倒的な優勢攻撃を加えました。
 平・仙台藩兵は鹿島と平の境である標高85,5メートルの山頂(註・この山は後に村人から軍事山(くうじやま)と呼ばれるようになる)に要塞を設けて壕中へ身を隠してその動きを見張り、他の兵は獺沢の民家に立て籠って防備体制をしき、鹿島神社境内の山腹にも大砲を据えたが結局、西軍は民家にも押し寄せ発砲し藩兵に戦死者が出ました。
 長瀬謙氏と長瀬角次氏は昭和45年、明治100年を機会に無縁仏になった兵士の霊を慰めるために同地の裏山に供養塔を建てました。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑨

2015-07-24 06:43:11 | Weblog
                             分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  
     愛郷一道の石碑          場所 : いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内

湯本⇔江名線(県道48号線)下蔵持を通過する途中の熊野神社階段上り口右側にあります。
                《愛郷一道の石碑

 碑文 愛郷一道  厚生大臣 斎藤邦吉

 我等が郷土いわき市鹿島町下蔵持は祖先の勤行により水利の便に恵まれた地味丈豊かな豊穣の地であります。
 たゞ字里屋より宮ノ作・小部屋作・嘉睦家を経て戸ノ内から猿田に入る線又舘ヶ岡より満屋に至る両路線は明治以来の狭隘なる幅員屈曲の玉地域住民の不利不便は筆舌につくせぬものあり此が改良は父祖百年来の悲願でありました。
時偶々昭和四十三年三月大字総会に於て改良の衆議一決し万難を排し之が達成を期しました。
直に国会議員現厚生大臣斎藤邦吉先生を国会に訪ねてご支援を仰ぎ市会議員及川正枝氏同じく橋本勲氏近くは斎藤誓之助議員のお力添えをの下に大和田いわき市長始め市会等関係各機関の協力を得て昭和45年5月第一期工事着手以来数期に渉ってその全部を完成しました。
たゞ残念なのはいわきニュータウンとの計画道路との関係で猿田への市道改良は中止の止むなきに至りました。
この数年間歴代区長の尽力は勿論大字全員一丸となって達成に努力し、入作者又心から賛同してくれました。
想へば明治からこの方父祖がやろうとして出来なかったこの難事を今私達は成し遂げたのです。
又時を同じくして常磐湯本より江名港への県道も改良舗装されたので実にこの壮挙こそ郷土の夜明けであることを大喝し、この喜びを先世捧げ後昆に告げたいと思います。
尚碑初は小名浜町会川六郎氏の寄贈です。
     昭和四十九年十一月一日
   記念碑建立発起人会代表 波立徳次郎
   発起人 木田三郎 志賀三之 三島五一郎 志賀幹司 橋本清雄 佐藤信男
       国井正久 鈴木武夫 国井一郎 国井喜久                                                            
                            石工 吉田稲人


 ※裏面に寄附芳名者(四十一名)の記載あり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑧

2015-07-23 06:57:18 | Weblog
                                           分類:歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
    磐城三十三観音霊場の内 札所十七番       場所 : いわき市鹿島町走熊高寺山
     高照観音 (本尊・十一面観音)

高照観音は磐城三十三観音中で最も道程があり、登り口(下の写真3枚目)から片道20分ぐらいを要します。鹿島町地区の山では一番高く、海抜126メートルあります。

                          《高照観音堂》

     《ご詠歌》  世の中は麓にありや東泉寺、日は高寺に水はしりくま

 「東泉寺」は明治初年に廃寺になって何も残ってはいないが、観音堂の直ぐ下をよく見ると杉や雑木で鬱蒼としてはいるものの平坦地になっているので、存在していたという想像はできるかと思います。

 〈昔話〉 このお堂に1枚の絵馬が掛かっていて、その馬が毎夜のように山を境にした隣の下蔵持(しもくらもち)に出て悪さをしているという苦情があり、当の走熊(はしりくま)ではお堂に錠を掛けたところ馬はそれ以降、出なくなったそうです。
    
                《高照山十一面観世音の石碑。下の写真をUP》


                        《高照山への登り口》

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑦

2015-07-22 07:06:26 | Weblog
                                          分類 : 歴
いわき市鹿島町を歩こう    
    磐城三十三観音霊場の内 札所十六番        場所 : いわき市鹿島町久保西之作
        久保中山観音

 磐城三十三観音は、第一番を平の北目(如意山普門寺)から始まり、第三十三番の富岡町(岩井堂)で終わりますが、この鹿島町には二堂あります。
 今日は、その内の十六番札所 「久保の中山観音」 を案内します。


                     《金光寺の境内にある中山観音堂》

 《ご詠歌》・二首あり  中山と聞いてのぼりて朝日さす、森のこかげに立つは白波
             あさひがた夕日にもれし中山は、波のひびきにまつ風の音



                    《観音堂の上り口にある石碑》

 ご詠歌に「白波」とか「波のひびき」と詠われていますが現在の場所からは太平洋を見ることはできませんし、中山という地名もないのです。
 昔、観音堂は久保と神白(かじろ)の境に当たる栗木平(くりきだいら)という山地に祀られていて、この場所には今も巨石や赤松の大木が存在し、太平洋を眺望することもできます。「中山」というのは、栗木平は前後が山に挟まれていたので堂のあった所を「中山」に見立てて名付けられたようです。



              
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑥

2015-07-21 17:47:54 | Weblog

                                             分類 : 歴
いわき市鹿島町を歩こう    
    六地蔵の石碑                      場所 : いわき市常磐松久須根町

 六地蔵の石碑は鹿島神社前の信号から道なりに進んで、五安の堤(ごあんのつつみ)へ向かう途中の常磐バイパス高架下付近の道端にあります。
           

                    《苔むした巨岩の上に石碑がある》

 石碑の周りに5,6個の大きな硬質岩石が置かれていますが、これは昭和46年に道路の拡張工事が行われて六地蔵の磨崖仏が取り壊されてしまった名残のものです。
 六地蔵は像高約60センチで、松久須根駒込地内の山がせり出した場所の硬質岩に彫られていましたが惜しくも造形を失いました。
 しかし、地区内の人々の拠出金によって、同年6月吉日に現在の地に六地蔵の石碑を建てました。


                 《建設委員20名の氏名が列記されている石碑》

         〈碑文〉 昭和四十六年六月 吉日
             六地蔵尊
              松久須根町一同 建之

 残念ながら地蔵そのものは1体も見る事はできませんが、石碑の台石に使用した丸型の巨石は工事中に同地から出たものを生かしています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう⑤

2015-07-20 07:05:29 | Weblog
                               分類 : 歴
いわき市鹿島町を歩こう    
   天明飢饉の墓石                     
                       場所 : いわき市鹿島町御代

 旧、鹿島街道の御代(源太すしの脇道を入って行った左側)の山側に2基の墓石が並んで立っています。注目すべきは左側の墓石で、天明三年と明記してあります。
           
              天明飢饉で亡くなった人の墓石

〈左の墓石〉 寛政八辰二月一八日 (梵字) 壽光妙照信女 慈観妙心信女 往識實性信士
       心 天明三卯八月五日←重視箇所 
天明の飢饉で亡くなった人の墓石で、裏に置かれてあった塔婆の文字から当時の悲惨さを物語っています。
 天明の飢饉(1781~89)は、有史以来の大量死を記録した飢饉で、長期間に亘って全国で天候の不順や転変地変が続きました。人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどでした。
 特に東北地方では冷害で壊滅的被害を受け、おびただしい餓死者を出しました。
 天明三年(1783)には浅間山が大爆発を起こし、東北地方の冷害に追い打ちをかけ大凶作に拍車をかけたのでした。

            《供養の塔婆に書かれた文字がが生々しい

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう④

2015-07-19 06:43:54 | Weblog
                                             分類 : 歴
いわき市鹿島町を歩こう    
    金剛力士像
                         
                          場所 : 杉社山真浄院(すぎやしろざんしんじょういん)
                               いわき市鹿島町下矢田
           宗派・真言宗智山派
          本尊・薬師如来(像高1尺3寸)
          創立・永正年間


                《参道入口に、まさに仁王立ちしている金剛力士像》
 この金剛力士像は真浄院檀家の方で、ご夫妻の「金婚式記念」として同院入口に建てられたもので、その脇に碑文があります。

     
                      《詳細が刻まれている石碑》

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう③

2015-07-18 06:47:47 | Weblog
                                             分類 : 歴
いわき市鹿島を歩こう    
    史跡 七本松           場所 : いわき市鹿島町字鬼越83-1
                              湯本⇔江名線(県道48号線)鹿島公民館の一角
    
                       《歴史を伝える石碑》

 古くは延暦年間(西暦782年~805年)坂上田村麻呂将軍が東夷征途の折、江名へも行ける三差路(※いまは十字路)の走熊地点で戦勝を祈念して七本の松を植樹しました。
 昭和50年に道路拡張のため伐採されたのが2代目の松で、代わりに3代目として若松七本が鹿島公民館に植栽されました=写真下。

             
                    《鹿島公民館入口の左側にある》

 坂本田村麻呂将軍が七本の松を植栽した場所は、公民館そばのコンビニ「ファミリーマート」と湯本⇔江名線道路の境辺りになります。
 後に、この場所では戊辰の役にて平、仙台の列藩兵が陣を引いて、攻めてくる薩摩藩兵と激しい砲撃戦を交わしましたが、不意打ち作戦が奏功した薩摩藩兵に勝利の軍配が上がった。

           
                     《昭和30年頃の2代目七本松》


                      《同じ位置から撮影した現在》
 前がコンビニ(開業前)で、その先が、かしま病院




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市鹿島町を歩こう②

2015-07-17 06:21:42 | Weblog
                                           分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
     嫁送りの松                    場所 : いわき市中央台鹿島3丁目


                《昔は村境の山の頂上で淋しい場所だった》

 市立中央台南中学校のバス停付近に、松の木が1本植えられていて 「嫁送りの松」 と刻まれた石碑が建っています。
 宅地造成前まで、この周辺は奥深い山林で、ちょうど鹿島村と高久村の境になる場所でした。鹿島から高久方面へ山を越えて嫁に行く時には、親戚縁者や村人たちがこの1本松のある所まで送り、また嫁を迎える家の人たちもここまで来て待っていました。
 村から出ていくお嫁さんと名残を惜しんでお別れをした場所です。村の人たちは、いつの間にかその松を 「嫁送りの松」 と呼ぶようになりました。
 お目出度くもあり、悲しくもあった印象深い松だったのです。

 鹿島から高久、山口方面へ抜けるには旧、鹿島街道を通って行くと一旦、平に向かって途中の谷川瀬から迂回して行かなければならないので、遠回りで時間も掛かりました。
 このため、結いの田植えとか稲刈りとか、冠婚葬祭が生じると村人たちは獣道のような細い道でも近道としてよく利用していました。
 夜になって帰る時には必ず数人で行動をとるのが当然のことでしたが、事情があってどうしても1人で先(または後)に帰るようになってしまった人は、途中でキツネに化かされて一晩中、独り言を云いながら山の中を彷徨(さまよ)っていたという話も残っています。
 
 鹿島のYさん(故人)が、昭和30年頃に高久へ田植の手伝いに行き帰りが一人になってしまい同じような体験をしています。その時は、翌朝になっても帰宅しないのを心配した奥さんが隣近所の人たちに話をして大騒ぎになり、何人かで山に入り声を掛けていたところガサ藪をかき分けて出てきたという実話があります。
 この出来事を最後にキツネに化かされるという事例はプツンと途絶えました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする