いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

湯殿山信仰

2014-12-20 07:13:45 | Weblog
                              分類 : 歴
   鹿島の石碑を探る(23) 

 全国的に云えることだったが、鹿島でも山岳信仰が地区(村)別に盛んに行われ、無尽講による神社仏閣参拝の講中がありました。
 無尽講とは毎月一定額の金円を出し合い、それを抽選により当たった者が纏まった金円を借りることができるという方法で、言ってみれば農村の金融機関の役割を果たしていました。
 これにより参拝の講中もあり、成田山や小峯神社・伊勢神宮・羽黒山・月山・湯殿山参りに出かけて行きました。2,3人で出かけたり、地区によっては合同で講中を組んだりもしました。
               

          《 いわき市鹿島町下矢田(真浄院)

 山岳信仰は、山を崇め奉る信仰で、基本的には山そのものを指し、あるいは山にある大木、巨大な岩が信仰の母体になりました。

              《 走熊(蔵福寺)

 山を信仰することは、豊かな収穫を祈る事にあったので山ノ神は田の神でした。山ノ神が農作業の時期に山から降りてきて、田の神になるという考えも少なくありませんでした。

                  《 米田

 我が国における山岳信仰の始まりは火山系、水分(みくまり)系、葬所系の三つの型に分けて考えている。水分系というのは、分水嶺即ち水源の山に対する信仰で、農耕を営む人々にとって山は生命の源であり、かつ水害を引き起こす脅威でもあった。こうした山に対する感謝の念と畏敬の念が山岳信仰を発生させていたのである。(宗教民俗学者・堀一郎)

                  《 御代


              《 常磐上矢田町(円福寺)

 鹿島に湯殿山碑は他の地区にもありますが割愛します。
 山岳信仰の石碑は「小峯神社」「成田山」なども見受けられるが、圧倒的に多かったのは「湯殿山」でした。出羽三山の総奥の院であり、秘所であった湯殿の信仰は、山形に限らず東北各地、そして越後や北関東まで広がり、江戸時代の丑年御縁年には参詣者が15万人もあったと言われています。
  《おまけ》 山形市史によると、山形市にある「湯殿山の石碑」の数は291基あるそうです。


                     鹿島の石碑を探る (了)
  

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鹿島小120周年記念碑

2014-12-19 06:52:24 | Weblog
                             分類 : 歴
  鹿島の石碑を探る(22)          
                     場所 : いわき市立鹿島小学校
                          いわき市鹿島町走熊字中島1

鹿島小学校が開校したのは明治6(1873)年ですが、当時は金光寺境内(久保)の啓蒙小学校と神宮寺(上矢田)の成徳小学校の二つがありました。
▲鹿島小学校の関連ブログ= 「 鹿島の石碑を探る(10)」 及び 2009/7/17、 2009/7/16、2009/4/28

           
    すくすくと   創立120周年記念   創立百二十周年に寄せて                
         贈 平成5年度卒業生一同
                      校長 鈴木 平 書  鹿島小学校PTA



                《 鹿島小学校 正門前


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大杉の案内銘板

2014-12-18 07:35:57 | Weblog
                               分類 : 歴

  鹿島の石碑を探る(21)場所 : 鹿島神社境内(いわき市常磐上矢田町)

 現在の「鹿島町」(旧・石城郡鹿島村)という地名ができたのは、由緒ある鹿島神社からです。
 鹿島神社は、延喜式神名帳に載っている磐城七座の一社で大杉はその境内にあります。
▲鹿島神社の関連ブログ=2008/12/15 2010/8/10



             《境内に聳(そび)え立つ大杉


             《保存樹木に指定の案内板


               《案内板の奥に見えるのが大杉
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一圓融合

2014-12-17 07:47:02 | Weblog
                               分類 : 歴

 鹿島の石碑を探る(20) 場所 : ① いわき市鹿島町下蔵持(熊野神社入口)
                     ② いわき市常磐上矢田(鹿島神社本堂内)

 一圓融合の4文字を端的に説明するのは難しいが、「受くるところを上としてその徳に報い、授くるところを子としてその徳を慈育する。それは徳をもって徳に報ゆるとする孔子の語に合致する。人徳をもって万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に報徳生活は人道の原則であり一圓融合によって万象が生々発展し開闢し来たった天道自然の真理に立脚すると解したのである」(報徳生活の専門研究実践家、佐々井信太郎)」と記してあり、ここから概要を知ることができる。昭和初期の不況風は全国津々浦々を襲い、特に農村漁村の被害がひどかった。

           《 ① 熊野神社の入口左側が一圓融合の碑

 鹿島村も例外ではなく、不況と共に村内の世相も激しく揺れ動いた。
 こうした時期に村長に就任(昭和9年2月)したのが志賀直哉だった。荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土を建設するには、報徳仕法によることが最善と決意し、自ら大日本報徳社に出向いて報徳精神の真髄を体得して帰村したのでした。


            《 ① 幟(のぼり)旗の支柱に刻まれている 》 

      
         《 ② 石碑ではないが松を輪切りにして彫られた文字

 写真(上)は、名木七本松(参照:鹿島の石碑を探る№7)を輪切りにして、鹿島神社に奉納された銘板。
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戊辰の役碑(走熊)

2014-12-16 07:45:57 | Weblog
                               分類 : 歴

  鹿島の石碑を探る(19)       場所 : 蔵福寺 墓地内
                               いわき市鹿島町走熊

 蔵福寺の墓地内にあるが分かり難いので説明すると、墓が並んでいる端は人が通れるくらいの道?(スペース)があるので、そこを道なりに奥まで進んでいくと右側の高台にあります。
 別のルートで行くには元、鹿島村役場があった跡地の手前を左に入って、細い道を上り切った所の高台左手側にあります。

  

        碑文     
  慶応四辰年七月十日於字
     七本松仙台藩

    爲戦死供養

   明治十五年七月建立 走熊村中 内発起人六名 石有志一名
                               
 慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、西軍(新政府)の勢い止まるところを知らず、同年7月10日(金)には走熊の七本松まで進攻してきた。
 平・仙台藩は七本松地点にも砲台を設けて熾烈な戦いが行われたが、西軍は矢田川の中を密かに進んで台場の直前に出るという奇襲作戦を取り、有利な戦績を残すことになる。
 不意打ちを食らった平・仙台藩の兵は戦況不利の憂き目に遭い、仙台兵は江名港へ敗走、船で逃亡した。
 しかし、この戦いにより絶命した兵士が5名おり、粗末な墓碑には名を刻まれることもなく、蔵福寺の一角に身を潜めるようにして存在しています。

                             

 
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圓福寺歴代和尚 碑

2014-12-15 07:01:49 | Weblog
                            分類 : 歴

  鹿島の石碑を探る(18)    場所 : 金峰山圓福寺                                                                       
                         いわき市常磐上矢田町

 鹿島街道を平方面から走行していくと、鹿島神社の手前右側の高台に大きく立派なお寺が見え、圓福寺の看板も確認できます。
     
             《同寺の歴代和尚名が刻まれている

 曹同宗の金峰山圓福寺は地元の上矢田をはじめ、平、小名浜、その他近郊に多数の檀家がいる。同寺は歴史が古く、今のいわき地方を支配していた岩城氏(文明1~18年) -西暦1469~1486- 年は、大舘城を大本家としておよそ48舘を置き、その1つに中山舘(飯野村)があったが、中山領主に嗣子がなかったため大本家の岩城下総守、常陸の2男を養子として迎え、中山讃岐守隆吉と名乗らせた。
 隆吉の死後、跡目を継いだ隆朝(右衛門太夫)は、磐城大本家の菩提所である上荒川龍門寺大和尚の勧めで、天文23年甲寅(1554)年に居城を上矢田に移し、菩提所「大中山圓福寺」もまた上矢田の金ケ峯へ移して伽藍を建立し、隆吉の守り本尊であった十一面観世音を安置し、山号を金峯山と改めた。
 また、同寺にある山門は寺誌によると、宝暦年代(1751~1764)に存在し、幅が9尺(約2m800)×8尺(約2m500)あり、現在の山門は昭和12年3月茅葺き屋根を瓦葺きとする際、復元された。

     
          《碑文は小高い墓地を上り観音像の前にある

 金峯山圓福寺開山、大亭芳賢大和尚は永禄12(1569)年に96歳でなくなっている。

     
                  《金峰山圓福寺

 因みに、32世(現住職)は、三田仙芳大和尚です。

     
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戊辰の役 碑

2014-12-13 07:28:52 | Weblog
                              分類 : 歴

  鹿島の石碑を探る(16)  場所 : いわき市常磐上矢田町獺沢(おそざわ)

 鹿島街道の「オソ沢」バス停から坂を上らないで左へ下りて、道なりに約1キロほど行き、常磐バイパスを潜って直ぐ右側にある家の裏山にあります。
 但し訪ねる場合は個人宅の裏山に存在する為、その家の方から許可を頂く必要があります。

        〈 碑文 〉 戊辰戦役無縁者霊供養塔

           
 慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いから端を発した戊辰戦争で西軍(新政府)は、平城を攻めるために7月10日の早朝、鹿島を経由して進攻を目論み小名浜・御代村から直進する隊と、大原・下船尾を経て迫る隊、そして神白村から久保に抜けて進む隊の三方攻めで圧倒的な優勢攻撃を加えた。
 平・仙台藩兵は鹿島と平の境である標高85,5メートルの山頂(註・この山は後に村人から軍事山〈くうじやま〉と呼ばれるようになる)に要塞を設けて壕中へ身を隠してその動きを見張り、他の兵は獺沢の民家に立て籠もって防備体制をしき、鹿島神社境内の山腹にも大砲を据えたが結局、西軍は民家にも押し寄せ発砲し藩兵に戦死者が出た。
 同地区に住む2人が昭和45年、明治100年を機会に無縁仏となった兵士の霊を慰めるために同地、裏山に供養塔を建てた。
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六地蔵 (松久須根町)

2014-12-12 06:09:21 | Weblog
                                           分類 : 歴
   鹿島の石碑を探る(15)              場所 : いわき市常磐松久須根町

 鹿島街道にある、鹿島神社前の信号(T字路)を曲がって道なりに進んでいくと常磐バイパスの高架橋が見えてきますが、六地蔵の石碑はその高架下付近にあります。

            
                          
 石碑の周りに5、6個の大きな硬質岩石が置かれているが、これは昭和46年に道路の拡張工事が行われて六地蔵の磨崖仏が取り壊されてしまった名残です。
 六地蔵は像高約60センチで、松久須根駒込地内の山がせり出した場所の硬質岩に彫られていましたが惜しくも造形を失いました。
  しかし、村内の人々の拠出金によって同年6月吉日に現在の地に六地蔵の石碑を建てました。
 残念ながら地蔵そのものは一体も見ることは出来ないが、石碑の台石に使用した丸型の巨石は工事中に同地から出たものを生かしています。

         

                    昭和四十六年六月 吉日
                   〈碑文〉 六地蔵尊
                           松久須根町一同 建立
                                ※下に21人の寄付者の記名があります。
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天明の飢饉 墓石

2014-12-11 06:50:17 | Weblog
                               分類 : 歴
  鹿島の石碑を探る(14)       場所 : いわき市鹿島町御代字柿境

 鹿島街道を小名浜方面に進んでいくと船戸信号の先に「源太すし鹿島御代店」があります。そこから左側の旧道に入った所(写真の車が停車している左)に2基の墓石が並んでいます。
         
          《旧、鹿島街道でこの先を行くと八坂神社がある》

         
               明和元甲年十二月九日
               清雲道光信士
           梵字 霜月妙知信女 霊
               明和四▲年十一月五日

               寛政八辰二月十八日
               壽光妙照信女
           梵字 慈観妙心信女
               往識實性信士
             心 天明三卯八月五日 ←重視箇所
               ▲▲七年二月二十二日


 注目すべきは写真右側の墓石で、天明三年と明記してあります。正に天明の飢饉で亡くなった人の墓石です。
 天明の飢饉(1781~1789)は、有史以来の大量死を記録した飢饉で、長期間に亘って全国で天候の不順や転変地変が続きました。人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどでした。
 特に東北地方では冷害で壊滅的被害を受け、おびただしい餓死者を出しました。天明三(1783)年には浅間山が大爆発を起こし、東北地方の冷害に追い打ちをかけ大凶作に拍車をかけたのでした。


             
 墓石の裏に置かれた塔婆の文字からでも当時の悲惨さが痛切に感じ取れます。


      咽喉広大飲食充満
     恐怖悉除離餓鬼趣
     唯身土己心弥陀

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若宮八幡神社(船戸)

2014-12-10 06:43:16 | Weblog
                               分類 : 歴
  鹿島の石碑を探る(13)      場所 : いわき市鹿島町船戸字林下65

          
               若宮八幡神社

          
  若宮八幡神社の石段を上って行くと、中間辺りの右側に黒御影石で出来た碑文があります。

          
 
             この石段が完成するまでの経緯が刻まれている。
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十一面観世音

2014-12-09 06:59:03 | Weblog
                                           分類 : 歴
  鹿島の石碑を探る(12)         (磐城三十三所観音)
                               場所 : ①いわき市鹿島町久保(金光寺境内)
                                    ②いわき市鹿島町走熊(高照山頂上)

 磐城三十三観音は、第1番を平の北目(如意山普門寺)から始まり、第三十三番の富岡町(岩井堂)で終わりますが、三十三観音の内、この鹿島だけで二堂あります。
              

                         ① 十六番札所 中山観音
      〈御詠歌〉二首あり
     ・中山と聞いてのぼりて朝日さす、森のこかげに立つは白波
     ・あさひがた夕日にもれし中山は、波のひびきにまつ風の音


                  
                       《 中山観音上り口にある石碑 》  

            
                          ② 十七番札所 高照観音
      〈御詠歌〉
     ・世の中は麓にありや東泉寺、日は高寺に水はしりくま
     ▲東泉寺は観音の別当だったが現存していない。


            
                    《 高寺観音へ登り口の石碑 》
                               
            
                 《 高照観音石碑(上写真)のアップ 》
                      

           
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鹿島小学校発祥の地

2014-12-07 06:14:20 | Weblog
                                          分類 : 歴

  鹿島の石碑を探る(10)     場所 : ① いわき市常磐上矢田町(鹿島神社鳥居付近) 
                              ② いわき市鹿島町久保(金光寺の境内)

                              
 上記の場所に全く同じ鹿島小学校発祥の地という石碑が建っています。
 昔、その場所に現在の鹿島小学校の前身である小学校があったからです。
 いわき市鹿島町は、明治22年以前までは12の村がそれぞれ独立していたので教育施設も数か所に分かれていました。
明治6年に小学校が義務教育として発足し同年、久保村金光寺に啓蒙小学校、上矢田村神宮寺に正徳小学校が設置されたのです。
 ▲神宮寺は鹿島神社下に現存しますが廃寺になっています。


      〈 碑文 〉 鹿島小学校発祥の地

              
                                

     
                                

 校名の「啓蒙」や「正徳」は中国の古典からとって名付けられています。
 それまでは、一般庶民の教育は「寺子屋」で行われ、師匠となる人は僧侶が最も多く、次いで武士や神官でした。しかし、小学校は出来たといっても実情は財政上の問題から校舎を新設するほどの余裕が無かったために、暫くの間は寺子屋や塾などを改造、依存していたようです。
 その後、双方の学校は校名を変えたり、移転したりと幾多の変遷を経て昭和9年10月に走熊字中島1番地に木造平屋建て瓦葺き校舎が造られました。
 昭和54年、同地に待望の鉄筋コンクリート3階建て新校舎が完成し、そして平成25年には鹿島小学校創立140年を迎えたのです。





     
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石工の碑

2014-12-06 08:27:47 | Weblog
                                           分類 : 歴

                                場所 : 正福院 蔵福寺
  鹿島の石碑を探る(9)                  いわき市鹿島町走熊字坪下28
 

                
            《境内から鹿島ショッピングセンターが見下ろせる蔵福寺》

              
 仙台出身の石工が、各村(当時)の賛同者を得て、石碑が建てられているというのは珍しい。
 発起人の1人が小名浜村大原の人であるのも不思議に思えてくる。
 生前、よほど信頼があって、鹿島一帯の石工事に長年携わっていた人物だったのだろうと想像はつくが事故死なのか、病死なのか、詳しい銘文が刻まれていないのが残念で、今となってはその解明は難しい。
 ただ、走熊地域に石碑が建っているという事は、この地で絶命したのだろう。


              

       〈碑文〉              (賛成者)       (発起者)
                      久保  鈴木清太郎  走熊  箱崎善之丞
    仙台出身石工        飯田  永井 文弥  走熊  白土松太郎
 故 佐藤清蔵之碑       飯田  永井熊太郎  大原  鈴木 丑松
    大正五年八月建立    飯田  赤坂與三郎
                      走熊  箱崎 利助
                      下蔵持 国井 梅吉
                      船戸  草野常五郎 
   

           
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金剛力士像

2014-12-05 08:12:08 | Weblog
                               分類 : 歴

  鹿島の石碑を探る(8)    場所 : いわき市鹿島町下矢田字大作138

   
       《 真言宗智山派 真浄院

             
 金剛力士像は、真浄院(寺)の檀家のご夫妻が「金婚式の記念」として同院入口に建立したもの。像の左脇に碑文が見えるが、それをアップしたのが下の写真です。

                     
 

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史跡七本松

2014-12-04 10:05:03 | Weblog
                               分類 : 歴
    鹿島の石碑を探る(7)       場所 : 鹿島公民館
   いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1
   電話 0246-29-2250

 史跡七本松が元々あった所は、近くのコンビニ、ファミリーマートがある辺りで道路の路肩に並んで植えてあった。
 昭和50年に道路拡張のため伐採されたのが2代目の松で、代わりに3代目として若松7本が鹿島公民館に植栽された=写真下。

             
        《公民館の敷地内にあり、前の道路は江名=湯本線


 「七本松」という地名は現在でも残っています。
 古くは延暦年間(西暦782年~805年)坂上田村麻呂将軍が東夷征途の折、江名へも行ける三差路(註・今は十字路)の走熊地点で戦勝を祈念して7本の松を植えた。


    
            〈碑文〉
            史跡七本松移転の碑
                   福島県知事 木村守江・書

 (裏面) 史跡七本松は古くより地域住民に親しまれてきたが常磐江名港線道路改良工事により移転せざるを得なくなりこの史跡を後世に永く保存するため50m東方の地点より現在地に移転したものである。
      昭和50年3月

   鹿島地区区長会
   史跡七本松保存会

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