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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき市営船戸団地

2018-04-30 07:49:13 | Weblog

                               分類:観                                      鹿島町を見て歩こう(59)         いわき市鹿島町船戸地区                          

  いわき市営船戸団地                            船戸団地は、新産業都市建設計画の中のベッドタウンとして最初の候補地に選ばれて、市との人たちとの協議を重ねられていった末に市営住宅の建設が決まり、昭和40年から本格的な造成工事が始まりました。                                                                                                         その頃、船戸は古来14戸の農家集落でしたが、先祖伝来の山を崩し、畑をならし、田を埋めて地勢は著しく変化していきました。                                                                                                                   《旧・船戸団地の近隣に新築された新たな船戸団地》

 周辺には商店ができ、給食センターができ、更に団地が増築されて発展の一途を辿ったのですが、最初に建てられた団地は老朽化が進んで取り壊しになりました=写真下の左が当時の団地でした。

                               《旧・船戸団地》          《解体され姿を消した跡地》

 いわき市では、平成16年度に国土交通省の事業採択を受け 「鹿島町船戸地区」 に於いて、平成16年度から平成19年度までの4ケ年で、 「まちづくり交付金」 を活用して,市営住宅船戸団地の建て替えが行わました。                                          《旧・船戸団地の近くにPC造3階建ての公営住宅船戸団地も1~6号棟まであります  

                                                                                             

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十六坂という名のいわれ

2018-04-29 06:47:28 | Weblog

                              分類:観                                 鹿島町を見て歩こう (58)        いわき市鹿島町飯田字十六坂                        十六坂という名のいわれ                                      鹿島街道にある岩薬師 (平成20年に市文化財に指定された久保磨崖仏) の交差点から飯田方面へ行き、常磐バイパスを突き抜けて突き当りの道を左折して100mくらいの所に十六坂はあります=写真。 この坂道を越えて行くと林城、玉川方面になります。                                                                                               《漁師の死体が打ち上がったとされる十六坂》


 古くから伝わる 「十六坂」 の謂(いわ)れは 、むかし大暴風雨の襲来によって、飯田地区も逆巻く怒涛と化したある日、この地内に出漁していた漁船が難破して漁師たちの死体が打ち上げられたのが、この坂の辺りで死者16名であったことから、それ以来 「十六坂」 と呼ぶようになったと伝えられています。 


 現在の坂道は勾配が緩く道路幅があり、一見なんの変哲もない坂道なので、ここを通過しても気か付かないで素通りしてしまいそうです。                                                   昔、矢田川の下流地帯は海浜で、この飯田地帯は相当の荒海でした。 海であったという証拠は堆積した粘土質の田圃を2メートルも掘ると、海砂や海棲の貝殻が出てくる事でも分かります。また、隣の地域名は 「船戸」 と言いますし、その隣の 「御代地区」 では貝塚が発見された所で有名です。


                         《いわき開成病院前(飯田)から鹿島街道へ行く道・突き当りが岩薬師》

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鹿島街道(旧道)の思い出

2018-04-28 06:38:53 | Weblog

                               分類:観                                   鹿島街道を歩いてみよう(57)      いわき市鹿島町下矢田地区                      鹿島街道(旧道)の思い出                   
 
鹿島町の旧道を小名浜から平方面に向かって撮りました。                         
この辺りが下矢田地区と走熊地区の境になるところです。 童謡 ♪村の外れのお地蔵さんは……でも分かるように昔は部落ごとに地蔵堂が建っていて、それが境界を表す標の役割を果たしていたり、余所村からの疫病除けとして守ってもいました。                                                                       この写真から左側約100mほど隔てたところに鹿島街道が並行して伸びていて、右にはいわきニュータウンの一部が高台に見ることができます。道の前方、左寄りに白三角形をした建物が見えるのが村松歯科です。
                                                          《旧・鹿島街道の白坂バス停があった付近で、赤い屋根が見える所は地蔵堂》


 昭和40年代までは道幅が狭く、舗装されていなかったので雨が降ると泥濘(ぬかるみ)、日照りだと埃が舞い上がり難儀する道路でした。                                                                                       


〈旧道に関するエピソード〉                                        小学6年の時の思い出ですが、平に洋画専門の 「ひかり座」 という映画館があって、そこで映画を観ての帰りで私は暗い夜道を走るバスの中にいました。丁度この辺り(写真)に差し掛かった時にバスの運転手が「すいませんが一寸お待ちください」と言って外へ飛び出していったのです。                     外は真っ暗でヘッドライトが照らしている前の道だけしか見えません。乗客の1人が心配になって「こんなとこで運転手は何をしているんだ?」と呟きながら立ち上がって前を確認しながら「道端でションベンしてらぁ」と言ったので5,6人いた乗客は一斉に笑いだしました。                                                    ……と、その時です。運転手がいないのに少しずつ動き出したのです。惰性が付いて徐々に早くなってきたので、みんな笑いから悲鳴に変わりました。バスは右寄りに動いているのでこのままでは田圃に落ちます。それに気付いた運転手が慌てて駆け寄ってきましたが飛び乗れません。                  みんな顔面蒼白になって、もはや一巻の終わりという場面に遭遇した瞬間、後部座席にいた40代の男性が機転を利かせてブレーキペダルを踏んだのでした。                                                          いま思い出しても、背筋が寒くなるほどの恐怖感を覚えた経験をしました。                                                                              《昭和初期に鹿島街道を走った乗合バス 道悪と砂埃をご覧あれ


                                                   

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戊辰戦関連の石塔を見る

2018-04-26 06:52:30 | Weblog

                                              分類:観                                     鹿島町を見て歩こう (56)         《鹿島町全域》   
    戊辰戦関連の石塔を見る                                                          慶応4年(1868)1月に鳥羽・伏見の戦いで始まり、6月16日には早くも薩摩・佐土原・大村の三藩の西軍兵が平潟港 (茨城県) に到着し、上陸を開始しました。                                 7月10日(金)には走熊にある七本松 地点まで進攻してきて、平・仙台藩はそこで砲台を設けて熾烈な戦いが行われましたが、西軍は矢田川の中を密かに進んでくるという奇襲作戦をとったために有利な戦績を残すことになります。

                                                                                                                 《蔵福寺(走熊)墓地の隅にある供養塔》

 不意打ちを食らった平・仙台藩の兵は戦況不利の憂き目に遇い、仙台兵は江名港へ敗走し船で逃亡しました。しかし、この戦いにより絶命した兵士が5名おり、粗末な墓碑には名を刻まれることもなく、蔵福寺の一角に身を潜めるようにして存在します=写真上。                                         《碑文》 慶応四辰年七月十日於字 七本松仙台藩 爲戦死供養                   走熊村中 明治十五年 七日建立 内 発起人六名  石 有志一名                                                 《長瀬宅の裏山にある石碑=獺沢(おそざわ)》

  獺沢地区の2名が昭和45年に、明治100年を機会とし無縁仏となった兵の霊を供養するために同地に建てたものです。

                               《鹿島神社の右手にある戊辰戦役砲台古跡の碑》 

     石碑には、戊辰戦役 鉋臺跡地 と刻まれています。

 

        

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三代目の七本松

2018-04-25 06:44:46 | Weblog

                                            分類:観                                 鹿島町を見て歩こう(55)   いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1(鹿島公民館敷地内)                        三代目の七本松                                               七本松は、江名港⇔湯本線(県道48号)の鹿島公民館敷地内にありますが、この松は三代目になる若松で二代まではその場所から100mほど離れた所にありました。                           古くは延暦年間(西暦782年~805年)坂上田村麻呂将軍が東夷征途の折、江名へも行ける3差路(※いまは十字路)の走熊地点で戦勝を祈念して七本の松を植樹したのが最初です。                                                                                    《三代目の松は鹿島公民館入口の左側にある》

 昭和50年に道路拡張工事のため伐採されたのが二代目の松で、代わりに三代目として若松七本が鹿島公民館に植栽されました。                                                                         《昭和50年の福島県知事・木村守江書》   《昭和12年の福島県知・伊藤武彦書》

              《2代目七本松(昭和49年当時の写真)、同50年には道路拡張のために伐採されてしまった》                                                                   

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殿様が泊った薗部家の門

2018-04-24 06:48:05 | Weblog

                             分類:観                                           鹿島町を見て歩こう         
                          いわき市鹿島町下矢田町前原                              殿様が一泊した薗部家の門                                
   幕政時代に平の殿様が馬に乗って、平から上矢田村へ来たところで獺沢(おそざわ)の長瀬家で休息をとった後、下矢田の薗部家で一泊した史実は、その時に手土産として頂き両家に残されている色紙や書き物などによって証明されます。                                               
 
 ・長瀬家では 「たらよう」 の木1本と安藤公の祖先である松平覚海公御筆の和歌を認めた2枚の色紙。                    ・薗部家では 「たらよう」 の木1本と 「白もみじ(楓)」 1本を贈り、更に書き物を1枚。       
         
                                         
平の殿様という表現は口伝によって知られているのですが、年代を確定する資料や殿様が誰であったのかを決定づける物証を得られないのは残念です。只、「たらよう」 の木が植樹されてから後の育ち具合(※現在ではどちらも枯死して存在しない)から推定して、文化11年(1812)に就封した安藤対馬守信義侯か、又は文政12年(1829)に就封した安藤対馬守信由侯あたりだろうとされています。                                                                                         《殿様が通った門の原型を保持して造られた門》


 下矢田の名主薗部家には、殿様ご来駕の情報は早くから家臣より達しを得ており、次の条件など細部に亘って準備を求められたそうです。                                                        ①殿様専用の通用門を建てること。                                                   ②殿様の泊まる部屋の続き間に槍を立てておける高さの部屋を用意すること。                          ③殿様専用の厠(かわや=トイレ)を一間四方(約3,3㎡)の広さに造り、その厠の中と、そこへ通ずる       廊下には畳を敷くこと。


 通用門は名残りとなるものですが、現在の通用門(写真)は、当時の原型をそっくり再現して造られているもので、賢固で迫力のあることが往時を偲ばせます。

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日吉神社と三沢館跡

2018-04-23 06:25:44 | Weblog

                                             分類:観                                      鹿島町を見て歩こう(53)        いわき市常磐三沢町字日吉下66                                  日吉神社と三沢館跡                                                祭神 : 大山昨命(おおやまくいのみこと)                                                     素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子で穀物の守護神といわれ、別名を大年神、あるい                        は山末之大主神ともいう。

 昔から三沢館(みさわだて)と呼ばれてきた所がありましたが、常磐バイパスがこの付近を通るようになって磐城国道事務所の委託を受け、財団法人いわき市教育文化事業団が遺跡の調査を行った結果、幾つかの住穴や土穴、土坑などが見つかりました。                                                                          これを学術的な呼称としては日吉下遺跡といいます。                                               南から北に延びる丘陵先端部に位置して主峰の標高は48メートル、麓から主峰までの比高差は約37メートルで、丘陵北側の眼下に三沢川が東流しています。                                                                              《 日吉神社 》

 場所的には常磐バイパス(国道6号線)と、湯本⇔江名港線(県道48号線)が交差する地点の至近距離にあり、山林と日吉神社の境内に位置していました。                                                                検出遺物には国産及び船載陶磁器、土器、白銅製端花双鳥五花鏡、泥塔などがあります。                         平安時代に三沢の地になぜ、戦争に備える館が必要であったのか、実際に合戦があったかどうかは不明ですが、恐らく平時は辺りの集落で農作業をしていた人々が、いざ合戦となるとこの館に籠って攻め来る敵と戦ったのでしょう。                                                  遺物から三沢館の機能した主要時期は15世紀と考えられ、館主は四家氏と言われています。

                        《高台にある境内から常磐バイパスが見下ろせる》

常磐バイパス(国道6号線=写真)の下に、江名港⇔湯本線(県道48号線)が走っており、左上の黒                                                            く映っている山の付近が 「鹿島ショッピングセンターエブリア」 辺りになります。 

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宝篋印塔がある金光寺

2018-04-22 09:56:35 | Weblog

                                            分類:観                                          鹿島町を見て歩こう(52)       いわき市鹿島町久保字西ノ作                          宝篋印塔がある金光寺                                            金光寺にある(ほうきょういんとう)は、木造で国内で最古とみられていて、平成27年5月1日に いわき市指定文化財 に指定されました。                                       法印篋塔は逆修塔と追善塔の2基で、いずれも高さが90㎝で塔には鎌倉時代の「文保」(1317~1318年)の文字が記されており、14世紀前半の作品ではないかと推定されています。                                                                                                    《木製では国内最古の木製宝印塔》

 中世墓研究の第一人者である公益財団法人元興寺文化財研究所副所長の狭川真一先生は、「非常に珍しいもので重要文化財級」と高く評価しています。                                        塔のルーツはインドにあり、元は釈迦の墳墓で、やがてさまざまに装飾され、国内では五重塔や小仏塔などとなっているが木造で、しかも現在に残っているというのは稀だそうです。                                                             《宝篋印塔のある金光寺》

   金光寺 宗派:高野山真言宗  本尊:聖観世音菩薩  住職:箱崎亮弘師(当山96世)                                                           

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くうじ山

2018-04-21 09:46:10 | Weblog

                             分類:観                                          鹿島町を見て歩こう(51)       
                     いわき市常磐上矢田町 (旧鹿島村)                            追い剥ぎが出た「くうじ山」                                                  写真(下)の右側道路は鹿島街道で、獺沢(おそざわ)バス停から平方面を見た風景ですが、昭和40年初期に郷ケ丘ニュータウンの宅地造成によって突き当りの山は中央から右が削り取られ道路も大幅に広がりました。                                        昔は、山の頂上が鹿島と平の境界で約50メートルの洞門(トンネル)があって、明治の中頃には  「追い剥ぎ」 が巣食っていて暗闇が訪れると数人の男たちが洞門の中に寄り集まり、男根丸出しで焚き火に手あぶるしながら通行人を脅して金品を巻き上げたという話が伝わっています。その山というのがくうじ山です。                                                                                                                    前方の山が「くうじ山」の1部だが、立て看板から右側は開発されて跡形もない


 くうじ山の由来は、慶応4年(1868)の戊辰戦争の時に、列藩側が軍事上の作戦拠点として要塞を築き抗戦した山というところから軍事山と呼ぶようになり、長い間の口伝によりくうじ山に訛ったものです。              この昼なお暗い、細くて急な坂で難儀していた山を切り割り道路にしたのは明治30年前後らしくて、工事に当たった土方(土木作業員)は遠地から来た土方職人と、近郷の農民たちによって構成されていた。                                                                                            《約50人ほどの部屋人夫が寝泊まりした坂下にあった民家》


 官選知事、三島通庸(みちやす)が在任した時に、平~小名浜間の道路(今でいう鹿島街道)が県道に指定されたといわれますが、当時のことですから、県道指定による道路改良とはいっても、荷馬車が通行できる程度のものでした。


 

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いわき市暮らしの伝承郷

2018-04-20 07:55:39 | Weblog

                                           分類:観                                          鹿島町を見て歩こう㊿        いわき市暮らしの伝承郷                                                                                   いわき市鹿島町下矢田字散野14-16                                                                                                                    ☎ 0246-29-2230                                                             いわき市暮らしの伝承郷                                               鹿島街道の 「渡辺ゴム」 と「タックルベビーいわき店」  がある信号のT字路を上がっていき、1つ目の信号を右折してその左側が、いわき市暮らしの伝承郷です。                                 地域的には、いわき中央台の県立いわき公園内に存在します。                                                                                                   《いわきニュータウンの閑静な場所にある伝承郷》

 企画展示室では月に半分くらいの日数で、企画展や催しが行われているので 気楽に立ち寄ってみるのもよいかもしれません。                                                       ちなみに、最新の催し物としては次のようなものがあります。                                 市民による展示 「彩・創・遊・美展」 4月21日~4月24日 主催団体:伊藤順子グレースアート教室                                                                     特別展 「古民家の模型展パート4」 会津下郷町の大内宿を中心に日本各地の古民家模型 4月28日~6月10日                                                                                  年中行事 「端午の節句飾り」 4月下旬~5月中旬 

 △入館するには観覧料が発生します。 一般320円、高・高専・大学生210円、小・中学生170円         ※団体、市内在住の65歳以上の人、などの詳細については直接お問い合わせ下さい。

 開園時間:9:00~17:00(入園16:30まで) 4月~9月の期間   休園日:毎週火曜日

  

                                                                                                                                                    

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御代(みよ)の大仏さん

2018-04-19 06:24:10 | Weblog

                                          分類:観                                        鹿島町を見て歩こう㊾         いわき市鹿島町御代字寺ノ入                          御代の大仏さん                                                   市指定有形文化財(昭和43年12月27日)                                           所有者:光西寺                                                 俗称 「御代の大仏」 とか、雨ざらしのことから 「ぬれぶつさま」 という呼称で親しまれていますが、正式には「銅造阿弥陀如来坐像」といいます。像の高さが3,45メートルですが仏身だけだと2,8メートルで、大仏の坐る蓮華座の直径が2,93メートルです。                                                                      《銅造阿弥陀如来坐像》 

  当寺の和尚だった禅法は、宝暦2年(1752)に江戸へ出て人々から浄財を集め、13年後の明和2年(1765)、江戸神田の鋳物師、木村将監たちによって制作が始められ、2年後の明和4年(1767)に完成しました。                                                                 禅法和尚は完成前に上州高崎で毒殺されたという説があるので、実際には着手から完成までの工程を見ていないことになります。像の完成後の運搬にも相当苦労したようで、江戸から小名浜までは海路で運ばれましたが船は小名浜沖で難破し、浜へ持ち上げられた大仏を御代まで運んだというのです。         安置されたその年が安永5年(1776)と伝わっています。

                                                                     《光西寺の山門》 

 寄進者は僧や庶民2,371人にものぼり、地元は勿論、信州、越中など幅広い地域に亘っています。            昭和48年9月に寺総代の人たちによって修復されました。                                     平成23年(2013)3月11日に起きた東日本大震災では、大仏の頭部が落ちたときもありました。

 鎌倉長谷寺の大仏を髣髴とさせる御代の大仏は、幾多の苦難を経て静寂な光西寺の境内に、石積みの基壇の上で優しく見守ってくれています。                                                     鼻筋が通って面長で、なで肩のハンサムなお姿を拝顔していると、自然に心が癒されます。                 

 

 

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市営御代団地

2018-04-17 08:03:39 | Weblog

                            分類:観                                                 鹿島町を見て歩こう㊽                                                                                    《御代地区》   いわき市鹿島町御代柿境                                         市営御代団地                                                 鹿島街道(御代)にある「ヤマダ電機テックランドいわき店」から矢田川に向かった通りにある団地で、鹿島では隣接する船戸団地に継ぐ市営の団地です。                                                                                              《日中は余り人の気配を感じない閑散としたした建物群》

 鹿島地区は、昭和40年代に新産業都市建設計画の中のベッドタウンとして着目され、古来農家の集落だった所が俄かに活気づきました。                                               山を崩し、畑をならし、田を埋めて地勢が一変したのはこの頃からでした。

                  《この通路は常時車が停まっている》      《初期の頃に建築された市営住宅》

    

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五安の堤(つつみ)

2018-04-16 08:05:46 | Weblog

                           分類:観

 鹿島町を見て歩こう㊼     所在地 : いわき市常磐松久須根町字五安   
 五安(ごあん)の溜池                               
  鹿島街道の鹿島神社前にある信号を曲がって(平方面から来た場合は右折)道なりにどこまでも進んでいくと松久須根(まつぐすね)地域になります。 人家が途切れた先に 「五安の溜池」 はあります。 ※この先を行くと山道が続き、常磐の水野谷(三沢トンネルがあるところ)へ出ます。 地元の人たちは単に堤と呼んでいて、農業用の貯水池として活用しているものです。              
             貯水量3万トンを擁する五安の堤 
旧、鹿島村当時は大字松久須根でしたが、昭和28年の小名浜町と湯本町への分散合併等により現在では、常磐松久須根町になっています。 当時の資料によると、鹿島の12地区には合計32の堤(溜池)があり、五安の溜池が村内第一の大きさを誇っていました。これは現在でも変わりありません。  元は五安の溜池の貯水量は1万トンでしたが、他地区までの流水が困難だったために昭和39年、国・県・市の補助を受けて改良し、貯水量を3万トンにまで引き揚げることに成功しました。 しかも溜池の周囲は遊歩道で囲まれ、観光の隠れたスポットになりましたが近年、その人気は高まり人でも多くなってきました。駐車場があり、遊歩道は一周約1,5kmほどで途中に5か所の四阿(あずまや)があって、散策には四季を通してお薦めのコースです。
           《のどかな雰囲気が漂ってくる溜池からの眺め
 溜池から見下ろす部落の眺めや、季節によって味わえる草花(ミズバショウ・アヤメ・ヤブカンゾウ・リュウキンカ・桜など)を見ながら遊歩道を歩くのは家族連れにも最適といえるでしょう。

               五安の溜池、案内図 

      
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復興公営住宅,下矢田団地

2018-04-15 06:27:22 | Weblog
                             分類:観                                   鹿島町を見て歩こう㊻     
                          いわき市鹿島町下矢田榎木内                                               
下矢田団地(復興公営住宅)                                                  
 
県道26号、小名浜・平線(通称、鹿島街道)沿いに、平成29年8月に完成した 「下矢田団地」 があります。 復興公営住宅で、鉄筋コンクリート造りの5階建てで入居数は50戸です。
 この団地は、平成28年2月に造成工事が着工され約1年8カ月を要して完成しました。                                                            
下矢田団地の全景。・手前の道路は鹿島街道

 

 立地条件が良く、直ぐ近くには 新常磐交通下矢田バス停・いわきタクシーグループ報徳観光バス車庫・コンビニ(ミニストップ、ローソン)などがあり、車で5分も走ると鹿島ショッピングセンターエブリアや、いわきニュータウンのドン・キホーテへも行けます。                                                                 《団地内にある集会所》  
 内装の仕上げ材は木材を使用し、集いの場として温かみのある空間が創られています。

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鹿島神社の大杉

2018-04-14 06:50:40 | Weblog

                                               分類:観                                 鹿島町を見て歩こう㊺    《常磐上矢田地区》  場所:鹿島神社境内                                                        いわき市常磐上矢田町花木下
         鹿島神社の大杉
 △鹿島神社は、延喜式に記載されている市内の神社(磐城郡七座・並小)の一つに数えられ、祭神は武甕槌命(たけみかずちのみこと)です。                                           延喜式内社で、創建は神護景2年(西暦768)とあります。 この鹿島神社の境内には、いわき市の 「保存樹木等指定」(指定日:昭和58年12月) になっている1本の杉の大木があります=写真。                       樹高:31,6メートル  幹囲:3、5メートル  ※計測は昭和58年当時のものなので、実際には更に伸びていると思います。 
       
                                        《天に向かって聳え立つ大杉》

 大杉は、しなやかな紐上の葉が特徴で、積雪地帯の日本海沿いに全国へ広がったウラ系スギで、日本固有の樹木です。                                                         案内板によると、下枝が欠落しているのは明治以前の子供たちが木登りをして遊んだ影響があるのではないか……。と記されています。                                       

    《鹿島神社の鳥居。写真の左側に鹿島街道あり》     《神社手前にあるのが大杉》

   

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