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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

「一圓融合」 は村是だった

2018-09-13 06:28:59 | Weblog

            《熊野神社上り口にある一円融合の石柱》

                                                                                
 分類・歴
                                                                      
                場所  いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2


   郷土愛の意識を高めた4文字熟語                                       
  写真(上)の石柱は、江名港~湯本線(県道48号)沿いにあるものです。一圓融合」 の4文字は、鹿島地区地域振興協議会のスローガンとロゴマークとして地域の発展のために使われていますが、この 「一圓融合」 に関しては古い歴史があります。


 昭和9年から同17年までの2期(第16、17代)を、鹿島村(当時)村長を務めた志賀直哉は、荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土をつくるという発想から村民に意識を促すために広めた言葉でした。 昭和初期は全国的に大不況に見舞われ、特に農山漁村の影響はひどく鹿島村もその例外ではなく、不況と共に村内の世相も激しく揺れ動いていた時です。               
      《鹿島神社に奉納されている、名木 「七本松」 から作られた銘板》


 銘板には 一圓融合 奉納 鹿島村振興委員会 と彫られています。 一圓融合」 の4文字を簡潔に説明することは難しいので、その一部に触れると「人徳を以って万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に、報徳生活は人道の原則であり一円融合によって万象が生々発展し・・・云々」と述べられています。 志賀直哉(村長当時)は旧、鹿島小学校校舎玄関前に円形に12本のシュロの木を植え、その中央部に二宮金次郎少年期の像(背に薪を負い本を読んでいる)を配した造園の発想をし、村内12大字全体の不況脱却と融合を願いました。 また、二宮金次郎像を中央に配したのは、児童たちが金次郎にあやかるようにとの念願を込めての建立でした。

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大津絵と鹿島の替え歌

2018-09-12 06:36:10 | Weblog

               《猫と鼠・大津市歴史博物館蔵と鬼の念仏・個人蔵》                                                                                                                                        分類:地

 大津絵(別名、追分絵とも呼ばれる)は、元禄(1688-1704)の頃に大津の追分(おいわけ)辺りで売り出され仏像、民間信仰、伝説などを描いた絵で素朴な味わいがあります。
 それらの絵を売るために、題材に併せて歌い込まれたのが大津絵節ですが、文句も節も面白おかしいと云うので各地で、その土地の名物や名所を読み込んで替え歌が作られ、全国で流行りました。
 これにより大津絵というと、簡素な筆づかいで描かれた絵よりも、一般には「唄」の方で浸透していったようです。

 旧・鹿島村でも明治の頃に、当地の地名や名所古跡を織り込んだ替え歌が作られました。
 漢学者でもあり、鹿島小学校に46年間奉職したという吉田正義 (※人物詳細は2017・10・1付ブログ参照) の作と云われています。                                                     ▲歌詞の下に棒線(ー)を引いてあるのは鹿島の地名。  旋律 (メロディー)は、大津絵節による。

 ♪軍次山(くうじやま)から 熊が出て
  矢田らに走る 走熊
  名所七本松 後にして
  久保みて通れば 今光寺
  船も着かぬに 船戸という
  それより御代の 大仏様拝みつつ
  御代坂越えれば 岡小名で
  向こうに見ゆる 遍照院
  大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院

 ♪夕暮れに 小名浜を立ち退いて
  水押し上(うわ)って あとにして
  東の法華寺 拝みつつ
  西の山田湯場 横に見て
  御代坂登って 大仏様遥拝し
  それより船戸 岩薬師拝みつつ
  久保の里屋橋 通りぬけ
  名所七本松 あとにして
  走熊へと さしかかる
  次は 下矢田 上矢田
  郷社鹿島神社に参拝し
  それより進めば 軍次山
  越せば 上荒川と谷川瀬で
  平町 日光町に着きますよ

 ♪三沢の里へも 一度はおいで
  名所古跡もありますよ
  磐城七門一の向かいに
  三沢の館あとあり
  その上に 八幡公の陣どりし跡に
  八幡神社の祭あり
  それより西の作に 宗任貞任の石碑あり
  この作を 霊墓(おきはか)作という
  その上に 母の小屋掛けせし山を
  小屋の山という
  その下に 母の祈願所 薬師堂
  それより奥を 花見平という
  昔 平の城主 安藤信正の
  花見せし所とか
  越して小名浜海上眼下に見え
  眺望すこぶる絶佳なり
  それより西に下れば
  小野谷村に 程近し

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十九夜さま

2018-09-11 06:17:55 | Weblog

                             分類:地歴 
   安産と子供の無事な成長を願うもの                                      ① いわき市鹿島町走熊(蔵福寺境内)                              ② いわき市鹿島町久保(金光寺境内)                              ③ いわき市鹿島町米田                                  
④ いわき市鹿島町下矢田(真浄院境内) 
                              ⑤ いわき市常磐松久須根 

▲鹿島町(一部、常磐地区も含む)には総計26の十九夜塔(像)があります。
 十九夜講は現在でも行われているところがありますが、その儀式としては2月や9、10月の19日に如意輪観音や延命地蔵の石仏や掛け軸などを礼拝します。 また、講員は車座になって和讃を唱え、大数珠を回しながら大数珠の房が回ってくると頭を下げて祈ります。数珠を回す回数は33回、100回などで、炒った豆や小銭で回数を数え数珠繰りが終わると、各自が身体の悪いところを数珠でさすります。                                                                この十九夜講を行う場所は、村の家を順番制で宿にして飲食をするような所もありました。村に嫁として入ってきた人たちの親睦や、きつい農作業から解放される休息日としての機能も果たしていたようです。                                                               如意輪観音像は以前、墓域に建てられ戒名が刻まれ亡くなった女性や子供の戒名が入った供養像であったようですが、近世中期より寺院の境内や、お堂に安置されるようになり、戒名に変わって「 講中 」の文字が刻まれるようになります。                                                                                                   それによって 《 十九夜 》 という文字を刻んだ文字塔が一般化していきました。      
▲裏面に 『 當寺 女中安全 昭和五十二年二月一九日 建立 』 と刻まれている。
                                                                       
                  ⑤          

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岩薬師のある山は空洞

2018-09-10 06:25:35 | Weblog

                              分類:地歴 

                
いわき市鹿島町久保字薬師前                               


     実は家屋の土台や石塀に使われていた                             鹿島町の久保と船戸の境界にある岩薬師は、その名の通り岩山の壁面に磨崖仏が彫られています。長い年月の間、風雨に晒されて風化していく危険性はあるものの、当初からの原型は保たれているものとし、磨崖仏は平成21年に市指定文化財に指定されました。                                                                                                《岩山の中は石が伐り出されて空洞になっている》                                                                      本来、この地には薬師堂(元禄年間頃)があって近村の人々が厚く信仰していましたが、お堂が朽ち果てて無くなってしまっても岩に彫られた薬師像が残っているので、地元民は「岩薬師」と呼ぶようになりました。                                             岩薬師がある小山全体は、凝灰岩の薄い黄色味を帯びた白で、比較的に風化されやすい質なのでで細工には向いておらず切り石の形で用いられていました。                                   今でも古い家屋の土台石として使用されているのを見かけます。その他には、石塀や漬物石などにも使用されたようです。      《風化が進んで、このままではやがて原型を止どめなくなるのではと心配される薬師像》


  ▲久保の磨崖仏についての関連記事は、2018/03/04参照。                        

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大仏さまの頭が落ちた日

2018-09-09 06:22:43 | Weblog

                           分類:地


                熊野山光西寺   いわき市鹿島町御代字寺ノ入44                                         


   今から7年6ケ月前に起きた東日本大震災は、地震・津波・原発事故、挙句の果てに風評被害にまで遭い、また、 どこもかしこも想像を絶する光景を見せつけられました。                       鹿島地域は浜通りとはいっても山間部に属しているので、津波の影響こそ受かませんでしたが、それでも道路は隆起し家屋の屋根は崩れ落ち惨憺たるものでした。                            特に250年以上も前に安置された御代の大仏の頭部が落下してしまった現象を見た時には、大きな衝撃を受けたのを鮮明に覚えています。                                                 《俗称 「御代の大仏」 も、とんだご難に遭ったがもう大丈夫》                                               


 「御代の大仏」、つまり「銅造阿弥陀如来坐像」は光西寺の境内にある市指定有形文化財(昭和43年12月27日指定)で、像の高さが3,45mですが仏身だけだと2,86mで、大仏の坐る蓮華座の直径は2,93mです。 


                    《地震で首から落ちた時の大仏さん》       《春日灯籠も粉々になった》


                              《東日本大震災が発生した頃の山門で、奥に石灯籠が倒れているのが見える》


  ▲御代の大仏についての詳細は、2009/4/1付の当ブログ参照。

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貴重な財産だった農業馬

2018-09-08 06:40:45 | Weblog

                   《走熊地区の農道に立つ馬頭観音の碑》                                                                                               分類・地歴

 いわき市鹿島町は、昭和28年10月までは 「鹿島村」 で以降、小名浜町となり昭和29年3月に磐城市(上矢田・松久須根・三沢は常磐市に編入)となり、昭和41年10月に「いわき市鹿島町」(前述の3地区は、いわき市常磐)になっています】の馬匹数を調べてみると
          明治 2年   牝124頭  牡15頭  合計139頭
          大正 元年                    118頭                  
          大正13年                    177頭
          昭和 7年                    177頭 この年の全戸数による平均                                                                                    的な馬の頭数は0,6戸に1                                                                                                   頭の割合になる。          
          昭和17年                     89頭
          昭和20年                    120頭 ・・・というデータがあります。                                                                                                     《真浄院(下矢田)にある馬頭観音》        《金光寺(久保)にある馬頭観音》


  昭和の初期まで馬は農家の財産で、人と馬は運命共同体として大切に扱われ賄いは嫁か長男が行い、しかも人よりも早く餌が与えられました。
 その馬も発作的な腹痛からくる死や、背に荷物を積んで山越えの途中で絶命したりで飼い主を悲嘆させることも数々ありました。
 馬頭観世音の碑は、旧鹿島には今でも各所に見られますが、矢張り急な坂道のような場所にひっそりと建っているものが多いようです。
 馬の行路安全を祈願して建てられたり、急死した場所に供養の意味を込めて建てられたのです。

   昭和30年代に至っては馬から牛へ代わった事情や、農耕機械化・化学肥料の普及などにより、昭和55年には鹿島からは馬の姿が完全に消えてしまいました。
 これは鹿島に限らず、全国どこでも共通の現象だったと思います。

                                                                                       

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バイパス(6号)飯田付近

2018-09-07 06:31:38 | Weblog

            《昼間はスムーズに流れるバイパス》                                                                                                                      分類・地

                             場所 : いわき市鹿島町飯田八合 付近
 
 常磐バイパス(国道6号線)=写真は「久保」側の歩道から撮ったものです。
 右側が鹿島町久保地区で左側が飯田地区になり前方が平(たいら)方面、手前が勿来(なこそ)方面になります。                                                                                      左に見える大きな建物が「いわき開成病院」です。遠景に米田(こもだ)地区にある「鹿島ショッピングセンターエブリア」と「ヨークベニマル」の看板二つが見えます。                                                   《逆に平方面から勿来方向を撮った写真だが断続的に車の増減がある》


 このバイパスは、勿来(四沢)を起点にして平(神谷)方面へ抜ける道路ですが写真の風景は平日の午後2~3時頃なので丁度、車の往来が少ない時間でしたが朝夕の通勤時間帯には渋滞します。
  

        《米田(江名港⇔湯本・県道48号)から、常磐バイパスへ上下する信号口》


 写真上の平坦になっている部分が常磐バイパスで、右が平方面、左が勿来方面になります。


 
  
   
   

   

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来春ケーズデンキが進出

2018-09-06 08:26:28 | Weblog

                             分類:商


                    場所 : いわき市鹿島町船戸字京塚3-1


   ケーズデンキいわき鹿島店」 を出店計画            
 昨日(5日)は鹿島公民館の講堂でケーズデンキ(小売業者:株式会社デンコードー)の、いわき鹿島店出店計画に係る地元説明会がありました。                                      
  午後3時からと午後6時からの2回に分けて、店舗所在地区の住民に出店計画の内容を説明して理解と協力を求めるものでした。この地元説明は大規模小売店舗立地法第7条第1項の規定に基づいて行われたものです。                        
《以前にあった店舗の解体工事が始まった=手前は鹿島街道》


 立地場所は鹿島町船戸の鹿島街道沿いの旧・開放倉庫(RAKU2)があった所で、付近には「ラーメンの山岡家」、「車のガリバー」、「シュープラザ」などがあります。                                               届け出した事項によると、店舗面積は4,755㎡で駐車場の収容台数221台。


 ケーズデンキは全国に約500店舗を有し、いわき市内には現在で、いわき本店(平谷川瀬)・勿来錦店(錦町徳力)・小名浜店(大原字甲新地)の3店舗があります。


   
                                                       
《正面から見た解体工事現場


 ケーズデンキが鹿島街道に既存する電化製品の大型量販店 「コジマ」 や 「ヤマダ電機」 と肩を並べることで、価格競争の激化が予想され利用者には有難い。 
また、暫くの間、休眠状態だった空地が再活用されることによって、ネーブルシティかしま(いわき鹿島商店事業所)がスローガンとしている、「いわきのネーブル(臍=へそ)」 の活性化にも益々拍車が掛かることに期待もあります。
        

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矢田川から湯ノ岳を望む

2018-09-05 06:09:33 | Weblog

                    《矢田川から湯ノ岳の遠景を望む》                                                                                                            分類・地

  晴天の日に、澄んだ空気の中で見る湯ノ岳の姿は美しく清らか

 鹿島街道の船戸交差点を右(平方面から来た場合)に折れて、小名浜野球場と矢田川公園のある川土手を左に進んでいくと御代、相子島、大原を経由して、矢田川も愈々下流となり、その先は湯ノ岳を源流とする藤原川と合流する地点に近付きます。

 湯ノ岳は、かつては信仰の霊山であり僧侶たちが修業する場所だったといわれます。 
 考古学者でもあり、鹿島村(当時)20~21代村長をも務めた八代義定は御代地区が生家であり、書斎の窓から遠く湯ノ岳の山頂が望まれることから、その書斎を「残丘舎」と呼んでいました。家の周囲が小山に包まれた八代邸からは、湯ノ岳は写真のように稜線を見ることは出来ませんが、霊験新たかな湯ノ岳の頂が僅かながらにも望めたことが八代義定の人生にとって、どのような思いとパワーが噴出していたものか、もし存命であれば真っ先に訊いてみたいところです。

 八代義定宅に先輩がいたので、子供時代には家に遊びに行って残丘舎に入ったり、直接本人に会ったりしたのを覚えていますが、何しろ小学5~6年生の頃だったので話す機会が得られなかったのが残念です。
 
            

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鹿島街道の旧道と新道

2018-09-04 07:10:11 | Weblog

          《新道に沿って、旧道は歩道として存在している》

                                                                 分類・地

 
鹿島街道(新)の小名浜~平間を走行すると、新道が直線的になったために旧道とは大幅にかけ離れて隠れてしまった道と、双方が寄り添うように何処までも並行している道とがハッキリ判ります。
 上の写真は下矢田地区の 「美光ガソリンスタンド」 から 「カサノ特級保険」 の間で、右側が旧道(※現在は歩道)、左側が新道(車道)の共存共栄? で、新旧の役割分担を果たしていると言えます。 久保、走熊地区は完全に新道とは離れてしまい、下矢田地区とは言えども写真以外の道路は殆んどが新道との間に距離があります。             《左が御代の旧道で昔、酒蔵があった附近。右の車が走っている道が鹿島街道の新道》


 旧道時代には、道はどこも山際にへばりつくように曲がりくねって伸びていたので、平や小名浜方面へ徒歩で行く場合には最短距離の矢田川の土手沿いや山道を利用していました。 当時、鹿島農協(現・福島さくら農業協同組合鹿島支店)を起点にして平まで二里半(10km)、小名浜へ一里半(6km)と云われていたので現在の〈総キロ数が13km〉と比較すると3キロほど距離が短縮されていることになります。


 目的地が見えるのに中々たどり着けない村道を 『近くて遠いは田舎の道、遠くて近いは男女の仲』 と、母親の例え話を聞きながら、よく歩かされた子供時代が懐かしい。 昨日のブログと関連しますが、昭和3年頃には鹿島の旧街道を幌付乗合自動車が車体を軋(きしま)ませながら走っていたということを思うと著しい時代の変遷を感じます。   

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田舎のバスはガタゴト走る

2018-09-03 06:08:04 | Weblog

                            分類:地歴


   中村メイ子の ♪ 田舎のバス を思い出す                               〝鹿島村(当時)にとって偉大な開花であった〟と 「鹿島郷土誌」 に記されているように、悪路を走行する乗合自動車が現れたことは画期的な出来事でした。                         鹿島の旧街道に実際に乗合自動車が走り出したのは昭和3年に入ってからのことで、運賃は平から七本松(走熊)までが20銭、小名浜までが40銭でした。支那そば(ラーメン)が10銭、映画10銭の時代だから自動車料金は安くはなかったようです。                写真(下)の地形と背景から推察すると、走熊と下矢田の付近で 「白坂」 というバス停があった ところのようです。                               
      《旧、鹿島街道を走行していた頃の乗り合いバス=昭和7年》


 昭和30年に、中村メイ子が歌ってヒットした流行歌 「田舎のバス」 が彷彿として甦るシーンです。                                           ♪ 田舎のバスはオンボロ車                                                                              デコボコ道をガタゴト走る                                                                    それでもお客さん我慢をしているよ                                                            それは私が美人だから……。                                こんな感じのコメディソングでした。写真とは時代的に差異があり、車掌もいませんでしたが、悪路で車が傾き、車体を軋ませながら走る姿は歌のイメージとどこか類似しているような気にさせます。


                                                                                                          《フォード車製の同型車》                        


   鹿島の旧街道を乗合自動車が走り出したのは昭和3年で、車種は米国製のシボレー(当時2,700円)やフォードで幌付きの定員7人乗りでした。                        ところが、実際には定員の倍の14人位を乗せたようで、運転席へ2人、乗合席へ6~7人、側面のステップ台に2人、後方へ2人だから、運転手を含めて14人が乗れたのだそうです。                       《いわき駅前から発車する、現在の鹿島経由の新常交バス》

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チコちゃんに叱られる!

2018-09-02 06:12:02 | Weblog

                           分類:PV                                              素朴な疑問に大人が答えて叱られる                               超おませな5歳の女の子にタジタジの大人たち。
 毎週金曜日に放映される、NHK番組の 『チコちゃんに叱られる!』 が面白い、と小耳に挟んだもので1昨日(31日)はその時間帯にテレビの画面に目を遣った…… が、残念ながらプロ野球の実況中継で見られなかった。月が明けた1日の朝番でやっているのが分かり観ました。                     なぜ 「くしゃみをすると誰かに噂されているというの?」 とか 「大仏様のおでこから出ているアレは?」 とか 「なんで子どもは〈うんち〉が好き?」 というような、素朴な質問をぶつけて生半可な答えを出そうものなら、チコちゃんに 「ボーっと生きてんじゃねーよ!」 と一喝される。どうやらこれまでになかった番組の意外性を突いた斬新さに人気の秘密がありそうです。                                                                                     
《主導権を握っているのは、5歳のチコちゃんなのが受ける原因!?》


 レギュラー出演の岡村隆史やゲスト出演者に物怖じせずに、チコちゃんの顔が突然真っ赤になったと思ったら 「ボーっと生きてんじゃねーよ」 のセリフが飛び出してくる。                  一喝した後にチコちゃんが正解を言い、更に専門家に取材をしたVTRを流してその問題を掘り下げていくという構成で、他局に類のない番組であると感じました。 


                            顔の表情が常に変わるところがぬいぐるみとは違うところで、出演者と一体になっているような錯角を起こさせる画面も製作者のテクニック。 ※写真は「チコちゃんに叱られる!」(NHK綜合)から。             


   クイズ番組はどこのTV局でもやってはいるが、どれも似たり寄ったり。お決まりの雛壇に大勢(10数人?)のタレントを寄せ集めて問答を交わすのだが、本質的には芸能人に自分をアピールさせるための場を与えてやっているようなもの。誰もがカメラ視線を意識して、自分にカメラを向けられると慌ててアクションを起こしたり、大騒ぎするという、タレント売り場的な番組と思えてしまうのです。                                         結果、どういうクイズが出されて、正解が何であったかが頭の中にインプットされないまま、バカ騒ぎの余韻だけが残り疲れてしまうというのがオチです


 チコちゃんは5歳の女の子で、どんな解答者にもはっきりモノを言うキャラが人気の元と思われます。生身の人間が演じるとこれまた反感を持たれ即、非難の的になってしまうでしょう…… きっと。                            視聴者はチコちゃんだからこそ安心して容認し、自由な姿を見ていて普段大人では面と向かって言えないことをチコちゃんが代弁しているようで、むしろスッキリした気持ちになれるのだと思いました


 

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鹿島の新名所になるか?

2018-09-01 06:30:52 | Weblog

                           分類:地


                         場所 : 鹿島街道 (いわき市鹿島町久保)                                    
  
       棕櫚(シュロ)と松の木、の合体                                           いわき市の商都・平と、国際港を抱える・小名浜、を直結する鹿島街道は、地域経済の大動脈と言われています。                                          一部区間を除いて大半の区間は4車線・全幅員25mの快適な道路で、しかも温暖で風光明媚なところです。その気候風土をアピールして街路樹にはシュロの木が植栽されています。                              《鹿島街道の側道に整然と並ぶシュロの木》


 昨日(30日)、この歩道で偶然に友人と会いました。行き先が反対方向なのと、暑さもあって長話はできませんでしたが、ふと傍にあるシュロの木の1本に目が止まりました=写真下。                         「何、これ?」 私が言うと、友人も驚いて傍によって凝視していたが 「松が実生で張り付いて、そのまま育っているんだろうね」 と言いました。 


                                       
《よく見ると、シュロの木から松が生えている》


 この歩道はよく通るのですが、街路樹の1本、1本を見ている訳でもないのでこれまで全く気付きませんでしたが、これが知れ渡ると、『鹿島のシュロ松の木』 なんて呼ばれて、ちょっとした名所になるんじゃないのかい? などと言って大笑いしました。


                    《シュロと松の付け根をアップしてみる》 《松はドライバーに手を振っているようだ》


 蛇足ですが、昨日(31日)の ふくしま五七GO(NHK綜合)で放映して頂きました。                             歩道から シュロと松との コラボかな


 


 


  

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