いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

ちょっと淋しいかな!?

2013-12-24 06:49:16 | Weblog
                                        分類・催 

 半世紀以上も前の話になるが、子供たちは登校途中に冬の田んぼで、籾殻を燃しているところがあるとそこへ寄っていき、かじかんだ手を暫し暖めた。
 ♪もういくつ寝るとお正月~ と誰となく歌いだし、普段は何の楽しみもない日常生活から正月が早く来ないかと待ち焦がれていたものだった。
 お雑煮や煮〆のご馳走にありつけるし、正月に学校へ行くと年によって変わるがミカンとか紅白の素甘(餅菓子)がもらえた。
 今はどうだろうか、毎日が盆と正月を迎えているようなもので、食べたいものや欲しいものがあるとコンビニやスーパーへ駆け込めば簡単にその目的は叶えられてしまう。 便利になったと云えばそれまでだが、ハングリー精神の欠如によって抱く夢や希望も薄らいできてはいないだろうかと思うと、ある意味で淋しい気もしてくる。

 22日は冬至だったし今日はクリスマス・イブ。
 長いようで短かったのか、短いようで長かったのか、その人の判断で異なるが1年というスパンに変わりはない。外に出ると周囲の雰囲気からして気忙しさを実感するようになってきた。
             
              《残すところ今年もあと僅か。どこの店も活気づいている》

 夜の鹿島街道を通って何となく薄暗いので物足りない感じを受けたがその理由はスグに分かった。
 例年11月中旬から翌年の1月下旬まで鹿島街道の風物詩として親しまれていた光と音のページェント「ペットボトルツリー」が姿を消したからだ。
 使い捨てのペットボトルを集めて多数の団体が個性のあるツリーに仕立て上げ、リュースファンタジーとして街道沿線に点灯させるイベントだった。
    
   《ファンタスティックだった夜の電飾ツリー》        《昼はその存在感を誇っていた》
 
   12月24日(火) クリスマス・イブ    一白 友引  旧暦11/22
 

【今日という日の過去】
 クリスマス島「発見」 安永6(1777)年 英国の冒険家キャプテン・クックが3度目、最後の太平洋探検航海の途上、赤道直下の珊瑚礁の島を「発見」。
 ウミガメが多数生息するこの島を、上陸の日にちなんで命名した。

 
 
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お寺の證文発見と経緯

2013-12-09 12:04:57 | Weblog
                               分類:歴

                   浄土宗光寿山浄延寺立正院
                   いわき市小名浜岡小名字前原前7-1

 いわき奉仕団の引率者(先代会長蒲生伸吾氏が眠り、現・当奉仕団長谷川顧問)が住職の浄延寺に本来なければならない貴重で且つ重要な書類の原本が発見され、本年11月20日に行われた奉仕団主催の 「歴史と音楽の集い」 の中で小野佳秀さん(現・いわき市教育文化事業団の非常勤講師)は、講演予定の 「小野歴史講座」 を 「浄土宗光寿山浄延寺立正院旧蔵文書の変換について」 に急遽変更して講演した経緯(いきさつ)がある。

 小野佳秀さんについては今さら書き述べる迄もないが、いわきに対する教育文化と歴史の貢献度は顕著で 『いわき市史』 全巻13巻(15冊)の編纂に携わったのを始めとして、いわき市暮らしの伝承郷館長を勇退するまで、長年に亘って地元いわきの歴史研究を積み重ねてきた既成事実は否めない。
 その小野さんが、ある日、神田の古本屋を巡り歩いている時に同古文書に出会ったそうだ。=写真

         
       《仏像の作者や本堂の寄付金などについて記名捺印されている

 正徳5(1715)年2月12日に、浄土宗名越派総本山専称寺二十二世良無上人より先師良称菩提供養のため、岡小名村(現・いわき市小名浜岡小名)浄延寺への金子寄附覚書である。

 小野さんは、いま声帯に支障を来たして発声が困難にも拘わらず、筆記や手話の方法で精力的な活動をされているが、1日も早く元の状態に復帰されてユーモアのある話術で独自の講座を再開して欲しいと願っているファンは多い。
 詳しいことは年が明けて、1月7日に「鹿島歴史の会」例会で同氏の「嫁穡の神・澤村勘兵衛」と題しての講演が待たれる。

12月9日(月)    六白 大安  旧暦 11/7


  【今日という日の過去】
 夏目漱石が死去 大正5(1916)年 文豪夏目漱石は胃潰瘍が悪化し、東京の自宅で死去した。49歳。朝日新聞に連載中の長編小説「明暗」は未完となった。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「門」「こゝろ」などの作品は今日も国民的愛読書になっている。

 
     
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御影石に人面が現れた

2013-12-07 13:33:37 | Weblog
                                         分類・PV

 人の顔のように見える石を一般的に、人面石とか人面岩と呼ばれているが、頭の形をした固体の石ではなく御影石の床板にあるのを見つけた。

        
                  《見ている内に人の顔になってきた!!》

 鹿島街道を走行中に生理的現象をもよおし、と-ある店のトイレを借用した。
 狭い空間の中で用を足している時間、足元に張られている大理石の床板を凝視していたら、人の顔に似ている紋様がくっきりと浮かび上がってきた。
 それも複数あって色々な表情をしているので 「これは珍しい」 と思い、一旦店を出たものの車からデジカメを取り出して、また同じトイレに飛び込んだ。その時のものが上の写真。


             
                  《写真を手描きにすると、こんな感じ?》

 誇大妄想と思われても仕方ないが、自分では想像力がそのように見させたものと思ったし、今でも当時の写真を取り出して見るとそう見えてならない。
 写真がどのように見えるか、その部分だけをスケッチしてみたが、果たして納得して頂けるかどうか。

 12月7日(土)    八白 先負  旧暦11/5
 

  【今日という日の過去】
貧乏人は麦を食え 昭和25(1950)年 池田隼人蔵相は国会答弁で 「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような経済の原則に沿った方へもっていきたい」 と述べた。
 野党席は騒然となり、これが 「貧乏人は麦を食え」 発言として有名になった。
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小川江筋が分かるパンフ

2013-12-05 18:07:07 | Weblog
                           分類・歴

 現在、いわき市教育文化事業団の非常勤講師を務める小野佳秀さん(元・いわき市暮らしの伝承郷館長)は澤村勘兵衛勝為生誕400年を記念してパンフレット作成の編集等に携り、この程完成させた。 
 発行は、いわき市の磐城小川江筋改良区だが 「A4判4ページ」 カラー印刷で、小川江筋の開削に尽力し稼穡 (かしょく→穀物の植え付けと取り入れ。耕作、農事、農業) の神として崇められた澤村勘兵衛に関する資料が網羅され、その理由や歴史などが詳細に記された貴重なものとなった。 =写真


     
     10項目に分けて小川江筋の必要性を説明してある

             
           小川江筋からの受益地域が色分けで示されている総今昔図  

 澤村勘兵衛勝為 慶長18(1613)年~明暦1(1655)年
 磐城國(いわき市)平藩主、内藤忠興の家臣・藩の郡奉行の時、管内耕田灌漑の要を感じ、自己の俸禄500石のうち300石を資として、小川江堰を築き約1000町歩に灌水した。
 また、忠孝仁義の志であったが部下の不正責任を負って罷免され、切腹を命ぜられた。この勘兵衛の功を徳として明治9(1876)年12月、澤村神社を建立。大正4(1915)年11月10日贈位。従五位。

◆いわきの夏(お盆)の風物詩 「ぢゃんがら念仏踊り」 は、勘兵衛の一周期に江筋を利用している農民たちが草野の光明寺に集まり、霊を慰める念仏踊りを行ったのが始まりと言われている。当時の農民が如何に江筋の恩恵を受け、勘兵衛に感謝していたかが分かる。(いづれもパンフレットの記事から引用)

 パンフレットの問い合わせ 磐城小川江筋土地改良区 電話 0246-25-3561


 いわき総合図書館(ラトブ5階)は、来年1月18日まで企画展 「澤村勘兵衛400年  絵図でみる小川江筋」 を開催している。   
               
 
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