いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき市鹿島町を歩こう47

2015-08-31 07:08:53 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  47
                    所在地 : いわき市鹿島町走熊字小神山

  小神山(こがみやま)交差点
 鹿島街道の小神山交差点は、平⇔小名浜(県道26号)と、江名港⇔湯本(県道48号)が丁度交差する場所で、ここを中心に四方のどちらへ行くにしてもほぼ同じ距離であると云えます。まさに、いわき市街の中心地なのです。
 この地域一帯は、昭和40年代までは一面がまだ田圃でした。


         《小神山交差点付近から江名・豊間方面に向かって撮影

 鹿島街道が開通すると、沿線には忽ち各事業(商業)が進出してきて急速的な発展を遂げてきました。車両が増え始めたのに伴い、当時(昭和54年)17時から18時までの1時間にどの位の車両が通過するかを調査したところ、上下線合わせて1,656台であったという記録があります。 〈参考資料〉 鹿島郷土誌

             《小神山交差点から湯本方面の風景

 鹿島商店事業所会」が、平成元年に 「ネーブルシティー鹿島」 を設立し、地域の交流と社会参加に積極的な活動を行っていますが、このネーミングには 『鹿島は、いわきの中心(へそ)となる町ですよ』 というメッセージが込められていて、大局的に見ていわき全体を指していますが、鹿島町そのものも地理的な側面から小神山交差点はネーブル(へそ)になっています。

        《鹿島街道と、江名・湯本線が交差する場所にある地下歩道
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いわき市鹿島町を歩こう46

2015-08-30 07:12:37 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    46
      尋常小学校への道             場所 : いわき市鹿島町走熊字鬼越

 明治時代の鹿島小学校は12ケ村に三つあり、校名も場所もめまぐるしく変わりました。
 明治6年6月、鹿島町久保 (当時は久保村) の金光寺を借り受けて久保、飯田、上・下蔵持の生徒男14名、女2名の総計16名を抱え啓蒙小学校が開校しました。
その後、久保小学校、下蔵持小学区、蔵持小学校と改称されて、明治13年に火災によって焼失。
 成徳小学校 (後の矢田小学校) は、明治6年に上矢田村神宮寺に開校し明治7年、下矢田村の真浄院に移転し矢田小学校に改称されました。ここに米田、走熊など全部で六ケ村の児童が通うようになりました。
 御代、船戸の両村は住吉村 (現・小名浜住吉) の銑心小学 (旧・住吉小) へ通学していました。

 《七本松附近に残る尋常小学校への上り口(左)》 ※右の直進道路は江名⇔常磐線(県道48号) 写真は、その当時の 「蔵持小学校」 へ上る名残の道で、この上が校舎でしたが現在は個人宅なので無断で進入することは出来ません。

 明治14年、矢田小は下矢田村字細作の新校舎に移転し、明治16年、蔵持小は以前の校舎に校舎を新築移転しています。同年、行政区の改正に伴い学区も改正され、走熊・御代・船戸村は、ともに蔵持小の学区になりましたが、矢田小や住吉小に通う生徒もいました。
 明治20年4月~同22年4月の間は授業料を徴収されない簡易小学校となりましたが、その後、下矢田・蔵持の両簡易小学校を共に尋常小学校と改めています。


            《昭和54年まで存在した校舎で、下が現在の鹿島小学校》

 昭和10年、走熊字中島(※現在、鹿島小学校がある場所)に木造平屋建て瓦葺きの小学校 (写真の上段) が完成したのです。
 因みに、いまある鉄筋3階建ての校舎 (写真の下段) が出来たのは昭和54年です。
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いわき市鹿島町を歩こう45

2015-08-29 06:58:08 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    45
   公民館の敷地内にある忠魂碑   所在地 : いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1

 忠魂碑は、明治新政府が誕生以降、日清戦争、日露戦争での戦死者の供養のために全国各地で建立されました。
 碑の建立に当たっての資金は国や自治体の支援もありましたが、主体となったのは帝国在郷軍人会で、その後、遺族会などが運営管理を行いました。


                  《大正10年に建立された忠魂碑》

 鹿島では、鹿島小学校前にあった丸山公園(現在、山は掘削され平地になって鹿島公民館の敷地になっている)に、大正10年1月28日に建立完成し、同年3月2日に除幕式を行っています。
 碑そのものは大砲(円筒形)を、周囲の欄干は砲弾をかたどっています。


              《公民館のある側道からも見ることができる忠魂碑》

 第2次世界大戦後はGHQから 「戦争を賛美する」 とか 「軍国主義的である」 などと指摘され、各地でその多くは撤去されましたが中には一時、塔を土に埋めて隠し撤去を逃れたものもあると云われますが、鹿島ではどのようにして残存しているのか正確な記録は残っておりません。

        《護国の華となって散った霊を慰めるために建立された忠魂碑》 ▲大正10年

 丸山公園の頂上にあった忠魂碑は、いま鹿島公民館の敷地内に移され、静かに時代の変遷に驚きながら周囲を見つめているようです。
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いわき市鹿島町を歩こう44

2015-08-28 07:04:30 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    44
     空洞になっている岩薬師の山     所在地:いわき市鹿島町久保字反町

 鹿島町久保と船戸の境にある岩薬師は、その名の通り岩山の壁面に4体の磨崖仏(まがいぶつ)が彫られています。
 長い年月の間、風雨にさらされて風化されていく危険性はあるものの、当所からの原形は保たれているものとし、平成21年(2009)4月に市指定文化財に指定されたのは既報の通り。 (関連記事=2015・8・5付)
 本来、この地には薬師堂(元禄年間頃)があって近村の人々が厚く信仰していたようですが、やがてお堂が朽ち果ててなくなってしまうと、いつの頃からか地元民は岩薬師というと、岩質が凝灰岩で出来ているこの山全体を呼ぶようになりました。


                   《石が切り出された跡が残っている岩薬師》

 岩薬師の凝灰岩は薄い黄色味を帯びた白で、比較的風化されやすい質で細工には向いておらず、切り石の形で用いられていました。
 今でも古い家屋の土台石として使用されているのを見かけますが、その他にも石塀や漬物石などに使われたようです。
 この岩の中から、石工が石切りをしたり、石をチェーンで巻き上げたりしている音が空洞に共鳴して大きく響き、通り道まで聞こえてきたのは昭和30年代前半頃まででした。

                
        《山の表面にはこのような薬師像が4体彫られている》  ▲左端が鹿島街道

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いわき市鹿島町を歩こう43

2015-08-27 06:45:58 | Weblog
                             分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    43
      穏やかな気候をアピールするシュロの木     鹿島街道一帯

 鹿島街道は、浜通り地区の商業拠点と、国際港を抱える産業拠点小名浜を直結する大動脈で、地域経済のホットラインとして欠かせない主要道です。
 道は交通機能(人や物の移動)という大きな目的の他に、生活を支え、生活や文化を支え、環境や防災の機能も果たしています。


             《整然とした御代坂のシュロ並木

 いわき市内を走行していると観光的な側面からの活用も可能であることが窺えます。
 映画 「フラガール」 で全国区になった「いわき市」でもあるが、市内の道路沿いには至る所に棕櫚(シュロ)の木が植栽されています。これなどは道が観光目的に利用できるという典型的な好例だと云えます。
 道路沿いのシュロは映画以前に植えられてきたものですが、もとはスパリゾートワワイアンズの前身、常磐ハワイアンセンターの頃に施設の周辺で見られる程度でした。


              《下矢田の市中央卸売市場附近

 いわき市は東北地方の最南部に位置していることもあって、気温は中通りや会津地方と比較すると温暖なところと云えます。
 統計によると、気温の平年値は最低3,2度で最高24,8度ということですから、これは東日本型の気候に属して海洋の影響を受けて気温の年格差が少ないことが起因しているのでしょう。
 
 道路沿いにシュロを植えたのは観光団体を始め、市や建設事務所などのアイデアと実行が功を奏して、県外からの観光客に良い印象を与えているようです。
 いわきを訪ねてくる人たちに、いわきの気候風土とイメージをシュロの木は、ほのかな南国ムードを味あわせているのかも知れません。

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いわき市鹿島町を歩こう42

2015-08-26 12:12:20 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    42
  番刈(ばんかり)と呼ばれる土地     場所 : いわき市鹿島町下矢田字榎木内3-2

 旧、鹿島街道に通称 「ばんかり屋」 といって老夫婦が営んでいた雑貨屋さんがありました=写真下の空き地部分。
 店の規模としては決して大きいとは言えませんでしたが、この近辺で店と云えば「ばんかり屋」しかなかったのです。正式な商号は 「薗部商店」 ですが、村人の間では 「ばんかり屋」 で通っていました。


                  《ばんかり屋があった跡地と左側が矢田川》


                           《その2》

 いまの新常磐交通 「下矢田」 バス停近くで、現在の位置とは少しズレた裏側の旧道になりますが、バス停も 「番刈」 という名で実在しました。

             《この場所附近に昔、水車小屋があった》 ・写真はイメージ

  さて、それではなぜ地名にはないのに、この辺一帯を 「番刈」 と呼ぶのかというと、その昔、矢田川のこの辺りに水車小屋があって米や雑穀を搗いていたのだそうです。
 村人たちがこの付近を通ると、いつも搗き音が 「ばんかり、ばんかり」 と聞こえてくるので、いつの間にか「番刈(当て字)」と呼ぶようになり、雑貨屋も 「ばんかり屋」 という愛称になってしまった、ということです。  これホント!!
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いわき市鹿島町を歩こう41

2015-08-25 07:03:39 | Weblog
                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう   41

   鹿島ショッピングセンターエブリア                                               
                     所在地 : いわき市鹿島町米田字日渡5
   ヨークベニマル エブリア店
 鹿島ショッピングセンターは常磐⇔江名港線(県道48号線)にあり、鹿島街道の小神山信号の直ぐ近くにあります。国道6号線のバイパスも走っており交通の利便性も手伝って、日曜祭日などには他県ナンバーの車も多数見受けられます。

             《鹿島ショッピングセンター エブリア

 エブリアの名前は 「every・one」 から付けられたもので 「みんな」 とか 「誰でも」 という意味があるそうです。
市内の地元専門店業者が、地元小売業の活性化を目的とし、いわき市の中心に位置する鹿島地区の発展を予測し、ショッピングセンターの専門店ゾーンを運営管理する 「(株)鹿島ショッピングセンター」 を設立し、平成7年10月26日に開業しました。
 エブリア店内には100を数えるバラエティーに富んだ各専門店があり、便利で機能的なショッピングが楽しめます。


               《ヨークベニマル エブリア店

 鹿島ショッピングセンターの敷地内にあるのが 「ヨークベニマルエブリア店」 です。
 平成17年(2005)11月に 「ダイエーいわき店 」が店舗整理によって撤退してから、 「ヨークベニマル」 が同ショッピングセンターのキーテナントとして平成18年(2006)4月から営業を開始しました。
 
 いわき市の中核的商業施設ともいわれる鹿島ショッピングセンターの延べ床面積は3万8729平方㍍ですが、その内の4011平方㍍がヨークベニマルの売り場面積になっており、食品を主体に肌着や酒類などが豊富に陳列されています。
 また、この頃とほぼ同じくして1階に 「ダイソー」 と 「マックハウス」、2階にスーパースポーツ 「ゼビオいわき店」 と 「オレンジフード」 の営業も始まりました。

 営業時間:10:00~20時 (※ダイソーのみ21時まで営業)


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いわき市鹿島町を歩こう40

2015-08-24 07:05:00 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    40
幻に終わった炭礦の立坑建設    いわき市中央台鹿島1丁目 (元の地名は走熊字鶴巻)

 常磐炭礦東部礦(※常磐水野谷地内にあって鹿島礦とも呼ばれた)は坑道が太平洋側にどんどん伸びていき、坑内の先端と立坑までの距離が遠くなってきたために安全面や作業の効率性を考慮して、作業員入出抗口を常磐松久須根に設け、これを 「鹿島上矢田立坑」 としました。
 この立坑は地下600メートルほど下がった場所に人車坑道があって作業員の乗降は二段式ケージを、つるべ式に上下させ各々27名を乗せて運ぶ構造になっているものでした。600メートル下がる所要時間は約3分かかったといわれています。


                《いわき最東端に出来るはずだった立坑予定地》

 昭和39年6月、常磐炭礦は更に鹿島地区から海側に向けての掘進計画を立てて、昭和41年10月には走熊鶴巻地区に入気立坑の建設に着手し、ボーリング(掘削)工事が始まりました。
 昭和43年4月には完成したのですが、既に石炭に代わる石油の輸入が活発化してきて、鹿島礦も採掘中止の憂き目に遭い 「走熊鶴巻立坑?」 の実現は成らず、幻の立坑となってしまいました。
 手前にある電柱の辺りが、当時ボーリングが行われていた場所になります。
 現在、坂を上り詰めた所に 「中央台南小学校」 があり、手前を下がって行った所に 「かしま幼稚園」 と 「鹿島小学校」 があります。



         《高台の左が走熊公園で、その下を横切る土手の部分が予定地だった》

 曲がりくねった道と並行している川は 「走熊川」 で、写真では見えませんが土手の先は大きな貯水池になっています。
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いわき市鹿島町を歩こう39

2015-08-23 07:01:19 | Weblog
                               分類 : 歴
    いわき市鹿島町を歩こう  39

  安倍貞任・宗任兄弟の供養塔     所在地 : いわき市常磐三沢町字坂下

 今では、地元の人に場所を訪ねて山に入っても探すのが分かりずらいくらいの所に平安中期の武将、安倍兄弟の供養塔(写真)があります。▲単独で行ったら探し当てるのはマズ無理です。

 安倍貞任(あべのさだとう)と弟の宗任(むねとう)は、陸奥の豪族、安倍頼時(よりとき)の子で、平安中期の武将として知られています。


          《貞任・宗任の供養塔は山の奥まった場所にある

 兄弟は朝命に叛(そむ)き、前9年の役で源頼義・義家と戦った時に兄の貞任は厨川柵で敗死したが、弟宗任は一旦京都へ連行された後、更に大宰府に移されて出家する。この物語は歌舞伎に登場しながら生没年不詳とも言われています。
 
 三沢地区に残る伝説では、安倍貞任この地に来たりて病気にかかり、小屋を建て住んでいた。貞任の母も看護のためにその小屋に住んだ。そこを『小屋の山』と呼ぶようになり、また母子出立の際に『鍋』を埋めていった所を鍋塚と呼んでいました。
 
 話によるともう一説あって、前9年の役で貞任・宗任らが坂下地内の山中に籠って、追い討ちに出向いて来た源義家の軍を迎えたが、義家も作戦を練るために四方を見渡せる館山の頂上に陣を据え、そこで指揮を執りながら遂に叛く兄弟を征伐したのだと言われています。


           《周囲がひっそりとしていて、もの悲しい

 そのため、坂下地内の山腹に高乾院安倍貞任・宗任の霊を慰める五輪の塔を2基造立し、現在も姿をとどめています=写真。
 源義家の陣所となった館山頂上には八幡宮が祀られ、代々山伏の祈祷によって祭りをしてきましたがバイパスの通過地になり、館跡はもとより八幡宮も無くなってしまいました。
 八幡宮には文化2年(1805)の棟札や弘化2年(1845)の棟札も保存されていました。八幡宮より一段下の平地は中世の館跡で、昔からの井戸も形を遺していたのですが時代の流れで貴重なものが失われていった一つの例です。

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いわき市鹿島町を歩こう38

2015-08-22 06:55:05 | Weblog

                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう 38
                         所在地 : いわき市鹿島町船戸                     船戸ポンプ場
   鹿島地域の久保、船戸、御代地域は梅雨時の大雨や台風に弱い場所で、一帯が冠水するということは昔からそんなに珍しいことではありませんでした。
 しかし、鹿島街道が整備されて商業地が並び、近隣に住宅が密集してくると、たちどころに大きな被害を受ける状況になってきたのです。


            《ポンプ場ができる前の大雨による被害状況

 上の写真は平成18年(2006)6月16日の豪雨により通行止めとなった鹿島街道で、これにより久保3丁目で床上浸水11棟、床下浸水48棟。下蔵持では住宅の裏山が崩れ、他の地域でも多くの被害を受けました。

              《矢田川沿いにある船戸ポンプ場

 このような状況の中で 「船戸ポンプ場」 建設の動きが活発化してきて、地元市議を交えた関係者の要望や陳情を行い、市側が、矢田川が異常水位になった豪雨と主要地方道・鹿島街道が通行止めになった事態を重く見て、平成20年度に現在の 「船戸ポンプ場」 が完成しました。

               《船戸ポンプ場の正面

 平と小名浜を結ぶ幹線道路の県道 『平・小名浜線(通称、鹿島街道)』 の地域一帯はもともと田圃だった平地でしたが、この船戸ポンプ場が出来たことによって交通の安全と、住民の安心が確立したことになります。




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いわき市鹿島町を歩こう37

2015-08-21 06:55:48 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    37
     三島家のキンモクセイ           いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内42

 江名港⇔湯本線(県道48号)の道路沿いに学術的にも貴重とされる金木犀(キンモクセイ)があります。写真では見えませんが左側は県道48号線が並行して走っています。

                《塀越しから見える1本の大きな木がキンモクセイ》

 この三島宅の庭先に、毎年10月になると甘い香りを漂わせるキンモクセイがあることで有名です。
 樹高4メートル、横幅3,5メートル、直径が40センチで三枝に分かれていて、約200年前から三島家の宝物として大事にされているものです。
 花が咲く季節になると、木の上から下までびっしりとオレンジ色の見事な花を付ける姿は壮観です。


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いわき市鹿島町を歩こう36

2015-08-20 07:01:25 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    36
      鹿島村役場の跡地         場所 : いわき市鹿島町走熊字坪下

 鹿島村役場は明治22年に開村したが、長い間、民家の建物を借用していました。
 大正4年7月の村会で、大正天皇の御大天を記念として役場庁舎の新築を決定したのです。 明治維新後の22年後に、隣り合う12の村落(御代・船戸・飯田・久保・上蔵持・下蔵持・米田・走熊・下矢田・上矢田・松久須根)が一団して鹿島村を誕生させました。


              《現在の役場跡地だが石段があった面影が残っている》

 以来、昭和28年に小名浜町(3村落が湯本町に編入)との合併を始めとして翌、昭和29年に磐城市、昭和41年にいわき市という市名の変遷はあったものの、「鹿島」は鹿島町という地名で現存しているという訳です。

                   《大正4年の開庁式に撮影した記念写真》

              
              《今も変わらぬ当時からの道で突き当りに役場があった》
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いわき市鹿島町を歩こう35

2015-08-19 06:49:25 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    35
     いわき市中央卸売市場     所在地 : いわき市鹿島町鹿島1

 いわき市中央卸売市場は鹿島神社の近くにあって、入口の左右角には「食の蔵」と漬け物の「西野屋」があります。
 生鮮食料品の卸売をする公共施設で、昭和52年9月12日に開設され全国で50番目でした。今年で早くも開設38年になりました。


                      《いわき市中央卸売市場の全景》

 中央卸売市場は、卸売市場法の規定に基づき設置される市場の一区分を指しますが福島県内には、いわき市と福島市の2市にあります。
 因みに、日本で一番最初に出来た中央卸売市場は、京都市中央卸売市場第一市場です。


                        《鹿島街道からの入口》

 中央卸売市場とは、端的に云うと「私たちの食生活を守る青果、水産物などの卸売公共施設で、消費者に代わって売り手と買い手との取引が行われる場所」とでもいうのでしょうか。
 いわき市中央卸売市場の開設当時の基本計画では「生産・消費・流通の変化に対応し、食料品の安定的需要促進・公正取引と価格安定を図る」と謳(うた)っています。


                    《入口に「食の蔵」と「西野屋」がある》

 いわき市中央卸売市場に於ける青果部と水産物部の年間総売り上げは、平成26年(2014)で概算201億5,000万円になります。 ※花き部を除く。
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いわき市鹿島町を歩こう34

2015-08-18 07:07:52 | Weblog
                             分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  34                                           
                         場所 : いわき市常磐上矢田町

    鹿島街道とバイパスの分岐点        
 小名浜から平方面に進んでくると、この上矢田地区の信号で道は2つに分かれます。
 直進すると、郷ケ丘~平工高~龍門寺~月見町~平消防署統合庁舎へと続きます。左折して直ぐに右寄りの道に進むと、福島高専~上荒川~競輪場~JRいわき駅前に突き当ります。直角に左折したまま坂道を上ると若葉台団地に入ります。


            鹿島街道が2つに分かれる交差点

 昭和40年代の前半までは歩道になっている部分(写真中央)が旧鹿島街道で、上荒川経由で平市街へ行く道でした。この先、高専付近までは旧道を拡張しての使用なので、道そのものに余り変化はありません。
 写真の周囲は、かつて山と田圃だけの辺鄙な場所で、中村畳店の看板(註・電柱の脇)が立っている所に畳工場が1軒あるだけでした。
 昔、追い剥ぎが出たといわれ、戊辰戦争の時には平藩の要塞になったくうじ山(軍事山)は、もう少し先の高台になります。
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いわき市鹿島町を歩こう33

2015-08-17 07:06:08 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  33
                         所在地 : いわき市鹿島町船戸字林下   
 様変わりしていく船戸団地          

 鹿島町にある船戸団地は、新産業都市建設計画の中のベッドタウンとして最初の候補地に選ばれて、市と地区の人たちとの協議を重ねていった末に市営住宅の建設が決まり、昭和40年から本格的な造成工事が始まったものです。

           《昭和40年代に建てられ老朽化した船戸団地

 その頃、船戸は古来14戸の農業集落でしたが先祖伝来の山を崩し、畑をならし、田を埋めて地勢は著しく変化していきました。
 周辺には商店ができ、給食センターができ、更に団地が増築されて発展の一途を辿ったのですが、最初に建てられた団地は老朽化が進んで、取り崩しを迫られて近い将来、消えてしまうのでしょう。


            《次々と新たに建造されていく船戸団地

 いわき市では、平成16年度に国土交通省の事業採択を受け 「鹿島町船戸地区」 に於いて、19年度までの4か年で 「まちづくり交付金」 を活用して市営住宅の建て替えが行われました。
 その後は、付近にPC造3階建ての 「公営住宅船戸団地」 の4号棟が完成しました。


           《矢田川方面から見た船戸地区の遠景

 写真の見えない部分に鹿島街道(小名浜⇔平線)が走っていますが、少し離れた所からの眺めは、山あり田園ありのとても長閑な環境の中にあります
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