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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき市鹿島町を歩こう86

2015-10-09 07:19:22 | Weblog
                              分類 : 歴
   鹿島町を歩こう  86
  
 御代団地と小名浜野球場     
               市営御代団    いわき市鹿島町御代字柿境
               市営小名浜野球場 いわき市小名浜林城日代鳥19

 鹿島町の御代団地まで歩いて来ると道を挟んで市営小名浜野球場がありますが、そこからは小名浜林城地区になります。
 写真の直線道路を進んで行くと、左側に御代団地が並んでいて突き当りが鹿島街道になります。遠くに黄色い建物が見えますが、ヤマダ電機いわき店です。


    《矢田川から鹿島街道方面の景観。右が小名浜野球場・左奥が御代団地

 

。              《御代団地の一角


         《矢田川の土手沿いから少年野球の練習風景が見られる
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いわき市鹿島町を歩こう85

2015-10-08 08:33:30 | Weblog
                               分類 : 歴
  いわき市鹿島町を歩こう  

   常磐炭鉱東部工業所の跡地
 場所は鹿島街道沿いにある 「鹿島神社」 前の信号を曲がって、約600mくらい先に進んだところにあります。
 常磐炭礦は昭和46年4月に全面閉山したが、それまでは東部礦(常磐水野谷地内に施設)への作業員入出口を 「鹿島上矢田立坑」 として、この松久須根町内田地内に設置して稼働させていました


             《当時の常磐炭礦東部礦業所鹿島立坑

 昭和47年12月7日の17時46分頃、廃坑になったこの付近でガス爆発が発生し、10名の死傷者を出したほか近隣の松久須根町・上矢田・下矢田の地域に甚大な被害を与えました。

              《廃坑付近で起きた爆発の現場
 
 この事故で死傷者が出たのは、廃坑になった現場に廃棄物を捨てに来ていた作業員たちで死者2名、重軽傷者8名を出しました。爆発による住家の被害65戸に及び、上矢田・下矢田双方の半径約1kmではガラスや窓、襖が壊れたり、飛んできたコンクリート破片で屋根がぶち抜かれたりしました。

        《当時は近くの常磐ガラス工場(=写真)も被害を受けた





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いわき市鹿島町を歩こう84

2015-10-07 06:51:00 | Weblog
                                        分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    84
    志賀直哉の家      所在地 : いわき市鹿島町下蔵持字嘉睦家(かもか)15番地

 昭和の前半期に、鹿島で偉大な指導者であった志賀直哉(明治20年6月12日~昭和31年2月7日)は、後人に遺した教訓は計り知れません。 享年71歳。
 昭和4年に村議会議員となり、翌5年には助役になっています。村長補佐をし、その手腕力量を高く評価されて村議会の推挙を受け村長となり、2期8年間村政に傾注した人です。


             《屋根など一部リフォームされてはいるが実存する志賀邸》

 県から農業経済指定村の指定を受け、農村振興に意を用いる傍ら潅漑用貯水池・堰の改修等に努力。更に毎月の1日を道路愛護デート決め、各ごとにこれを実施して道路の整備をしました。
 一方、百田刈りを推奨して堆肥作りや家畜の導入を推し進め、食糧の増産と農家収入の増収を図りました。
 常に人づくりに意を配り、村長辞任後は太平洋戦争下の石城郡翼賛青壮年団長として、郡の指導的責任を担ったが敗戦となり、占領軍司令官マッカーサー指令により公職追放になってしまいました。


           《昭和12年に撮られた下蔵持の全景で、右手前の家が志賀直哉邸》

 下蔵持の如来山正福院は、昭和5年鹿島の大火で焼失し、昭和5年再建に掛かり翌6年に完成したが昭和11年6月、今度は豪雨による裏山の土砂崩れにて寺院が崩壊。
 志賀直哉は、これの再建に再び東奔西走して昭和30年9月、ようやく洋風の寺院を建設し同年10月には二宮尊徳翁100年祭慰霊塔を建立しました。=関連記事は9月11日付の当ブログ参照。
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いわき市鹿島町を歩こう83

2015-10-06 06:45:00 | Weblog

                            分類 : 歴 
   いわき市鹿島町を歩こう  83    
  くうじ山    所在地 : いわき市常磐上矢田町 (鹿島街道の郷ケ丘信号一帯) 
 くうじ山は、本来、軍事山(又は軍次山)というが長い間の口伝によって変化したものです。地元の人たちは喜びにつれ、悲しみにつれ、日常生活と密着した山だったので愛着心からごく自然に今でもくうじ山と呼んでいます。。 鹿島街道を平方面に向かって行くと、郷ケ丘のNTT東日本福島いわき支店前を通過するが、その辺りが通称、くうじ山です。 かつては頂上が左に見える山の高さと同じ位の場所にあって、約50mの洞門(トンネル)を利用して山越えをする道だったといいます。 明治の中頃には、洞門の中に「追い剥ぎ」が巣くっていて暗闇が訪れると、数人の男たちが洞門の中へ寄り集まり、男根丸出しで焚き火に手あぶりしながら、通行人を脅して金品を巻き上げる悪さをしたというエピソードが残っています。  《現在、この辺りが一番高い所になるが実際には頂上はもっと高く、険しいものだった くうじ山の由来は、戊辰戦争の時に列藩側が軍事上の作戦拠点としたことから軍事山と呼ぶようになったもので、官軍が平方面へ北上してくるのを阻止するために上荒川村と上矢田村の境に当たる、この山に壕を掘り応戦しまた。                                                                                   戊辰の役で列藩兵が使用した壕跡で、郷ケ丘団地の造成と共に姿を消した 
 平=小名浜間の道路(旧、鹿島街道)の県道に指定されたのは、官選知事三島通庸(みちやす)が在任した明治15年頃と言われており、明治17年12月に内務省へ転任するまでの僅かの間に、会津三方道路をはじめ、県内に大規模土木工事を起こして、その実績は高く評価されています。 当時は、県道指定による道路改良とはいってもせいぜい荷馬車が通行できる程度のもので、鹿島の村落は平側に 「くうじ山」 があり、小名浜側に 「御代坂」 があって、双方共に洞門を利用して山越えをしなければならなかったようです。 しかも、土壁の洞門はたびたび落土し通行人を悩ませたと言われています。     

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いわき市鹿島町を歩こう82

2015-10-05 16:47:48 | Weblog
                              分類 : 歴

 いわき市鹿島町を歩こう  82
              三和橋  所在地 : いわき市鹿島町走熊字小和口

 鹿島に江名・湯本線(県道48号)が直通になるまでは、いま鹿島公民館とハニーズがあるところに丸山が立ちはだかっていたためにT字路になっていました。
 このため米田、三沢、湯本方面へ行くには、そこから迂回して三和橋を渡って行く以外に方法はありませんでした。
 橋の老朽化に伴い昭和7年4月に架け替えられ、その時に渡り初めが行われたのが下の写真で、渡り初めをしたのは上矢田地区の江尻十郎親子でした。


       《昭和7年に完成して渡り初めを行った時の記念写真

 三和橋は矢田川に架けられた橋で、走熊のレストラン 「もりの木」 と葬祭場 「せきのホール」 の間を抜ける道にあります。
 当時、鹿島(村)の地域住民にとっては重要な道路で、主要地方道いわき・古道線(旧、鹿島街道)からの支線になっていて、湯本方面へ行く唯一の道でした。


              同じ位置から現在の三和橋を見る

 この橋は、昭和54年に架け替えられたものです。
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いわき市鹿島町を歩こう81

2015-10-04 07:06:57 | Weblog
                             分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう   81
    圓福寺の歴代和尚碑      所在地 : いわき市常磐上矢田町

 鹿島街道を平から小名浜方面へ向かって行くと、鹿島神社の手前右側の高台に大きく立派なお寺が見えますがそこが圓福寺で、看板も確認できます。
 
 曹同宗の金峯山圓福寺は地元の上矢田をはじめ、平、小名浜、その他近郊に多数の檀家がいます。同寺は歴史が古く、今のいわき地方を支配していた岩城氏は文明1~18年(1469~1486)、大舘城を大本家としておよそ48館を置き、その1つに中山舘(飯野村)があったが、中山領主に嗣子がなかったため大本家の岩城下総守、常陸の2男を養子として迎え、中山讃岐守隆吉と名乗らせました。


            《同寺の歴代和尚名が刻まれている石碑


            《金峯山圓福寺の本堂と庫裡

 隆吉の死後、跡目を継いだ隆朝(右衛門太夫)は、岩城大本家の菩提所である上荒川龍門寺大和尚の勧めで、天文23年甲寅年(1554)に居城を上矢田に移し、菩提所「大中山圓福寺」もまた上矢田の金ケ峯へ移して伽藍を建立し、隆吉の守り本尊であつた十一面観世音を安置し、山号を金峯山と改めました。
 また、同寺にある山門は寺誌によると、宝暦年代(1751~1764)に存在し、幅が9尺(約2m800)×8尺(約2m500)あり、現在の山門は昭和12年3月茅葺屋根を瓦葺きにする際、復元されました。


      《手前の道が鹿島街道で、圓福寺は並行して上ったところにある

 金峯山圓福寺開山、大亭芳賢大和尚は永禄12年(1569)に96歳で亡くなった。
 因みに、第32世(現住職)は、三田仙芳大和尚です。
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いわき市鹿島町を歩こう80

2015-10-03 06:48:07 | Weblog
                                        分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    80
      飯田の古井戸         所在地 : いわき市鹿島町飯田字越巻

 明治22年(1889)に近郷12村が合併して鹿島村(現・いわき市鹿島町だが、うち3地区は常磐町を名乗っている)として村政が布かれたが、この飯田地区もかつては12村の1つで飯田村として独立していました。
 民家が7軒で村政を維持してきた訳ですから、全国的にみても稀なのではなかったでしょうか。△明治初期の記録上では戸数は8軒あったようです。


              《一見、何の変哲もない古井戸だが長い歴史を持っている》

 いつの頃からかは定かではないが、「飯田7軒鍋7つ、すり鉢3つで井戸1つ、鶏3羽でホーイホーイ」 と他の人たちから冷やかされたこともあったらしく、今でも古老の中にはハッキリと覚えている人がいます。
 これは小ではあるが何事も助け合い、どんな相談事でも纏まりが早いことが他の人たちから見ると羨望の的であったらしく、それが揶揄される原因にもなったと思われます。
    
                   《財務省としての地籍を有する古井戸》
 
 唄の文句にあるように、昔は井戸が1つであったことを物語っています。
 また、地区内の小泉宅で古井戸の場所を訊ねたところ、スグそこにあるのがそうだと言いながら、「昔はその井戸で7軒が使っていたのだ」 と説明を受けました。
 井戸の深さは約4mほどあり、水はいくら汲まれても元の水位に戻るという湧出量の豊富さで、以前は有地としてその周囲数坪の敷地を持ってたが、現在は財務省財務局の官有地になっているそうです。


         《この開成病院の裏側の道を右折して約50mくらいの所に古井戸はある》
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いわき市鹿島町を歩こう79

2015-10-02 07:04:32 | Weblog
                                        分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    79
    八幡神社(旧小社)        鎮座地 : いわき市鹿島町米田字家ノ前56

 祭神 譽多別命(ほんだわけのみこと)
 宝物 砲弾一個
 例祭 旧暦4月15日 旧暦9月15日
 譽多別命は、第15代応神天皇の御名

 磐城国に八幡神の勧請されたのは後鳥羽院の御代前後であることは、他の八幡神社の由緒によって明らかにされているが、米田の八幡神社の場合、祭神を同じくしながらも古い記録を失って、創建年代は定かではありません。


                      《米田地区にある八幡神社》

 社殿内の由緒板によると、孝明天皇の御代の安政4年(1857)に、社の寄進があり安政6年正月には氏子ら9名が銅二百文ほどずつ出し合い、社殿を再建しています。
 慶応元年(1865)には鳥居を寄進、明治6年(1873)小社列格。
 昭和12年の正月に社標碑を建立し、同年3月には三沢地区の吉田正義(※人物に関しては当ブログの2009・2・25付をご覧ください)の筆による 「八幡神社」 の刻字額を奉納しています。


                  《昭和30年代頃まで行われていた神輿渡御》

 神輿(みこし)とは、神幸の際に神体または御霊代(みたましろ)が乗るとされる輿をいい、渡御(とぎょ)は神輿のお出かけ(おでまし)になる事。
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いわき市鹿島町を歩こう78

2015-10-01 08:24:05 | Weblog
                                         分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    78
    草飼(くさかい)の千本松         場所 : いわき市中央台飯野 (飯野緑地附近)

 鹿島神社から北側(平寄り)の道を入っていくと、高台にいわきニュータウンの一部が見えるが、あの辺りが草飼の千本松と呼ばれていた所です。
 昔は山間伝いに吉野谷を経て、上高久方面へ出られる細道がありました。


               《遠方の高台が千本松と呼ばれていた場所・昭和51年》

 後世、武人から軍神として厚い尊信を受ける武甕槌神(たけみかずちのかみ)が奥州塩竃に向かうため部下を引き連れ、その山道を通り小休止しました。
 その時に、神馬をそこの松の木に繋いで草を与えたところから
草飼の千本松と呼ばれるようになったとの伝えがあります。
 この縁起伝説の地も今や、いわきニュータウンの宅地造成地から近代住宅群が建ち並び、既に樹木不毛の地と化してしまいました。


 【附則】上矢田は、その昔、大矢田といっていたが、平安時代(延暦年間・西暦782~805年)に征夷大将軍を務めた坂上田村麻呂がこの地を通った際に矢の根を鹿島神社に奉納された。奉納された際に「田村、矢を上げる」 と書かれたので、以来 「上矢田」 というようになった。
 その矢は現在でも鹿島神社に伝わっています。
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