読む本がないのでアマゾンで注文をしたが、今はドライバー不足なのか、急がない設定にしたら送ってくるのが1週間後になった。仕方がないので、何度も読んでいる動物学者の日高敏隆さんの「セミたちと温暖化」を再読している。その中に、「人は実物が見えるか?」という章があり、興味深い話が紹介されていた。読んだはずなのにほぼ記憶がない。読書というのは、結構こういうことが多い。
で、ある先生が小学生にアリの絵を描かせた。最初は何も言わず突然描かせたが、脚が4本だったり頭と胴体のふたつしかなかったり、女の子は触覚にリボンをつけたりと思い思いのアリができあがった。次はシャーレにアリを乗せ、顕微鏡を覗かせてアリの絵を描かせた。これで正しいアリの姿が描けるかと思ったが、空想で描かせたアリと大差はなかった。
そこで次は、先生がアリの説明をした。
「アリの体はどうなっているかな」と問うと「あれ、頭の胸とお腹の三つに分かれているぞ」
「脚は何本かな」「あれ、6本あるぞ」
「脚はどこから出てるかな」「頭とお腹には脚がなくって、胸から6本出てるぞ」
「触覚は前を向いているかな、後ろを向いているかな」「前を向いているぞ」
先生は「アリは触覚で前を探りながら歩くから、後ろを向いていると困るんだ」と説明する。
そうして解説した後、もう一度アリの絵を描かせると、今度はかなり正確なアリの絵ができあがったという。日高さんは書く。「人間は実物を見たからといって、おいそれとその実物が見えるというわけではないということが、しみじみとよくわかった」
確かに絵が苦手という人の話を聞くと、正面と真横からの絵しか描けなかったり、「よく見て」と言っても目の前にないものを描く。そう思うと、僕らの多くが見ている世界というのは、実際に目の前に広がる世界ではなく、自分の脳みそによって作り上げられた世界の反映でしかないということなのだろう。
そんなことを考えながら、朝から習字をやっていた。ちゃんとお手本を見ること。この当たり前のことも、実はアリの解説なくしてはアリが見えないのと同様、自分で作り上げた空想のお手本を見て真似ているということになる。これはなかなか大切な真理だぞ、と肝に銘じていたら、足元でテオとアンが陽だまりでウトウトしていた。
アンにピタリとテオが寄り添っているが、頭を乗っけるとアンが重いだろうからと、テオは眠い目をこすりながら眠りに落ちないように耐えている。が、すぐに睡魔がテオを襲い、ちゃっかりアンを枕にして寝てしまった。まったくどこまでも仲がいい犬と猫なのである。
で、ある先生が小学生にアリの絵を描かせた。最初は何も言わず突然描かせたが、脚が4本だったり頭と胴体のふたつしかなかったり、女の子は触覚にリボンをつけたりと思い思いのアリができあがった。次はシャーレにアリを乗せ、顕微鏡を覗かせてアリの絵を描かせた。これで正しいアリの姿が描けるかと思ったが、空想で描かせたアリと大差はなかった。
そこで次は、先生がアリの説明をした。
「アリの体はどうなっているかな」と問うと「あれ、頭の胸とお腹の三つに分かれているぞ」
「脚は何本かな」「あれ、6本あるぞ」
「脚はどこから出てるかな」「頭とお腹には脚がなくって、胸から6本出てるぞ」
「触覚は前を向いているかな、後ろを向いているかな」「前を向いているぞ」
先生は「アリは触覚で前を探りながら歩くから、後ろを向いていると困るんだ」と説明する。
そうして解説した後、もう一度アリの絵を描かせると、今度はかなり正確なアリの絵ができあがったという。日高さんは書く。「人間は実物を見たからといって、おいそれとその実物が見えるというわけではないということが、しみじみとよくわかった」
確かに絵が苦手という人の話を聞くと、正面と真横からの絵しか描けなかったり、「よく見て」と言っても目の前にないものを描く。そう思うと、僕らの多くが見ている世界というのは、実際に目の前に広がる世界ではなく、自分の脳みそによって作り上げられた世界の反映でしかないということなのだろう。
そんなことを考えながら、朝から習字をやっていた。ちゃんとお手本を見ること。この当たり前のことも、実はアリの解説なくしてはアリが見えないのと同様、自分で作り上げた空想のお手本を見て真似ているということになる。これはなかなか大切な真理だぞ、と肝に銘じていたら、足元でテオとアンが陽だまりでウトウトしていた。
アンにピタリとテオが寄り添っているが、頭を乗っけるとアンが重いだろうからと、テオは眠い目をこすりながら眠りに落ちないように耐えている。が、すぐに睡魔がテオを襲い、ちゃっかりアンを枕にして寝てしまった。まったくどこまでも仲がいい犬と猫なのである。