「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。
①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。
②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。
③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)
④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。
さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。
『 南京大虐殺、一師団長の日記から 文科系 2017年03月09日
「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。
『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』
高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。
「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」
最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。なんせ、上の手記にあるように師団長すら虐殺の全貌は知らないのだから。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。
理由1 東京裁判での証言者が全員、嘘八百を述べたという動かぬ証拠だからです。
理由2 戦闘と無関係の民間人の死亡があったか否か?です。6週間続いたとなると、当然、戦闘と無関係の殺人となる訳ですが、現実にはそんな事はあろうはずもなく、現実には、戦闘に巻き込まれて民間人が死んだだけ。戦闘と無関係の殺人はなかったのです。
大量殺人があれば人は逃げます。
大量殺人によって、人口が減少し、
逃げ出すことによっても、人口が減少する。
0人になれば誰も殺せませんから、6週間大量虐殺が続いたなんてあり得ないのです。
つぎに
南京事件 小さな資料集 ゆうのページから引用しましょう。
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/saigen4.html
堯化門で捕虜になった七千人なり四千人なりは、南京の捕虜収容所に収容され、最終的には「労役」なり「汪兆銘軍への参加」なりの運命を辿った、というのが定説に近いものになっています。
しかし資料をよく読みなおすと、その根拠は必ずしも十分なものではなく、彼らが実際に最終的に助命されたのかどうかは不明としか言いようがありません。むしろ、そのうちかなりの多数が殺されてしまった可能性も見えてきます。
左も左、中国大好き、安倍総理大嫌い、という、ゆうさんですら、捕虜殺害は可能性としか言えないレベル。
学会の通説では、
南京の捕虜収容所に収容され、「労役」なり「汪兆銘軍への参加」なり、
これが、定説であり、史実です。
捕虜殺害などなかったのです。
さて、中島日記を読むだけで
その1 中島師団が(16師団)、司令部を護衛する任務があった。
その2 中島師団は、捕虜を受け入れるための作業で、司令部の護衛ができなくなった。
その3 第9師団が、司令部の護衛のための援軍をだした。
ここまでは、分かりますねー。
このあと、どうなったのか?
第9師団の援軍が到着する前に、中国軍の奇襲を司令部は受けます。
皇族である朝香宮司令官の命は、風前の灯火でした。
そこに第9師団の援軍が到着し、朝香宮司令官は助かりました。
司令部の護衛をおろさかにしてまで、捕虜を受け入れる義務はないと思います。
そもそも、1万人の16死団が、8千人の捕虜を得るのは異常です。
しかし、
司令部を奇襲にするための、囮と考えれば、辻褄はあう。
あなたのオススメの
南京事件小さな資料集ゆうのページ
より引用しますね。
第三部 東中野氏の徹底検証
の9.(第4章-3)第十六師団と捕虜 その3「堯化門の捕虜」
ここから引用します。
堯化門で捕虜になった七千人なり四千人なりは、南京の捕虜収容所に収容され、最終的には「労役」なり「汪兆銘軍への参加」なりの運命を辿った、というのが定説に近いものになっています。
しかし資料をよく読みなおすと、その根拠は必ずしも十分なものではなく、彼らが実際に最終的に助命されたのかどうかは不明としか言いようがありません。むしろ、そのうちかなりの多数が殺されてしまった可能性も見えてきます。
だ、そうですよ。
ゆうさんですら、
不明、可能性でしかない。
南京の捕虜収容所に収容、
労役
汪兆銘軍への参加
が、定説に近いものになっています。
これが現実です。
捕虜はせぬ方針とは、
朝香宮司令官の命を守るための、「緊急避難」です。
さて、岩波新書 笠原十九司さんの南京事件
136ページ
長江の大惨劇
しかし、下関に埠頭に殺到した何万という数の軍民には次の悲劇が待ち受けていた。
そこには、長江を渡る船がなかったのだ。
138ページ
やがて、敗残兵や避難民の自殺行為に等しい渡航が始まった。
これが、真相で、敗残兵も避難民も、
12月の夜に、泳いで渡航しようとして溺死したのであって、
日本軍の殺人ではない。
貴方は正しい歴史議論のイロハを知らない。上のコメントに第一次史料も裁判結果もないからです。ほとんど全部伝聞と「論理」だけ。歴史を論ずる場合、第一次史料とそれに近いところで論ずること。
中島今朝吾日記は、第一次史料だから高校歴史資料集に載るのです。こういうのを踏まえていない議論は全て駄目。無視できる。
その中島今朝吾日記によれば、こうなりますね。貴方が言う6週間問題は出た途端に切って捨てられる。進んで捕虜になれば、6週間も戦いが続くわけがない。そして、城壁から逃げられないからと自ら進んでなった捕虜は全部殺された。中島による「全部殺す方針だった」とか、これに呼応するエントリー中以下の資料も第一次史料になるでしょう。
『中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)』
また、夏淑琴さんも本物だと確認されたわけですから、彼女の証言は第一次史料です。家族は四歳の妹以外、九人中七人が殺されています。彼女の銃剣による傷だとか、両親等が殺された基本的記憶だとかも、一次資料になります。
東中野も結局「論理」で史料を乗り越えようとして失敗したのです。彼の言い分に「1点でも穴があれば、その証言は全部駄目」という正しくないニセ議論がありますが、この彼の論議を使うならば、夏さん裁判で彼はもう(すべて)破綻していることになりますね。
なお、取り乱したような多数の、まとまりもないコメントは、論議の質が疑われると、申しておきます。ちなみに、第一次史料を踏まえない、「本」内容、伝聞、論理の物言いを証拠のように語るコメントには、原則もう付き合いません。よろしく。
上のエントリーは、僕が一次資料に基づいた出来事の全体像を改めて提示した物です。
文ちゃんの「一次資料」を、笑ってしまう。
結局都合の悪い文ちゃんが、盛り上げているネタだよね。
「一次資料」て、何?