またまた、嬉しいことが起こった!
昨日の閲覧数は、実に2,050画面。こうして、goo本部がはじき出した昨日まで日~土の週間集計で、アクセス847人、閲覧画面数は実に4,823である。アクセス数週間記録は948とか947(07年8月)とかがあるが、閲覧画面数は過去最高の3,871(07年7月8~14日)を軽く超えた。
1日と2日に「カテゴリーの改善」を行い、「このブログのフル利用法」を書いた結果として、何人かの人々がカテゴリーのいくつかを丹念に読んでくださったと思われるのである。カテゴリー改善にともなう画面数増も見込まれはするが、それだけではとうてい、こんな数にはならない。そのことは、各カテゴリーに仕分けされた画面数を見ても分かることだ。
僕は思う。一期一会ではないが、カテゴリーを丹念に読んでくださった方々との何か「縁」のようなものを。こういう、地縁血縁が崩れてしまって、人の結びつきもビジネスライクなもの以外は少なくなった「たった1度の人生が、人として何か寂しい時代」に、この何か一種ここで「繋がっている」という感じは嬉しい。もっとも今まででも、毎日百人の人々がここの決して短くはない文章を読んでくださっていることも嬉しかったのであるが。例えば、07年7月30日には1日216人アクセスという数字もある。
僕はこの15年ほど同人誌活動をやってきた。二つのそれに関わった時期もある。アマチュアたちがアマチュアらしく、自分に本当に大事なことだけを選んで一生懸命に書いても、「年1冊の晴れ舞台?」を読んでくださる方は多分、多くて50人。商業主義「文化?」、書籍の「自分の内面よりも読者迎合を重視した『商業文章』いわゆる『』売文」ではないからでもあるのだが、それだけに何の迎合もなく自分の地を出してこれだけの人々とここでつながれるというのが嬉しいのである。いや、「みんなが懸命に、『大切な地』を出している」と読まれるからこそ、これだけの方と繋がれるのではなかったか。
今後、こういう『地』でもっと広く9条、政治も語りたいし、本来の政治とはそういったものでなければならないのだとも、僕は考えてきた。貧困、困窮、不幸といった何か、生活のネガティブな1面もしくはその1部からだけ、狭く政治を語ってきたような人々が多過ぎたのではないか。そういう人生の一面に応えることだけが「真の生き甲斐、幸福」だといったような「思想」さえ感じたこともある。それが間違っていると、このブログの「実践」がなにか示してくれたような、そんな気さえしている。そう、政治は、なにか「困窮打開」のようなもののためにだけ存在するのではなく、人間の文化全般自身を視野に置き、そういったものに仕えるべきものなのではないか。
昨日の閲覧数は、実に2,050画面。こうして、goo本部がはじき出した昨日まで日~土の週間集計で、アクセス847人、閲覧画面数は実に4,823である。アクセス数週間記録は948とか947(07年8月)とかがあるが、閲覧画面数は過去最高の3,871(07年7月8~14日)を軽く超えた。
1日と2日に「カテゴリーの改善」を行い、「このブログのフル利用法」を書いた結果として、何人かの人々がカテゴリーのいくつかを丹念に読んでくださったと思われるのである。カテゴリー改善にともなう画面数増も見込まれはするが、それだけではとうてい、こんな数にはならない。そのことは、各カテゴリーに仕分けされた画面数を見ても分かることだ。
僕は思う。一期一会ではないが、カテゴリーを丹念に読んでくださった方々との何か「縁」のようなものを。こういう、地縁血縁が崩れてしまって、人の結びつきもビジネスライクなもの以外は少なくなった「たった1度の人生が、人として何か寂しい時代」に、この何か一種ここで「繋がっている」という感じは嬉しい。もっとも今まででも、毎日百人の人々がここの決して短くはない文章を読んでくださっていることも嬉しかったのであるが。例えば、07年7月30日には1日216人アクセスという数字もある。
僕はこの15年ほど同人誌活動をやってきた。二つのそれに関わった時期もある。アマチュアたちがアマチュアらしく、自分に本当に大事なことだけを選んで一生懸命に書いても、「年1冊の晴れ舞台?」を読んでくださる方は多分、多くて50人。商業主義「文化?」、書籍の「自分の内面よりも読者迎合を重視した『商業文章』いわゆる『』売文」ではないからでもあるのだが、それだけに何の迎合もなく自分の地を出してこれだけの人々とここでつながれるというのが嬉しいのである。いや、「みんなが懸命に、『大切な地』を出している」と読まれるからこそ、これだけの方と繋がれるのではなかったか。
今後、こういう『地』でもっと広く9条、政治も語りたいし、本来の政治とはそういったものでなければならないのだとも、僕は考えてきた。貧困、困窮、不幸といった何か、生活のネガティブな1面もしくはその1部からだけ、狭く政治を語ってきたような人々が多過ぎたのではないか。そういう人生の一面に応えることだけが「真の生き甲斐、幸福」だといったような「思想」さえ感じたこともある。それが間違っていると、このブログの「実践」がなにか示してくれたような、そんな気さえしている。そう、政治は、なにか「困窮打開」のようなもののためにだけ存在するのではなく、人間の文化全般自身を視野に置き、そういったものに仕えるべきものなのではないか。
ご心配なく。平和や脱貧困の運動に関るたびに、そういう゜ダサイと言われる世代は確実に少なくなり、極少数派になりつつあります。
しかそれはそれほど希望の持てることの様には思えませんが?
さてしかし、改めてこういう質問をされると、僕はこう語る気になるんですね。
僕が上に語ったような「思想」は実は、貧困、困窮のために闘っているようであって、その正体は実はそうでもないんだと観ています。「貧困、困窮のために闘うことに生き甲斐を見いだしている」んです。昔から言うじゃないですか。「世のため人のため」、「情けは人のためならず」って。
まー悲嘆にくれている人をほかっておけないという、大江戸の「必殺仕置き人」の親類みたいなもんでしょう。「浜の真砂とゴエモン」がいなくなりはしないように、こういう人々はこれからも生まれ続けることでしょう。
それは疑っていないんですけれど、こういう「大きな親切」の人は少なくなりました。が、「小さな親切」の人は増えてるんじゃないでしょうか。