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書評 『人新世の「資本論」』、その概要  文科系

2021年11月12日 08時22分01秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 

 このベストセラー本の内容紹介を3回にわたってやって来たが、最後に標記の通り、全体の概要を粗い箇条書きにしておきたい。

①今までのマルクス解釈は生産力至上主義であった。いわゆる生産力が生産関係を換え、この経済転換が上部構造を変えていくという命題を絶対視して、資本主義生産関係の様々な政経的諸悪現象などを指摘、批判する政党が政権も取ることができて、まともな生産関係も生みだすことができるというように。こういう考え方からは、(現に生産力が発展していた)西欧中心主義や、政治主義という特徴も出てくることになる。

②人類による地球破壊、地球環境問題、これに対するグリーンニューディール政策への期待などにも、世界的な需要拡大という形で生産力至上主義が顕れている。左翼やリベラルの間にさえ、気候ケインズ主義があるのではないか。資本主義のままで地球破壊が止められるというのは、幻想である。いまでも、地球荒廃のしわ寄せが南部に行き、先進国には見えにくくなっているだけだ。

③晩期マルクスは、資本論2、3巻の研究・構想途中で亡くなったが、世界中の農村共同体などの研究を通じて、生産力至上主義から脱皮しつつあった。その考え方によれば、今の「人新世」世界を止められるという意味で求められている方向は、脱成長コミュニズム(コモン、社会的共有財を、資本所有に抗してそれらしく確立し直していくこと)である。これには、五つの柱がある。①使用価値経済への転換、②労働時間の短縮、③画一的な分業の廃止、④生産過程の民主化、⑤エッセンシャルワークの重視。具体的なこれの形は、今世界に広がり、結びつきつつある地産地消の生産消費共同体とその世界的結合、およびそれが作る政治である。

④この典型例は、バルセロナ市。リーマンショックのあおりをまともに受けて失業率25%というスペインの苦境から、労働者協同組合を中心にしてこんな形で復興している。生協、共済、有機農産品グループなど無数の協同組合がこれと結びついて政党を作り、その政党が2016年に市長選挙に勝利した。そして同時に、「人新世」の被害をまともに受けている地球南部(アフリカ、南米など)の77諸都市と世界的連携を取りあっている。これらの諸都市は特に、グローバル企業によって民営化されてしまった水道事業を公営化する運動などに知恵を寄せ合っている。他にも、1993年から中南米に打ち立てられて来た国際農民組織、ヴィア・カンペシーナは全世界約2億人と関わりを持っている。これらの運動は、食糧主権と気候正義を柱としているが、南ア食糧主権運動もその典型の一つだ。飢餓率26%である上に、ポルトガル一国と同じ量のCO2を出すあるエネルギー資源企業を持った国だから、食料輸出が問題になっているのである。

 

(なお、三回に分けた「各章概要」というより詳しい要約が、当ブログにあります。2月21、22日、および3月1日に)

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随筆 「孫はなぜ面白くて、可愛いか」  文科系

2021年11月12日 00時43分38秒 | 文芸作品
 
 「じい、今日は満月なんだねー、いつも言うけど本当に兎がいるみたい……」。
 小学三年生になったばかりの孫のはーちゃんがしばらく夜空を仰いでいたが、すぐにまた「馬跳び」を続けていく。綺麗に整備された生活道路の車道と歩道とを分け隔てる鉄の棒杭をぽんぽんと跳んで行く遊びで、俺はこの光景が大好き。確か、四歳ごろから続けてきたものだが、初めはちょっと跳んで片脚だけをくぐらせるような下手だった……。我が家から五百メートルばかり離れた彼女の家まで送っていく道の途中なのだ。それが今では、学童保育に迎えに行って、我が家でピアノ練習、夕飯、宿題の音読に風呂も済ませて、俺は一杯機嫌で送っていく日々なのである。こんなことを振り返りながら。

 学童保育でやってくる宿題や、音読は好きだからよいのだが、ピアノ練習は大変だった。これがまた娘も俺も、勉強以上というか、ここで勉強の態度もというか、とにかく物事に取り組む態度を身につけさせようとしているから、闘争になってしまう。憎しみさえ絡んでくるようなピアノ闘争だ。はーちゃんは娘に似て気が強く、『嫌なものは嫌』が激し過ぎる子だしなー。ピアノの先生の部屋でさえ、そう叫んであそこのグランドピアノの下に何回潜り込んでしまったことか。そんなふうに器用でも勤勉でもない子が、馬跳びや徒競走となるとまー凄い執念。
と、最後を跳び終わった彼女が、ふっと、
「じいが死んだら、この馬跳びやお月様のこと、きっと良く思い出すだろうね」
 俺が死んだらというこの言葉は最近何回目かだが、この場面ではちょっと驚いた。死というのは俺が折に触れて彼女に口にして来た言葉だから?またこの意味がどれだけ分かっているのか? などなどとまた考え込んでいた時、「孫は、何故これほど面白く、好きなのか」という積年の問題の答えがとうとう見つかったような気がした。
『相思相愛になりやすい』
 一方は大人の力や知恵を日々示し、見せる。他方は、それに合わせてどんどん変化して行く姿を見せてくれる。それが孫と爺であってみれば、それまでの人生が詰まってはいるが寂しい晩年の目で、その人生を注ぎ込んで行く相手を見ているのである。これは人間関係に良くある相思相愛の良循環そのものだろう。これに対して、あのピアノには明らかに悪循環がある。憎しみにさえ発展していきかねない悪循環。という所で、ふっと気づいたのが、その証明のような一例。最近小学四年生だったかの女の子をDVの末に殺してしまった父親はどうも典型的な教育パパだったようだ。教育パパが転じて憎しみの権化になる。そう、俺らの良循環とピアノの悪循環は、あの父と子の悪循環と兄弟なのかも知れない。だから、思春期の子どもに起こって来るものと昔から言われてきた激しい家離れ、家への憎しみも、この兄弟の一方・悪循環の結果でもあるのだろう。「可愛さ余って憎さ百倍」、俺にもあった激しい家離れ、家への憎しみの時代を思い起こしたものだ。

 さて、以降の俺は、激しいピアノ闘争の後などに度々こう付け加えることになった。
「いつも言ってきたように僕ははーちゃんが大好き。だからこそ、貴女にとって大事なこととママたちと話し合って来たことをさぼると、特に強烈に、怒るんだからね」
 でも、このやり方が思春期まで成功するとは到底思えない。ゲームとか動画、録画とか、成長期にやり過ぎてはいけないものが今の世には溢れ過ぎている。今の子育てに、我々年寄りは何て不向きなんだろうとも、度々悩んできたところだ。

さて、こう言い続けてきたせいか、あるいは彼女がそういう年になったということなのか、暫くしてこんなことが起こった。自分からピアノに向かうようになったし、その時間も長くなった。そして、先日のピアノ・レッスンに久しぶりに俺が頼まれて連れて行ったのだが、初めてという光景を見ることになった。先生のいつにない静かだが厳しく、長い小言を我慢して聞いているのである。ピアノの下に潜っていかないか、トイレに逃げ出さないかと俺はハラハラしていたのだが、結局頑張り通した。そして、終わった後、帰りの車で静かに泣き出した。そう、これがちょっと大人に近づいた涙。これからはこれを一杯流して、素敵な大人、人間になってゆけ……。などと思いながら黙ってその横顔を見ていたら、俺も涙ぐんでいた。
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