九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

一人でも多くの人に見て欲しいガザの写真      ブログ「平和への結集」より

2009年01月05日 21時13分45秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
★ 私の参加する、「平和をめざす市民の風 第二ブログ」にガザの実情を伝える記事がありました。紹介します。  (ネット虫)
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皆さん

今朝は特に冷え込んでますね。本当に野宿者の方は大変です。社会保障行政が手薄な中、「年越し派遣村」などの活動はまさに命綱です。

さて、ガザ。態様は異なっていますが、命が切り捨てられるという点では、日本における派遣切りとガザの虐殺は同じといえます。

日本でも一部でガザの虐殺に抗議するデモが行われていますが、いたって静かな新年を迎えています。

ガザにおける「遠い出来事」を身近に認識するのに都合のよい写真がガザから京都の岡真理さんに送られてきていますので、ご紹介します。

一部の写真は日本のメディアにも登場していますが、人的被害を直写したものはせいぜい、これ↓くらいでしょう。日本では人的被害の写真は英字紙(Japan Timesなど)にしか掲載されないのが、通例になっているようです。

http://picasaweb.google.com/tigrimpa/wLVhCF#5285880885511371746

たくさんの写真があり、個別のクリックで閲覧するに時間がかかるので、スライドショウの直リンク↓を貼っておきます。

http://picasaweb.google.com/tigrimpa/wLVhCF#slideshow

★このアドレスを青地にして右クリック、出てきた窓の案内アドレスをクりックして案内されたHPを開く。中のスライドショーのアドレスをクリックしてください。

                   市民の風の太田光征
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★この記事の文科系さんコメントの方法でもサイトに入れます。

☆文科系さんの提案でもありますが、このガザのスライド写真を友人に広げてください。この侵略の酷さを、まず知ること、知らせることこそ大切だと思います。
                      (ネット虫)

コメント (3)
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随筆 「酷い人!」  文科系

2009年01月05日 17時11分01秒 | 文芸作品
大晦日31日の夫婦して大忙しのなか、忙中閑ありの昼ごろのことだった。僕が友人に送ったばかりのあるメールを連れ合いに読み、聞いてもらった。案の上、烈火のごとく怒りだした。
「あんた、なんて酷いこと書くの! 」
「いやいや、直ぐに返事が来たけど、全然怒ってないよ。全く心配なし」
「そんなっ、そんなの、自分を抑えたに決まってる。こんなこと書かれて怒らない人なんかいるわけがないでしょう」

ここまでの経過はこういうことだ。この08年春初対面で、この年できたばかりのある友人が前日30日に、自分史の一部を添付したメールを送ってきた。大変仲が良くなったし、いろんなやりとりの経過もあって、書きためていたものの初めの方を要約して、詳しい自己紹介として送ってきたという感じだった。すぐに批評を書いたのであるが、同人誌の活動を15年やってきた僕は、月例会の批評態度そのままで応えた。自分史というものを文芸文として扱ったのだ。こんな具合に。
「自分の歴史の事実を書くのは良いけれど、それを形容するときにこんな言葉を使うものではありません。独りよがり、『悦に入ってる』と思われる。いわく、『自由奔放』、いわく『波乱万丈』。こんな形容をするとすぐにこういう批判が出ますよ。『こういう言葉は他人が使ってくれるもの。あんた、自分がそうだと豪語するほどに他人の人生を知ってるの?』 こういう自己形容はダサイの一言。表現自身も陳腐だし。
ただし、先手を打って自己弁護を一言ね。僕の『自分史的小説』にこういうのが多少あったとしても、それはあくまでも小説であって、自分史ではないからね。もっともこんな『波乱万丈』なんておおざっぱで、陳腐で、ダサいのは、絶対にないと思うけど」
そう、僕の同人には確かにこんなダサイ表現を用いる人はほとんどいないと、断言できるのである。思えば、長年かかって仲がよくなった同人に対するように自然に振る舞ってしまったのだった。

さて、連れ合いにこう言われると流石、多少は心配になってくる。そこで、僕ら夫婦のこの会話内容をそのまま送って、打診してみることにした。その日のうちに。こんな言葉も入っているメールである。
「彼女はきわめて常識的な、良い人間なんですね。典型的な『内弁慶の外鼠』だけど。そういう人には僕が書いた『自由奔放』『波乱万丈』批判はどうも、酷さの極地になるらしい。僕は早速こう返しましたよ。『営業畑の人にとっては相手の言葉はこう聞けね。褒め言葉は話半分ならぬ十分の一、ケナシ言葉は十倍ぐらいに。自己批判言葉はほとんど謙遜で、万一自慢を喋ったらよっぽど自信があるのか、人格がどこかおかしいのかね。そういう世界の人には、友達ならばこそ本心を語ることにしたんだから、それも分からない貴方が僕になんか言うんじゃない!』」
返事が来たのは、珍しく1日ほど遅れた元旦の日のことだった。こんな言葉が入っているから、当然目に付く。
「私以外の人ならどのように感じたかな? 」、「そうすると『そこまで断言するのは如何なものか』とも思いたくなる」、「世間の常識から言えば奥さんの方に軍配かな。というのは、あなたは余りにも自分の考え方に固執している」
こうなると僕も、反論を書かざるを得ない。きちんと、冷静に、書いた。

さて、それへの返事が4日になっても来ないのである。今の子どもたちが、携帯に返事が来ないとやたら不安になってくるそうなのだが、まさにそれと同じなのだろう。短気な僕はもう待てなくなって、その朝メールを出した。「怒ってる? なら、ご免」という表題ではあるが、それまでの僕の主張はなにも撤回してなくて、いくつかの「誤解」を想定して、それを解こうという内容のものだ。僕は、大変気の強い連れ合いとの50年に近いけんかの歴史で、こういうのには慣れている。「決定的な時」には相手の出方など待てなくって、いつも僕の方から「手を差し出して」しまう。多分、やたらに「人恋しい」質なのだろう。直ぐに返事が来たのは言うまでもない。「(以前の文の表現には)驚いた」とか、「ショックを受けた」とか「もう少し穏やかな表現を使ってくれるほうが」とかの言葉はあったが、結論は「全然怒っていない。大切にしたい貴重な友人である」とあった。

さて今、僕は考え込んでいる。彼は、本当に怒っていなかったんだろうか? 連れ合いと同じように「待つことができる性格」なのではないか? 相手の次の態度を見て改めて次を考えようと。そして、「怒ってる? なら、ご免」を読んでから、こう思った。
「やっぱりこの人はストレートなだけで、大事に思ったことほど批判はずけずけ言うが、嘘やお世辞を言えない。信じられる人だ。それになによりも、僕と仲良くしたがっている」
いやいや、僕がこう出るかもしれないと「待つことができる人」とは、どんな人だ? 営業などで嘘やお世辞に慣れていれば、とっくに僕が「こういう人間」だと分かっていた? だとすれば全く怒ってなんかいなかったはずかな? とすれば、僕の当初の「判断」は、全く間違っていなかったことになるが?


コメント (3)
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