goo blog サービス終了のお知らせ 

九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「キーワード」とエントリー  文科系

2012年11月08日 07時02分26秒 | その他
 このブログの過去エントリーを通し読みしていて気づいたことがある。「キーワード」と、もう一つはキーワードに関わって、このこと。記事によってキーワードがたった一つしかヒットしていない時もあるし、サッカー記事などでは10もあることがある。このことは、エントリー記事を書いて多くの人に読んで貰おうとするときに、ある知恵を授けてくれるのではないかと考えついたのである。少々の分析・考察を試みてみよう。
 キーワードの多少、極端なバラツキで例を挙げれば、こんなことがある。10月27日の「大罪・原発被爆児童の尿検査」ではたった一つ「ホールボディカウンター」だけ。対するに翌日28日の、ザック(50)は10もあるのだ。どうしてなのだろうと原因を考えるとき、即二つの仮説を思いついた。一つは単純に、人気のある領域はキーワードが多いということ。この仮説は正しいだろうが、単にこのことだけからは先の『たった一つ「ホールボディカウンター」だけ』は、説明がつくまい。同エントリー中には、福島県、セシウム、尿検査、原子力などもあるのだから。僕はここに検閲が入っているのではないかと疑念を持つのである。公安が関わっていると噂もある28日の「角田美代子」でも、キーワードはたった一つだけだったことでもあるし。つまり、こういう仮説だ。各省庁官僚たちが、世論として盛り上がって欲しくない領域の言葉を意識してネット界から排除するような活動、要請をやっている。直接よりも間接、目に見えない形を中心に。と、そんなことを僕は思い描いた。例えば、広告会社を通じてスポンサーから圧力をかける、とか。
 さて、この仮説が正しいとすると、エントリーについてこんなやり方も思いつく。キーワードに引っかかりそうもないジャンル、領域をエントリーする場合、畑違いな言葉を比喩表現などとして入れることだ。その場合、検閲にかかりそうな記事は特にその裏をかくことである。スポーツ用語や選手名を使ってみたり、流行の芸人名を使ってみたり。多くの検索に乗るのは確実で、読者が増えるかも知れない。
 また、「この記事をこういう関連が深い領域の人にも読んでもらいたい」という場合にも、そういうヒットを意識した言葉、概念を入れることもできる。

 誰も意義があるとしてエントリーを書くものであるから、多くの方々の目にとまることが好ましく、邪道ということではあるまい。27日の拙エントリー「被爆児童の尿検査」の中日新聞記事紹介などは、全国の人々にできるだけ多く読んでもらいたいと切望するのだし。それがたった一つ「ホールボディカウンター」という言葉だけにヒットするように押し込められているのは、僕としてはきわめて不本意だった。この「ホールボディカウンター」等は逆に、経産省にとってこういう意味があるのだろうなどとも、考えてしまう。経産省批判者を探し出すためのキーワード、と。この論理で言えば、尿検査などは経産省にとってこういうことになるのだろう。「過激すぎる言葉」「世論になったら大変だから、規制したい言葉」。どうせネットをやるのならば、経産省官僚などの思惑を逆手に取ろうではないかということにもなるのかな。
コメント (25)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観光スポット  文科系

2012年10月21日 01時59分27秒 | その他
 若い頃の知人が、北海道からご夫婦で来名した。僕を訪ねてのことだから、あらかじめ電話などで相談し合って予定表を作り認めていただいておいて、こんなふうにご案内をしたので、何かのご参考までにご報告してみたい。2泊3日をこう動いた。
 最初の日が午後からでトヨタ博物館、その足で下呂温泉に行き、宿泊。次の日がまず白川郷の観光から、お昼は郡上八幡の観光簗で鮎の昼食、次いで犬山城とお隣の国宝茶室・如庵というコースだった。鮎の昼食は、郡上のこととて現に目の前で捕れているもの。犬山城は「数少ない国宝のお城の中でも最も古い物」という趣向だ。北海道には鮎はいないらしいし、古いお城もないだろうとも思ったが、どうなのだろうか? 如庵は僕としてはいつみても興味深いし、犬山って二つも国宝があって得な街だと改めて思ったもの。三日目は、名古屋城を外から一周して、熱田神宮。最後が、今松尾芭蕉展をやっている名古屋市博物館ということだった。食事は、2日目夕食が僕の馴染みの店でのフランス料理と、3日目の昼はこれも馴染みのお店で味噌カツを食べてもらった。
 高山から飛騨清美・白川郷までの高地では、すでにきれいな紅葉が見られた。荘川辺りの気温は11度とかで、空も高くて気分がよかったこと。もうめったに会えぬこの友人、果たして本当に喜んでくださったろうか? 僕としてはただ単純に、一期一会のような気持ち、感覚だったように思ったことだったのだが。
   
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピロリ菌除菌の勧め  文科系

2012年09月30日 17時32分52秒 | その他
 今日の中日新聞15面全部を使って「ピロリ菌をやっつけろ」「胃がんの主因 対策を」という記事があった。記事最初の方にこんな文章がある。
『「胃がん撲滅計画」を提唱している北海道大学医学部の浅香正博教授(がん予防内科)は「日本での胃がんの原因は、95%以上がピロリ菌感染というデータが、昨年発表された」と話す』

 さて、僕はふっと思い出した。このブログが始まった頃ここに良いエントリーを多く書かれていたへそ曲がりさんのことを。自らが胃がんを発病され06年10月に初の手術、その後の闘病経過なども08年9月3日に亡くなられるまで書き続けられた方だった。最後のエントリーは08年7月21日である。闘病経過などは例えば、07年7月28日「近況報告」がある。彼のここでの活躍は、08年9月16日管理人さんの訃報・報告に詳しい。

 さて、へそ曲がりさんに上の知識があったら胃がんになる前にピロリ菌の検査をされていたろうかと、そんな事を考えつつ、みなさんにもこの検査を是非お勧めしたい。上の記事文中にも書いてあることだが放置すれば確実に次のようになるということだ。「ピロリ菌感染ー慢性胃炎から潰瘍などー萎縮性胃炎ー胃がん」と。
 これは最新の知識であって、この知識がある人は実は大変少ないと思う。今の医療制度では、ピロリ菌感染に対して積極性がまったく感じられないからである。僕の体験を書いてみよう。
 僕は25年ほど前に内視鏡検査で感染が分かった。しかし、何かピロリ菌派生症状がなければ除菌は勧められないのである。これは今でもそうのはずだ。別の理由で内視鏡をやってピロリ菌が見つかっても、異変がなければこの存在をご本人に告げられない事さえあるはずだ。僕の25年の経験でそうとしか思えないのである。胃がんで死ぬ国民の95%がピロリ菌によると分かってきたというのに、こういう医療の実態は大問題ではないだろうか。僕の場合は、最近内視鏡検査を受けた折に胃の萎縮があると言われたので、除菌を願い出た。医者の応対からすると僕が何か無理矢理頼みこんで除菌が実現した感じがしたものだ。除菌したらきわめて調子が良い。胃の調子はもちろん、なにか鼻の調子まで良くなった。慢性的な鼻水がなくなったのはどうも関係があるらしい。というように、長年連れ添ったこの菌の悪影響は、これがいなくなってから痛感することも多いらしい。それまでの何かの症状を体質などと誤解してのことである。

 記事文中に、先生のこんな怖い言葉もあった。
『そして「除菌療法は早ければ早いほどいい。50代以上は除菌だけでは胃がんの予防が難しいので、除菌後も定期的な検診が必要だと強調しておきたい」と話している』
 こんなに怖い感染がこれまでの医療体制では、放置されていたに等しいのは一体どうしてなのだろう。医療保険がピロリ菌に「推定無罪」を適応したら犠牲になるのは国民の命であり、助かるのは年金財政なんじゃないかなどと、ひねくれていたものだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無関係のように見えることを書くのは   文科系

2012年08月31日 21時45分56秒 | その他
 以下は、この1月15日のエントリーの再現です。僕のどうしても分かって欲しいここにおける立場の記述であって、何度でも主張したいことなので、書きます。


【  改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」   文科系

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった6年前からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、ナンセンスな政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。】
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「好ブログから、お応えがあった」  文科系

2012年07月01日 04時25分13秒 | その他
 6月24日の記事『嘉田滋賀県知事の大飯発言「変転」の一解説』が関って、このブログ発展に向けても価値のある、とても興味深いことがあった。名古屋市守山法律事務所のブログに、以下のような当ブログ紹介・推薦文章のようなものが載ったのである。これは、拙稿中の以下の文章への応答でもあると思われる。
『嘉田由紀子滋賀県知事の大飯原発発言「変転」で、とても優れていると思われる分析を読んだ。名古屋市守山区の守山法律事務所からでている「街の弁護士日記」というブログ。筆者は岩月浩二弁護士と思われる。全文ご紹介するので、じっくりお読み頂きたい。なお、最近知ったこのブログは、至る所に専門性が匂い、全般的に気に入ったと申し上げ、皆さんにもお勧めしたい』


とか何とか起きる中で、堤未果「政府は必ず嘘をつく」(角川SSC新書)(なお、なぜか、アマゾンもBK1も1週間から3週間かかるという)を読みながら、何の脈絡もなく、今は、「グローバル金融帝国主義」の時代だと思った。
紀伊国屋書店が早いことがわかったので、貼り付けておく。直接、書籍にはリンクしないようなので、同書店で検索をかけてください。
そう思ったら、この後、10年から15年くらいの流れはおおよそ推測がついた。要するに、金融機関は、バブルで儲け、バブルがはじけて損失が出れば、国家にカネを注入せよと求める。金融機関が国家を食う図である。

バブルの対象は、何でもよい。原子力でも構わない。医療はすでにそうなっているようだし、TPPはそのことを強く求めている。近い将来、食糧がバブルの対象になるのは必至で、水もなりそうな勢いだ。

国家から出るお金は、結局の所、国民が働いて納めた税金である。
金融機関のバブル遊びのために国民は働いているのだ。
その末は、破綻しかないだろう。この循環の中では、やがて国家が没落し、金融機関も道連れになる。金融機関としては、没落するまでは、ばかばかしくて、この構造は捨てられないだろう。

なんて思っていたら、とっくに「グローバル金融帝国主義」を前提に議論を展開されているブログサイトを知った。
「9条バトル」である。名古屋のサイトだ。心強い味方のようなので、紹介しておこう 


 上の文章からはワンクリックでそのまま、当ブログに移行できるようになっている。その際に出てくる移行画面は、22日の『「国家がなくなる」?』である。さて僕はそこで、上に紹介された堤未果著「政府は必ず嘘をつく」を、即昨日、買ってきた。すぐに半分ほどを読み飛ばして、岩月弁護士の言われたことがもう分かったような気がしている。「グローバル金融帝国主義」の世界支配深化をば、別の側面からも学ばれたらどうかと、そんなことを語られ、教えられたような気がした。世界大金融が世界諸国家の国家資金を簒奪し尽くしていく道はいろいろ多様かつ手のこんだものだよと、例えば日本の福島大惨事もそういう方向邁進に向けてさんざんに活用されてしまうから警戒が要るよと、そんなことを教えて下さったような。

 この本、堤未果著「政府は必ず嘘をつく」の内容もいずれ近く要約、紹介したい。
 他の皆さんも、単なるリンクというのではなく、こういう推薦文付き、良い記事の転載付きで、他ブログなどをどんどん紹介されたらどうだろうか。というよりも、こういうことを今後恒常的になどと大きくやっていくことが、それぞれの専門性を生かしあって双方の視野を広くしてくれるような気がする。グローバル金融帝国主義はおそろしく戦線範囲の広大な相手だから、とても意味のあることではないか。例えば、医療とか福祉とか環境問題とかのよいブログ、サイトをご存知の方は、実際にやって欲しいな。守山法律事務所の記事は僕がウオッチしていくつもりである。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉だけ世界への自戒  文科系

2012年06月03日 12時04分11秒 | その他

 言葉だけの世界って、難しい。ましてや、見ず知らずの関係のままの人々が言葉だけで自分をもさらけ出しつつ話そうとするブログのような所は、特に難しいと思う。反論・再反論、批判・反批判と続いていけば、誰でも嫌でも自ずから自分をさらけ出していくことになるのである。自己評価のようなもの絡みの喜怒哀楽も伴わざるをえぬせいか、言葉がどんどん過激にエスカレートしていく場合も多いようだ。
 かと言って、喜怒哀楽が伴わない言葉だけの世界は、僕で言えば実がないような気もして、さっぱり面白くない。特に日本人の政治論などは、慇懃無礼な官僚世界と大差ないものに感じられてならないのである。抽象的活動家、30年近く使用してきた僕の造語だ。家庭内民主主義がない自称「民主主義者」のような者だと言ったらよいだろうか。言葉だけの世界では、民主主義者と「民主主義者」のこの区別も付きはしない。よって後者が前者に民主主義をお説教するなどということも日常茶飯に起こっているのではないだろうか。そんな事実を良く見知っていると、言葉だけの世界なんて幻滅することも多いのだ。

 面と向かいあったコミュニケーションでは、言葉自身の果たす効果的役割は5割以下に過ぎないそうだ。口調、全身表情、相手との歴史・間柄などが果たす役割が意外に大きいということだろう。コミュニケーションの武器を5割以上も持参し忘れた討論場! 外国人と話すようなモノだと思っておいた方が良いのかも知れない。が、なんせ常時エントリーを書いて来るほどの人ならば言葉遣いには一応自信もあるのだろうし、言葉だけ世界でも意は伝わると思いがちと、そういう自戒を自分にも、相手に対する場合にもしておいた方が良いのだろう。

 また、こんなすれちがい、過剰反応または過小反応などもあるはずだ。各人の話にはその世界観、そういう構造があって、そのどこかをその時々いはば無意識に「ポンという感じで出してくる」わけだが、聞く方はその話、命題が相手の構造のどのステージのものかなんて全く分からない。
 比較的大きくない批判をとても大きな話と捉えて反批判する場合もあろう。この場合は反批判された方とした方と、一方は軽く他方は重くという扱いの違いから、諍いすら起こりうるだろう。
 他方、その人にとってもの凄く大きい話をどうでもよい話と扱うのは問題は起こらないが、相手を励ますことにはけっしてならないはずだ。普通の世間であれば、何年も付き合ってきた相手になら多少はその気分にも配慮するであろうに、つれない世界ではある。ここが自分の晩年にそれなりのエネルギーを使おうとしている1ステージとしたら、このつれなさは大きな悲しみ、寂しさも伴ってくる。ここでもやはり面談であれば「これは、相手の相当な覚悟も伴ってきた重要な話だな」という感触も受けるのだが、言葉だけからはそんなモノは伝わりにくいのだし。
 まーお互い面識はないのだが長いつきあいなのだし、大切な晩年のそれなりのエネルギーをお互い費やし合っている場所なのだし、もう少し友人らしく対してもよいのではないかと、ちょっと反省している。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞の片隅に載ったニュースから(21) 大西五郎

2012年05月31日 09時11分57秒 | その他
大西さんの「新聞の片隅に載ったニュースから(21)」です。らくせき


「東電労組『裏切った民主議員に報いを』『脱原発』に中央執行委員長不満」(2012.5.30朝日新聞)

「『裏切った民主党議員には、報いをこうむってもらう』。東京電力労働組合の
新井行夫・中央執行委員長は29日、愛知県犬山市であった中部電力労働組合の大会に
来賓として出席し、そうあいさつした。
『脱原発』をかかげる民主党政権のエネルギー政策に、支持団体トップが
不満を示した発言。中部電力労組の出席組合員約360人からは、どよめきが上がった。
新井氏は東電の福島第一原発の事故について『(東電に)不法行為はない。
国の認可をきちっと受け、現場の組合員はこれを守っていれば安全と思って
やってきた』と述べた。
新井氏は取材に『(民主党候補者に)推薦を出すかどうかを厳密に判断していく。
原発だけでなく、雇用や産業の政策も総合的に判断する』と話した。」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――   
 東京電力労組新井委員長の発言は、日本の労働組合運動の主流を占める
連合の中核組合、大企業の労働組合の指導者の考え方をよく表わしていると思います。

 東京電力の組合役員は、原発事故を起こした東京電力が「事故は想定外」と
自己の責任を感じていないと受取られる態度を示していることに、
国民の怒りが集中していることが分らないのでしょうか。事故が起きたのは
大きな地震や津波で電源を失う恐れがあると指摘されていながら、その対策を
怠ったことが明らかになっているのに、いまだに会社と一体となって
「事故は想定外」と言っていることに、あきれてしまいます。
なぜ、東電労組の役員がこのような考え方になるのでしょうか。

 私なりに考察しますと、日本の大企業の労働組合は、組合員の労働条件や
権利を守ることを運動の中心とするのではなく、企業の業績を挙げることで、
そこからいかにしておこぼれ的利益を得るかということを運動の中心に
据えているように思います。そこから当然労使一体化した考え方、
労使協調の運動方針が生まれます。
そして、組合員の数を指導部に与えられた力と錯覚し、選挙で力を貸す政党や政治家が
自分たちに協力するのが当然。国会議員や地方議会議員は自分たちの方針に
従うべきだと考え、「脱原発と言うな」と平気で言えるのだと思います。

 労働組合の役員が、仲間内での非公開の話合いの場で言うのではなく、
電力会社の労働組合の大会といえば現在では当然のこととしてマスコミの注目を集め、
記者が取材にきていることを知っている(現にその後取材を受けている)のに、
公開の場で、このような発言を平気ですることに、現在の大企業労働組合の役員の
感覚が現れていると思います。

                                       大西 五郎


なるほど、多分、発言にも時期があって、政府の再稼動への動きのなかでの
一連のものなのでしょうね。
どうも、期間をかぎって再稼動というシナリオで動いているようですが・・・
野田さんは責任をもって再稼動といっていますが、万一、事故が起こったら
どうやって責任をとるのでしょう?
たんなる口約束ではね・・・

追伸
生活保護費を10%カットに策謀にタレントが公開処刑される国。
あまり北朝鮮を笑えないかも・・・
自民党は、社会保障費をけずってコンクリート政策に、を
政策の柱にしたとか。



コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひまわりさんにお詫び  文科系

2012年05月31日 09時07分28秒 | その他
ひまわりさんにお詫びします。
 僕はあなたに対してこう書いてきました。あなたを名無しさんではないかと疑っていると。思うところあって、本日約半月分のあなたのコメントを改めてすべて読み直させて頂きました。ここにこの疑いを撤回して、あなたへのこの間の失礼をお詫び申し上げます。非常に不快な思いをさせて、申し訳ありませんでした。
 何故撤回したのかは、全コメントを読み直しての総合判断であると申し上げるしかありません。
 これからも、ご批判など率直に頂けることを本心として期待しています。
 重ねて、ご免なさい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハーちゃんの連絡ノート(園の側)   文科系

2012年02月11日 08時46分36秒 | その他
 予告しておいた標記のものを、転記します。以下は、一昨日のブログ記事の翌日の、言わばこれへのお返事に当たるもの。いかに丁寧なものかお分かり願えるだろうかというわけで。毎日1人1人にこれだけ書いてくれるのですから。
 こういうものに著作権とかがあるのかどうか、それはまーヨッコして置いて、ということで、

【 ほんとにそうなんです! ますます”人”らしくというか・・・うまれて、まだ2年も経っていないのに、それぞれの個性や、思いの違いが、近頃たくさんでてきて、ほんとに面白いい、すごいな~と微笑ましく見ているんです! 大人のマネッこはーちゃん、よーくわかります! 今日も、朝、はるとくんとしばらく、2人でのーんびりあそび、ナ(書いている保母さんの名前です)が、はるくんの目線に合わせ、ねころびながら、「は~る!」と首を傾けていると、はーちゃんも隣にゴローン~「タートゥッ!」とおはなししているので、何だろう?と思うと、首を傾けてはーる!と言ってるんです! 思わず、うれしくって、「はーちゃん、これはだーれ?」と聞くと、「タートゥッ!」と首を傾けて、ニッコー!! はるくんも、手をパタパタして、喜んでいて、さらに気をよくして、「タートゥッ!タートゥッ!」とのぞき込んでいました!
 その後、課業は、小麦粉粘土!!
 さらさらの粉をテーブルの上にまくと、ダーイッブ!!すべり込んで、顔をまっ白けにして、大喜び。口についたものを、フッーフッーと吹くんですが、粉がまって、顔をブルブルしたり、ほんとにかわいいです。あおむけで、すべってみたり、豪快! その後、粘土にすると、お団子にしたり、おせんべいにしたり、楽しんでいました! 】

 こどもって、真っ黒になって遊びながら育ち、賢くなるもの。最近イーオンなどで見る子どもたちは何か、タレント養成所にでも通っているのと見える子も多いのですが、あれで真っ黒になれるだろうかとジジは心配になるのです。こういう保育園は貴重だと感じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハーちゃんの連絡ノート(家庭側)   文科系

2012年02月09日 19時03分26秒 | その他
 先日(1月6日)、保育園が書いてくれる連絡ノートの何日分かをここにご紹介した。毎日こんなに熱心に書いてくれる園があると、世に紹介したくって。保育園って、意外に大きな差があるのである。同じ自治体傘下なら同じ保育料なのに。こんな熱意溢れた保育園には、家庭の方も懸命に書くことになる。今回は家庭側で書いたものを、一昨日書いた僕の記事で紹介する。娘夫婦はパパ、ママ両方で分担しあって書いているのだが、忙しい時などに時々僕が頼まれるのだ。ものを書くことが好きな僕は、喜んで引き受ける。
 ハーちゃんのことを初めてお読み願える方にですが、1歳4ヶ月の女の子です。


【 ジジが書いています。
昨日のそちらが書いて下さったノートはとても面白かったと、評判になっていました。読んだのは3人。僕とパパ、ママです。どこが面白かったかというと、ハーちゃんの対人関係の現状が目に浮かぶようによく分かって、みんなでなるほどと語り合っていたというわけ。「ひろゆきくんに(彼の名前が入ったおもちゃを取り戻そうとしたら、その彼にーー僕の注、以下同じ)、キィーッ!」とか、「(保母さんが同じようなおもちゃで)かえっこ!(と取りなしたこと)」は素直に応じたとか、自分らの部屋に戻る時の「(その大きい組さんのおもちゃ箱に)かえしにいくのです」などが。
 また、踊りの場面も納得。なんせ近ごろは、家で毎日踊っていますから。音楽をかけると必ず。それも、かなりいろんな踊り方をする様になりました。僕らがやってやるのを見ていて、真似をしながら。僕らとしてはこれは、リズム遊び狙いのつもりなんです。
 人まね言葉も豊富になっていると思います。それも多分、多少意味が分かるものばかり、とも。全く自分に興味ない、意味の分からないものなら、真似もしないでしょうから。つまり、先生たちがいわれる様にここでも、人の言うことを理解する力が急速に高まっているということだと考えています。この点はとても意識して働きかけているつもりですので、まだまだ急進歩していくと予想します。

 今日もママが遅くって(8時半ぐらい)、我が家で食事をしました。大喜びで走り回りながら。この、嬉しくって仕方ないという行動によって、終始興奮していることが良く分かりました。ママが帰ってきてからはちょっと落ち着いたのですが、これを書いている今はもう9時半で、睡眠が心配。明日はきっと、オネムのハーちゃんでしょうね。まだ、目がぎらぎらです。書き終わったらすぐに帰します。】

 近いうちに、上の記事への園の応答記事をお伝えしてみたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「世界を狭くした話」、その後の報告   文科系

2012年02月07日 21時19分59秒 | その他
 前に二度ほど標記のことを随筆にしましたが(11月30日など)、その後の報告をさせていただきます。コメントを下さるなど、ご心配をおかけした方もいらっしゃいますし。

 結論は、雨降って地固まると、全て上手く行きました。あれから親しい友人のK君の手紙以外にも2人の方から「出てこい」との℡を頂きました。それで、出席して、その後の経過をも書いたあの随筆そのものを読ませてもらうことに心を決めました。随筆末尾では問題の随筆「死にちなんで」(昨年10月10日掲載)そのものを読むつもりということでしたが、その後の僕の心境をも綴った「世界を狭くした話」の方を読むのが適当だろうと考えたのです。

 さて結果は予想以上のもので、二、三やりとりはありましたが、K君がこう取りはからってくれたのです。
「僕も太極拳をやるし、H君は詩吟をやるようだ。ただ飲むだけではなく、これからはそういうものの交歓もやることにしよう」
 そこまでの経過として、こんなやりとりもありました。
H君「ただ、『ごめん』の一言でよかったのだ」
僕「次に同じようにこういうものを読みたいし、その時に同じことがおこるといけない」
別のK君「今度読む時は、全員分をプリントしてきてくれ」
僕「了解」
 
 さて、この経過、結末を、随筆を載せた同人誌に報告することにもなりました。そしてその後の合評会で「世界を狭くした話」は、こんなふうに扱われたという報告も添えたいと思います。その都度同人の1人が分担する合評会報告から、短い抜粋ですが、また面映ゆい感じもありますが。
「『世界を狭くー』 親しい同級生仲間との亀裂。作者の態度が礼を失するのは事実。が、それも個性ですと押し通す作者の独りよがりともいうべき強さと潔さに拍手。お連れ合いの達観視した意見も好感がもてる。後に仲間とほぼ元通りの関係にと聞き、友情に乾杯」
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名無しさんへ 文科系

2011年06月23日 17時29分24秒 | その他
コメントに書いたものを、加筆して投稿に格上げします。

 2011-06-23 18:07:21

 名無しさん、ようこそ。ここが始まって5年半、この運営に自然的かつ自主的に携わってきたと自認だけしている者としてひと言。

 こういう時代、いろんな人がここに来ます。右翼全盛の時代ですから、職業的な人も来るようです。「九条バトル」ですから。そして、「九条のことだけでなく、人間的なことに関した文章なら何でもどうぞ」と言われる管理人さんの方針が成功した多様性もあるのでしょう。

 このブログには、こんな特徴が自然に生まれてきたと僕は思っています。
①エントリーを書いている人は数人ですが、その割にコメントは少ない。
②エントリー文章はどれも長文ですが、アクセスの方1人が日に約5回も訪問されている。つまり、相当コアな訪問者がいて、支援され、賑わっている。
③05年11月の開設以来、週の延べアクセス数で言いますと、こんな推移をたどってきた。
 ほぼ500人超は、1年半経った07/4月
 同千人超は、翌08年/5月
 そして、同1500人が、09年/6月
 さらに同2000人超は一進一退を繰り返して難しいところなのですが、四捨五入しておおむね1900以上ということで09年の8月。
 最後に、いわゆるこの「3.11以降」は2500を超えた週がほぼ6月初めまで続きました。現在もまだ、そのピークの延長時期と観ています。
 過去の週最高は、アクセスがこの5月8日からの週で3,426人,訪問数では昨年5月16日からの週20,155です。ちなみに、後者の第2位は、これも5月8日からの週で18,306でした。
 この年月のなか、エントリーの皆さんそれなりの工夫をしていらっしゃる訳ですが、継続は力だと第一につくづく思います。特に、09年の政変以来何かちょっと質的に前進したような気がして、こんな風な感慨を持ちました。
『継続に携わってきて、良かったな!』

 管理人さんも何かご病気とからしいですが、こんな風に語られています。『僕もこのブログをやって来て本当に良かった。家族に次いで僕の生き甲斐だし、人生晩年最大の彩りだね』

 今の世で、こういう場の多様性を尊重して継続し続けることは本当に難しいです。嫌ならすぐ消えていかれますし、あっさりと無視されたりもしますから。乱暴な反論も、暴言ですらも、無視よりはマシと考えるしか仕方ありませんでしたね。たとえ犯罪者でも、黙秘権の権利があるのだからとか、ね。ともあれ、「何となく読みたくなる」とだけの「熱心な主体的選択数」だけでこれだけの継続的積み上げ!こういう数は力だろうと考えてやって来ました。別に自分の意見を隠すことなどは全くしてきませんでしたが、曠野に叫ぶ、あるいは意見の合う者とだけ気勢を上げるというのも、つまらないと思っています。
 こういうやりかたでこれだけコアな読者が系統的に増えてきたというのは、振り返ってみるととても嬉しいことだと、考えています。 】

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰か、直して!  文科系

2011年05月09日 15時36分49秒 | その他

 エントリー画面が過去にも遡って、見にくくなったと思う。太くて、目が疲れ、苦痛に思う。変えた人に頼みたいが、前の画面に戻して欲しいと、僕は思う。よろしく。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再掲 【「日本主義」の形について】  文科系

2011年03月05日 16時53分19秒 | その他
 最近の「日本主義思想」の感じ方に関わって、以前ここに書いたモノをまた再掲します。

【「日本主義」の形について  文科系
2007年07月08日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

皆さん。保守系さんとお話する場合にご注意したいことがありますので、一言。僕が、このブログ開設当初から最も長く彼とやり合ってきたその体験の結論的な話として、彼の「世界観」を示してみたいと思います。僕なりに体系的にしてお伝えしてみたい。それは特殊体系的なものでありすぎて、それを踏まえなければ、何を話してもすれ違いの会話にしかならないものですから。日本近代史上の事件認識などに噛みついてくるから話が始まるという経過から、彼とは先ず史的実証論議をやりあうことになるのですが、実は全く実証的な人ではないんですね。

①いくつかの「主観的な大命題」を疑うことなく持っていて、それをあれこれ手を変え品を変えてアピールするだけ。まー信念の人、というよりも独断・狂信の人です。無意識も含んだその「哲学」こそもちろんそうだし、そこから来る「日本文化論」、政治思想、経済思想すべてにおいてです。僕は「日本主義者」と呼びましたが、とにかく「人類文化の大道」から恐ろしくかけ離れた一種の「選民主義文化論」でもありますね。いわゆる右翼論壇が生み出す一種の「体系的日本主義思想」とでも言えるものでしょう。もちろん結果としてファシズムに結びつく思想でもあります。
こういう人がどんな実証的、断片的問題を語っていると見えても、以下の思想を語っていると素直に思っておきましょう。そして、彼らの歴史認識の一つを完全に論破しても、この思想自身は微動だにしないという癖もあります。
こういう「日本主義」は、以下に見るように非常に戦闘的な本質を持っているところから、おのれを否定するものにかみついて、世を「戦闘的に啓蒙すること」が専門です。よって、自分の「世界観」を全体的形として示すことはありません。ですが彼らの「形」をつかんでおくことは大事です。
彼らの独断的信念のいくつかをご披露し、思想の「形」を示しましょう。これはそういう試論です。

②人間とは「社会ダーウィニズム」さながらの弱肉強食動物であり、そういう行動が国家どうしの間でも第1のことだ。それが戦争である。
・こういう動物的エゴ人間どうしをセーブするのがそれなりの国のそれなりの伝統、習慣、文化というものである。国家としては当然、戦争を覚悟して、相当の軍備を備えることが最重要の課題である。でないと個人も必ず全てを失うことになる。国家防衛は個人の至上命題でもあるということだ。
・良くも悪くもこうした「国家伝統・文化」とか、「国家の戦争・外交」とかに比べれば、人間の他の問題は無意味か、暇人の慰めかということだろう。こういう「現実論」以外の「真理」も、他人のために死ぬという日本的武士道など以外の美などの芸術も、民主主義も、自由でさえも、もちろん愛も。そして逆に、あえて言えばこういう国の伝統、戦争にかかわるものならばどんなものでも「善」となるということだ。
・日本の伝統と文化は世界有数の美しいものである。日本人ほど道徳的な人種も珍しい。その中心には天皇がいた。天皇は公平無私であって、歴史上の天皇の悪そうな行為はほとんど、周囲が悪かっただけである。否、極端に言えば、悪い天皇がいたとしても「皆良かった」と見ておいた方が日本の子孫のためになる。

③こうして、こういうことになる。
・今の日本を大日本帝国憲法下に置いても、一向に構わない。核武装をしても良い。というよりも総合判断したらすべきとなるだろう。
・こういう国の文化、戦争準備に異を唱えるものは、我々を滅ぼすも同然の愚かな敵と見た方がよい。
・第1に民主主義などと叫ぶ左翼。民主主義とは、フランス革命を見ても分かるように、野蛮で無知な大衆による恐怖政治をもたらすだけというようなものだ。日本のアメリカ化に寄与するもの。あの国の「自由」も、伝統なき悲しき国の野蛮丸出しというようなものである。あの消費文化はノーテンキな馬鹿さ加減だし、上は虚栄、それに従うポピュリズムの酷いこと!虚栄の為政者は権力臭丸出し、日本的ソクイン美の欠片もない。
・伝統らしい伝統のない国、弱い国は、個人のエゴや戦争に弄ばれるだけで、語る価値もないだろう。支配者や文化がくるくる変わった中国や朝鮮が日本のような国に一体何が言えるというのだ?南米もアメリカの植民地同然であり、アフリカは西欧の属国であって、いずれも語る価値もないものだろう。

以上に対して少々の批判はしておかねばならないでしょう。つまり、弱点の指摘です。一言で言えば、人間や社会のある一面を全部とするような、独断ということではないでしょうか。
人間は争い合っても来ましたが、そのお互いが涙を流し合って仲良くしようと心から誓い合ってきたこともあったはずです。国家間でもそうだからこそ、例えばEUができた。国連がアメリカを押さえようと必死なときでも、そういう努力を彼のように嘲笑してはいけないはずです。そして国家間を調整しようとするような国連の役割を小さく見過ぎてもいけないはずです。また、日本の天皇にも、悪い人がいなかったわけはない。小国にも日本以上の美がなかったわけはない。そういう側面を教えようとしない教育はやはり悪いものでしょう。さらに民主主義イコール恐怖政治とか、自由イコール勝手放題とか語るのも、極論といえるはずです。】


【「日本主義」の形について 2   文科系
2007年07月16日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 今月8日に標記の題名で投稿した。それに関わって、月1回の読書会の今月選定本に興味深い記述、資料があった。おそらく「明治~昭和の日本主義思想の原点」と言えるものだろう。
本の題名は「安心のファシズム」(岩波新書、斉藤貴男著)。この本全体はどうということもないものだが、そこの第5章に、明治の国法学者、東大総長、加藤弘之の思想が後世に与えた影響が紹介されていて、その内容が、先回まとめた保守系さんの「形」と瓜二つなのである。なんのことはない、近頃書店に山積みされた日本主義学者の一連の諸著作は、加藤弘之からも学んだに違いない。
以下の記述と8日に僕が紹介した「形」がいかに瓜二つであるか。ご確認されたい。なお、浅学の僕は先回の「形」を、加藤弘之の思想など全く知らずに保守系氏とのやりとりからだけまとめたものであると白状しておく。

「日本はどうか。この国における社会ダーウィニズムの複雑な受容史は、東京大学の初代学長で、明治期最大の学傑と言われた加藤弘之(1836~1916年)の精神史を辿ることで理解することができる。
天賦人権論を掲げて立憲政治を唱える啓蒙思想家として知られていた加藤は、社会ダーウィニズムに出会って自説を撤回、見事なまでの『転向』を果たした。1882年に出版された『人権新説』で天賦人権論を『妄想に過ぎない』と断じた彼は、民権に対する国権の優位、あるいは『上等平民』による支配の妥当を説いていく。(中略)
自他ともに認める社会ダーウィニストに変貌を遂げた加藤は、しかし、適者生存の理念を集団間(国家や人種など)にどう位置づけるかで大いに悩まされた。素直に適用すれば白人種の欧米列強による世界支配は正当だということになってしまうからだが、畢竟、彼はこの屈辱を受け入れることになる。
ただし富国強兵の時代の指導者としては、それだけでは終わらせられない。日本独自の文化を活用した弱者から強者への変身が模索され、ついに編み出されたウルトラCが、天皇に対する『忠誠競争』による国力の強化というシナリオだったという。道徳進化を促すメカニズムとして『自力淘汰』の表現が充てられ、本質的に利己的である個人の適者生存への本能を忠君愛国に向かわせるためには個人と国家のそれとが完全に一致していると思い込ませる誘導が図られていった。(中略)
重大な自己矛盾を、少なくとも加藤の内面では克服させてくれたのが、『武士道』ではなかったかとする解釈がある。」(P186~7)

ちなみに保守系氏も、人権と聞くと「フランス革命の恐怖政治」や「衆愚政治」・「ポピュリズム」を思って鳥肌し、「武士道」と聞くと涙を流さんばかりに感動すると告白されていた。天皇の下の「上等平民」による「富国強兵」こそ彼の理想なのだ。これは、ファシズム以外の何物でもなかろう。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近、Jワード検索内容が変わりましたが  文科系

2010年12月10日 17時23分07秒 | その他
 最近、Jワードのサイト検索内容が大幅に変わりましたが、ネット虫さんなど、分かる人がいらっしゃったら、教えてください。この変化がなんなのか、どういうことが考えられるのかを?

 以下の作業をすると前はこうだったのに、今は、こう変わりました。
 前の作業はこうしていました。そして、こんな結果が出ていました。例えば僕の投稿の一つの題名をクリックして青転にする。そしてJワード・サイト検索を懸ける。すると、Jワードのサイト検索自身は「無し」と出るけど、Jワード画面の中にヤフージャパン画面が出ていて、そこに当該の題名の僕の記事を紹介しているブログ名がずらーっと全部出る。例えば「ザック連載」の僕の記事なんかでは常時100ほどのブログで紹介されていたことがすぐに分かった。ちょっとした随筆なんかでも、20とかのブログが紹介していることも分かりました。直接に僕の投稿名に関係あるものしかほとんど出なかったからです。せいぜい、10とか200ぐらいの数で。僕は、それが励みになって結構書いていた側面があります。勿論、自分の執筆方針は全く変えず、すべて以前と同じでしたが。

 ところが、これが最近、全く変わってしまった。こんなふうにはなはだ「ボカス感じ」になってしまった。
 同じようにするとやはり同じようにヤフージャパン画面が出て、同じように「関連記事」が出てくる。ところがその内容が、以前とは全く違うんです。その画面の最初に「9条バトルに載ってるよ」とばかりに、ずらーっと9条バトル自身の紹介だけが並ぶ。そして後は、僕の投稿とは全く無関係の「言葉だけの関連記事・サイト」がもう無数に数千とか数万とか出てくるようになった。その膨大な数の中に以前の多くて百とか、少なくて10とかの僕の投稿自身を紹介しているブログも含まれてしまっているので、どこに紹介されたかがほとんど分からないようになってしまったんです。数千全部を確かめることは出来ないですしね。

 以上から何か、Jワードなり、ヤフーなりの検索関係に「ボカス」ようなチェックが入ったとしか思えないんですよ。みなさん、こういう変更作為?について何か思い当たることがあったら、教えてください。すべてそう変わったんですから。僕の投稿についてだけではなく、他の方のもです。もう、「9条バトルに、その原稿は載ってるよ」ということしか分からない。つまり、9条バトルを他のブログがどれだけ注目しているかということが、全く分からないようになってしまった。このブログの社会的影響力を見えないようにしたとしか、僕には思えないのですよね。世界の150万グーブログで2500位なんてのは、結構な人気、社会的影響ですしね。

 以上、よろしくお願いいたします。
 
 さて、最後に、 他サイトからここを訪れて来られる皆さんへ
 他サイトの、このブログ記事を時に紹介していただいてきた皆さん。皆さんのサイトでもこういう事がありましたか? なんせ以前と違って、皆さんのブログでここのエントリーをご紹介いただいているということが全く分からなくなってしまったんです。つまり、前繋がっていた横の繋がりが、すっかり断ち切られてしまった。これは明らかに悪い改変ですが、全体的なものでしょうか、特定のサイトだけの扱いなのでしょうか。関連情報があると嬉しいです。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする