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九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

僕を追い出そうと、10年の執念   文科系

2017年07月25日 18時48分42秒 | その他
 なんやかんやさんとの討論を僕からご遠慮した理由を今の時点で改めて、ここの200名ほどの常連の方々にお伝えしておきたい。
 その要点を先に述べさせて頂けば、彼の「討論」が彼の「狙い」達成まで続かざるを得ないと、僕が見たからである。「私的文章は他所で書け」というのは、僕にとっては「出ていけ」も同じことになる。そのことを知っている彼が再三僕にそう語ってきたのは「ここを出て行って欲しい」ということなのだ。僕が最初から「人間的文章なら何でも良いから」という友人の懇願によってここに参加して、成功のために12年努力を重ねて来て、自分なりに貴重な晩年の情熱を注いできた者に対して、出て行って欲しいと申し出ているのである。何の権利、もっと言えば「どういう動機から」こんな無礼なことを執拗に、言ってくるのか。

 今回のやり取りは、6月20日の拙エントリー「僕が政治論以外も書くわけ」における応答の前後に端を発している。この文章の以下は、これになんやかんやさんがつけられたコメントを初めにご紹介して、二人の最後の応答で終わろうと目論んでいる。
 なお、こんな彼の「狙い」が、彼の言葉で言えば、10年以上前からここにいろんな名前で参加してすぐの頃から彼の中に抱かれていて、ちょくちょく述べてきたことであるらしい。
『私は、ハンドルネームは変えていますが、10年近くここを見ています』
 そう言えばあのAさんも「同じ狙いと、やり口だったな!」とか、僕に思い当たる人は居る。名前を変えてまでこんな理不尽なことになぜ、どうして執念を燃やしてきたのか。読者もいろんな想像を働かせて頂きたいところである。

 なんやかんやさんは、6月20日エントリーにこんなコメントを付けて来られた。エントリーをお読み願えればお分かりの通りに、以下のコメントが、最初の出だしの「公的」、「私的」の意味と、それに付けられた丁寧な解説からしてもう、僕のこれらの使い方を誤読されている。


【 公的?私的? (なんやかんや) 2017-06-20 14:44:39
 政治的な事柄を書くのが「公的」で、随筆などを載せるのが「私的」で、両者を並列に載せればトータルになると言うのはいささか違うのでは。
 政治的なことを書いてもそれがかたくなで現実性や一般性をもち得ず、相互のディベイトの対象にならない場合には、私的なつぶやきにしか過ぎません。
 一見、私的な随想でも、それらが現実を撃つ内容を備えていればじゅうぶん公的なわけです。
 まあ、一般論はともかく、問題は、文科系氏のお載せになる、随筆類がまったく読まれていなくて、その意味ではここのメンバーに全く共有されていないということにあります。
 ここがまったく私的なブログならばそれでもいいのですが、IDもパスワードも公表されていて、誰もがトビ主になることができる公共の場であるとしたら、随筆類やお孫さんのご自慢はとても場違いな気がするのです。
 もちろん、それらをお書きになりたいお気持ちは分かりますし、お書きになることは自由です。
 そこでいかがでしょう、文科系氏の個人のブログをお持ちになって、そうした随筆類はそちらへお書きになり、その都度、「ブログ更新しました」ということでそのブログのアドレスのみをこちらへお載せになるというのは。
 そうなされば、文科系氏の個人のブログも充実し、それに興味をもつ方はこことそちらを自由に往還できるわけです。
 正直いって現状のベネズエラ論議と、ハーちゃんの話の並列は、文科系氏の「これがトータルな自分だ」との言明にかかわらず、なにか木と竹を継ぎ合わせたようで、ひどくブキッチョな自己顕示を押し付けられているな気がしてならないのです。】

 このコメントを読んだ僕の方は、お返事コメントを出さなかった。ちなみに、上の後半の言葉は「出てけ!」と語っているのであるから、出しようが無く、無視したのである。言い分の性質上言い方は柔らかいが、この文章を誰が読んでも、そうとしか読めないだろう。他人にどうしても何事かをさせようという時に使う飴と鞭の前者の「形」なのである。現に、この言い分に僕が無視を返すと、たちまち言葉激しくなって、こんな鞭、捨て台詞を飛ばして来られた。最後の『討論』をご紹介しておこう。

【 やっぱり (なんやかんや) 2017-07-24 16:35:33
 噛み合いませんねぇ。
 こちらはあなたの書いたテキストに沿って実証的に書いているのに、「こんな風にまともにとられても」とか、そんなつもりで書いたのではない(1970さんがいうところの「誤読」)と言われてしまえば、それでおしまいですよね。
 相撲でいったら、あなたに合わせて立ち会おうとしているのに、あなただけさっさと別の土俵へいってしまっているようなものです。
 こうした場でのまともなディベイトというのは、あくまでの相互のテキストに寄り添った記述のはずです。それに即して話をしているのに、それ自身を否定したり、ただ一方的にお前は間違っていると断定するだけなら、これは俺のおもちゃだと抱え込んで駄々をこねている幼児と一緒です。
 安倍氏のいう「こんな人たちに負けるわけに行かないんです」を地で行ったいるのが文科系さんの現状です。この言い方のアポリアは、それ自身が「こんな人たち」を拡大再生産してゆくということです。】

『 Unknown (文科系) 2017-07-24 21:53:30
「相撲でいったら、あなたに合わせて立ち会おうとしているのに、あなただけさっさと別の土俵へいってしまっているようなものです」 
 貴方のお返事がこのようなものだとは、僕には読めませんでした。それは僕の二つのお返事そのもの、特にその冒頭に書いてきたとおりです。
 それでもあなたは土俵に上がりたいと申し出ておられるのですが、これだけ噛み合わない話には、もう僕は上がりません。悪しからず。』

【 どうしようもないですね (なんやかんや) 2017-07-24 22:27:25
 やっぱりまた覗いたのが間違いのようでいた。
 ここはまともに話し合える場ではないことがよくわかりました。
 もうお邪魔しませんから、どうぞ独りよがりのマスターベーションをお続け下さい。】


 最後に、これは事実だから申し上げておきますが、この「出て行け」「止めろ」と、そのための「鞭」には、1970さんと、名無し君がさんざん加勢のコメントを書かれていました。唯物論を自称されるやのなんやさんと、熱烈与党支持者の後2者が期せずして共闘されたというのは、僕には極めて興味深かったです。なんやさんにはこんな共闘の意識など皆無だったでしょうが、熱烈な右の方々の彼への「加勢」には、僕は吹き出してしまったものです。
「敵の敵は、味方」
 面白すぎました。他方なんやさんは、この一方的加勢を今はどう理解されているのでしょうか。他人事ながら、僕には大変興味深いことです。
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「政治論以外も書くわけ」でお応え   文科系

2017年06月21日 10時00分26秒 | その他
 僕なりにとても大事なことと考えてきた昨日のエントリー「政治論以外も書く訳」への「なんやかや」さんのコメントに、エントリーで答えます。

『 公的?私的? (なんやかんや)  2017-06-20 14:44:39
 政治的な事柄を書くのが「公的」で、随筆などを載せるのが「私的」で、両者を並列に載せればトータルになると言うのはいささか違うのでは。
 政治的なことを書いてもそれがかたくなで現実性や一般性をもち得ず、相互のディベイトの対象にならない場合には、私的なつぶやきにしか過ぎません。
 一見、私的な随想でも、それらが現実を撃つ内容を備えていればじゅうぶん公的なわけです。
 まあ、一般論はともかく、問題は、文科系氏のお載せになる、随筆類がまったく読まれていなくて、その意味ではここのメンバーに全く共有されていないということにあります。
 ここがまったく私的なブログならばそれでもいいのですが、IDもパスワードも公表されていて、誰もがトビ主になることができる公共の場であるとしたら、随筆類やお孫さんのご自慢はとても場違いな気がするのです。
 もちろん、それらをお書きになりたいお気持ちは分かりますし、お書きになることは自由です。
 そこでいかがでしょう、文科系氏の個人のブログをお持ちになって、そうした随筆類はそちらへお書きになり、その都度、「ブログ更新しました」ということでそのブログのアドレスのみをこちらへお載せになるというのは。
 そうなされば、文科系氏の個人のブログも充実し、それに興味をもつ方はこことそちらを自由に往還できるわけです。
 正直いって現状のベネズエラ論議と、ハーちゃんの話の並列は、文科系氏の「これがトータルな自分だ」との言明にかかわらず、なにか木と竹を継ぎ合わせたようで、ひどくブキッチョな自己顕示を押し付けられているな気がしてならないのです。』

 
① 「なんやかや」さんのご批判は、題名も内容も終始「公的、私的」ということを論点にされています。ところで、批判対象である拙稿はこれが主モチーフになっていないと、何よりもこのことを申し上げたい。「公的、私的」を論じているのは僕の文章の最後4分の1程度です。

②、①に関連して言えることですが、こういう構えで始められた「公的」の中心に、こんな表現、言葉も据えられました。
「一見、私的な随想でも、それらが現実を撃つ内容を備えていればじゅうぶん公的なわけです」
 ここに言う「現実を撃つ内容」という意味での「公的」が、拙稿の中心概念なのでもありません。Nさんが大事にするアクチュアルもここから出てくるのでしょうが。

③ 拙稿の主モチーフはむしろこんなところだと考えています。「公的、私的」は、こういう論議の一部にしか過ぎません。
『だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう』
『生活も語って欲しい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい』
 つまり、この「9条バトル」の副題『憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!』ということ通りを、ぼくはエントリーしている訳です。

④ Nさんの反論はこうして、反論としては誤読によるのかどうか的外れでもあり、このブログ主旨からしたら無い物ねだりということになります。ちなみに「現実を撃つ内容」って、何ですか。「こういう」ブログをやる万人に要求するものとしては、固くって狭すぎる言葉、つまり生硬な観点、人間を感じてしまいました。ここの副題「人間的なテーマ」をこのように解釈されたら、ただ困惑するだけです。

⑤ ちなみに、僕の何かがここで読まれていないからやめよ言われましたが、僕はこれらに貴方とは全く違う意図を持っています。大好きなサッカーの随筆は他のどの記事よりも好きな人がいることをよく知っています。同人誌で随筆を書きあっている人々、大切なギターの友人達、ランニングの友達などは、たとえ少数でも「読む意気込み」が違います。ここに僕という人間が存在するというのも、政治と同様にリアリティーのある、アクチュアルなことです。政治や職業のことだけがアクチュアルで後は趣味と言われるならば、そういう政治自身がリアリティーのないものとしてこのブログの立ち位置とは違うものだろうと拝察させていただきました。
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病欠お詫び  文科系

2017年02月06日 20時37分46秒 | その他
 このブログ11年、僕がエントリーをこれだけ書かなかったのは、よくやった外国旅行時も含めて先ず無かったはず。30日に腹痛で病院へ、虫垂炎で即日手術、入院、そして本日退院。この間、入院先にネット入口も、ワイファイもなくって、ここを覗くことさえ全く出来ませんでした。読んで下さっている方には、大変失礼いたしました。
 明日からまた、書きます。ただし、思う所あってここについて今後少し手を抜きます。入院1週間という貴重な「物思う時間」を頂いて近年の自分の生活をいろいろ冷静に振り返ったとき、我ながらここに入れ込みすぎていたと反省したのです。ここに書くための読書などいろんな勉強に費やした時間は入れ込みすぎたとは思いませんが、その他多くここに使った時間はちょっともったいなかったと思う所があったのです。一日平均アクセスがいくら140あったって、この10年やはりここに時間を使いすぎていた。僕に与えられている残り少ない貴重な時間をここに使うのをかなり減らした結果ここの一日アクセスが半減したとしても、やはりちょっと手を抜きたい。ここへの1日平均必要時間3時間は、やはり長すぎました。

 ただし、愛読者の方々には、今後もよろしくお願いいたします。
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あれまさんへ、実践概念を巡って   文科系

2016年12月11日 11時52分46秒 | その他
 昨日のエントリーに、あれまこれまさんから大事なコメントがあった。彼がここで指摘した「実践」という概念は、青年マルクスの思想を彼の哲学的出生地・青年ヘーゲル学派から旅立たせた当のものと言いうるキー概念。さらには、旧社会主義国が潰れた原因をめぐる旧左翼の誤りの解明とか、人類史における自然成長性と目的意識性との正しい関係把握とかをも左右するようなもの。当面重要と思い付く範囲で、きちんとお応えしようと考えて、エントリーに替えることにした。

『 自然過程ではなく (あれまこれま)2016-12-11 02:20:41
 益川さんや文科系さんのいうところはわかります。
 確かに人類史は大まかには悲惨の減少として経過しています。しかし、これとて、そのために尽力してきた人々の営為を抜きにしては語れません。
 つまり歴史的過程は自然史的過程とは異なり人為を介在するのです。したがって、戦争を始めとする悲惨の減少を当為として実践する人々の営みを抜きにして事態を楽観することはできません。
 私が懸念するのは、トランプ現象に見られる世界史的な狭隘価値観の蔓延です。ヨーロッパでの排除の論理の拡大、わが政権に於いての危険な綱渡り的対外対内政策などがそれに相当します。
 要するに、100年、200年の時代が浄化作用をもたらすという楽観論はさておき、いまここでのアゲインストの営為を抜きにしては、人類の悲惨は決してなくならないということです。
 つまり、平和も民主主義も、常に来たるべきものとして、それを志向する人々の営為に支えられているということです。』


 あれまさん、何よりも先ずご応答に深謝。それも、重要すぎて、しかも実践概念が持つ広い守備領域から言って、軽々には触れられないような。今日は、次の範囲のお応えに留めておきます。

① 言われるところは、基本的に大賛成だというだけではなく、万人が賛成するはずだとも申し上げたい。つまり、人間の明日は人間自身の「実践」が作るもの。「アゲインストの営為」も「それを志向する人々の営為」も僕だけではなく左右どんな人も否定しないはずです。

 ただそういう「実践」の理解について、誤りやすい3点程を述べておきたいと思います。
② まず「実践」概念を、なんというか「(狭い意味の)行動的なもの」とだけ解することは誤りだと言いたい。普通の人々自身が行う政治論争なども含んだ理解が不可欠かと思います。このことは例えば、従来型の社会主義革命というものの理解だけ取ってみても分かるはずだ。この革命は、人類史これまでの国家権力移行が自然成長的に起こったのとは違って、イデオロギー闘争に勝って国家権力を握ってしか成されないものと論じられてきたはずです。普通選挙制度が世界に広がってからは、この思想闘争の重要さがなお進んだのだし、先進国革命はここで躓いてきたとさえ言えるはずだ。

③ ②をもたらすような思想的欠陥として、実践概念そのものの理解で、従来の主流唯物論哲学では誤りがあったと愚考しています。その理論で動いていたはずの旧社会主義国家がなぜ潰れたか、この正しい総括に関わってくる重要問題だと考えています。これについては今は、問題提起に留めておくしかありません。
 いわゆる土台と上部構造の関係理解に誤りがあったと考えています。土台の規定性に偏り、上部構造の独自性と言われてきたものの正しい把握がなかったかと。ここからは、「目的意識性」や「指導」も、つまり政党の実践が必然的に歪んでくるものと考えてきました。

④ ③末尾の「誤り」は、こういうものだったと見てきました。土台偏重が左翼の政治論争を狭いものにした、と。文化軽視とか、政治経済偏重とかをもたらしたと述べても良いと思います。


 今日は、これくらいで失礼します。
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「昨日の閲覧数、1万を越えました」   文科系

2016年11月13日 01時02分32秒 | その他
 昨日、ここの週間累計閲覧数が、久しぶりに1万を超えました。前回越えたのが本年4月23日までの1週間で11,503。そして今回が10,121。

 こんな長文ばかりのブログも珍しいはずで、それを色々読んで下さる方が多いというのが、このブログ発足以来11年の最大特徴。閲覧数がアクセス数の10倍などという事が、ザラに起こっているブログなんです。
 ちなみに、上記4月23日までの週アクセスは1,243で、昨日までの1週が1,063だから、前者が9.3倍、後者が9.5倍。1000個ちょっとの累計端末がここを訪問されて、その一つが一回につき10面ほどを閲覧して下さった訳です。それぞれのアクセスのお方が先ずトップ記事を読んで、他のも読んでみようと思う。そしたら何らか興味を持たれたから、また他のもと10面、そんな想像ができます。一昨日で見ても、7月の二つのエントリーまでさかのぼって読んで下さった方もいるし、ギター関連などではさらにずっと前の原稿も読まれている。そんなふうにして、各10面の題名と最初のちょっとだけを読んで頂けただけと見てさえも、僕は大変嬉しいんですよね。僕が他に20年やっている同人誌の読者数よりも、すべて遙かに多いんですから。同人誌の方が何倍も苦労して、というよりも四苦八苦して書いているのに、一冊の本の読者数はまず永久に200人にもならないんです。それを思えば、ブログはまるで天国だ。

 ちなみに、当ブログ週間累計閲覧数の過去最高は2010年5月16~22日の週で20,155でした。アクセス数のそれは、2011年5月8~14日の3,426です。このブログは、いわゆるランキング・アップとか、「拍手」に類する努力を、管理人さん初めとして誰もした事がありません。つまり、エントリーの原稿内容だけを頼りにしてきたブログ。だから、こちらは色々勉強して懸命に書く分、閲覧数の多さが嬉しいということなんです。

 また、僕が悪態ばかりをついて来た名無しさんも含めて、参加されている方々にも、こんなあれやこれや含めて改めて深謝です。日本人が特に苦手な批判、悪態も、参加の内。無関心よりはましと解釈下さって、これからもよろしくお願いいたします。
 
 
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改めて「僕が政治論以外も書くわけ」 文科系

2016年07月29日 12時19分12秒 | その他

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった時からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

  僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
 「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
  こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

  さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けるからナンセンスということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
  やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいことがあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。人生が生きるに値すると自ら示せなくって、どんな政治が語れるというのか、と。

  なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある誠実な論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
  そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学学生自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。かと言って、文化を重視しているかに見えたいわゆる新左翼には、僕は近づいた事はない。

  なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

  ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、孫のハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。

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僕の世界観に関わって(4) 世界文明の始まり方  文科系

2016年02月20日 18時10分09秒 | その他
 トルコ旅行のバスの中、ある方と大論争になった。議題は、トルコは今現在宿泊してこれを書いているコンヤという都市の近くにあるチャタル・ホユックという古代「都市」の位置づけをめぐって。二人ともが初めて勉強したこの「都市」は、世界最古四大文明(メソポタミア、エジプト、インド・インダス川流域、中国・黄河流域。それぞれ差があるが、紀元前三八〇〇~三〇〇〇年ほどにできた)よりもはるかに古い。紀元前七〇〇〇年ほどにできたもので、農耕、牧畜などがあって、三〇〇〇~八〇〇〇人の「都市」を形成していたという。ただ、支配階層など身分の存在を示すものは未発見ということだった。なお、この遺跡自身の発見が一九五八年だそうで、全容解明は遥か先の話らしい。四大文明までの歴史がより細かく解明できる考古学、人類学上でも最重要遺跡の一つとして、二〇一二年に世界文化遺産になったばかりだそうだ。

 さて、農耕・牧畜と大規模共同体の形成の後にできたはずの身分・階層、奴隷制度、国家、宗教などがないからここは文明とは言えないというようなことをお相手が語ったところから論争が始まったのだった。対して僕は、こういう性格の「都市」がこんな昔にあったとすると、このチャタル・ホユックは人類史を塗り替えるような、世界四大文明と比肩できる大発見だと強調したことになろうか。支配機構、奴隷制度、大建築物、宗教などを重く見るか否かという意見の違いに過ぎないのかもしれない。「四大文明はこれらすべてがあったところに特別の意味がある」というがごとき彼の主張が、僕にはこう見えて仕方なかったのだ。農耕・牧畜・大規模共同体の形成の歴史的意義を軽視していると。

 ところで、四大文明よりも古い「都市」は、チャタル・ホユックだけではないとこの後に分かった。イスタンブールも紀元前六五〇〇年には「都市(一定規模の定住)」があったようだし、チャタルほど大きなものではなくとも、トルコ南のメソポタミア(イラク)には農業、牧畜実施を土台とした「都市」がいくつか見つかっているようだ。ただ、この農業、牧畜と都市出現の関係が難しい。この流れで大切なのはこういう理屈かと思う。
①狩猟・採取経済では、一カ所にたくさんの人々が住めないし、第一定住という事自身があり得ない。食料に限りがあり、季節移動生活になるからだ。
②また、狩猟・採取経済では、遊んでいられる身分も奴隷制度も出来ない。そもそも貧富の差が小さすぎて奴隷を支配する軍事組織も出来ないからだ。
③農業、牧畜が生まれて初めて、一定数の定住、貧富の差、その軍事支配機構、奴隷制度などが生まれたと言える。
④世界最古四大文明は、以上を経て出来上がった。だからこそ、農業、牧畜があって、三〇〇〇~八〇〇〇人が定住していたチャタル・ホユックが紀元前七〇〇〇年に存在したことが、画期的な意味を持つわけである。
 ところでさて、こういう文脈の中で、紀元前六五〇〇年のイスタンブールに一定数の定住があった事、イラクにチャタル・ホユックよりも古い農業・牧畜地帯があった事が大切な意味を持つわけである。

 さて、以上から見れば日本の三内丸山遺跡などはなかなかのものと分かる。紀元前一万年ほどに始まったと言われる縄文時代、その前期中葉には集落があったのだから。もっとも縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期と、紀元前四世紀まで続くのだ。ただ、「縄文農耕論」が問題になるほどに、日本農業の発生時期は大問題らしい。
 こういう歴史を考える時、今どき「日本人、日本人」と何か特別の人類、区分のように叫んでいるネトウヨ連中が笑える。三内丸山も含めて以上に述べた現生人類の全てが、何回もあったアフリカ脱出に起源をもつ人類がいる中で(ハイデルベルグ人とかネアンデルタールとか、ジャワ原人とか北京原人とか)、十五万年ほど前にただ一度アフリカを出た女性グループから生まれた兄弟だということだけははっきりしているのだから。そしてこの兄弟達に五万年ほど前に「人類共通文法」ができたと、これは現代の大言語学者チョムスキーの学説である。こういう流れを経て、農業・牧畜のイラク・メソポタミア、何千人もの定住・チャタルホユックから、世界四大文明へというのが現代文明への構造的な流れであろう。これらの子孫としての日本人はだからこそ、北方起源・混血説も示しているように、朝鮮民族や昔の満州人と兄弟もいい所なのである。兄弟とケンカしてどうするのか。部族兄弟のけんかが今見えるとしたら、共通の部族先祖はさぞ泣いていることだろう。もっと言うと、文字にせよ仏教にせよ、全て彼等から学んだものである。彼等から直接学んだものでないものは、縄文の壺、漆器というほどにごく少数である。だからこそ、漆器の事を英語でジャパンと呼ぶほどなのである。

 現代社会に繋がっている古代文明発生を学ぶほどに、世界人類は兄弟という思いが強くならざるを得ない。逆を言えば、日本の特徴、外国の最近の特徴を善悪くっきりと分けてのように語るやり方こそ、悪しきナショナリズムのやり口のはずだ。


(これは2014年3月26日エントリーの再掲です)
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名無し君などのこと   文科系

2015年09月06日 01時20分01秒 | その他
 この間、反米保守という人が何回かのエントリーのなかなか激烈な遣り取りの末に撃沈されたらしく、応答が途絶えています。
 そしたら今度は、ツギハギ君という人が随分久しぶりに登場してコメントを連発してきました。けども、その文章が余りにも酷いので、昨日僕が「無視」を言い渡したこと、これを皆さんに改めてエントリーでご報告したい。8月の中頃に名無し君に「無視」を告げたことに引き続いてのことでした。

 さて、これらの人々の、無意識も含めた思想は名無し君と全く同じ。なによりも嫌韓、嫌中丸出しで(人種差別用語連発に近いです)、安倍政権とアベノミクス大賛成。その上に、コメントの書き方さえ全く一緒。こちらの本筋には答えず、自分の知識が辛うじてある僕の片言隻句だけを取り上げた「反論」、というよりもケチやイチャモン。それでいて上から目線で「粉砕してやった!」という調子。言ってみるならば、退却しながら『ボコボコにてやった』と懸命に語っている文章なんです。

 さて、名無し君はなんでここに6~7年も居続けて、こんなに情熱を傾けているんでしょう。ここを潰してやろうというネトウヨ半職業人と観るならばあまりにも無能すぎるしなど、僕にはさっぱり訳が分かりません。でもまー上に観た思想の特徴からしたら、そういうネトウヨと同じ積もりなのでしょうね。その能力も全くないから不思議なんですが。同じような思想で、ここの過去10年で最も弁が立ったあの人やこの人とは全く違いますから。

 さて、彼らとの遣り取りでご不快な思いをされた方も多いことでしょう。一度お詫びがしたかった。そしてもう一言、以下のこんな心中も知って頂きたいのです。週累計アクセス1000を優に越え、同閲覧画面数1万数千という、しかも9条を掲げて10年続いたブログとしましては、安倍政権を支えているかのこんな思想がここに登場してきたらやはり叩かねばならない。それでずっと彼らとも付き合って来たわけです。でも皆さん、誰が観てもイーカゲンで、程度の低いコメントと分かりきっているもの、そういう人には、やはりもう答える必要はありませんよね。それで、無視することにしたということです。

 以上ご了解下さい。ひょっとして反論を書かねばならない時が生じるとしたら、無視の相手に書くのではなく、そういう論理一般の批判として書くという手もありますともお伝えしておきますので、以上をご了解願います。
 
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別エントリー激論?への「僕の総括」   文科系

2015年07月04日 21時18分26秒 | その他
 別エントリー6月29日「仮想敵政策『中国脅威論』2」で、現在まで57にも及ぶコメントが付く激論?があった。名無しさんが3人?(僕の推察である)も並び出て、長文も続いたりで、僕がまじめに読む気にならなかったのである。それなのに返事を書いてしまったのがまずかった。お詫びするべき所かも知れないが、それはしない。今後のためもあるので、その理由を書いた別記コメントをエントリーにも載せておく。


『僕の総括 (文科系)2015-07-04 13:05:08
 上記最後のコメントは、正真正銘の名無し君。僕の7~8年来の凸凹コンビ。この人への積年の軽蔑が、他の名無しの文章を僕をしてほとんど読まなくさせた上に、これらの方にも移ってしまった。それが上の僕の実際の姿。そう正直に申し上げておく。その他の名無し(2人は居ると思われるが)には、お詫びするしかないかもしれぬ。
 
 が、この場合僕はお詫びなど敢えてしない。そもそも、名無しの後に名無しが2人も続くという方が、よほど異常であって、かつ作為的ではないか。僕が今までこのブログで、何回もこう警告してきたはずなのだし。今回はたとえば、
『ここに来られる皆さんへ。ハンドルネームを書かないunknown氏は全員同一人物とはみなさないが、そういうお方には僕として応えたいときには応えるけど、一切無視する(権利が僕にあると考えている)。書かないお方が悪いのだ』。
 以上が僕の「憎悪」なるものをお詫びしない理由である。そして今後のために、こうも申し上げておく。僕は「名無しunknown」そのものを憎んでいる。unknown君はそれに相応しい言動を十二分にここで数年来示し続けてきたのだから。

 彼は今回も間違いなく、こう思っているのだろう。
「しめしめ、もめたもめた。もうちょっと火が付かないかな」
 この直前、最後のたった2行のコメントも、明白にそういう魂胆を示している。

 まーこれはこれで、こんな時代一つの「話題」なのかも知れないからこの凸凹コンビとしてはずっと適当につきあっていくつもりだ。とは、ずっと申し上げてきた通り。

 ただ、こうは思ったところだ。新たな名無しさんにはなるべくコメントを差し上げない方がよいだろうと。そもそも、僕の軽蔑の対象である名無し君と違うかどうかを判別するのが面倒だし、名無しを一人前に扱うことそのものが僕の倫理原則に合わないからである。』
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当ブログ当初5年の発展を振り返る    文科系

2015年02月14日 05時40分04秒 | その他
 当ブログは、この秋で発足10年になります。大学時代からの友人(管理人さん)の呼びかけで僕ともう一人が応え、管理人さんの友人、御親類なども参加したことなどから、下記のように大変な発展をしてきました。「名もない私人の政治名ブログ」としては、異例の数字だと自負しています。以下は発足5年の頃にこの発展を振り返って、「どんなものが読まれるか」、「こんなブログでありたい」などの私見をまとめたものです。管理人さんは長くご病気、御親類の名随筆家の一人は家庭内事故で書けなくなり、もうお一人の優れた論文書きの方は癌で亡くなられて、それぞれ永久欠席。今でも、痛恨の極みです。僕が嫌いで去って行かれた途中参加の方も何人かいらっしゃるようですが、それに対する責任も僕なりに取ってきたつもりです。


『 私見、ここに何が期待されている?  文科系  2010年02月22日 | その他

 このブログも05年11月発足から、そろそろ5年を迎えようとしている。アクセス数で言えば、週間人数でこんなふうに発展してきた。閲覧数は、これらの数字に3~4ほどを掛けていただけばよいだろうか。こんな事から始めて、標記のことを考えてみた。

 当初の1年はアクセスの多い週で400人ほどであり、200人台の週もざらにあった。多分、ほとんどが昭和区9条の会の方々だったのだろうと思われる。ただ、急に多くの投稿を読まれたという週があった。400人ほどの方が、 閲覧2000とか、時に3000を越えるというような週も混じったからだ。当然のことだが、ここの人々に「これは読みたい」という強い好みがあるということだろう。
 週アクセス500人を越えたのは発足1年半弱ほどのことで、1000人を越えたのがさらに1年ちょっとを経た発足2年半の08年初夏のころだった。その後は小幅の一進一退を経て、去年の夏の初めに1500を越え、8月にはやがて2000人へと増えるにいたった。ちょうどあの衆院選挙を控えた頃のことである。そして、現在までそのピークを基本的に続行中であるうえに、この1~2月には2500人近い人が10000回前後閲覧するというような過去最高の峰が3週続いた。

 さて、どんな投稿が望まれているのだろう。「私見」、自分なりの分析をまとめてみたいし、皆さんからもご意見を聞いてみたい。素直に次のように考え、望むからだ。エンタテインメント映画よろしく読まれさえすればよいと言うのではなく、自分としてなんらかの意義ありと思って書かぬモノは一つもないのであって、より多くの方々にこれらをお読みいただきたいと願っているからである。

①投稿の形としてはこんな事が言える。
a 自分なり誰かなりの意見、感想などは好まれない。ただしこういうものであっても、投稿で継続される論争は好まれる。
b よく調べられた事実報告(紹介も含む)が好まれる。最近では例えば、「女性秘書監禁事件」の週刊朝日記事紹介など二つの投稿とか、昔で言えば「激流中国」(の本の連載紹介)などは、非常に多くの方に読まれた。自分なりに興味がわいた新聞報道記事などの紹介も、結構読まれると実感する。
c 随筆とか俳句などは結構人気があるし、具体的事項でテーマを明示した短い論文のようなモノもここでは案外多くの人に読まれている。後者の例としては、09年11月15日からの1週間が過去ダントツのアクセス数(2719人)だったということなどが挙げられよう。

②内容的には、こんな事が言える。
a 流石に選挙前の何ヶ月かは、いつも急に読者が増える。ここの性格上そういう記事が増えるからだし、そこに関心も集まるからだろう。ただし、一政党支持のような投稿がでると、すぐに批判が返されてくるという特徴も、ここにはある。
b 俳句、随筆に人気があるというのは、文化に関わるからだろう。政治評論も時事問題も、そういう意見、感想も、文化のような形式で書けると良いのだが。因みに、「随筆」と銘打ってあるとそれだけでの検索ヒット訪問も相当あるようだ。
c スポーツは特に人気がある。野球もそうなのだけれど、拙稿で恐縮だがサッカー記事で外れたことはない。きちんと調べたモノをいくらか書き連ねた週は、必ずアクセス、閲覧ともにその週の内に急増していくことが分かる。因みにこういう急増が、歴代アクセス・ピーク時には必ず関わっていると言っても良い。また、なんらか活躍した個人名からの「検索訪問」も多い。
d 以上にも述べたことだが「Jワード検索」などに上がっているような氏名、事項が投稿名称に付けてあったりすると、急にアクセスが増えることがある。これは是非、投稿者の方々に念頭に置いていただきたいことである。

 継続は力であると、つくづく思う。ただし、マンネリでないちょっと能動性のある継続ということだろうと、急いで付け加えたい。最近は、長く続いた新聞などのどこもが下降線一途なのだし、ブログといえども友人仲間、団体仲間の域を出ていないといったものがほとんどなのだから。このブログは、グーブログ140万弱のうちで、3000位を割りはじめており、こういう性格のモノとしては異例なものであろうと、僕は密かに自負している。

 最後に僕個人のここへの決意を少々。今まで同様、基本は1人称文体で行きたい。文芸文が無人称文章よりも人々に好まれるのは、人の顔が見えるからだろう。また、丸公を扱う政治というものは、個人の顔が見えにくいから無責任にも見えたりして好かれないという特徴もあるのではないか。全ての人の生活を左右するほどに極めて大事なモノなのに、投票率数十パーセントなどというのが良い例証になるだろう。そして、人の顔が見えないということは、文化の匂いも少ないということだろう。文化というモノはどうしても個人の感性、5感を抜きには語れないものだからだと思う。こうして僕としては今までと同様、9条に関係なくというように投稿していきたい。9条に関係ない人間の営み、感性などは実際にはおよそあり得ないんじゃないかという、そんな感じで。』
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酷い奴がいる  文科系

2014年11月24日 19時55分14秒 | その他
 酷い奴がいる。専らという奴だ。僕の文章を何回もさんざん非難してきたから、僕がそれに反論した。大体、僕の文章をよく読んでいないとだんだん分かってきた。誤読、誤解の連続だなーと。それが分かったら後は簡単。単純に批判しただけで、もう反論はなしで、勿論謝罪もできない。こういうネット、ブログって、こんな無責任な奴が堂々とのさばることができるのだ。人間としての最低の礼も尽くせない輩。いや最初からそんなことは度外視しているのかも知れない。彼との最後のやりとりだけを再掲しておきたい。こういう連中への戒め、警鐘、彼らの記念碑として。少々長くなるが、興味のある方はお付き合い願いたい。

ねつぞう (専ら) 2014-11-20 20:09:12
 ちょっと気が早いけど、11月の専ら的まとめ(サッカー、政治、経済)。だんだん「捏造」と「ブレ」がひどくなってるな。文科系氏は大丈夫か? 1、「アジアの相手国が弱かった」って……かつての日本代表はそれより更に一段と弱かったんですよ。ここ10年15年ではたしかに対韓国や対イランでも互角以上の戦績ですが、それ以前は……。2、少し前までの「経済的なつながりが強くなっているから戦争は損」「(歴史的な流れから言って)戦争はどんどん減っていく」という主張からずいぶん変わってますね?(苦笑) 3、サマーズがバブルという現象についてを否定的に語ってる? 金融緩和を反省している?? 嘘をついてはいけません。

Unknown (専ら) 2014-11-20 20:21:51
 金融規制や、アベノミクス批判も結構ですが、民主党政権下の1ドル=80円、日経平均8000円の惨状を忘れないでくださいよ。問題は消費税増税と財務官僚です。1989年以降に消費税増税、所得税減税、法人税減税が進められましたが、税収総額は減少し、財政赤字は増加しています(実際のデータを調べてみてください)。大体、日本だけでなく米国にしても中国にしても、いわゆる国の借金は莫大ですが、これを消費税増税(!?)と財政緊縮(!?)とやらで返していけるでしょうか? 必要不可欠なのは経済成長と適度なインフレです。

専らさんへ (文科系) 2014-11-21 01:30:19
 1、2は、僕の「文脈」の何を反論したことになるのか、理解不能です。特に2は、僕の文章にはないはずの重要な言葉が使用されているし、全く次元の違う僕の命題をごっちゃにされたようだ。例えて言えば、百年単位で述べていることと10年単位で述べていることとをごっちゃに反論されたような。こういう言い方もありうるでしょ。
『戦争の増減はあるが、長い目で見たら百年前よりもかなり減っている』

 3のサマーズですが、僕は彼についてはこの言葉をあげただけですよ。「バブルは3年に一度生成し、弾ける」。発した言葉とは客観的なもの。バブル(とその弾け)などあってはならないという人もこれをおおいに活用できるよなーというのが、僕の立場ですが。

 4は、何を言っているのかさっぱりわかりません。この間の僕はもっぱら世界的金融規制の話だけをしているのに、この話に対して国内経済だけの話を反論として出されても、答えようがありません。
 ただ、スティグリッツ報告もここをこそ語っているように、中低開発国がリーマンショックの被害を最もきつく受けた。そこの需要が著しく減った。つまり、世界的金融規制次第で、一国経済も根本的に変わる時代ですよね。世界バブル主導力である日米経済なども、これによって最も変わるはずだ。でも、その規制は世界の幸せのためにこそ最も必要だと、これがスティグリッツ報告の意味のはずですよね。そういう次元の論議でなければ、基本的に僕への反論にはならんでしょ。

 こうして、あなたのすべての反論が、僕が論じたテーマから離れるからその文脈を抜きにして、断片思考のすれ違いとしか思えないのですよね。悪しからず。 

Unknown (専ら) 2014-11-21 11:28:30
 サマーズの主張
「三年に一度バブルが発生して弾ける」←これが真実。
「バブルという現象について否定的」←ここが捏造。
「(むしろ)完全雇用のためにはバブルは必要」←これが真実。
「(過去に行ってきた)量的金融緩和を反省または後悔している」??←ここが捏造。

お応え (文科系) 2014-11-21 16:47:29
 大山鳴動ネズミ一匹。僕へのいろんな詰問に僕が反論した末に残ったのが、「このサマーズ」だけ!
 僕がサマーズについて述べたのは上の彼自身の言葉の他には、以下がありますね。

【 金融緩和を叫んできた人が今はみんな困っているわけです。サマーズも、元世銀のスティグリッツも、そしてグリーンスパンもね。つまり新自由主義者はみんな途方に暮れて、反省が始まっている。日本でも、水野和夫、中谷巌、世界でも無数ですね。日米両国家は、金融破綻に国家資金をつぎ込むだけではなく、常時最大株主であり続けるようで。何が自由主義か、社会主義ではないか。その点についても学者たちはこう語り始めました。
『富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨んでいる』(ウルリッヒ・ペッグ)】
(この文章は、6日エントリー「専らさんへ」に付けた7日付けコメントからの抜粋自身ですよ)
 ここでサマーズを金融緩和論者として、バブルの元凶のように描いていますよね。そして事実彼はリーマン以降は過去を反省したかどうかは別として、「困っている」(上のように、これが僕の表現です)でしょう? 「百年に一度の危機」と叫んだグリーンスパンと同様にね。これについて、どう読めばこうなるのです?

(サマーズの主張が)
「バブルという現象について否定的」
「(過去に行ってきた)量的金融緩和を反省または後悔している」

 僕のサマーズ文脈は以上のようなものであって、あなたが僕の文章とするものはどこにあるのですか。こう誤読、すれ違いが多くっては、僕は途方に暮れてしまう。何度も言うように、僕の論議の中心から外れて断片的あらを探そうとしているだけだから、枝葉に流れて読み間違うと、そういうことでしょ?
 今度はスティグリッツであら探しを思いつくかも知れませんので、先手を打って牽制しときますね。彼も1997年のアジア通貨危機の時はアジアにも責任があり危機は自然に起こったものと述べて、実質世界金融資本を免罪していました。つまり、この世界重大問題について新自由主義者と変わりなかった。この論議をスティグリッツは後に完全に反省した発言をしている。これは、ここに何度か紹介してきた通りです。だからこそ今読み込んでいるこの国連報告が書けたのでしょう。

Unknown (専ら) 2014-11-21 21:31:27
 改めて言いますが、「ワールドカップに出られなかった時代」の日本代表の目も当てられないような戦績については思い出していただけましたか?

 さて、サマーズ、スティグリッツ、グリーンスパンの三人をまとめて「新自由主義」のカテゴリーに入れて経済を語る人間はたぶん文科系氏、世界にあなただけだよ。皆さん、ちゃんと『不況は人災です』の書評や感想読んでくれましたか?(左派の経済学者が、左派の人間が陥りやすい誤りに関してわかりやすく指摘してくれていますよ)

専らさん (文科系) 2014-11-22 09:24:54
 あれこれあれこれ誤読によるいわれのない批判を重ねた末に、大山鳴動ネズミ一匹のさらにその屋上屋を重ねるですね? 最後の最後に残ったこのご批判には、前もってこう牽制してありますが。もうこれくらいしか残っていないだろうと、僕が予測した通りだから、笑える。
【サマーズ、スティグリッツ、グリーンスパンの三人をまとめて「新自由主義」のカテゴリーに入れて経済を語る人間はたぶん文科系氏、世界にあなただけだよ】
【今度はスティグリッツであら探しを思いつくかも知れませんので、先手を打って牽制しときますね。彼も1997年のアジア通貨危機の時はアジアにも責任があり危機は自然に起こったものと述べて、実質世界金融資本を免罪していました。つまり、この世界重大問題について新自由主義者と変わりなかった。この論議をスティグリッツは後に完全に反省した発言をしている。これは、ここに何度か紹介してきた通りです。だからこそ今読み込んでいるこの国連報告が書けたのでしょう。】

 残ったこの非難も一つ。
【、「ワールドカップに出られなかった時代」の日本代表の目も当てられないような戦績については思い出していただけましたか?】
 こんなことを僕が知らぬはずがないでしょ。ヒデが出る以前は、WCに一度も出られなかったということ、いつも涙をのんでいましたから(僕は73歳なのですよ)。だからこそ、こう言えると主張したのです。「昔と違って」強豪と当たる今の岡崎の得点の意義は遙かに高い、とね。これも、僕の中心テーマと外れた断片批判に飛びつくから、総合判断が欠けた誤読なんですよね。馬鹿馬鹿恣意限りだ!
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「文明史が塗り替えられつつある」  文科系

2014年03月11日 21時36分37秒 | その他

 今ギリシャ・トルコの旅から帰ったばかりで、これを書いている。7日の拙稿「旅先で大論争」以降に学んだ事を書いてみたい。
 世界4大文明よりも古い「都市」は、この大論争で述べたチャタル・ホユック(トルコはコンヤ近くの遺跡)だけではないと分かった。イスタンブールも紀元前6500年には「都市(一定規模の定住)」があったようだし、チャタルほど大きなものではなくとも、メソポタミアには農業、牧畜実施を土台とした「都市」がいくつか見つかっているようだ。ただ、この農業、牧畜と都市出現(一定数の定住)の関係が難しいので、僕の前コメントを再掲しておきたい。ここの理屈が分からないと、4大文明の発生原理自身が分からない事になるからである。

『らくせきさんに改めて。
 言わんとすることは分かるつもりです。上の文明全てと並行して例えば、オーストラリア(後で付けた注ーーこのオーストラリア移住は、後で調べたが誤り。正しくは、約6000年前)やアメリカ大陸にも原住民の生活が既に存在したはずで、これらがけっして価値的に上と比べて劣るものではないと見ること。だからこそ次にはこうなるはずだということ。
 価値的に等しいいろんな文化が世界中で並行して展開されていたということ。その上で、人類史のある一つの流れのことを語っているのだとの自覚が必要だということ。ただこれが、現生人類大部分の生活に「史実として最も大きくつながってくる現在まで最古と言える一潮流の遺跡」であるとは述べても良いかということ。こう理解しなければ、僕が、ドーソンか論争のお相手のような傾向になってしまうと、そんなことを考えていました。ありがとう。』

『補足です。上の「現生人類大部分の生活に史実として最も大きくつながってくる現在まで最古と言える一潮流の遺跡」について一言。
 こんなふうに説明されてきたかと思います。農業か牧畜の発生発展。都市の形成。身分や奴隷制度の発生。軍事支配機構、文字の発生、宗教、国家の発生などなど。これらが、世界四大文明につながっていったと説明されていたかと思います』

  以上の流れで大切なのはこういう理屈かと思う。
①狩猟・採取経済では、一カ所にたくさんの人々が住めないし、第一定住という事自身があり得ない。食料に限りがあり、季節移動生活になるからだ。
②また、狩猟・採取経済では、奴隷制度も出来ない。多数の奴隷を食わせられないし、そもそも貧富の差も出来ないから奴隷を支配する軍事組織も出来ないからだ。
③農業、牧畜が生まれて初めて、一定数の定住、貧富の差、その軍事支配機構、奴隷制度などが生まれたと言える。
④世界最古四大文明(メソポタミア、エジプト、インド・インダス川流域、中国・黄河流域。それぞれ紀元前3000年~3800年発生)は、以上を経て出来上がった。だからこそ、農業、牧畜があって、3000~8000人が定住していたチャタル・ホユックが紀元前7000年に存在したことが、画期的な意味を持つわけである。

 ところでさて、こういう文脈の中で、冒頭に述べた事を想い出していただきたい。イスタンブールに紀元前6500年に「都市」、一定数の定住があった事、メソポタミアにチャタル・ホユックよりも古い農業・牧畜地帯があった事が大切な意味を持つわけである。

 最後に、以上から見れば日本の三内丸山遺跡などはなかなかのものと分かる。紀元前1万年ほどに始まったと言われる縄文時代、その前期中葉には集落があったのだから。もっとも縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期と、紀元前4世紀まで続くのだ。ただ、「縄文農耕論」が問題になるほどに、日本農業の発生時期は大問題であるらしい。

 こういう歴史を考える時、今どき「日本人、日本人」と何か特別の区分のように叫んでいるネトウヨ連中が笑える。三内丸山も含めて以上に述べた現生人類の全てが、何回もあったアフリカ脱出に起源をもつ人類がいる中で(ネアンデルタールとかジャワ原人とか、北京原人とか)、15万年ほど前にただ一度アフリカを出た女性(グループ)から生まれた兄弟だということだけははっきりしているのだから。なかでも日本人の起源などは、北方起源・混血説が示すように、朝鮮民族や昔の満州人と兄弟もイー所なのだ。兄弟とケンカしてどうするのか。部族兄弟のけんかが見えるならば、部族祖先はさぞ泣いていることだろう。もっと言うと、文字にせよ仏教にせよ、全て彼等から学んだものだ。彼等から直接学んだものでないものは、縄文土器、漆器とひらがなというほどに、ごく少数だ。だからこそ、漆器の事を英語でジャパンというくらいである。

 ところで、この2週間のアクセス数、凄いですね。2,570と2,787人です。2,787人というのは、僕の記録では11年5月15~21日の週の2,815人に次ぐもの。なお、この最多数は、同年同月のこの前週8~14日の3,426人です。この時期とは、こんな時だったのです。この年に起こった3/11の全貌が見え始めて、民主党菅政権が大揺れに揺れ始めた時。世界では、ウイクリークスが行った日米など大国政治の過去暗部暴露に世界が震撼としていた時期・・・・。 

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最近の論争をこのブログの「発展」経過から見る   文科系

2013年06月28日 16時32分31秒 | その他
 以下は、昨日のらくせきさんエントリーにつけた僕のコメントの転載です。まーこの間の論争の僕なりのまとめの一つのつもり。黒門町さんが「(文科系さんの)無邪気な独断場」という言葉を使われたのが少々気になって、それへのコメントでした。ただし、そう思われるのは無理もないけどと思いつつ書いた物。一部修正を加えていますが、このブログの発展経過をも辿っています。

 黒門町さん (文科系) 2013-06-28 16:29:51 「無邪気な独壇場」は、あんころもちさん(がそう思うだろうということ)については当たっている以上ですが、らくせきさんについては完全な外れだと思いますよ。彼は、あんころもちさんの提案があったからそれを討論にかけるという当たり前のことをしただけです。以下のような経過があったことも、らくせきさんは知っていることだし。

 管理人さんが、5年以上前になるかと思いますが、このサブタイトルを入れて下さった。それは、僕のブログ上でのいろんな要望からなんです。
「憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)」
 管理人さんはこれを、快く入れてくれた。それで僕の書く物が「無邪気な」余興ではなくなったはずなんですね。僕の考え方、方針を入れてくれたのだと思いました。でも、しかるべき反対者が現れれば、また1から討論すればよい。そんな緩やかな発想だったからこそ、ここがこのように発展してきたのだと、僕は確信しています。またそうでなければ僕は、8年もやってこれるわけがなかった。

 05年秋に発足したここは、週アクセス合計数でこんな推移を辿ってきました。
 300越えが現れたのは06年の4月です。500越え出現は07年3月です。以下、08年夏にはほぼ常時1000を越え、09年夏以降は2000内外が当たり前になって今に至っています。最新の数字で言えば、22日までの1週間で、2420人アクセスの8810回閲覧で、190万ほどのブログ内で1906位という賑わいになっています。そもそも、こういう数字を僕が書き残してきたこと自体が、「無邪気」にだけやってきた訳ではないという証明のつもりでもあります。継続は力ということでやってきましたが、「発展法則にあった正しい継続」ということのはず。ただ、この「正しい」には、あんころもちさんのように異論が多いのも、十分承知しています。こういう議論はいつもあったことですから。
 全国他の「9条」と名が付いたブログでこれだけの発展を遂げたところは少ないというのは確かなところだと思いますよ。ほとんどないのではないでしょうか。】

 最後に一言。文化など人間的な物すべてをそれとして真剣に生きかつ論じつつ9条、政治も語るというのが、人の自然なあり方だと考えます。9条、政治だけからものを語って、普通何が面白いでしょうか。どんな内実があると思えるでしょうか。むしろこう思われるのが常だったのではなかったでしょうか。「何でも政治に持っていく!」。日本では大部分の政治家がむしろ嫌われていますよね。「口だけ人間」のように。数少ないはずのそうでないようなタイプの人までそう思われているほどだ。それが普通の人々の感覚だと、僕は観てきた積もりです。
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エントリー不正削除と今  文科系

2013年06月25日 22時33分43秒 | その他
 表題のあんころもちさんのエントリーは言ってみれば、こういう内容のものでした。
「最近サッカー記事ばかりが多くて、おかしい。サッカーサイトとはっきりさせるべく、名称を変えるべきだ」
 このエントリーにはいくつかのコメントが付いていたと思いますが、それもろともごそっと消されてしまいました。この消されたエントリーに関わって、6月24日にらくせきさんのエントリー「あんころもちさんにお答えします」があったわけです。
 なお、このあんころもちさんの「名称を変えよ」というエントリーには、別のエントリーでも論議が起こっています。例えば、6月21日拙稿「これがゲーム評というもの」には、僕のコメントも含んで、以下の三つが付いています。順に、そのまま紹介しましょう。

『 さっかーの話、歓迎も? (にんじん) 2013-06-22 09:43:27
 ブラジルの百万人デモについて、一言も聞かれないようでは、タイトル替えるべきと思いますよ!』
『 サッカーサイト? (文科系) 2013-06-23 19:00:57
 サッカーサイト? 違うね。ここは「9条バトル」だ。ただし、「憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!」と唱えているサイトである。サッカーも「大歓迎」されているわけである。こう唱えた管理人さんからは、感謝されこそすれ、非難される覚えなど全くないし、僕は表題やキャッチコピーを換えたいとは思っていない。よって、「人間的な話題」のある一面が多く語られるのに抵抗を感ずる人は、「9条」をどんどん書いたらよいだろう。それだけのことである。かと言って何度も言うが「9条バトル」と言う名を変えて欲しくはない。ただし、9条よりもサッカー論議が程度が低いように考えている人がいたら、それは下らない観念であると言いたい。』
『 Unknown (NATO) 2013-06-23 19:55:29
 憲法論議が盛り上がらないのはある意味では当たり前だし、護憲派にとってはよいことでは?(一番盛り上がるのは改正できるか、できないかのギリギリの時でしょうから)
 現在の状況だと、9条改正にしても96条改正にしても、衆参の3分の2以上の確保は難しいでしょうし、仮にその後に国民投票をしてもたぶん改正反対の票が55%くらいを占める――これで盛り上がるわけがないですよ。』

すでに、らくせきさんのお答えに多くのコメントが寄せられていますが、僕としても多数の方々のご意見を求めたいです。この問題はこのブログでは過去延々と繰り返されてきたものですし。あんころもちさんの批判対象である僕の意見は、ずっと昔からこうでした。そして、僕の立場こそが、次のような題名やキャッチコピーが求めてきたもの、つまり管理人さん初め我々が求めてきたものだと確信しています。
『九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)
憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!』
 この文章で解釈の分かれ目は間違いなくここでしょう。「憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎」。この「以外でも」を、「全く無関係なことを、人間的なことならば自由に書いて良い」と解釈するか、「以外の事でも、憲法9条に何らか触れるべきである」と解釈するかです。ぼくはこれを、前者のように解釈しているわけですが、それをあんころもちさんのいうようにこう語るのは、僕としては誹謗中傷の類と考えられるというほどの気持です。
『このブログタイトルのままで、かくも延々とサッカーについて書き続け、そのブログの趣旨とは違ったかたちでそれを占拠することは、一般にいう「アラシ」行為にほかならないと思います。』
 これに対しては、1970さんがこういう批判をしていますが、これも前者の立場なのでしょう。
『憲法の話をやりたければそれを書き続ければいいだけだよ。誰も疎外したり邪魔しているわけではない。同じように書けばいい。それをしないで自称左翼だの、自己顕示欲がどうのだの、ちょっとねおかしいわ。呆れています。』
『まさか、文科系さんが憲法談義担当でそれを書きまくらなければいけない義務があるとは思えない。そういう話題がほしければ文科系さんに文句つけるのではなく自分で書けばすむだろう。それをせず、左翼がサッカーばかりとやるからおかしくなる。』

なお、上のにんじんさんのコメントははっきりと後者の立場と言えると思います。
またなお、「僕はここでこう書きたい」、「その理由は」と言う積極的論理を展開した文章は、24日らくせきエントリーへのコメント「改めて」です。あんころもちさんには特に、その真意をくみ取って欲しいと望んでいます。
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10日の旅から帰ってきました  文科系

2013年04月24日 13時37分11秒 | その他
 連れ合いと二人でトラピックスから行った10日の旅から今帰ってきた。プラハ、ザルツブルグ、ウィーン、ブタベストと、各2連泊ずつ。都市間移動途中などには、ドナウ川やザルツブルグ郊外のハルシュタット湖などのクルーズ三つが入っている。そういうゆったりした日程が気に入って選んだ旅だった。総勢26人は、新婚さんと中年ママさん各1組以外はすべて熟年のご夫婦。世慣れた上に、旅慣れてもいる方々とあって、集合時間など当初計画にほとんど狂いもなく、とても気持ちよく過ごせたものだった。
 唯一年が離れた新婚さんは連日何気ない皆の祝福言動を浴びていて、さぞかし珍しくかつ嬉しい時を過ごされたと観察できた。それも世慣れた人の良識というものであって、新婚の旅で「良い社会・人間」をおおいに勉強できたのではないか。新婚さんには幸せになって欲しいという、こういう皆の自然な気持ちあふれた言動は、とても嬉しかったこと。彼らにとっても、こんな皆の態度が余ほど嬉しかったらしい。最終の地ブタペスト王宮を背景にとった唯一の全員写真の裏に名前を書いてくれと、全参加者に頼んでいた。熟年夫婦たちが今不幸せではないから、こう振る舞えたのかな。もっとも、この熟年夫婦の中に夫婦でない形の人がいたかどうか、これは僕には定かではない。ほとんどすべての人と話したのだけれど、パスポートが同姓でないことは、他人には黙っておいて欲しいというやり方もあるはずだし。
「皆さんがにこにこしていて、メンバーにも恵まれ、毎日が楽しい旅でしたね」。これは新婚さんの次に若そうな女性添乗員さんの言葉。
 プラハ、ブタペスト、ハルシュタット湖が良かった。

 これからまた一生懸命に書くつもりです。よろしく。
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