海側生活

「今さら」ではなく「今から」

鎌倉将軍と材木座海岸

2009年09月16日 | 鎌倉散策

9月になり海岸を吹き渡る風は夏のそれのように脂っぽくベタつきもせず、かと言って初冬のそれのように冷たすぎもせず、火照った頬に優しい。
風向きが海からの風が少なくなり、山側の北や東からの風に変わるからだろう。
材木座海岸を歩きながら、改めて鎌倉時代の海岸での出来事に思いを馳せる。 

Photo すぐ目に飛び込んで来るのが「和賀江島」だ。「吾妻鏡」に拠れば執権・北条泰時の頃防波堤として築いたらしい。
島の着工は7/15で竣工が同年の8/9だと言うから今でも考えられないスピード工事だ。凄い人海戦術だったのか、或いは記事自体が誤りなのか、嘘だったのか。記録によれば多い時は数百の船が艫綱を解いていたとあるから港としてはかなり賑わっていたに違いない。
今の「和賀江島」には当時の面影は全くない。基礎工事に使われたと思われる丸っこい石が無数に散乱しているようにしか見えない。しかし、今でも町名に材木座の名を残している.

頼朝時代に鶴岡若宮の造営のため材木等が浜に着いた。                                      09041016p4100003_3 

頼朝が度々、御家人や若い武士達に牛馬の芸(牛追物)を披露させたのもここら辺りだ。                                    

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また、頼朝が精進のため海水を浴びたのもこの浜だ。

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義経と静御前との間に生まれた赤ちゃんは男子だったゆえ、頼朝は赤ちゃんを静から取り上げ、この浜に棄てさせた。 
静は“決め事”だったとは言え、取り上げの使いが来ても数刻の間、泣き叫び渡さなかったと言う。そして静の母の磯禅師が赤ちゃんを奪い取り使いに渡したと言う。妻・政子は嘆き頼朝に宥めたが叶わなかったと言う。

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二代将軍・頼家が幼少の頃、小笠懸で遊んだのもここだ。

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沖に目をやるとサーフィンを楽しむ若者が多く、休日ともなると数百人が季節を問わず真冬でも、この辺りから七里ヶ浜にかけて早朝から夕暮れまで海を楽しんでいる。

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若者と言えば、鎌倉三代将軍・源実朝が数え年22歳の時に詠んだ歌が好きだ。

大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも(金槐和歌集)

鎌倉で生まれ、鎌倉に住み、鎌倉の海を見詰める青年の率直な感性が、今の若者と同じようであったのかも知れない。
或いは、若き将軍・実朝は幕府内の勢力争いの中で味方が敵になり、敵が味方となる陰謀・術策が渦巻く時代になんとも言えぬ孤独の思いが籠もっているのではと言う解釈もあるらしい。                                     
                                                           

12歳で将軍になり、その後右大臣の地位を得、その御礼のため八幡宮参詣の帰途、甥に当たる公暁に襲われて若い命を失ってしまう。同時に「源氏」の頭領の家も断絶してしまう。28歳だった。

それでも実朝の歌は残った。