最近、朝ドラを除いてNHKを見ている。8時前の三宅惇子さんの顔を拝んでから一日は始まる。彼女のどこがいいかと言うと、顔も悪くないが、声がいい。軽快な鼻から抜ける声が、朝という時間にふさわしい。今日は低気圧が発達して荒れるそうで、「この前線に、暖かい空気が流れ込むもんで・・・」えーっ、だもんで?ちょっと間があった。考えたんだろう。この言葉で強引に押しちゃって、いいだろうか。そのあと、もう一度、言い替えた。初めて気が抜けたところを見た。表情に出なかったのは、さすがだ。
今見ている洋画は、「マトリックス」シリーズ。キアヌ・リーブスという人間は、普段かなり質素な生活をしていて、友達もいないし、ひとり寂しく公園で袋菓子を食っていたりするらしい。浮浪者に近い恰好をしている。しかし画面のネオは、全く違う人物だ。監督のウォシャウスキー兄弟?の一番の見せ所は、ネオの立ち回りだろう。動きが速くなっていく過程を、どうやって見せるかに、かなりの時間と労力を使っている。結局は、救世主のネオもただの一人の人間で、ザイオンよりも愛するトリニティを選択する。愛の深さを思い知る、いい映画だ。
問題はマトリックスそのものだ。これはある意味仏教の根本の教えと共通するところがある。デカルトは「我思う、故に我あり」と言った。考えている自分という存在を否定することは出来なかった。それをも凌駕するのが仏教の「空」の教えだ。五感をすべて疑問視した他に、考えている自分の存在も否定する。その結果、残ったものが「ザイオン」に住む人類だ。マトリックス内の世界に住む人類は、自分で選択して人生を歩んでいるように見えるが、実はプログラムされた、実体のない「投影」でしかない。これは、これからの進歩したヴァーチャル技術の行く末を象徴しているようだ。
こういう映画は、細かい所に目をつぶり、楽しむに限る。例えば、後頭部の延髄に「穴」開けたら死んじまうだろう、とか。地上に降りて行く時はなぜ、公衆電話を使わなくていいのか、とか。そういうことを気にしなければ、マトリックスという発想は、実に素晴らしい。