黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

孤高の画家 田中一村

2023-01-29 | 日記

 一村の性格をご紹介しよう。

 千葉時代にある婦人あての手紙に…

 「絵かきは、わがまま勝手に描くところに、絵かきの値打ちがあるので、

     もしお客様の鼻息をうかがって描くようになったときは、それは生活の

     為の奴隷に転落したものと信じます。

    勝手気ままに描いたものが、偶然にも見る人も気持ちと一致することも

   稀にはある。それでよろしいかと思います。

 その為にに絵かきが生活に窮したとしても致し方ないことでしょう」

       (日本のゴーギャン 田中一村伝 文中より引用)

                                         

千葉寺に借地を見つけ、待望の家を持った。まだ開発の手が届かず

のどかな農村風景の中にあった。 この時米邨は二十九歳。

絵かきとしての実力を問われる年齢にあった。

東京を離れ、千葉に引っ込むことはいろいろと不便でもあり

不利ではあった。しかし千葉寺にひろがる自然は大きな魅力だった。

 しかし、絵の前に、生活の闘いがあった。

絵筆持つ手で鍬を握った。

一家四人の生活が懸かった農業だった。

     

 

農業をして鳥を飼い、絵に打ち込む米邨は、

毎日が一心不乱の日々であった。

 

この頃、禅の集まりに姿を見せることもあった。

しかし、いよいよ法話や座禅が始まるころには、ふいと姿を

消すのが常だった。

          

「おれには、禅などやっている暇はねぇ」というふうだった。

この座禅会を仕切る柳沢氏の話に。

  「米邨さんは、頭脳明晰な方だったから、

   禅のこともかなり深いところで理解しておられたのでしょう。

   あの人には、絵があったから、宗教はいらなかったのかもしれない。

   確かに私たちには及ばないものを持っていましたね」と。

  また、柳沢氏は、欲を言えば、もう少し平凡なものがあれば、

  世俗的にはうまくいったのでしょうが、それは米邨さんのように、

  世人より優れた天才的な人が負う宿命かもしれませんね」と語る。

 

 やっぱり生き方の違いはしょうがない…妥協なしの個性では

 これじや貧乏もするし、絵も売れはしないよねぇ~。 私思う。 

 

 少し下って~彼一村は、幼くして、南画を描いていた…

南画は中国に発生した画風で、南宋画とも言われ、主に

文人によって描かれていた。

日本では、池大雅や与謝蕪村、青木木米、田能村竹田 などなど…。

 

そこで現在残っている中から…ご覧ください。

先ずは、十代の頃

 作品並べて

  大正15年18歳      昭和2年19歳    大正14年17歳  

 「ソテツとツツジ」    「山水図」      「牡丹図」   

                   

    どうですこの力強さ~ うわさ通りの神童かも?

    中学時代にも学業の傍ら南画の画会をしばしば

    開いていたというから これは凄い!  びっくりです。

 

  色紙にも こんな作品が・・・

    これって、子供の描く絵・・・???

     「白梅図」  大正6年 9歳

        

     「アジサイ」 大正9年 12歳

     

     「雪中南天」 大正12年 15歳       

       

  

    芙蓉図 昭和2年 19歳

    

 

   「牡丹図」 昭和2年 19歳

    

 

        「南天図」27歳 「ケイトウ」24歳

                  

 

                   秋色 ①  昭和20年代

                

         

 35歳の頃(昭和18年)船橋市の工場で

 徴用工として働くが、体調を崩し終戦の年まで闘病生活が続く。

 この頃 (昭和15~20年頃)  観音菩薩像を多く描く。

        

     「崖上観音像図」 昭和15年頃

 

米邨から一村と変わった四十代の作品

「私の南画は先達の南画作品を倣っていますよ」ということを

明確にしてきている。

 新しい絵画を模索する姿勢に貫かれ、あくまでも南画は勉強の

ために描いている。

倣いながら、画風に心酔しながら、特徴をとらえ

そして次第に自分の南画としていった。

 倣 蕪村

         

 

  倣 木米

    

 

 倣 木米

    

 

  倣 聾米

    

 

   倣 鉄斎

           

  これらの作品は、昭和22年に描かれたものばかりです。

 

終戦直前まで結核に苦しみ、ひたすら観音菩薩像を描いていた

米邨は、戦後の開放感の中で、自分の再生の喜びに浸っていた。

 

それは創作意欲に結実していった。

米邨はこの喜びを込めて、号を「米邨」から「柳一村」と改める。

宋の詩人の「遊山西村」の七言詩からだった。

    「山重水複疑無路 柳暗花明又一村」

『山が重なり、川が曲がりくねり、この先もう道がないのかと思っていたら

   また向こうに、柳の茂みが小暗く、花が明るく咲く風景が見える。

   あそこにまたもう一つの村があったのだ。』

 

 また唐の詩人・白楽天に「朱陳村」という五言詩があった。

  「都から遠く離れた辺地に、朱と陳の七つの姓しかない村があるとして、

   この村に託して白楽天の理想郷を歌った詩である。

  この中に偶然にも、「田中一村」と字づらが連なる箇所があった。

       「生為村之民 死為村之塵 

        田中老興幼 相見何欣欣

        一村唯両姓 世世為婚姻」

   あるいは、この「田中一村」がヒントになって

   「柳一村」が導き出されたのかもしれない。

    奄美では田中一村が使われていた。

             (本文中より引用)

 

 さて、一村は、全くといっていいほど人物を描かなかった。

 まして自画像などはただの一点も描いた形跡はない。

  (画家はまず自画像を残す方が多いようなのですが。)

 

ただ、これが私の自画像だ! と言わんばかり~

 軍鶏(シャモ)の絵があの人の自画像・・・

 「感覚を研ぎ澄まし、闘魂を燃やし、立ち向かってくる

  やつすべて敵だといわんばかりに、眼光鋭くあたりを

  睥睨している。 そんな感じの人でしたよ」

   と、母方の親類である川村幾三さんの言。

 

 素描 「軍鶏」 昭和28年頃

    

 

  「花と軍鶏」 昭和28年  紙本 襖絵   45歳

 

 

 

 

 今日はこれまで 千葉寺風景 ~スケッチ旅行の旅へと 続きます。

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