黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

孤高の画家 田中一村

2023-01-28 | 日記

今、私の手元に1冊の古書 NHK出版(2001年出版)

 「奄美に描く 田中一村」田中一村記念美術館 収蔵作品 図録

を眺めて~いつになく興奮している。

最近、私の息子がぶらりと訪れた古本屋で、偶然目に止まり…

何を思ったのか、手元に寄せ、眺め…そして購入し

「おやじ、これどう?」

 と渡してくれたのだった。

これまた偶然が重なりますが、この1月ほど前にも同じようなことが、

「日本のゴーギャン田中一村伝」南日本新聞社編集。小学館文庫(1999年)

これも、息子が古本屋で見つけ、私に勧めてくれ、

読み終えて改めて彼の画業のすさまじさを感じ入っていた

そんな短い時間での この 双方の「出会い」

奇遇というか~なんとなくドラマ仕立てのような…

      と言う訳で、これから一村の「絵」について少し話を進めて参ります。

 

 私の、リタイヤ前の仕事は「旅行業」 趣味は「絵」 

  商売柄、企画としても「絵画展」は好都合なので、趣味と実益?

 おかげさまで国内・海外といろいろな美術館巡りをしてきました。

 美術館巡りは現在も時間を見ては訪ね歩くのが老いの身には

生きがいでもあり、まだまだこれからも続けようと思っている次第。

因縁はまだ続く~

 奄美のとの「出会い」は

現役時代に企画担当として、広島(昭和48年)で、まさに「奄美」

取り上げ、「新婚パック」として販売促進に熱を上げていた時

商品づくりのために現地にはもちろん下見に行き、島の魅力には

商売抜きに感激した記憶はまだ鮮明。

しかし、頭の中にはこの時点では「一村はゼロ状態」

この頃、一村は紬工場をやめ画業に専念~しかし体調は悪い状態。}

  

時代は平成に入り、私が一村について 

これは凄い画家と思ったきっかけが

「田中一村の世界」展

 千葉で見たのが最初であった。平成7年の春

 丁度、社内の研修を船橋でやっていたのを利用し

 会場へ行きました。

 

今日は古本の図録を追いかけながら一緒に楽しみましょう。

この図録は奄美の記念美術館収蔵品なので本物との出会いは

ないのが残念ですが・・・。

 

一村と言えば、誰でもが、この絵を一番先に~

   

「アダンの海辺」であるが、残念ながらこの1枚は千葉の美術館にある。

  

 では、ページを捲っていきます。 

 図録の最初に 

  「生涯の最後を飾る絵を描きたい」

 画家の名は田中一村。

 家を売り、すべてを捨て、彼を支え続けた姉とも別れ、

 奄美の生活に賭けた。

 染色工として働き、そして絵を描く。

      (中略)

田中一村、その時すでに五十も半ばという年齢にあった。

      

 

 彼は写真にも興味を持っており好きな姉のポートレートを

 写したもの。

  構図、陰影、角度 プロ並み?の技

      

 

本土は違う自然・・・

南国特有の季節感と変化はどれもが新鮮だったのでしょう~

 1枚1枚の絵を見ても、光、風、を感じる。

 

 奄美の生活で シリーズとして描いていたのが

「奄美の杜」というタイトルだ。

ご紹介していきましょう。

 {写真については、ネットや図録から写しての掲載ですから

     揃ってはいませんので、お許しを・・)

 

 「奄美の杜」① ビロウ・コンロンカに蝶

   

 

「奄美の杜」④ 草花と蝶

   

「奄美の杜」⑤ ガジュマルとトラフズク   

    

 「奄美の杜」⑦ ビロウ樹

       

 「奄美の杜」⑨ ビロウとアカショウビン 

     

 

 「奄美の杜」⑩ ビロウとコンロンカ

       

 

 「奄美の杜」⑪ ソテツとアダン

  

 

  如何でしたか?  画家としての一村の心をとらえたものは、

      自然の造形が持つ美しさに違いない。

   それは、亜熱帯だからこそだ。 

 ビロウの葉の広がり~と、 形の妙 そしてどれもはっきりとした色彩。

 

 風景だけでなく… 色鮮やかな 熱帯魚にも。

  「エビと魚」

    

  奄美~沖縄諸島近海で獲れる魚の色彩は まるでパレットですね。

     図録にははっきり 右端に署名しているのが分かります。

          古稀 一村 とある。 (1976年頃)

 

  「花と鳥」

  

 

 彼の観察力は抜群です~実に細かいところまで掴んでいるのが分かります。

 枝に止まっている鳥の 嘴の動き、 目の動き 羽ばたき など

       瞬間の細かい動き さえ感じますねぇ。

 

  今までの絵は、奄美で描いたもの。

 一村は、 幼くして、南画を描いていた。

 彫刻家であった父に手ほどきを受けたといわれる。

 一村の南画の腕は、これが子供の描いたものかと驚くほどの達者さを見せている。

 現在残っている南画もかなりの数ある。

 一村は、18歳の時、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学。

 同期生には、東山魁夷ら後に”花の六年組”といわれる仲間がいた。

 しかし、僅か3か月での退学。 原因は 病気?  ‥‥定かでない。

 この頃(19~30歳)の彼の身辺は~父母、弟3人 を亡くす…

  また、本人の病気など、画家としての活動に見るべきものはなかった。

        ~ 悩みの時代だった ~

 40歳のとき、 

 再生の喜びを込めて 号を「米邨」から、「柳一村」と改めた。

 

昭和22年、 心機一転した一村は

あふれるような創作意欲を公募展にぶつけた。

川端龍子が主宰する第十九回青龍展に「白い花」を出品、初入選する。

同期生の東山魁夷は日展に名作「残照」を出品特別賞を受賞

魁夷はこの作品で一躍脚光を浴び、不遇な生活にピリオドを打った。

 

 東山魁夷 「残照」   

   

 

 二人の人生は、このあと、大きく別れていった。

 魁夷は、「残照」以後、国民的支持を得て、次々と名作を発表し、

 日本画壇の頂点へと上りつめていった。

 

 一方の一村は、翌年の第二十回青龍展に屏風絵「秋晴れ」を出品。

 一村の自信作であった。

 ところが龍子は、これを選から落とした。

 そして参考作品として出品しておいた「波」を入選作とした。

 自信作「秋晴れ」が

    落選したことに納得できず「波」の入選も辞退する。

     『絵の表現も、感情表現も 素直なんだなぁ~ 

        これって、芸術家に多いような…私の独り言です。』

 

一村は、日ごろ、龍子のことを「三百年に一人の絵の達人」として

その画才に敬意を払っていたのだが~ 今回のことからぎくしゃくとなり

その後、龍子とは絶縁状態となっていく~

 

そして 一村は千葉寺にこもり、農業と絵の研鑽に打ち込んでいくのです。

   姉喜美子、妹房子、祖母スエとともに~移り住む。

 

  今日はこれまで~ まだまだ 楽しい絵が鑑賞できますよ。


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