オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

祭りも終わり

2015-05-18 | Weblog

5/18(月) 椙の森神社の大祭も日曜で終わった。金曜日の大神輿が練り歩く様は流石に圧巻であった。前週には神田明神、そして土曜日の浅草三社祭りと、神輿好きにとっては堪えられない日がつづいたようだ。が、こっちはなんの思ひもなし。元々が、祭りのような熱気に浮かされる性格を持ち合わせてない。

とはいいながらも、祭りを否定するものではない。氏神を敬い祭りを寿ぐ精神は持ち合わせているのだ。金曜日我が社のAOKI君も神輿担ぎにちょろっとだけ参加。若手のMORITA君もAOKIの法被を借用して祭り気分を味わい、嬉しそうな顔をしていた。

                         

                           ホープ!MORITA

酒場仲間のHOYAさんは、朝から大張り切りだったそうだ。祭り衣装を「ローカーボ」のマスターに用意して貰い、初めての神輿担ぎで大いに鋭気を養った様子。夜「高松」に行くと、偶然にも祭りの余韻覚めやらぬHOYAさん一行と鉢合わせたが、未だ興奮冷めやらぬ様子であった(結局、この後でローカーボ~セイジュと、同伴することになった)。

                          

この日は「高松」の女将も、町内婦人会メンバーとして神輿の衆にお茶のサービスなどをして忙しそうだった。MORITAの写真と女将の写真を撮り、記念に二人に渡した。その効果か、「高松」での夜の席では卵焼きがサービスだと出てきた。

                            

                                女将

土曜・日曜と午後に会社に出てた。土曜日、会社の廻りを「堀留一兆目」の法被を纏った面々が小形の神輿を担いで練り歩いていた。高松の夫妻もその中に混じっていた。訊くと「町内の神輿同好会」だとか。土曜日なので観客はない、地元のメンバーが純粋に祭りを楽しむ姿であろうか・・・・。

土・日とも会社を出た後は酒場に立ち寄りである。何時もの店は休みなので、何度か入っている駅近くの居酒屋へ。土曜日はTUGAWA&YOSHIOと。日曜日はYOSHIOと二人であったが、ハイボールを三杯飲むと止めれた。「体のために』とか、訳のわからんことを言ったが、自分が早く帰りたかったんだろうな・・・。

然し、人は何故「夜毎に酒場を流離うのであろうか?」、それ以前に「何故に酒を飲むか」これを考察する、解明する必要がありそうだね・・・。何れ真面目に考えようではないか?

 

そして今朝の弁当事となるが、今朝は「オムスビ」の予定でいた。処が、起床してからご飯釜を覗くと残り飯が、茶碗三杯ほど在った。どう考えても炒飯かチキンライスで、弁当二人前はできる。そこで方針変更、「オムライス弁当」とした。オムスビは、明日に日延べだ・・・・。

                        

菜の方は、食材がないので「チンゲン菜&ベーコン炒め」「ナタ豆&小カブの煮物」「茹卵」の、お手抜き簡単菜である。スイスイと出来上がり、風呂に入ったのである。

                          

 

 

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椙森神社大祭

2015-05-15 | Weblog

5/15(金) 今日から日曜日まで、「椙森神社」の三年に一度の大祭が始まった。昨年の夏に引っ越した我が社は、この椙森神社の直ぐの裏になる。神社の神楽殿で奏でる笛太鼓鐘の音が聴こえてくる。街並みには幟が並び、祭りの世話人や神輿担ぎ衆の法被姿が行き交っている。

周りの店にも、祭りの音に浮かれた客の姿がチラホラ。昨晩も「ローカーボ」で顔を合わせたHOYAさんも、今日は仕事を休んで神輿担ぎの真似事するそうだ。「ちょっぷく」の常連客の何人かも神輿を担ぐと張りきっている。店長のYAMAちゃんは、店のランチがあるので町内を神輿が出るときの柝を打つ役をすようだ。

「ちょっぷく」と云えば、この祭りの町内弁当を注文されていた。220個の大口発注を受け、今朝は明け方から大わらわ。人手が足りないと常連の助っ人隊から身内まで総動員していた。していた、といえるのも、私にまで動員要請があったのだ。無下にするのも大人気ないので、枯れ木も山の賑わいと、八時過ぎから手伝いの真似事をしたのであった。

町内メンバーとして、馴染の処は大事にせねばならぬのだ。それにこの弁当の表紙デザインはYOSHIOの作である。私の趣味とは異なるが、YAMAちゃんは気に入ったようなので文句を云う筋合いでもない。このデザインで唯一いいなと思うのは、江戸時代の名所絵図から「杉森神社」の図を抜き写した処だ。江戸時代のこの絵図には、椙の字ではなく「杉森」神社とあった。

                     

                         一丁上がり!

徳川幕藩体制の頃には、富籤の神社として繁盛したようである。賑わっていた頃の、門前町や広い境内が描かれている。三百年以上も前の、よすがが窺える。このデザインは脇に小さく在るので、どれだけの人が気付いてくれるかな?

                        

                     椙森神社拝殿            祭り弁当  

 と、弁当助っ人隊から社に戻り、此処まで記して昼になった。12時過ぎに神輿が出発する。YAMAちゃんの晴れ晴れ姿を見てやらねば・・・・。と、神輿の出発点に行った。半尻のオヤジやスネ毛の兄い、茶髪のアンちゃんやネエチャ達が神輿の周りを囲み、熱気が漂っていた。今日も暑いぜ!

             

                          YAMAちゃんの晴れ姿!!

 

今朝携わったのは、他所の処の弁当だけじゃない。自分の守備範囲の弁当も粛々と生産をしたのだ。昨夜、NOBORUと飲んだ後、「ちょっぷく」へ。そこにはAOKIとFUJIKURA、RIEがたむろしていたのだ。店に入る前、入り口のテラスで飲んでいた常連から「お宅のメンバーが待ってるよ」なんて言われたのだ。待たしちゃなかったのだが・・・・。

そんなことから、最寄り駅の学芸大学に帰り着いたのは23時20分。それから、改札口の直ぐ前にある東急ストアにて、弁当の菜を漁って帰った。

で今日は、「ステーキカツ」とチンゲン菜と小エビの香り炒め」、昨日届いた「鮭焼き」に明太子、おまけの一品は「オムレツ」。以上だった。

                

昨晩はまたしても、夜中に咳き込んで目覚める破目となった。安らかな夜は、一夜で終わった・・・・、残念。

 

今夜はお祭りだからね、ちっとはお神酒が必要か!お神酒が俺を呼ぶようだ・・・・。「高松」で飲んだ後「ローカーボ」へ。ここで常連のHOYA&MATUOKAのオヤジ軍団と合流。その後は「セイジュ」から「ちょっぷく」と流れた。                

                           

                           ローカーボのカウンターにて

 

 

 

 

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気付けば朝

2015-05-14 | Weblog

5/14(木) 今日も日中の気が30度までに上昇するとの予報だ。真夏日と云うやつだが、夏の定番スタイル「アロハ」には少々早かろう。本日は外出の予定を入れてないので、薄手のジャケットに替えズボン、半袖シャツで出勤となった。気楽なもんだぜ!

今朝の起床は6:30分。夜中に目覚めることも無く眠っていた。目覚める前は意味不明な夢を見ていた。意味不明ながらも、夢の中では真面目に何かをし、「そうじゃないだろう」と指示までしていた。目覚めて五分もしないうちに、春霞のようにぼやけていった。

さて、今日もお弁当だ。ご飯は鍋でガス炊飯となった。菜の方は、シンプルに「チンジャオロース―」、「ポテト&人参・胡瓜のサラダ」、一つだけ残っていた鮭の切り身を焼く。軽く鮭と呼ぶが、この鮭は遥々と釧路から取り寄せた高~い鮭なのだ。心して食さねばならぬが、鎌に近いと云うかカマだな。

そして、定番の卵焼きを作る。仕上げの一品は「ホーレンソウのオリーブ油炒め」。以上である。

                         

弁当を再開してから肩の力が抜けたのか、簡単・お手軽る、短時間で仕上がるものばかりである。所要時間は三十分以内と、以前の半分以下で作っている。

                      

風邪の方は、鰻上りに快復かと思いきや。踊り場に止まっている感あり。昨夕は五時に大手町にてNAKAJIMAさんと会い、神田に向かった。何でも神田に野菜料理を専門に喰わせる店が在ると、Nさんが云う。それじゃそこへとなったのだが・・・。神田駅前の西口商店街を抜けて、暫く探した。漸く探し当てたら「開店は六時からだ」と、ぶっきら坊な店主の応え。「妙に愛想が悪いな」と言いながら、商店街へと引き返した。

駅に向かう途中に、手書きのメニューを店前に出している店が目についた。「ひょうたん」の看板。どうやら店へは、階段を上がっていくようだ。何となく気に入り、入ることにした。二階の店内はカウンターが設えて有り、テーブル席は五卓。未だ客の姿はなかったが、二人掛けのテーブルでよければどうぞと、案内された。

板場の中には、還暦前ながら威勢と気風のよさそうなオヤジが。フロアを仕切っているのは、ふた昔か三昔前なら、銀座か赤坂あたりの酒場で指名を競そわせたような面影を残している女将(だろうな)。

料理の方は、面倒だからと「刺身と小鉢のセット」を、飲み物は取り敢えず生ビールだ。Nさんと飲むのはいつ以来だろうか?覚えちゃいないが、前回から三月は経っているだろう。近況を伺いながら、昨今の動静などを聞く。最新人事情報から、六月で仕事をあがるNさんの今後など・・・。

或る先輩から、Nさんの向後の仕事の意向を聞きたいと云われていた。そんなこともあり、少し立ち入ったことなども話した。どんなことを訊こうと、話そうと、気にするような方ではないし、人の話をよく聞く方である。其処がNさんの良い処だ・・・。

飲み物は、生ビールからハイボール・日本酒へと移り、何時の間にや三時間近い刻が流れていた。店内はカウンターもテーブルも満席になっていた。居心地のいい店だ。帰りしなに「何時からやってるの」と訊くと「ここに移って未だふた月、よろしくお願いします」とのこと。神田周辺で二十年ほどやっていたそうだ。

神田駅でNさんと別れ、人形町に戻ることにした。TOKIOに連絡すると云って出たので、電話を入れ「ローカーボ」で落ち合った。ほろ酔いの気分に、痛む右足を庇うぎこちない歩み。ローカーボに辿り着くと「待ちくたびれて、すっかり酔いましたよ」と、TOKIOがのたまう。『それやぁオーバーな』と、おおように往なしたが・・・。

暫くするとHOYAさんが姿を現した。少なくとも一週間以上は顔を見ていなかった。何故か戦友に出会った、邂逅した気になる。我らは、酒場と云う戦場を彷徨う強者ならぬ老兵か?糧食を交換するが如くに、酒精の交換をする。「明日は五時に家を出る。現場が遠いんだ」と、我が戦友は三杯の酒精とカレーを充填して引き上げたのだ。

我等は「ちょっぷく」で仕上の酒精水を注入し、YAMAちゃんの「明日も待ってるから」の営業トークを耳にしながらのご帰還であった。帰投時刻は、23:30であった。演歌を聞きながら眠りについた・・・・、夜中に目覚めないと云うことは、なんと健やかなことか・・・・。

今朝も演歌を聞きながら、ふと思いついたのは ー 演歌だけを流している酒場でもやりたいな ―であった。何でもワンコイン(500円)で、お一人様酒精は五杯以内まで。店内に「擦り切れた頭髪(心と体のことだが)と残り少ない時間を、演歌の詩とメロディーに 過ぎ去りし日々を重ねながら ひと時の安穏をこいねがわん」なんて張り紙を出してね・・・。

まあ・・・私も、存在が殆ど演歌だからね・・・。

 

 

 

 

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朦朧・・・

2015-05-13 | Weblog

5/13(水) 春だなぁ~、陽気か妖気の所為なのか、昨日から朦朧としている。春は朧にようようと…ならぬ、意識朦朧だ。「とうとう本格的なボケかい?」と、口がさな仲間が云いそうだ。

一昨夜は夜中の三時半、昨晩は二時半に目が覚めてしまった。と云うのは、風邪のせいで咳・痰で苦しくなって目覚める、そして暫く咳き込むのだ。それからは眠れやぁしねぇから本を読んで夜明けを待つ。そんな状態だった。

始末が悪いのが、車中・社内と処構わず咳き込み、鶏が首を絞められて悶絶寸前のような咳になることだ。挙句に洟水もタレてくる。視られた様じやぁない。堪らずマスクの着用となったが、電車の中じゃ異常な咳き込みに、隣に座った人は逃げ出す。向かいからは蔑みの目だ。出勤時間を遅らせ、空いた電車にしてはいるが・・・。

そんな訳で、昨日の朝から咳止め薬の服用を始めた。効き目はある。が、午後から眠くなっちまった。車内でも、社内でも朦朧と云う次第。

昨晩、遥かと~い昔に独身寮で一緒だった仲間と久々に飲んだ。一関市(岩手県)に住む、CHIBA君の上京に合わせて集まった。本来ならメンバーは七人だが、MIYAMOTOは広島在住、YUZAWAは沖縄に行ってるとかで欠席。五人での飲み会となった。店は例によって「奈加野」である。

朝から台風の影響とかで大雨の予報。その所為か、店はがら空きだった。これじゃ商売になるのかと、要らぬ心配をしちまう。こう云う日は、店のオヤジが値嵩の摘みを押し付けにくるのだ・・・・。案の定だったが、知らぬ顔の半兵衛を決め込む。

すると今度は、ネパールの地震救援募金箱を持ってきた・・・。これには気持ち良く大枚を(私にすればだ)投じた。

以前、ミャンマーの学校建設支援の募金箱を置かせて貰ったが、その二番煎じで募金を募っていた。と云うのも、店にネパールから来ている兄妹が居るのだ。私も気になっていたので、丁度店の前に居合せた兄のマーに様子を訊いた処だった。彼の家族は無事だったそうだが、叔父さんが絶望だと言った。相当に酷いそうで「駄目ですね」と言った。

 

先に着いたEBI&HAMANOと私が壁を背にし、後から来たSAKAMOTOとCHIBAが向かいに座した。酒が進む内に齢の話になり、多毛症とも云える程のSとCが、壁側の三人に「薄い人が並びましたね!」と言いやがった。明明白白なので返す言葉もなかった。独身寮で一緒だった頃は、みな遜色なかったのにな~。あれから四十年が経つ、原型をとどめてないのは無理もねぇか。

                         

と、云う具合に話が弾んだが・・・。私は体調が思わしくない。怠くてしょうがない、座っているのも嫌になった。『申し訳ねえが、先に失礼するぜ』と、勘定だけは済ませて引き上げることにした。薬の所為だな・・・・。「雨が降りだしたよ、それも強い雨」と、馴染の店の姐さんがいう。『傘傘、傘だせよ』と、女物の傘を出してきやがった。

『おめえこの傘じゃ、家に帰って何処に行ってたのよ?って言われるぜ。事件だな』と云うと、「誰もそんな心配しないわよ、安全パイのARIさんだもん」と応じやがった。“俺も落ち目の三度傘、渋谷の街も今宵限り・・・”と、女傘を右手に大粒の雨が落ちる街に出たのであった。

で、昨晩は21時に帰り着き、22時前には眠りについたはず。しかし意味不明な夢を見ている中、咳で目覚めた。時刻は何と、午前二時半であった。暫く咳き込み、本を読んでみたが眠りはやって来ない。スタンドを消して、眼を閉じるが・・・、またしても咳き込んだ。花紙を取ろうと、暗闇の中から座卓の上に手を伸ばすと・・・、置いてあったコーヒーグラスをひっくり返してしまった。大慌てさ、蒲団がコーヒー色に染まった。駄目なワタシ。

 

そんなドジばかりだが、今週から弁当作りが復活。昨日も今朝も、咳をしながらも弁当は作った。

昨日は、「焼き鮭」「ハンバーグ」「ホウレンソウお浸し」「キンピラ」であった。火加減を間違えハンバーグが焦げたのは、長い休養明けのせいかな?

                

   

今朝は、「親子煮」「肉じゃが」「小松菜とウインナーの卵炒め」だった。ホッカホッカのご飯で、朝飯を喰ったのは云うまでもないが、これは食後に服用するお薬のためだ。念のために申し添えておく。

        

 

薬の効果か、今朝の車中は一度も咳を模様さなかった。花紙を使うことも無かった。着実に改善に向かいつつあるようだ。昼以降は、薬の服用を控える。夕方にはNAKAJIMAさんと久々に会う。軽く一杯やるつもりなので、薬の所為で気力・体力が脱力するような無様は避けたい。昨夜と同じ轍は踏まないのだ。

 

 

 

 

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弁当スタートなれど・・・

2015-05-11 | Weblog

5/11(月) 先週の連休中に引いた風邪が、金曜日からどんどん悪化した。直ぐに治るだろうと踏んでいたのに、飛んだ大違い。咳・洟垂れに加えて、体まで痛くなった。そんな分けで、土曜日は一日蒲団に潜り込んでいた。日曜は早朝から起きたが、依然として洟垂れは収まらず、鶏の首を絞めたような咳が止まらなかった。

土曜日は会社に行かなかった(行けなかった)、で、日曜は会社に出ようと決めていた。出社した処で、何が有ると云う分けじゃないが、気分の問題。銀座・三越が開く時間帯を見計らって、九時半に家を出た。日本橋三越の方が好みだが、銀座は通勤ルート上に在るので便利なのだ。十時少し過ぎて、三越の前に着いたが・・・・。

妙に寒いので、厚手の長袖シャツにハーフコート着こんでの外出スタイル。と、その姿を見た家人が「ホームレスのお爺さんみたいだね~、外は暑いぐらいで、外を行く人はTシャツか半袖だよ」言いやがった。『俺は寒いんだ…』と、そのまま家を出た。

何と、二十数人がドアの前で屯をしているではないか。こんな早い時間にデパートに来たのは初めてかな?時刻は十時十数分を指していた。何のことはねぇ、店が開くのは十時半であった。然し、休日の朝だぜ。モット早くに明けても良さそうなものだが・・・。これじゃ、スーパーやコンビニの便利さ、手軽さに喰われるわけだ。

十数分も待つのは嫌だったが、出直すのも、帰りに寄るのも面倒だな・・・。と云う次第で開店を待った。暇な人がいるものだと、デパートの開店を待つオジサンやオバサンを眺めたが、こっちもその一人か。鼻をグズグズ、咳で喉をぜいぜいいわせながらであった。ここのところ、病気で手術をした友人・知人が多い。その方々へ、ほんの気持ちばかりだがお見舞いの品を送った。

出社すると、YOSHIOが一人で仕事をしていた。『俺は、今日は早く帰るぜ』と伝えた。依然として鼻・喉を中心に不調。最小限の作業に止めて、三時前に会社を後にしたのであった。で、早々と蒲団の人となり、今朝に備えたのである。今朝は、五月の全体会議があるので体調を整えておきたかった・・・・。

 

今朝も五時過ぎに目覚めたが、昨日よりは体調は良い。薬は飲まないが、だんだんとよくなってきている。ゴールデンウィークも明けたので、弁当作りに復帰する時期だ。取り敢えず、何か作ろうと台所に向かったのであった・・・。

おっと、その前に昨年獲った朝顔の種をプランターに播かなくちゃ・・・。水に一夜漬けた種を持って外に出たら、思いもよらずに肌寒かった。

何日か体調がすぐれなかったので、弁当の食材も見繕っていない。弁当人としては失格の誹りを免れないが、今朝は心意気だけで勘弁願おう。

 

今日の手抜き弁当は、残り飯の「チャーハン」に「大根・人参・蒟蒻・鶏の煮物」が私のメニュー。後は、昨晩の残り物「トンカツ・唐揚げ・フリッター・肉牛蒡巻」を少しづつと、冷凍の「ブリ照り焼き」。以上で二人分の弁当となった。

          

弁当を作り終えたが、体の方はまだまだ本調子ではない。タバコを吸う気にならないのだから。、大のオヤジがタバコも吸えなくなっちゃお仕舞だぜ・・・と、ばかりに無理をして一本火を点けたが、肺まで吸い込めなかった。体は正直だね~。

 

 

 

 

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風邪

2015-05-07 | Weblog

5/7(木) 祝日の4日・5日と、午後から会社に出たが、気温が高かった。そんなことで、自席の後ろの窓を開けて過ごしたら、風が抜けて涼しかった。両日とも夕方になると急に肌寒く感じたぐらいだ。特に5日の夕は寒いぐらいであった・・・。外見とは大いに異なり、繊細極まりない小生は、こう云う気温の変化に極めて弱い。

一昨日に会社を出た段階から、体調の崩れる予兆があった。昨日は昼に、知人と地元で会う約束をしていた。朝からすっきりとしなかったが、13時駅前で落ち合い、何処かで一杯やりながら近況の披歴と云う段取り。

知人はN氏と云うが、先月末で勤めていた会社の役員を辞め、暫くは顧問の処遇とのことであった。私よりひと回り若いので、これからもう一花咲かそうという思いがあるはず。退職するとのメールを貰い、「折をみて一献交わしましょう」と、あった時点で、そう感じていた。

そんなことから、昨日の昼間に地元、学大駅前で落ち会うことになったのだ。前日、YOSHIOに『明日は人と会うので、会社には来ねえよ』と伝えると、「えっ!」とか言ったが、勘弁して貰った。その時点で、既に鼻づまりが始まっていた・・・。

学芸大学駅東口に在る蕎麦屋「石原」が、酒の品揃えも豊富で良さそうだとN氏が云う。それじゃ其処へとなった。

初めていったが、確かに酒を飲むに相応しい店であった。先ずは生ビールで喉を湿し、摘みを選ぶ。野菜の天麩羅、卵焼き、摘み蕎麦・・・、もう一品あったはずだが忘れている。ことほど左様に、忘れるのだ。そのうち、自分の名も齢も忘れることだろうぜ・・・、バカ野郎!。

 

ビールの次は燗酒にした。”ぬる燗の酒”をゆっくりと楽しみながら飲む。そしてN氏の今後の計画などを訊く・・・と、これからじっくり検討をしたいとのことである。『これまでの垢を落とし、身心を充実させてスタートしなよ』そんなことを云ったような・・・。

反対に、私が何故サラリーマンを辞めたのかと訊かれた・・・『理由は幾つもあるよ。でも、一番大きな理由は”自分の足で経つ”だったろうね』と、過ぎ去った十余年前のことを話したような・・・・。だんだんと酒が廻り、あとは朧、朧さ。

約二時間、生ビールでスタートし、二人でぬる燗を四本、仕上げのハイボールと盛りソバで〆た。丁度いい塩梅であったか。

それから、学芸大学に一軒だけになった駅前の小さな書店で文庫本を二冊、スーパーで食料品を少々仕入れてから帰宅した。どうも体が重く、鼻づまりがつづく・・・・。

一時間ほど本を読みながら寝転んでいた。夕方になったので晩飯の準備だ。夕食に「豆ご飯」を炊くことにしていた。従姉に貰ったグリンピースだ。茄子の煮物、グリンピースの卵とじ煮、焼き鯖、竹輪&牛蒡天、野菜サラダのメニューであった。

晩飯の準備はしたが、飯を喰う気にならない。体の節々が痛む、硬い。典型的な風邪の症状か、或いは全身ガンだな、こりゃあ。そんな自己判断をして、さっさと蒲団を引いて、本を読むことにした。こうしている時間、この時間が一番の至福だね・・・。

熱はないが、体は怠い。くしゃみと鼻水が出る、止まらない。そんな状態が、昨夜から今朝までつづいた。

 

今朝は五時半前に目覚めた。ちょっと早いが起床だ。今日は「イタドリ煮」を作って会社に持参するのだ。三週間ほど前か、TOKIO&AOKIで飲んだ時、TOKIOがイタドリを知らなかった。あの、信州の田舎育ちのTOKIOが、イタドリを知らない?ましてや喰ったことがないと云う。其処で、吾輩がイタドリ煮を持参することにしたのだ。

今回のイタドリは、従姉が徳島で(毎年徳島まで遠征し採取している)採ってきたもの。皮を剥き茹でたのを、塩漬け保存したものだ。昨夜から流水で塩抜きをしておいた。これをジャコ、醤油・味醂の出汁で煮る。結果、味付けが薄すぎたようだ・・・。

                             

 

朝からの台所仕事だ、ついでに弁当も作ろう。と、なるのは自然の流れだ。シイラ味醂干し焼き、牛小間の焼肉風炒め、卵焼き、出来合の鶏カツ、勿論「イタドリ煮」も加わった。ご飯は昨夜の「豆ご飯」である。

                          

 

 - 余 談 -

さっき、USUI老から電話があった。「抜糸が終わりました」と、至って元気な声である。老は前立腺癌の手術、奥方は肺癌の手術と、二人揃って四月下旬に受けた。揃って退院し、元気とのことであった。ご夫妻揃って癌手術とは、何とも早や仲がいいと云うか、夫唱婦随と云うべきか・・・。

『酒飲んでもいいなら、出てきなよ』と、誘うと「それじゃ行くよ」と応じた。が、「昨夜ビールをコップ一杯飲んで酔った」と言ったが・・・。飲ませすぎないようにしなくちゃ。酔っ払って電車のホームから落ちちゃったりしたら、洒落にならねえもんな・・・。(十数年前に、ホームから落ちて頭から血を出したらしいからネ)

それに、これは相当に古い老の爺さんの話だが・・・。
「内の爺さんが癌だと言われたことがあった。もう齢だから手術は止して、ほっとくことにしたんだよ。十年程も経ってから、爺さんの癌はどうなったんだ?となり、病院に連れて行くと”癌は綺麗に消えています”とのこと。それゃあ目出度い、親戚も呼んで快気祝いをすることになった」

「その日、爺さんはお祝いに備えて、風呂に行ってくると。国道を渡った処に在る風呂屋に行ったんだ。そしたら、国道で車に跳ねられて、お祝いの日の夕方に亡くなってしまった」とか。

そんな洒落にならない、因縁話があるからネ・・・。

 

 

 

 

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甦る昔のこと

2015-05-05 | Weblog

5/5(火) 今日はこどもの日で祝日、昼まで家でのんびりと過ごす。朝飯は、昨夜作った野菜スープ、竹輪&牛蒡天にチリメンジャコと郷里の産物、これも残り物で「鯖姿寿司」をフライパンで炙り焼きしたものなど。こういうメニューだと喉が渇く、缶ビールの出番だ。休日の朝の悪しき習慣が甦ってしまった。

そんな朝食の後、古い文庫本を読みながら暫し寛ぎのひと時を過ごす。家人は、昨日につづいて仕事に出掛けた。貧乏暇なしとは、家の山の神のことか?亭主はゴロゴロしながら本を捲り『行ってらっしゃい~』と呑気である。

古い文庫本は「池波正太郎」のエッセィである。昨夕、YOSHIOと人形町のスタンディングBARで軽く飲み、その帰りに時間つぶし用に買ったのだが。どう考えても、この本は過去に二度は読んでいる。著者が、昭和四十年代に諸方に発表したものを集めたエッセィなのだ。

本は池波正太郎が、作家として世に出るまでのことや、売れっ子作家として地方に出掛けた取材旅行のことなどを記している。氏が1990年5月、67歳で亡くなり既に四半世紀となったが、亡くなる二十年も前の物語。作家が存命であれば、私の母と同年である。

その作家が、戦後都庁に勤めながら脚本を書き、そして時代小説家になっていく訳だが・・・。作家が師と仰ぎ教えを乞うたのが「長谷川 伸」であったと書いている。また、編集者の話が出てくる。そんな下りを読みながら、遥か昔のことが突然に甦った。

それは大学三年時の、ある日の一コマである。

それまで住んでいた、東十条駅に程近く踏み切りの線路際にあった三畳一間のボロアパート「楽園荘」から、中野駅に近い新築アパート「小林荘」に移ってからのことである。

アパートのオーナーは、小林さんと云う紳士であった。アパートは二階建てで、四畳半の部屋が上・下5部屋づつあったと思う。他に管理人夫妻が住む部屋が別にあった。このアパートでの思ひでは、熊のような体型と禿頭で顎鬚モジャモジャの管理人のオッサン。このオッサンは、昼夜を問わずアパートの内外を熊のようにほっき歩いたこと。

高校時代の後輩が剣道の試合で上京し、何処で待ち合わせたか記憶がないがアパートに案内した。要は何処かで飯を喰わす金もなく、自分の部屋の小さな電気釜で飯を炊き、それを喰って貰った。救いは、それから数年経っても「あの時の飯の美味さは、忘れられません」と、言ってくれたことだ・・・。この時も、管理人の熊オヤジは窓の外、廊下とうろついていた。

前置きが長くなったが、甦った記憶とはそんな話じゃない。作家のエッセィが発端で突然に甦った記憶なのだから。このアパートの持ち主、紳士の小林さんのことだ。大家さんの住いは別にあったので、時折しか顔を合す機会はなかった。

大学三年の秋であったろう、大家さんと久々に顔を合した。と、「就職はどうするの?どんな会社を希望してるの?」と訊かれた。まさかそんな質問をされようとは思ってもいなかったので、ちょっと驚いた・・・。正直なところ、何の考えもなかったに近いが。

『出来ればマスコミ関係、出版系の仕事で編集者になれると良いんですが』と、高望みを応えた。すると「それじゃ知り合いに雑誌社の人がいるし、作家の井上靖さんともご縁があるので紹介しますよ。何とかなるでしょう。」と言われた。

と、以上のような会話を思いだした次第。これが ―甦る記憶― と云うやつだ。で、その後の展開が気になるでしょう?

実は、若干の期待を持ちつつも小林アパートを出たのが四年生になる春のこと。一年先輩の岡宗さんが卒業し、それまで先輩の友人が住んでいた高円寺南5丁目の安達さん宅の下宿が良いよと言われ、引っ越したのである。

あの髭面の熊オヤジが、四六時中アパートの内外をうろつくのが、なんとも気障りになっていたのだ。我慢が出来なくなっていた所為である。

 

それにしても、一介の住人に過ぎない学生に、親切な声を掛けてくれたアパートのオーナーの親切を忘れることができないでいた。実は数年まえのことだが、中野駅に降りたついでに小林荘を訪ねた。中野駅南口から線路沿いに東中野方向に戻る、桃園小学校の先を左折して右に曲がってすぐのはずだが・・・。

すっかり様変わりをし、アパートらしき建物は一棟もない。周りは戸建住宅ばかりであった。ここら辺りにのはずと、思える場所はあるが特定は出来なかった。あれから、半世紀に近い年月が流れたのだ・・・。

 

 

 

 

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ゴールデンウィーク最中

2015-05-04 | Weblog

5/4(月) 近年の祝日は解りづらい。今日は「みどりの日」だとかで、明日はこどもの日。 明後日は振替休日だそうな。休みは大いに結構と云いたい処だが、こっちは日々が休日のような暇OYAJIだ。そんなことはさて置き、会社のスタッフにとっては嬉しいことだろうが、稼ぎの少ない経営者にとっては辛いとこさ・・・。

そうは云ってはみたが、今の時期は仕事もない。日頃の長時間に渡る事務所詰を思えば、スタッフには大いに休んで鋭気を養ってほしいのが本音だ。

そんなゴールデンウィークの最中に出勤をする暇なオヤジが一人いた。デザイナーのYOSHIOだ。仕事が好きなのか会社に居るのが好きなのか、家に居場所がないのか、銭が無くて何処へも行けないのか?恐らくはその全てに当て嵌まりそうだが・・・・。何れにせよ、ご苦労なこった。

明日も明後日も出勤するだろうから、今日は早目に切り上げさせて、暇なOYAJIがビールでも飲みに連れ出そうと算段している。何しろ、俺とYOSHIOは貧乏同盟を結ぶ仲だ。同類相憐れみだぜ・・・。さて、こんなことを記したが、こっちは29日から昨日まで郷里でのんびりと畑で遊んできた。その罪滅ぼしだ。

 

二十九日の夕方に帰省、晩飯は何時もの如く従姉等と賑やかに喰った。三十日は畑の草刈で遊んだが、義弟にあたる同級生のHIROKATUが手伝ってくれたので早々と終えることができた。一日は、野菜の苗や肥料を買いに町に出て、一月振りに車を運転した。翌日の二日は、買ってきた苗の植え付けと「小夏」の収穫をした。

               

草刈は一月振りとなったが、伸びていた。この時期から夏場にかけてはあっという間に草がはびこる。本来なら二週間に一度ぐらい草を刈ると、時間もかからないのだが。草刈の傍ら、焚火をして焼芋をする。長閑な時間であるが、体力が落ちた…直ぐに草臥れて腰が痛くなる。

                       

今が収穫の最盛期(ちょっと遅いくらい)の「小夏」の樹は古い樹が二本、若樹が三本ほどある。古い二本の樹で、箱に七箱の収穫であった。従姉たちが欲しがるので『幾らでも持ってけ』と云う。置いといても最後は腐らしてしまう運命だから。

綺麗で美味しいミカンの収穫ができれば、方々の友人にお裾分けするのだが、残念ながらあまり綺麗じゃない。味は悪くないと思うが、見栄えがしないので他人様に差し上げるのも憚る。二月に収穫した「文旦」も、未だ一箱残っていたが、艶がなくなり賞味期限が過ぎたようだ。毎年こうして大半を腐らしてしまう。

「安田川」は変わらず清らかに流れていた。一月後には鮎釣りが解禁となる。今年の鮎の遡上を従兄に訊ねると「いかんいかん、今年はアイが少ない」と返ってきた。毎年そんなことを聞いているようだが・・・。

                           

                              正弘橋から上・下流を望む

田舎では今が田圃の水入れの最中、これから中旬にかけて田植となる。従兄も酸素を抱えて田起こし作業。「息が切れて、なんちゃぁ仕事をようせんようになった」と嘆きながらも、天皇陛下と同い年の従兄は働き者である。

 

都会で夜毎に酒を喰らう暮らし比べると田舎暮らしは健康的である。が、私の場合は飯を食べ過ぎて行かん。遺憾である。母の食は細い、それは承知だが従姉達も来るので品数・量とも多く作るのが常。それを意地汚くバクバクと喰らい、ビールを飲む。今回もまた、ひと回り腹が成長した・・・・。健康なようで不健康な田舎暮らしであった。

 

 

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