10/1(木) 昨日、夕方より友人のW氏を会社に訪ねた。見積もりの件やその他、今後の動向についてヒャリング。その後、軽い食事とビールとなったが、早い時間にお開きとなった。
ターミナル駅のフードショップが開いていたので覗く。公魚と鯵が私を呼んだ、どんな料理にする当てもなく、買って帰宅。家には誰も居ない。家人は月末でもあり、仕事で遅くなる、子供達は遊びか。
買ってきた、魚をどうするか思案。公魚は、基本の唐揚か?鯵はやっぱりアジフライか?と。王道は外せないが、これ以外の調理もやってみよう・・・。
鯵半身三枚をシメサバならぬ〆鯵に、公魚半分(二十匹程)を唐揚して南蛮漬けにした。明日の弁当のお菜の予定だ。夕食用に、公魚少々を唐揚と鯵二枚をフライにした。
冷凍庫に鶏肉が沢山残っている。根菜と一緒に、これも弁当用にと煮物にする。
そんなことで、今日の弁当メニューの大半が昨夜の内に仕上がった。
今朝、更に弁当用に鯵と公魚、玉葱をフライにした。これと、昨夜仕込んだ公魚の南蛮漬けと鶏肉・根菜の煮物が今日のお菜。処が、今日の弁当は家人とK君、私の三人前となった。折角昨夜から仕込みをしたのに、数が少なくて気落ちした。
ご飯の方、子供がいないので家人が貰ったと云う「生姜ご飯の素」を入れた変わり飯とする。しかし、味が今ひとつしゃっきりしない、寿し酢を入れて味を調える。
〆鯵、南蛮漬け共に結構なお味でした。残ったので煮物と一緒に会社に持参、山賊の酒盛りの肴にする。
古くて苦い、思い出について
昨夜、友人のW氏と一献傾けながら老親の介護や嫁・姑問題etc。何時しか、同じ職場で働いていた若い頃の話になる。W氏とは、本社でスタッフが四十数名もいた課のヒラで駆け出しの時からの付き合い。
ふと、当時のことで思い出した。私が、或る担当に異動した三席の時代。職責は、係長~次席~三席~四席~となり、一番人数が多い係りは七席まである大所帯の職場。
私は、自分の上席に当る次席のGさんと、一緒に机を並べた二年間、私的な話を一切しなかった。仕事の上では、Gさんは先任で、私の仕事を担当していた。
一緒に仕事をするようになって一月ほど経ち、係長が飲みに行こうと私を誘った。理由は明白。係長と明け方まで飲みながら、Gさんと上手くやれと、くどいほどに話をされた。根負けした私は、「分かりました、努力します」と応えた。
それから一月が経ち、係長に「やっぱり駄目です」と応えた。係長は短く「そうか」と応えただけだった。
世間的には、相当に異常な関係だろう。同じ係りで隣に居ながら、話すことは最小限の仕事のことだけ。こちらからは、仕事のことも一切相談もしない。
私は、Gさんの一寸した言葉の使い方、先輩に対する配慮の無さに憤慨していた。自分の立場だけで物言う男、と捉えていた。
私が違う係に居た頃、彼は現在の担当で、課内全体の色々な取り纏めをする立場にいた。その時に、私の上席であり、先輩となる方に対する言葉使い、態度に許せないものがあった。
Gさんが親しい人に対する指示・対応、上司や権力者への処し方、力や立場が弱いものに対する処し方の違い。私には全て、認め難いものであった。その、Gさんと形の上でとは云え、上下関係で仕事をする嵌めになった。本来であれば、色々と聞き、教えて貰う立場にある。
それにも拘わらず、私は、聞かない、教えを請わない、話をしないで二年間を過した。こんな経験は、後にも先にもこの時だけだが。頑なに、私は「この人を受け入れない、許さない」と思っていた。
周りは、困っただろう。その時には、そんなことは考えもしていないが。相当に気を使っていたのではないだろうか。
今思えば、他愛も無いこと。私が、子供だった。何だって、受け入れれば済むことを、それが出来なかった。彼には、彼なりの思いや守るものがあったろうに、そんなことに思い至らず、小さな枠の中で一生懸命、私は自分を守っていたのだろう。
だからと言って、あの同じ時代に戻れば、やっぱり同じようにするだろう。長い年月や色々な経験が(僕の場合は下らない、取るに足らない経験ばかりだが)笑い話にしてくれる。
W氏と、しみじみとした話の中で、そんな古いことを思い出していた。