ZENZAIMU(全財務公式ブログ)

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もう1年頑張ります。

2018-06-22 18:28:21 | 主張

本部の溝口です。

定期大会が終わり、無事、代議員皆さまからのご信任をいただきました。

思えば今年1年は、財務局に入局して現場を3年しか経験していない身でありながら、現職に従事することになりましたので、未熟の身であることは重々自覚した上で、探り探りやり過ごして参りました。

なので、自分が残してきた仕事の成果物についても、全力を尽くしたとはいえ、その出来については半信半疑のまま、今に至っています。

そんな自分ですが、信任していただきありがとうございます。。というのを新任あいさつで言いたかったんだと思うんですが、なんかあの場で、勢いで話し始めて、着地点を決めてなかったもんだから、グダグダーっと変な発言を垂れ流してしまいましたが、真意はこんなところです。

書記次長として1年、人前で話す場面を乗り切ってきたところで、その集大成があのザマであるならば、人間というのは生来の特質を克服するのはなかなか難しいと言わざるをえない。弱点も個性として受け入れるのが賢明だろう。

一方で、橋本中執、山下中執の堂々とした話しぶりはなんともあっぱれな仕上がりで、僕の退任後には黄金期が控えていることを確信せずにはいられなかった。

さて、最近マスコミ報道を見てて気になることと絡めて今年1年の抱負を述べようかと思います。

本来、中立・公正であるべきマスコミが、日常的に起こる事件報道の中で、容疑者のことを「男」、「女」と称する慣例、容疑者の供述内容については、「~などと供述している」こんな定型文が日々無自覚に使われているようであるが、まだ判決も確定していない段階で、つまり法律に反するという意味で悪いことをしたと確定する前から、悪いヤツだと決めつけて、取り扱っているような印象を喚起する表現を使っているような気がしてならない。およそ対等、あるいは仲間内の人を呼ぶ際、「男」ではなく「男性」と表現して取り扱うのがおそらく普通で、「男」というと、なんとなく蔑視のニュアンスを含んでいるように感じるのは僕だけだろうか。「などと供述している」も、なんとなく「などと(たわけたことを)供述している」というニュアンスを含んでいるように感じるのは僕だけだろうか。

要は何を言いたいかというと、マスコミは第四の権力と言われるだけに、それだけ大きな影響力を持っているにもかかわらず、罪を裁くのに性急すぎやしないだろうか。

なぜ山口「メンバー」と称されなければならなかったのか、なぜ山口「氏」ではダメだったのか。マスコミ各社は「メンバー」と称する理由として、「肩書き」を添えて呼称する慣例が。。みたいな説明をしていたが、なんとなく腑に落ちないのは、その説明が本質的な部分の表層でしかないからだと思う。犯罪行為を行った可能性がある人を呼ぶ際に「氏」という「敬称」は使えないという考え方に基づく慣例なんだろうか。「悪いことをしたかもしれない人」を「視聴者国民一般」と区別して取り扱う時点で、中立・公正であるべきマスコミが世論を誘導しているように思えてならない。

森友問題に関しても、現職の国家公務員が実名で報道され、番組によっては悪人であるかのような文脈の中で取り上げられた。憲法の国家賠償の規程に関する解釈としては、あまりにもひどい故意や過失がなければ、国家公務員は個人として責任を負わない。公共のために己の身を挺して職務に精励するため、憲法の当該規定はそう解釈されてきたと。我々は個人として仕事をしているのではなく、国という機関の代理人として仕事をしているのだと。そう習ってきた一人の国家公務員としては、良い意味でも、悪い意味でも世に名が出ることを望んでいない。裏方として、黙々と社会を支える歯車になれればそれで本望なのである。本件に関する一連の報道を受けて、そんなことを思ったわけであるが、これからの1年の取り組みの中で、なんらかの形で、全国各地の財務局職員はどんなことを思ったのか、聞いて回ってみたい。